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カノン(伊咲貴音音楽教室)  作者: FRIDAY
壱 その指先で手繰る音
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新たな隣人はお姉さん

 長らく空き家だった隣家に、どうやら誰かが引っ越してきたらしいことがわかったのは、その家の門前に引っ越し業者の大型トラックが停まっていたからだった。朝、俺が登校するために家を出たときにはなにも止まっていなかったけれど、初夏の日差しの中で暑い暑いとひいこら自転車を漕いで帰宅したとき、引っ越し業者の人たち、それも筋骨隆々の男たちが数人がかりでなにか大きいものを運び込んでいた。段ボールで梱包された板のようなものだったり筒のようなものだったりと、数が多い割に正体の知れないものを、汗だくになりながら運搬している。ご苦労様です、とその様子を横目に見ながら俺は帰宅し、誰が越してきたんだろうなとぼんやり思いながら冷やしそうめんを食べて漫画を読んで寝た。


 その次の日にもなれば、どうやら荷物の搬入は終わったようでトラックはおらず、元空き家の窓という窓が開け放たれていた。窓が開いているということは人がいるのだろうと思ったけれど、明るい外からでは屋内は見えず、誰がいるかはわからなかった。でもそのうち掃除機の音なんかが聞こえてきたので、人がいることは確かだ。まあ、落ち着いた頃に挨拶にでも来るんじゃないかな。そんなことを思いながら俺は自室の窓を全開にして床に転がった。今日は休日だ。予定もない日はごろごろとすっ転がっているに限る。


 しかし、思いのほか挨拶は早かった。

 自室にこもってまた漫画を読んでいたら、不意にインターホンが鳴った。休日とは言えどこの時間、俺の家には俺しかいない。誰だろう、と若干わずらわしく思いながら手近にあった他の漫画を読みかけのところに挟んでおき、玄関へ向かう。それなりに新しいこの家のインターホンはカメラ付きだから、誰が玄関先に立っているのかは見える。新聞や宗教や国営放送なら居留守を使ってやろうという腹で画面を見てみると、見知らぬ若い女の人が立っていた。ただし、逆光で目鼻立ちははっきりしない。


「…………?」

 少なくとも、新聞、宗教、国営放送その他の類ではないだろうと判断。面倒事だったら嫌だなと思いつつも、インターホンの受話器を取る。

「……はい」

 応えると、やや不安げな様子だった女の人の顔がぱっと明るくなった。

『あ! あの、お隣に越してきた者で、御挨拶に伺いましたー』

 ああ、と俺は頷いた。そういえば、その可能性をすっかり忘れていた。自分でも予想していたくせにな。いや、思っていたより早かったんだよ。内心に適当な言い訳にもならない言い訳を述べつつ「ちょっと待って下さい」と答えて受話器を置いた。


 一応自分の身体を見下ろす。外に出るつもりのない半袖に短パンだが、人前に出て失礼ということはないだろう。そう思って、軽く玄関の姿見を一瞥してから戸を開けた。

 がちゃっと。


「――あ、初めまして! お隣に引っ越してきたイサキ・タカネといいます。これ、お蕎麦ですー」

 差し出された箱を、はあ、どうも、と気のない感じで受け取る。思ったよりもやや重かった。それによく見ると、箱にはそうめんと書いていた。蕎麦じゃないじゃん、これ。

 内心でツッコミを入れつつ顔を上げて、相手の顔を見た――うぉう。


「ええっと、お隣さんは、く、くだ……」

「あ――ああ、スゴウです。管に生きるって書いて、菅生。俺はそれに真の幸せで、マサキ。菅生スゴウ真幸マサキです」

「そうなんですか、珍しい苗字ですね! 私は伊万里焼いまりやきの伊に、桜咲く、の咲で、伊咲イサキです。下の名前は貴い音って書いて、貴音タカネです」

 はあ……と俺は頷くも、曖昧な返答になってしまったと思う。


 なんて言うか、見惚れていた。

 にこにこと笑んでいる伊咲さんは、多分今の今まで引っ越しの整理をしていたんだろう、髪は額や頬に汗で張り付いていて、化粧っ気も全然ないし、服装もTシャツに芋臭いジャージというスタイルだ。細身で、顔立ちも整っている方だと思うのに、格好のせいで台無しだ。外見を気にしないのか……けれど、そんなことは俺には全然気にならなかった。

 なんと言うか……なんだろうな、これは。

 まあ、率直に、平たく、有体に言うところの。

 一目惚れ、なのかな。

 いや、そこまでのものじゃない――なんだかかれた、というべきか。


「あの……あの、菅生さん?」

「あ、ああ、はい」

 どうやら数秒ぼけっと伊咲さんの顔を見つめてしまっていたようで、慌てて我に返った。

「なんですか」

「いえ、おうちにはご家族はいらっしゃらないのかな、と。それになんだかぼんやりしていたので……大丈夫ですか?」

「……大丈夫ですよ。うちは両親と三人家族ですが、今は俺だけです」

 少なくとも、体調が悪いとかそういうことはない。両親は共働きで夜までいない。それよりも……あー、なんだ。

「暑いですね」

「そうですねー、もうすぐに汗かいちゃって……あ」

 それとなく向けられたことでようやく気が付いたのか、伊咲さんは自分の前髪なんかを慌てたように指でき始めた。額や頬に張り付いていた髪を引きはがして、恥ずかしそうにはにかんだりする。

 ……くそ、なんだ、これ。まさか、可愛いとか思ったりなんてしてないぞ。


「すみません、今引っ越しの荷解きの真っ最中で……扇風機も回してるんですけど全然涼しくなりませんね。もうすっごい汗かいちゃって」

「そうですね、今日は本当に大変でしょうね……伊咲さんこそ、ご家族は」

 訊いてみると、えへへ、と伊咲さんは笑った。

「私もひとりですよ。今だけじゃなくて、独り暮らしなので」

 ふーん、と頷きながらも、どうだろう、と考える。隣家は平屋だが一軒家だ。独り暮らしをするにはコスパが悪くないだろうか。荷解きにしても、家族が手伝いに来ることもないのか。そこは家庭の事情……か。

 うーん……。

 彼氏、もいないんだろうか。


「あ、では、ご家族の方にもよろしくお伝えください」

 そう言って立ち去りかけた伊咲さんを、あの、とあれこれ考えていた俺は思わず呼び止めてしまった。はい? と伊咲さんは振り返るけれど、なにか考えがあって呼び止めたわけではない。だから、えーっと、と口ごもってから、俺は思い切ってみることにした。


「伊咲さん、は荷解きはずっとひとりで?」

「え、ええ、まあ。独り暮らしですし」

 それは理由になっているようでなっていなくもあったのだが、それは今はいい。

 俺は申し出る。


「……あの、もしよかったら」

「はい?」

「お手伝い、しましょうか」

 思い切ったという割には遠回りだ、という意見は却下だ。


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