第七話「相手は強いのか?」
読了時間を考慮し、既存エピソードの分割・再構成を行いました。物語の内容に変更はございません。
「っ兄さん!」
対等とは程遠い提案に咄嗟に素が出てしまった。
けれど当の兄さんは、私の狼狽を気にする様子もなく、ソウスケさんへ視線を向けている。
「……決闘?」
首をかしげるソウスケさん。
当然の反応だろう。学園独自の制度を知らないのも仕方がない。
――ソウスケさん。
心の中で名前を呼んだだけで、胸の奥が熱くなって、息が苦しくなる。
けれどこの感覚に、私はまだ名前をつけられなかった。
ただ、不思議な気持ちがこみ上げるだけ。
あの瞬間から。
私はどうしても、彼のことを意識してしまう。
そして思い出すのだ。
幼い頃、母上が読んでくれた一冊の絵本のことを。
――勇敢なソウレン王子が、運命の姫を救い出す物語。
何度も繰り返し耳にしたそのお話が、大好きだった。
そのはずなのに……今、目の前にいる彼の姿が、どうしようもなく重なってしまう。
昨日の朝、私は変わらない灰色の世界で剣を振っていた。
春休みに入ってから一日、一日と、「決闘」という言葉が胸に濃く浮かび上がってくる。
勝てるはずもないのに、どうしてあんな無謀を受け入れてしまったのか――自分の愚かさを呪う日々。
焦りは募る一方で、出来ないと分かっていながら魔力の練習を繰り返した。
体の奥に熱が溜まり、喉を焼くような苦しさが広がっていく。
次の瞬間、視界が真っ白に弾けた。
気づけば床に倒れていて、暴れた魔力に体を軋ませながら意識を手放していた。
目を覚ましたのは昼過ぎ。
額に滲む汗を撫でてくれた風はひどく優しいのに、胸の中は焦燥でいっぱいだった。
もし、時間を巻き戻せたら私はいつの時代に戻りたいと願うだろうか。
王子にハンカチを叩きつけられた時。
魔力量診断機の前で立ち尽くした時。
父が顔を歪めて婚約の話を告げた時。
分からない。
でも今、この瞬間じゃなければーー何だっていい。
自嘲とため息を着いていると、けたたましい足音がこちらに迫って来るのが分かった。
バンッ!と扉が勢いよく開かれると、ゼェゼェと肩で息をする兄さんが現れた。
言葉を紡げずに驚いていると、兄さんはヒーラーを探してきたと誇らしげに胸を張った。
その様に心の靄が少し晴れた気がした。
心から兄に私の元へ来れるよう休みを与えてくれた父へ感謝した。
そして、扉が再び開いた瞬間ーー心を数年覆っていた靄が霧散した。
そこに立っていたのは、深い青灰のローブを羽織った青年だった。
灰銀の瞳が静かにこちらを見つめ、その視線に射抜かれたように心臓が跳ねた。
乱れた呼吸も、焦燥も、まるで全部見透かされている気がした。
前髪を上げた額、落ち着いた声音、そして包み込むような眼差し。
どこか懐かしくて、でも初めて出会う人のはずなのに――。
何故かは分からないけれど、彼にすべてを委ねていいと思ってしまった。
その一瞬が、私の世界の色を変えた。
胸の奥で鼓動がせり上がっていく。
耳の奥で心音が響き、世界の音が遠のいた。
一拍ごとに血が熱くなり、呼吸が浅くなる。
何故かは分からないけれど、彼に全ての信頼を乗せていいと思ってしまった。
初めての感情に私は戸惑いを隠せず、挨拶を噛んでしまった。
それからのことは、嵐のように過ぎていった。
兄さんが連れてきてくれた彼ーーーソウスケさんは、何の気なく私たちの目の前で固有魔術を発動し、すぐさま原因が指輪であること、そしてそれが塔具であることを断定した。
どの医師も分からなかった魔力を放出できない呪いの正体を、彼は一目で見抜いたのだ。
王子からいただいた「婚約指輪」の正体を知っても、なぜか怒りは湧かなかった。
驚きも、悲しみもーーただ、心の奥にぽっかりと空虚だけが残った。
不思議だった。
なぜか私は、王子が「間違えて」この指輪を渡したとは思わなかった。
効果を知っていて私に渡した。
――そう、直感的に理解できた。
思い出すのは、婚約指輪をもらった日のこと。
彼の浮かべた笑みの裏では、どこか遠くを見つめるような冷たさがあった。
そのときはただ、王子という立場ゆえの疲れだと思っていた。
けれど今なら分かる。
あれは、もう私に心を向けていない人の目だったのだ。
それでも、私はあの笑みを信じたかった。
たとえ、始めから私に眼差しが向けられていたかったとしても。
そんな彼とは対照的に、ソウスケさんが私の指先に触れた瞬間、優しい魔力の流れが伝わってきた。
その温かさが、言葉よりも先に、私を救ってくれた。
涙は出なかった。
むしろ心は静かで、ただソウスケさんの声だけが鮮やかに響いていた。
「絶対治しますよ。絶対に。」
その言葉が、心の奥で凍りついていた何かを溶かしていくのを感じた。
気づけば、頬がわずかに緩んでいた。
その夜は、なかなか眠れなかった。
兄さんの声も、外の風の音も、どこか遠くに聞こえる。
窓から射す月明かりを見つめながら、私は考えていた。
どうしてあの人の言葉だけが、こんなにも心に残るのだろう。
胸の奥が熱くて、息が苦しい。
焦りでも恐怖でもない。
たぶん、これが「希望」というものなのだと、ようやく気づいた。
けれど、その奥に――もっと違う何かがある気がした。
知らない感情。けれど、怖くない。
私は、そのぬくもりに身を委ねるように目を閉じた。
朝が来る。
そして今日、あの人が約束通り、私の前に現れた。
「決闘って、お互いが同意して戦うやつのことですか?」
首を傾げるソウスケの隣で、同じように首を傾げてニコさんが尋ねる。
二人の姿が息ピッタリで、緊張していた空気がわずかに和らいだ。
「うん。そうだね」
「へぇー」
微動だにしない兄さんに、シリウスさんが落ち着いた声で続けた。
「それはいつ行われるんですか?」
「二週間後、入学式の前だね」
「ルークさんではダメなんですか?」
ソウスケさんの問いに兄さんは一瞬だけ目を伏せた。
瞳に映る苦悩が私の心を鷲掴みにした。
「残念ながら、そうだね。僕がここに居られるって今日までなんだよ。早朝には出ないといけないんだ」
「なるほど」
「…明日には王都に着かないといけなくてね」
兄さんの穏やかな声に添えられた苦笑いから、その奥にある焦りは痛いほどに伝わってきた。
私のことを気にかけてくれている兄が、ここまで苦しげに言葉を選ぶのを見るのは辛い。
兄に心配をかけたくなくて、口では『大丈夫』と繰り返したけれど。
その実、私の指先は不安でわずかに震えていた。
「えーということは、二週間ほどこちらに訪れてカリナさんを鍛えるということですか?」
「いや、君たちがよければ客室があるからここに泊まって欲しいんだけど…」
兄さんの申し出に、ソウスケさんたちは顔を見合わせる。
視線を交わしただけで、言葉が要らないような信頼の空気が流れた。
あの一瞬の間に、四人の絆がどれほど深いのかが伝わってくる。
その光景を見ていると、胸の奥がほんの少し温かくなった。
「ジェット、どう?」
先ほどから口を曲げたままこの状況を見つめていたジェットさんがポツリと口を開いた。
「…相手は強いのか?」
「うーんどうだろう、少なくとも僕より断然弱いね」
ソウスケさんに向けられた疑問に、兄さんがあっけらかんと答えた。
するとジェットさんは私を数秒眺めて、「なら問題ないと思う」と呟いた。
「よし、じゃあそれでお願いします」
ソウスケさんの即答に、反射的に体が前のめりになった。
「よろしいのですか!」
弾かれるように声が出た。
部屋の空気が一瞬だけ止まり、みんなの視線が私に向く。
その温かさが、かえって胸に刺さる。
「ん?」
「治療だけでも十分すぎるのに、よろしいのですか?」
彼のような人たちが、本気で私のために動いてくれる――その現実が、どうしても信じられなかった。
「カリナさんは勝ちたいんですか?決闘」
「…もちろんっ!もちろん、勝ちたいです…」
ソウスケさんは、わずかに目を細めて微笑んだ。
その笑みは、慰めでも同情でもなかった。
すべてを預けてもよいと思わせる生まれたばかりの新しい感情だった。
「じゃあ、よろしくお願いします」
穏やかで、静かな声。
けれど、その一言にどんな励ましよりも強い力があった。
胸の奥が熱くなって、視界が滲みそうになる。
「…っ」
涙をこらえながら、私はうなずいた。
「…そうか。ありがとうっ!」
兄の笑顔を見るのは、いつぶりだろう。
それだけで胸の奥に温かい光が灯る。
「……ありがとうございます。私、必ず勝ちます」
その瞬間、ソウスケさんが小さく頷いた。
言葉はいらなかった。
その表情だけで、十分すぎるほど伝わってきたから。
「すみません、では念のためこちらで契約書のほうを作ってもいいですか?」
シリウスさんが腰に下げた銀鈴に指をかける。
すると、鈴の表面が淡く光を帯び、そこから滑るように何かが現れる。
それは、細かな文様が刻まれた銀の板。
月光を宿したようにきらめき、彼の掌に静かに収まった。
「…それは「誓紋の灼印」だね」
一瞬、兄さんの表情が僅かに揺れた。
それは驚きではなく、戸惑いに似た感情ーー。
この塔具が、国同士の条約や王家間の制約にのみ使われるほどのものだと知っているからだ。
「はい。その通りです」
シリウスさんは静かに答え、指先で薄い銀板の文様をなぞった。
「この塔具は、お互いの誓いを魔力で結ぶものです。契約が成立すれば、環は腕輪となり、双方の誓文を刻みます。腕輪は契約が果たされれば消えますが、破れば灼印として焼き付き、以後、魔術を扱うたびに痛みが走るでしょう。」
その説明が終わった瞬間、兄さんは静かに息を吐いた。
けれどすぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「……本気なんだね。ありがとう、皆」
兄さんの言葉に、誰もすぐには返さなかった。
唯一ニコさんが照れたように笑い、ジェットさんに肩を叩かれていた。
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