9. 主力艦会議4 (レムノスの戦い解説)
「大体あなたはあの時に何もしなかったくせに」
「なんだと!」
「大体お前はあの時に逃げ出したくせに」
「なんですって!」
「大体お前のバストは見せかけだろ」
「キーッ!!」
大体と言う言葉から戦争は始まる(サトウサンペイ『ドタンバのマナー』34頁)
会議は三たび始まった。しかし会議なのか、新米アドミラルであるわたしへの講義なのかいささかわからなくなってきたが。
わたしは小休止の時に資料に目を通していて疑問に思ったことがあったので質問する。
「レムノスの海戦はエリの海戦の一ヶ月後に行われた。しかし先ほど話してくれたオスマン海軍の敗因が一ヶ月程度で改善されるものだろうか? オスマン海軍が再び出撃した理由は何だろう」
するとヤウズがうなずく。
「うん。よい質問だ。これは海軍だけの戦略ではすまない問題があったんだ。当時わたしはその場にいなかった。後から海戦に参加した艦から聞いたり、ランゲンジーペンとギュレリュズの著作で読んだことの又聞きになるが…」
ヤウズ
繰り返しになるがヤウズはこの時にはまだオスマン艦隊には加わっていない。レムノスの海戦のオスマン艦隊の主力艦はドイツから購入されたブランデンブルグ級戦艦バルバロス・ハイレディンやトルグートレイスだ。
ヤウズは話を続ける。
「エリの海戦の翌日にあたる12月19日、オスマン艦隊の旗艦バルバロスに陸軍の幹部と海軍大臣が訪れた…」
わたしは口を開いた。
「海軍大臣まで同席するとはただ事じゃないね。何としても陸軍の要請を聞けという話じゃないか?」
ヤウズがうなずく。
「うん。陸軍の提案はギリシャ軍に占領されたエーゲ海の島嶼部を奪還するための共同作戦だった。海軍側はそのような作戦は後方支援することも陸兵の輸送を保護することもできないと拒否した」
陸軍と海軍の作戦の齟齬…旧日本軍のガダルカナル戦でも似たような話があったっけ。
ヤウズは話を続ける。
「ランゲンジーペンとギュレリュズの著作の簡単な記述だけでもただならぬ様子が伝わってくる。だが、この会談が行われた旗艦であったバルバロスの話を聞くと、かなり激しいやり取りがあったそうだ。本人たちの名誉のために詳しくは話せないとも言っていたな」
わたしはヤウズが空中に映したBernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz,The Ottoman Steam Navy, 1828-1923 の21頁から22頁を見る。オスマン艦隊の活動がクロノジカルにまとめられた内容だ。その記述は細にして密。出典が記されていないのは惜しまれるが、そこに目をつぶれば学術論文にも引用できそうだ。
ヤウズの話はさらに続く。
「会議の結果、海軍と陸軍の間で妥協が成立した。陸軍の島嶼部奪回作戦への協力は拒否する。その代わりギリシャ海軍の活動に対してはあらゆる機会をとらえてそれを妨害するというものだ」
わたしはヤウズに話しかけた。
「つまり、艦隊を出撃させることは決定したが、具体的な作戦については艦隊司令部に一任すると言うことだね」
ヤウズはうなずく。
「うん。それで20日には艦隊が再編成された。そしてメディジエ、ハミディエといった機動性の高い巡洋艦を中心とした小艦隊が出撃してギリシャ船舶の航行の妨害を行った。通商破壊作戦といっても良い」
ヤウズはアヴェロフのほうをチラッと見た。視線が会わないように本当にチラッと、
「それでハミディエやメジディエの出撃はアヴェロフを誘い出すためだと言われている。確かにその目的もあったことは否定しないが、一番大きな理由は陸軍の要求への妥協だ。彼女たちが戦果をあげたので年が明けた1月10日にはバルバロスやトルグートレイスが出撃してギリシャ船団を攻撃した。こうした作戦の延長線上にあるのが18日のレムノスの海戦なんだ」
ウォースパイトが人差し指を振って空中に地図を出現させる。
Karl Wilhelm Augustus Darr, The Ottoman Navy 1900-1918 , APPENDIX 7
「これはランキンの論文からダールが作成したマップですわ。ランキンによれば1913年1月18日午前8時30分、ギリシャ艦隊は海峡を出撃するオスマン艦隊を発見。10時50分、両艦隊は南方に進路合わせ。11時35分から36分、両軍は距離8,500メートルで砲門を開く。11時55分、オスマン艦隊は海峡方面に撤退。その後アヴェロフをはじめとするギリシャ艦隊がオスマン艦隊を約2時間30分にわたって追撃します。ギリシャ側の損害が軽微だったのに比べてオスマン側のそれは大きく、旗艦バルバロスは30発の砲弾、トルグートレイスは17発の砲弾を受けたということです」
約30分で終わった戦場での戦いよりも追撃戦の方が長いのか。海戦図を見るとギリシャ艦隊が撤退するオスマン艦隊の進路を三度も横から寸断している。もちろん砲撃も浴びせているに違いない。一刻も早く海峡に逃げ込みたいオスマン艦隊の将兵にとってはこれは恐怖だろう。
ウォ―スパイトは淡々と叙事的に読み上げる。その後で K. L. Rankinが1940年に書いた"The Battle of Helles and Lemnos"(Proceedings, May 1940)はギリシャ王立海軍のアルフレッド・レオントポロス(Alfred Leontopoulos)大佐が提供した資料に基づくものです。その資料の中に航跡図( track charts)も含まれていたと記されております。そのため、海戦の経過はギリシャ寄りの視点であることをお断りしておきますと述べた。
アメリカ海軍発行の月刊誌Proceedingsの古い記事は電子公開されていてランキンの論文もネットで読める。だがそこにはレオントポロスが提供した資料をもとにしたと考えられる海戦図は含まれていない。これはよくあることだが、電子公開された時に原論文に付いていた図版は省かれてしまう。美術史のように著作者や所蔵者の権利が絡んでいたり、あるいは単に手間がかかるからという理由が考えられる。ウォ―スパイトはやはり人間の世界の図書館を利用する方法を考えなければなりませんねと呟き、紙本にこだわるマレーヤは大きくうなずく。
するとアヴェロフが嬉しそうに
「あら、久しぶりに懐かしい名前を聞いたわ。ピリエホス(πλοίαρχος)・レオントポロスはエリやレムノスの戦いでは士官候補生としてわたくしに乗っていたのよ。その時は初々しい坊やだったけどわたくしが一人前の海の男に育ててあげたのよ。だからナヴァコスも安心してわたくしに任せなさい!」
胸を張って...いや突き出して得意そうに語るアヴェロフ。ギリシャ語のピリエホス(πλοίαρχος)は英語でいうキャプテンにあたるのだとウォ―スパイトはわたしに教えてくれた。アヴェロフは口では坊やと言いつつもその後の彼の経歴と階級をちゃんと尊重しているのだ。
ヤウズはそんなアヴェロフをちらりと見て、ではこちらもトルコの学者が作成した資料を出そうといって Afif Büyüktuğrul著『Osmanlı Deniz Harp Tarihi』第4巻の270頁にあるレムノスの海戦図を空中に映し出す。トルコではMondros Deniz Muharebesi...ムドロスの海戦という。それを見てみると...大よそは同じか?...いや違う。トルコ側の海戦図には2時間30分に渡ったという追撃戦が描かれていないじゃないか。うーん...やっぱり戦場そのものの戦いよりも追撃戦でオスマン側はかなりの被害を被ったからなのかな。
Afif Büyüktuğrul, Osmanlı Deniz Harp Tarihi, Cilt 4, p.270
ただ、ブユクトグルルBüyüktuğrul氏の名誉のために明言しなければならない。図の後の頁ではギリシャ艦隊の追撃戦について文章できちんと解説してある。トルコ語はよくわからないのだが、オスマン艦隊がダーダネルス海峡に撤退した後の時間の12時45分(Tur. saat 12. 45)から14時30分までの時系列に従った記述があり、アヴェロフ(Averoff)の単語が散見するので追撃戦の記事だと推測される。
ウォ―スパイトは話を続ける。
「このレムノスの戦い以降、オスマン艦隊はギリシャのエーゲ海における海上覇権を覆すことはできませんでした。そして1913年5月31日に休戦協定が結ばれて第一次バルカン戦争は集結したのですわ。マイアドミラル」
わたしは言った。
「やはりオスマン側は追撃戦でかなりやられたようだね。その時もギリシャ艦隊の先頭に立ったアヴェロフの活躍が際立っている。この二つの戦いでギリシャのエーゲ海の海上覇権が確立したのならば、アヴェロフが国家的象徴になったこともうなずける」
オーホホホ!!とあの特徴的な高笑いをしながら得意そうに胸を突き出すアヴェロフ。ヤウズはそれはこちらも認めざるをえんと呟いた。
ウォ―スパイトの話はこの海戦の結論に入った。
「この海戦のギリシャ側の勝因についてランキンはクントゥリオティス提督のリーダーシップを第一にあげています。彼はエーゲ海島嶼部の占領とオスマン艦隊主力の壊滅を目標としてそれ以外の要素に左右されませんでした。例えばエリの海戦の後のオスマン側の通商破壊作戦に対応しようとして戦力を分散させていたならばまた違った結果になったかもしれません。加えて戦場では旗艦アヴェロフに搭乗し全艦の先頭に立ったことも士気を高めました。他方でランキンはオスマン艦隊に対しては戦略が明確ではなかった...主力艦隊の決戦か通商破壊かのどちらかに戦力を集中できなかった...と厳しい評価を下しています。ですがわたくしは...」
わたしは考えることがあってウォ―スパイトの言葉を継いだ。
「オスマン帝国が内陸部の広域国家であったために海軍には予算を回さず物心両面で余裕が無かったこと。陸軍の作戦を優先したために海軍が妥協を強いられたこと。この二つはオスマン艦隊司令部に有形無形の圧力をかけたと考えられる。戦場での戦略・戦術や提督の決断ばかりに注目していては戦争の本質が見えにくくなるかもしれないね」
するとウォ―スパイトは我が意を得たとばかりに大きくうなずいて
「ブリリアント!!...わたくしの申し上げたかったのはそこなのです! マイアドミラル」
ウォ―スパイト
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というが敗北の原因もまた複合的なのだ。
するとアヴェロフがぽつりと口を開き
「エリの戦いの後のトルコ人の通商破壊戦...特にハミディエがこちら側の武装商船マケドニア号を撃沈した時の世論の圧力はすさまじかったわ。このわたくしにハミディエ撃沈に向かうように本国から命令が来たもの。ナヴァコス・クントゥリオティスは戦力分散の危険を恐れて断固として拒否したけど、内心ではかなり迷って苦しんでいた。だからトルコの司令官は決断力に欠けていると批判を受けたけれども彼の気持ちもちょっとだけわかるのよ」
アヴェロフ
ヤウズもうなずく。
「うん。世論や政治に振り回されたのはギリシャ艦もトゥルキエ艦も同じだったのだな」
会話の中でお互い共通の悩みが出てきたので二人の距離は少しだけ縮まったようだ。するとウォ―スパイトがこの機を逃さず締めに入る。
「第二次バルカン戦争の直後に第一次世界大戦、トルコ革命と混乱が続きました。ですがそれが終息した1923年。トルコ共和国を主権国家と認めたローザンヌ条約でエーゲ海島嶼部の両国の帰属が確定しました。その多くはギリシャの領有となりましたが、トルコ領に近いミティリーニやキオス等の島々にはギリシャ側が軍事施設を置かないという協定で安定がもたらされたのですわ。マイアドミラル」
その後も両国の間ではキプロス島紛争等の問題は起きていますが、グレートブリテンやステイツが介入して全面的な戦争は辛うじて回避できておりますとウォ―スパイトは小声で付け加えた。ヤウズとアヴェロフの二人をそっと見ながら。
ヤウズとアヴェロフがお互いに共感したこともあって会議は柔いだ雰囲気になった。
空中にたくさん映し出されたスクリーンをヤウズは指差しして消していく。そんな作業の最中に彼女はふと思いついたのか
「帝国末期には我が艦隊もかなり弱体化していたな。わたしヤウズが編入されたので、辛うじて第一次世界大戦を戦い抜いたものだが、共和国時代になってからは違うぞ。アタテュルクは海軍の充実にも力を入れたんだ」
ほう…あのケマル・アタテュルクが海軍にも…わたしは興味を持って身体を乗り出した。
「ああ。もう時間が長くなってしまったから詳しい説明は省くが、イタリアが地中海東部に進出してきたこともあってな。共和国政府は最新型の駆逐艦や潜水艦を購入したりドイツの士官を招いてクルーの訓練に乗り出したんだ」
そしてヤウズは胸を張る。
「こうした海軍を充実させる政策の中で周辺諸国に注目されたのは恥ずかしながらこのヤウズの改修だ。わたしは第一次世界大戦の終わりごろに不覚をとって触雷してな。共和国成立前後の政治的な混乱や財政難で修理が遅れていたが、フランスの造船会社の力を借りて大規模な改修を行った。そして1930年にようやく再就役できたんだ。再就役の後にわたしはイスタンブルで一般公開されたのだが、天候が悪かったにも関わらず大勢の国民がわたしを見物しに来てくれた。ハキミイェト・イ・ミリイェ紙の報道によれば一日二千人が訪問してくれたそうだ」
わたしは尋ねる。
「再就役後はどういう任務についたんだい?」
ヤウズは答える。
「基本的には外交儀礼につく儀仗艦といったところだ。イランのシャーをお乗せしたこともあった。アタトゥルクはイランとの関係を大事にしていたからな。その中で一番記憶に残っているのは…そうだな… トルコ・ブルガリア間の友好条約が締結された後、トルコに戻るイノニュ首相をブルガリアの港町ヴァルナまで迎えに行ったことだ。さっきも話したかな…入港する時にわたしが放った21発の礼砲は、トルコは友人であるブルガリアを見捨てないという力強いメッセージになったのだ」
ヤウズはさらに話を続ける。
「もちろん海軍軍備の充実は隣国のギリシャも行っていた。アメリカから前ド級戦艦のキルキスとレムノスを購入したのがそうだ」
ほう、バルカン戦争の時のギリシャ海軍の主力は装甲巡洋艦のアヴェロフだったがこんどは戦艦を…
ヤウズは得意そうにいう。
「最近、ギリシャの海軍史家フォタキスの論文を読んだのだが…ギリシャ海軍参謀はキルキスとレムノスがわたしを撃沈する可能性を検討したらしい。その結果は、わたしが魚雷攻撃や爆撃を受けて弱っている場合、あるいは交戦が12キロメートル未満の距離で行われた場合に限るということだった。しかし、わたしの快速と砲の射程距離を考慮すると、こんな状況は起こりえないという結論になったそうだ」
ふーむ。 ヤウズが示したZisis Fotakis (2010). "Greek Naval Policy and Strategy, 1923-1932" Nausivios Chora.の22頁を確認するとBenakion, Venizelos MSS, File 87,をソースにしている。何かの手稿本(MSS)のようだがこの論文にはそれ以上の書誌情報が記されていない。困ったあげくにChatGPTに尋ねたところ、ベナキ博物館に所蔵されているギリシャの有名な政治家エレフテリオス・ヴェニゼロス関係の資料では無いかという回答だった。そうか、研究者にとってはあまりにも有名なアーカイブなのでフォタキス氏はいちいち注記しなかったということか。文書の作成日は1928年10月17日。政治史の文脈で言うならこの年の7月にヴェニゼロスは選挙の結果首相に返り咲き、希土戦争で関係が冷却していたトルコと友好条約を結ぼうと試みていた時期にあたる。海軍の主力艦同士が会戦した時のシュミレーションも政治家の政策判断の材料になったのだな。
その事をヤウズに話すと彼女はやや得意そうに
「うん、ギリシャではこのヤウズの再就役を国家的危機と呼んだそうだ。戦艦とて正面からわたしとやり合ったら利あらずだったんだ」
戦艦とて…戦艦とて…とて…とて…とて…トテ...トテ...TOTE...ヤウズの言葉がドップラー効果のように会議室にこだまする。ヤウズ本人は自分の発言の効果に気づいていない。すると案の定、装甲巡洋艦である自分は相手にされていないと感じて傷ついたアヴェロフが柳眉を逆立てた!!
あーあ。二人はせっかく仲良くなりかけたのに。さっそくアヴェロフがヤウズに絡み始めた。
「ふーん。巡洋戦艦サマはお偉いのねェ...でもわたくし知ってるのよ。さっきあなたはブルガリアのヴァルナの訪問を自慢してたけど、あれは友好条約じゃなくて砲艦外交...脅迫っていうんじゃないの? あの時のあなたの礼砲の音でヴァルナの人々はパニック起こしたのよ。またトルコ人が来た!ってね。バルカン戦争の時にメジディエたちがヴァルナを砲撃したからその記憶が生々しく残っていたのよねェ」
アヴェロフもプライドがあるので自分は眼中に無いのか!?とは直接には言わない。搦め手から攻めることにしたらしい
「それで礼砲の衝撃でヴァルナの家の窓ガラスが割れたっていうじゃない。ちゃんと弁償したの?」
ヤウズが言い返す。
「あれは後で艦長がちゃんと謝罪したぞ!」
あまりにもディープな地域史ネタだ。わたしばかりか他のみんなもついていけないようだ。
アヴェロフはどうだかと鼻で笑って
「そしてその後でナチがバルカン半島を占領した時はあなたたちは手も足もだせずに指をくわえて見てるだけ! 大したご友人ですことオホホホ!! 中立政策って威張ってるけどナチの急降下爆撃を恐れて引きこもっていた臆病艦じゃないの!」
臆病艦と言われてヤウズもカッとなった。
「ナチスに手も足も出なかったのは貴艦も同じだろう!ナチスに占領されたギリシャから逃げ出してエジプトのアレキサンドリアに亡命したのは誰だ!! わたしが臆病艦ならおまえは何だ? 祖国を捨てた宿無し艦じゃないか!!」
ついに二人称が「貴艦」から「おまえ」に変わる。しかし宿無し艦とはなかなかにキツイ言い方だ。アヴェロフもカッとなって。
「何ですって!! あなただってあの戦争中はギョルジュクの海軍基地でじっと動かずに炭と油を無為徒食してただけじゃないの! わたくしが宿無し艦ならあなたは無駄飯食らい艦でしょ!! でもわたくしはね、あなたとは違うの。アレキサンドリアで連合軍に加わって文明と平和の敵ナチと戦っていたの! 連合国の海上輸送はわたくしが支えたのよ、オーホホホ!」
そしてヤウズが口を開く前にアヴェロフは
「そしてイギリス人がわたくしに送った賛辞は『ゲオルギス・ネバーオフ(Georgios Never-off)』休み(off)知らずのイェロギオフ・アヴェロフ!! 女神は常に戦場にいた!! 第一次大戦以来ずっと実戦を経験せずにエターナルオフだったあなたとは格が違うのよ! 格が! オーホホホ!!」
ここまで言われてキレるかと思ったヤウズは逆にククク...と下を向いて笑い出した。
「アヴェロフ、ああ可哀想なアヴェロフ。おまえはあの陰険なイギリス人のつけたあだ名が本当に賛辞だと思っているのか?」
ん? イギリス艦たちの空気が微妙に変わった。
アヴェロフはヤウズが怒るかと思ったら逆に笑い出したので当惑した表情で
「な...何よ...それ以外に何があるというの?」
するとヤウズは意地悪な笑顔を上にあげて
「おまえが気づいていないのなら教えてやる。『ゲオルギス・ネバーオフ』の真の意味はな、イギリスの工員たちの自虐ジョークだ。おまえはインド洋で海上護衛作戦に従事している時に何度も何度も何度も老巧化した機関が故障しただろ? そのたびにボンベイ基地のイギリス工員たちはこう嘆いていたんだ。おーいゲオルギス・アヴェロフがドック入りしてるよ。このポンコツまーた壊れやがったのか? 上からはガイコーテキハイリョってヤツで最優先で修理しろとのお達しだ。ウソだろ!? 今度の休暇が潰れるのかよ!! オレ達って休日返上でコイツの修理ばかりしてるよな。ゲオルギスちゃんの修理はネバーオフだぜハハハってな!! これはマレーヤから聞いたから間違いない!! 」
するとマレーヤはしまったという顔をして思わず立ち上がる。
ウォ―スパイトはやんぬるかなと言わんばかりに無言で天井を仰ぐ。
ヴァリアントは「あーあーバレちゃった。ナイショにしておいてあげようってみんなで決めたのに」
バーラムは「今の今まで気づかなかったのは逆に考えれば『幸運なジョージおじさん(Lucky Uncle George)』というアヴェロフのニックネームに恥じないわね」
マレーヤやウォ―スパイトはともかくあとの二人は完全に楽しんでるだろキミたち。
マレーヤ
アヴェロフはイギリス艦の反応にますます刺激されたらしい。ついに口調も改まって
「ヤウズ!! 海上に出ろ!! 希土戦争ではおまえと戦うことは無かったがその決着を今ここでつけてやる!!」
さすがバルカン戦争、希土戦争、第二次世界大戦を駆け抜けて来た叱咤風雲の名艦、本気になったら声もドスが効いている。海上に出ろは人間の言葉に翻訳すれば「表に出ろ」ってことか。
アヴェロフ
するとヤウズは笑みを浮かべながら
「いや。ここから出ていくのは貴艦だけだ、アヴェロフ」
相手が激高したのでこちらは精神的に余裕が出てきたのか二人称が「おまえ」から「貴艦」に戻っている。
そしてヤウズは一気に攻めかかった。
「そもそもこの艦隊では主力艦とは戦艦と巡洋戦艦を指す。なのに貴艦は9インチの主砲しか持たぬ巡洋艦の身でありながら、何をもって10インチ以上の砲を有する巡洋戦艦以上の会議に顔を並べているのか。あまつさえこのわたしに暴言を吐くとは増長極まる!! いますぐ出て行け!! それとも自分の足で出てゆくのは嫌か!!」
「黙れ下衆ゥ!」と言いかねない勢いだが淑女の嗜みでこんな汚い言葉を使うのは控えたらしい。しかし会議が始まる前のわたしとウォ―スパイトとの会話の
「主力艦は戦艦・巡洋戦艦を指すと言ったが国によっては異なる場合は無いのかな?」
「たとえば、地中海の小国では、小さな艦が国の主力艦と見なされたりしますし...この艦隊でも...」
がこんなところで伏線としてつながってくるなんて思わなかったなあ(第6章参照)。
いや感心している場合では無い。いくら何でも言い過ぎなので止めさせないと...わたしが口を開こうとしたらそれより先に金剛がたしなめた。
「こらこらヤウズ。確かにアヴェロフの主砲は9インチじゃが、これは軍縮条約で定められた巡洋艦の主砲の上限を超えておる。現に我が方の重巡妙高たちの8インチより上なのじゃ。巡洋戦艦以上のこの会議に参加するのは特例と言えぬことも無いがちゃんと数字上の根拠があるのじゃぞ」
チェザーレもアヴェロフをかばう。
「そうだ。金剛の言う通りだ。だからアヴェロフは巡洋戦艦扱いにすると決めたでは無いか。ヤウズ、それは貴艦もわかっているだろう」
思わぬ援軍を得たアヴェロフも心強くなったのか
「オホホホ―! 皆さんのおっしゃる通りわたくしはクルーザーではなくθωρηκτό フリクト、つまり戦艦ですのよ戦艦! この豊満なバストが目に入らないの!」
と胸を突き出す。
するとヤウズは負けずに
「見苦しいぞアヴェロフ! 貴艦の人間体のバストは豊胸手術の上げ底だろうが!!」
と言われた瞬間、アヴェロフの顔が真っ赤になり頭から煙が噴き出した...頭から煙?
その時、金剛が
「いかん! ボイラーが暴走しておる!搭載している魚雷や砲弾の装薬に誘爆したらこの部屋が吹っ飛ぶぞ!!」
と言って自分の席からひらりとわたしの前に飛んで障壁をはる。
するとウォ―スパイトが卓上のハンドベルを振る。と同時にバーラムが「クイック・クイック・クイック」と呪文を三回唱えると会議室のドアのロックが解除され、外のラウンジで待機していたはずのグラスゴーが飛び込んできた!!
グラスゴー
さすが機動性に優れた巡洋艦。グラスゴーは俊敏にアヴェロフの後ろに取りつき彼女を抱え込んだ。
「何するのグラスゴー! いくらあなたが古いお友達でもこんな真似は!!」
「いいから! アヴェロフさんはこっち!!」
19,000 馬力のピサ級改巡洋艦が75,000馬力のタウン級巡洋艦に力比べでは勝てるはずがない。アヴェロフはそのまま梶川与惣兵衛に取り押さえられた浅野内匠頭のような恰好で会議室の外に引きずられていった。
ざまを見ろという表情でアヴェロフを見ていたヤウズだがそんな彼女にマレーヤが近づいていって肩に腕を回し
「貴艦とはすこし別室で話そうか」
と言って自分の身体にヤウズを抱え込むようにして別室に連れて行った。
地域紛争の当事者二人がいなくなった会議室で金剛がポツリと呟く。
「今日のところはこれでお開きじゃな」
誰も反対するものはいなかった。わたしも反対しなかった。
やや(とっても?)しらけた雰囲気の中で閉会した。わたしが会議室を出て外のラウンジに戻ると窓際のテーブルでアヴェロフとグラスゴーが向かい合って座っているのが見える。
この二人は第二次世界大戦以来の古い戦友だという。アヴェロフはアテネからドイツ軍の空襲をくぐり抜けてアレキサンドリアにたどり着きそこで連合軍に加わった。
そしてインド洋での船団護衛に従事したのだが、グラスゴーも同じ頃に同じ任地に派遣された。二人はBM9B船団で航をともにしてから、国籍と艦歴を越えた親友になったそうだ。
ちなみにグラスゴーはタウン級巡洋艦で1937年竣工。第二次世界大戦直前の世代なので、バルカン戦争以来の艦歴を持つ大ベテランであるアヴェロフに比べるとかなり若い。
ウォースパイトやマレーヤはアヴェロフが暴走した時に古い馴染みのグラスゴーに押さえさせるつもりでずっと待機させていたようだ。あの二人も気苦労が絶えないな。
そしてアヴェロフはハンカチを顔に当てて泣きじゃくりながらグラスゴーに話しかけている。
「エッエッ…それでね。みんなの前でエラーバの国家的象徴であるこのわたくしアヴェロフが侮辱されたのよ…エッエッ…この悔しさ、古いお友達のあなたならわかってくれるわよね…エッエッ」
涙と鼻水でハンカチがグショグショになったのでグラスゴーが二枚目のハンカチを手渡す。
確かにアヴェロフ・ネバーオフの真相暴露や巡洋艦のくせに会議で余計なことを言うな発言は誇り高いアヴェロフにはこたえただろう。
「こともあろうにあのトルコのポンコツ艦はわたくしのことを豊胸手術の上げ底って言ったのよ!! エッエッ」
そこなのかーい!というわたしの突っ込みはさておき、二人のテーブルをよく見てみる。アヴェロフは氷入りのマスティハ・ソーダを何杯も飲んでボイラーを冷却したらしい。
そしてグラスゴーが食べているのはジャンボタワーパフェ。いつ終わるともわからない会議の間、ずっと外で待機している報酬として好きなものを好きなだけ頼めるようにウォースパイトが手配したので、一番デラックスなデザートを注文したようだ。ちゃっかりしてるなあ。
テーブルの上の空の容器を見ると少なくとも今食べているのは5杯目のようだ。お腹壊さないのかな? それとも人間とは違うのか。
そしてアヴェロフも泣きじゃくりながらグラスゴーのパフェにスプーンを差し込んでパクパク食べている。「クリームやバナナならまだ我慢しますけどプリンはやめてくださいよー」「いいじゃない、ちょっとだけだから」「あっ! そこのメロン後で食べようと思ってたのに!」という会話を交わしている。
そんな二人を横目で見ながら主力艦たちがラウンジを出ていく。みんなそれぞれの任務を抱えていてそれなりに忙しいのだ。
比叡たち3人は心配してなかなか出ていこうとしなかったが金剛がまた後で善後策を話すからと言ったのでそれぞれの任務に戻って行った。
チェザーレたちイタリア艦はアヴェロフもイタリア生まれだから彼女が落ち着いたら話して見るとウォースパイトに言って出ていった。
なお、イギリス艦はというと…バーラムはわたしの顔を見て新任アドミラルのお手並み拝見とばかりにニヤリと笑い、ヴァリアントはダンケルクに戦争はもう終わったんだから仲良くしようよーとスキンシップをペタペタして本気で嫌がられている。二人ともウォースパイトを一顧だにせずに出ていったのは彼女を信頼しているのか単に押し付けているだけなのか。
そしてアヴェロフとグラスゴーも6杯目のパフェを二人で分け合って食べた後、アヴェロフはグラスゴーに付き添われて自分の泊地に戻って行った。
アヴェロフが出ていったのを見届けたウォースパイトはコンパクトを兼ねた通信機器を開いて「今アヴェロフが出ていったわ」と話しかける。
しばらくしてからヤウズがマレーヤと一緒に出てくる。なるほど二人を会わせないようにしていたのか。
ヤウズは傲然と顔を上げている。心配するマレーヤに対して大丈夫これ以上の暴発はしないさと言ってラウンジを出て行った。
こうしてラウンジには会議を主導したウォースパイト、金剛、マレーヤが残された。今期はこの三人で司令部を構成しているのだ。あ、それとわたしだ。
彼女たちも一息入れたくなったのかそれぞれが飲み物を注文した。ウォ―スパイトとマレーヤは冷えたレモネードを頼んだ。
なお、冷えたレモネードはイギリス艦にとってただの飲み物以上の意味を持っているようだ。この飲み物は異界のカオスに対抗するコスモスの象徴ということだ。映画『アラビアのロレンス』でロレンスがアラビアからエジプトのイギリス軍基地に帰ってきた時、将校のバーで出される氷入りのレモネードが砂漠に対する文明の象徴として効果的な演出がなされていたがそれと同じ事らしい。
金剛は日本帝国海軍の伝統に従ってサイダーを注文する。わたしは...精神だけでは無く肉体的にも胃腸が強くないので冷たい飲み物は苦手だ。でも会議の後で疲れているので甘いものが欲しい。何を頼もうかと迷ったあげく、異文化の調停者たるアドミラルの職務を思い出し、紅茶と羊羹にした。ストレートティーと餡物はわりと合うのだ。
こうして四人が気疲れで消耗した頭を飲み物を飲んで休めている時、グラスゴーが戻ってきた。
「アヴェロフの様子はどうだった?」と聞くマレーヤに対して
「多少は落ち着きましたがやっぱり怒ってます」と答えるグラスゴー。
そしてマレーヤは
「グラスゴー。余分な仕事になるがしばらくそれとなくアヴェロフの様子を見ていてくれ」
ウォ―スパイトは
「今日は長い間本当にご苦労様。そろそろ自分の任務に戻って頂戴」
...と普通は退出するところだが、グラスゴーはまだそこにいる。そして片手のひらをわたしたちに差し出している。
マレーヤが「ん? どうした?」と尋ねる。
するとグラスゴーは
「今度榛名さんのバザーがあるでしょう? そこで出品される日本製リコールの下着、グラスゴーもう少し欲しいなあって思ってるんですよー」
つまりアヴェロフを見張っている報酬としてバザーの購入チケットを自分の割り当て分より他に欲しいということだ。
グラスゴー
それを聞いた金剛がちゃっかりしておるのと呟いて羽織のたもとをまさぐると、マレーヤがそれを押しとどめて自分のジャケットの内ポケットから紙入れを取り出す。
「ほら、わたしの割り当て分の中から回してやる。くれぐれも無駄遣いするんじゃないぞ」
ところがグラスゴーは不満そうな顔をする。もっと欲しいと目で言っている。
ついにマレーヤが一喝した。
「お前はこれから雷撃の訓練があるだろう! いつまでもグズグズしているとボーナスゼロにするぞ!」
グラスゴーは脱兎のようにぴゅーっと飛び出していった。
グラスゴーがいなくなってからため息をついて頭を抱える三人の主力艦たち。それを見てわたしはつい口に出した。
「このありさまでよくも人間界への介入なんて議論していたものだ」
それを聞いた金剛がわたしを軽くたしなめる。
「こらこら提督。そんな他人事のようなセリフを言うでない。おぬしも当事者の一員なのじゃぞ。ほらおぬしの提督としての初仕事じゃ。この書類にサインするのじゃ」
金剛
金剛がわたしに二通の書類を差し出す。それはアヴェロフとヤウズに対する訓告処分の通告書だった。わたしがサインして渡すと金剛はそれをしげしげと見て
「うーん。おぬしはサインの稽古をしたほうが良いの。いくら最も軽い処分とはいえこの筆跡では司令部の権威が保てぬぞ」
そう言ってその書類をマレーヤに渡す。マレーヤもわたしのサインを見てこれはちょっとなあという顔をする。
「こういう事は数をこなせば何とかサマになってくるはずだ。書類を大量に印刷して持ってくるから一番良い筆跡のものを使おう」
かくしてせっせとサインするわたし。それを見てウォ―スパイトが金剛に言う。
「マイアドミラルがサインに慣れていらっしゃらなかったら、日本式の押印にするのはどうかしら?」
金剛が無情に答える。
「いやいや初手から甘やかしてはいかん」
結局わたしは昼食の時間を挟んで夕食近くまでサインを繰り返すことになった。こうやってここの当事者になっていくことを実感したのである(この章、完)。
金剛「やれやれ…ようやく会議も終わったのう。じゃが...」
ウォ―スパイト「そう。大変なのはこれからよ。金剛シスター」
榛名「金剛お姉さま、ウォースパイトさん。榛名は議事録をつけていてつらくなりました」
霧島「でもネバーオフの真相や豊胸手術の上げ底という言葉が記録に残っちゃうのね。いちおう50年非公開のルールがあるけど」
金剛「昭和の御代ならそういう都合の悪いところはビリッと破って市電の網棚に忘れてきましたーっで済むのじゃがのう。今は世論が許さぬ時代じゃ」
比叡「ねえさま...黒島少将のなさった事はあの時代でも批判がありましたから」
金剛「あの男も変なヤツじゃったのう。確かに奇才ではあるが無責任極まりないところもあった」
ウォ―スパイト「オホン...今回の件はアドミラルもひどくご心配なされていたわ」
金剛「こういう時はのう。我が日本には良い言葉があるのじゃ『助さん格さんもう少し様子を見ましょう』というのじゃ」
霧島「おねえさま......それは事態をさらに悪化させる時の決まり文句ですわ」
金剛「すぐに解決に動きたいのは山々じゃが他にも片づけなければならぬ問題が山積みなのが組織というものなのじゃ」
ウォ―スパイト「そんなジャパニーズジョークはさておき次回は『艦隊司令部の日常(幕間劇)』」
榛名「見て...読んでくださいっ!」