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全てを奪われる残酷な物語  作者: うらもり


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5話 本能からの警鐘

登場人物の詳細は《0話》の前書きにて参照ください。

大講義室特有の、ざわめきが反響する空気が重かった。 数百人が収容できる階段教室。必修科目ということもあり、学部生たちのほとんどがこの空間に詰め込まれている。


二週間ぶりに大学の床を踏んだ奏多にとって、その喧騒はあまりに眩しく、そして暴力的だった。


誰かの笑い声が聞こえるたびに、背中が強張る。自分だけが世界から切り離され、理由もわからず暗い底に沈んでいるような感覚。


奏多は呼吸を浅く保ちながら、視線を彷徨わせた。 探しているのは、この世界に残された数少ない「味方」の姿だ。


(……いた)


前方の中央寄り、講義が見やすい定位置に、月乃と穂乃果の後ろ姿を見つけた。


その隣に、もう一つ誰かの席が空いていないか――凛の姿がないか、と無意識に探してしまう自分に気づき、奏多は奥歯を噛み締めた。


いるはずがない。連絡すらつかないのだから。


それでも、もし会えたら。会って話せば、何かが分かるかもしれない。 そんな縋るような期待を胸に、奏多は二人の元へと歩み寄った。


「……二人とも、ひさしぶり」


声をかけると、二人は弾かれたように振り返った。 そこに立っている、げっそりとやつれた奏多の姿を認めた瞬間、二人の瞳が大きく見開かれる。


「あ……!」


「奏多……! 来たんだね、よかった……」


二人の声には、安堵と同時に、隠しきれない動揺が混ざっていた。 無理もない。鏡を見なくてもわかる。今の僕は、頬がこけ、目の下には隈が張り付き、生気なんて欠片も残っていない。


「……ごめん。連絡、返せなくて。心配かけたよね」


奏多が力なく謝ると、月乃は首を横に振った。


「ううん、いいの。それより、体調は? 顔色、すごく悪いよ」


「うん……ちょっと、色々あってね。でも、そろそろ来ないと単位がまずいから」


奏多は精一杯の愛想笑いを浮かべたが、頬の筋肉がうまく動かない。 月乃と穂乃果は顔を見合わせ、それ以上深く踏み込むことを避けた。腫れ物に触れるような、けれど温かい配慮。それが今の奏多には痛いほど染みた。


「……あのさ。凛は、来てないよね?」


分かっている問いを口にする。 穂乃果が、痛ましそうに眉を下げた。


「……うん。今日も来てないみたい。最近、講義も休みがちで……私たちも、あんまり話せてないの」


「そっか……」


奏多は小さく息を吐き、肩を落とした。 やはり、会えなかった。理由を聞くことも、顔を見ることもできない。このままでは、胸の中に渦巻く黒いモヤモヤに押し潰されてしまいそうだった。


だからこそ、もう一人の頼れる友人の名を口にした。


「……あと、良太は? 今日は『お休みの日』じゃないの?」


見たところいないということは『そういうこと』なのだろう。良太の性質は奏多も知っている。だから聞いたのはダメ元だった。 だが、月乃からは意外な答えが返ってきた。


「あ、良太なら来てるよ。さっきまでいたんだけど、テキトーなこと言ってどっか行っちゃった。多分食堂かどっかで時間潰してるんじゃないかな」


「そっか……来てるんだ」


奏多の瞳に、わずかな光が宿る。 今日、無理をしてでも大学に来た最大の理由はそれだった。


良太なら。あの、感情に流されず、常に論理の最先端を行く彼なら、僕のこの混乱した状況を整理してくれるかもしれない。 何か、僕が気づいていない視点を持っているかもしれない。 ただ、話を聞いてほしかった。


「……あとで、良太と話がしたいんだ。戻ってきたら、伝えてもらえる?」


「え? うん、いいけど……何かあった?」


月乃が不思議そうに小首を傾げる。


「いや、大したことじゃないよ。ちょっと、相談したいことがあって」


奏多は曖昧に言葉を濁した。 月乃はその様子を見て何かを察したようだったが、「わかった、伝えておくね」とだけ言って微笑んだ。


奏多は二人の近くの空いている席に、重い身体を沈めた。 少しだけ、息ができる気がした。


そう思った、次の瞬間だった。


「――お。おいおい、マジかよ。生きてたのか、奏多!」


場違いに明るく、そして神経を逆撫でする声が、頭上から降ってきた。 心臓が早鐘を打つ。


振り返ると、そこには悠馬と海莉が立っていた。 二人は、まるで感動の再会でも演出するかのように、大袈裟な表情で奏多の席の前に立ちふさがった。


「心配したんだぜ? 急に来なくなるし、連絡つかねえし。……でもまあ、顔見て安心したわ。ちょっと痩せたか?」


悠馬が、奏多の顔を覗き込むようにして言う。 その言葉には「心配」というラベルが貼られているが、奏多にはそれがひどく空虚に響いた。 目の奥が笑っていないというか、どこか他人事のような、観察するような視線。


「……久しぶり、悠馬。海莉も」


奏多は声を絞り出した。 なぜだろう。昔は仲良くつるんでいたはずなのに、今は彼らと向き合うと、ひどく居心地が悪い。


「いやー、よかったよ。僕たち『いつメン』じゃん? 一人が欠けるとやっぱ寂しいしね」


海莉がヘラヘラと笑いながら続く。


「でもさ、奏多。男ならいつまでも引きずってちゃダメだよ。世の中に女なんて星の数ほどいるんだからさ」


「そうそう。凛だけが女じゃねえだろ? お前ならもっといい子見つかるって。なんなら俺たちがセッティングしてやろうか? 海莉のツテで、イイ店とかもあるし」


薄っぺらい。 何もかもが、紙のように薄く、そして無責任だ。


僕がどれだけ苦しんでいるのか、何も知らないくせに。簡単に「次」なんて言葉を口にしないでほしい。 けれど、彼らなりに励まそうとしてくれているのかもしれない。そう思うと、強く言い返すこともできず、奏多はただ曖昧に笑うしかなかった。


「……ありがとう。でも、今はいいよ」


引き攣った笑みを浮かべるのが精一杯だった。


「なんだよ、暗いなあ。もっとシャキッとしろって。パーっと遊んで忘れちまえばいいんだよ、あんなこと」


悠馬はさらに踏み込んでくる。 その無神経な言葉の連打に、横で聞いていた月乃と穂乃果の表情が強張っていく。


見かねた月乃が、低い声で割って入った。


「……ちょっと、二人とも。それくらいにしなよ」


「え?」


「奏多、疲れてるの見て分からない? 今はそっとしておいてあげて」


月乃の瞳には、明確な不快感が宿っていた。普段は穏やかな彼女が、これほど露骨に空気を読むよう促すのは稀だ。 しかし、悠馬たちは悪びれる様子もない。


「なんだよ月乃、俺たちは友達として励ましてやってるだけだぜ?」


「そうそう。過保護だねえ、月乃ちゃんは」


二人は肩をすくめ、顔を見合わせて苦笑する。 その態度には「女には分からない男の友情」といった傲慢な響きが含まれていたが、それが奏多を追い詰めていることに彼らは気づいていない。


あるいは、気づいていて楽しんでいるのか。


「……ま、そろそろ教授も来るしな」


悠馬は、これ以上月乃に絡まれるのは面倒だと判断したのか、話を切り上げた。 そして、去り際に。


悠馬の大きな手が、奏多の肩にポンと置かれた。


「無理すんなよ、奏多。困ったことがあったら、いつでも俺たちに言えよ? 相談に乗ってやるからさ」


その手のひらの熱。 奏多の肩を通して伝わる、妙に生々しい体温。


ぞわり、と背筋に悪寒が走った。


なぜだか分からない。ただ本能的に、その手に触れられていることが生理的に不快だった。 まるで、汚れた何かを擦り付けられているような錯覚。


奏多は全身の毛が逆立つほどの違和感を堪え、無言で頷くことしかできなかった。


「じゃあな。また後で」


悠馬と海莉は、軽い足取りで教室の後方へと歩いていった。 二人が去った後も、彼らが残していった重苦しい澱みのようなものが、奏多の周りに漂っていた。


「……何なの、あの二人」


穂乃果が、吐き捨てるように呟いた。


「全然、心こもってない。聞いてて気分悪くなっちゃった」


「ごめんね、奏多。……気にしなくていいからね」


月乃が奏多の背中を優しく摩る。 その温かさに、奏多はようやく呼吸を取り戻した。


「……ううん。ありがとう、二人とも」


奏多は小さく礼を言いながら、自分の肩をさすった。 悠馬に触れられた場所が、まだ熱を持っている気がして気持ちが悪かった。


早く、良太と話がしたい。 この訳のわからない不快感の正体を、誰かに解き明かしてほしかった。

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