1話 被害者
カーテンの隙間から、容赦のない冬の朝日が差し込んでいた。 埃が舞うその光の筋だけが、この部屋で唯一動いているものだった。
かつては凛が選んだパステルカラーのクッションや、ペアのマグカップが綺麗に並べられていたワンルームは、今や見る影もない。床には脱ぎ捨てられた服が地層のように重なり、テーブルの上には飲み干されたストロング缶と、スープが変色したまま放置されたカップラーメンの容器が散乱している。
澱んだ空気には、豚骨スープの酸化した匂いと、男の一人暮らし特有の饐えた匂いが充満していた。
そのゴミの山の中心で、中島奏多は万年床に沈み込んでいた。
大学に行かなくなって、今日でちょうど二週間になる。
髭は伸び放題で、頬はこけ、窪んだ眼窩の奥にある瞳は死んだ魚のように白濁している。 枕元に転がるスマートフォンが、黒い板のように沈黙を守っていた。
通知音は鳴らない。
世界から切り離されたような静寂の中で、奏多はただ、天井のシミを数えることしかできない廃人と化していた。 最後に固形物を口にしたのは、いつだっただろうか。 胃袋が空っぽで痛むけれど、食欲なんて湧かない。食べる意味が見つからないからだ。
重たい腕を伸ばして、スマホを手に取る。 画面を点灯させるこの動作を、ここ二週間で何千回、何万回繰り返しただろう。
通知ゼロ。
ラインのトーク画面を開く。一番上にある「凛」の名前。 最新のメッセージは、僕が送った『話がしたい』という悲痛な一文。 その横に「既読」の二文字は、いつまで経ってもつかない。
ブロックされているわけじゃない。それはもう、嫌というほど確認した。
別れを告げられた直後、半狂乱になりながらスタンプのプレゼント機能を試した。もしブロックされていれば表示されるはずの『この友だちにはプレゼントできません』という拒絶の文字は、出なかった。
贈れるのだ。繋がっては、いるのだ。
その事実に安堵し、同時に吐き気を催すほどの惨めさを感じる。 ブロックされていないということは、彼女はシステム的に僕を拒絶しているわけではない。ただ、僕の存在を「無視」しているだけだ。ブロックする手間さえ惜しいほど、僕という存在が彼女の中で無価値になっているという証明。
高校二年の冬。初めて二人で映画に行った帰り道、寒がる彼女の手を握った時の温もり。
「私、奏多となら、おばあちゃんになっても一緒に笑っていられる気がする」
そう言って恥ずかしそうに微笑んだ、雪のような白さ。
僕にとって凛は、初めての彼女で、最後の恋人で、これからの人生の全てだった。 喧嘩なんてほとんどしなかった。お互いを尊重し、信頼し合っていたはずだった。
それなのに、なぜ。 なぜ、別れなければならなかったのか。
理由がわからない。それが何よりも僕を苦しめる。
思い返せば、予兆はあったのかもしれない。 別れを告げられる数日前。凛は、どこか上の空だった。
「実家の用事」と言ってデートを断ることが増えた。その時の彼女の瞳が、微かに揺れていたことを僕は知っていた。微かに香る、僕の知らない甘い匂いにも気づいていた。
でも、僕は聞かなかった。 彼女を疑う自分が嫌だったし、何より、その問いを口にすることで、二人の間の何かが壊れてしまうのが怖かったから。
その結果が、これだ。
カレンダーの数字は十二月を示している。 大学からは、出席日数の警告メールが届いていた気がする。このまま行かなければ、単位は全滅。留年が確定するだろう。
親になんて説明すればいい。就職はどうなる。奨学金は。
……どうでもいい。 本当に、何もかもがどうでもいい。
凛のいない未来なんて、色のない砂嵐と同じだ。そんなものを必死に取り繕って生きていく気力なんて、僕には一ミリも残っていない。
ただ、一つだけ。 一つだけ、どうしても知りたい。
なぜ、凛は僕を捨てたのか。
好きな人ができたのか。僕の何がいけなかったのか。 その「答え」だけが、喉に刺さった小骨のように僕を生かし、そして殺し続けている。
僕は再び画面を消し、腐りかけた布団の中に頭まで潜り込んだ。 夢の中でなら、まだ優しい凛に会えるかもしれない。 そんな浅ましい現実逃避だけが、今の僕に残された唯一の救いだった。




