8. 主力艦会議3(エリの戦い解説)
かってその海は世界史の運命を決める舞台となった。
専制の帝国と自由の共和国との存亡を賭けた海戦だと謳われた。
時は移り世界史の舞台が変わってもその物語の記憶は長く語り伝えられた。
今では人々の心も変わり自由の勝利が高らかに歌い上げられることは少ない。
それでも海の戦いの勲は歴史に刻まれている。
こうして会議がまとまりかけた雰囲気になったところ、突然席の向こうのほうからわざとらしい大あくびが聞こえた。その主は
「あーあー頭の悪い人の話は長いって本当ね。そんなポンコツ艦のいう事なんか真に受けたらだめよナヴァコスναύαρχο。小国の粘り強い外交? 一方的に自分を美化する話ばかりじゃないの」
わたしは声の主を見てPCに入っている資料を調べる。すると会議が始まる前のウォ―スパイトとの会話を思い出した。
「主力艦は戦艦・巡洋戦艦を指すと言ったが国によっては異なる場合は無いのかな?」
「たとえば、地中海の小国では、小さな艦が国の主力艦と見なされたりしますし...この艦隊でも...」
ひょっとして声の主はこの艦のことでは...
ポンコツ艦と言われたヤウズはお前か!と言う表情でテーブルを強く叩きつけてものすごい形相で声の主を睨みつけた。
声の主はそれを意に介せずわたしに向かって微笑みかける。ブロンドのウェーブかかったロングヘアの美女。モデルのように長身だ。一瞬、彼女の後ろにエーゲ海とエンタシスの柱が見えたかのように錯覚して慌てて目をこする。
アヴェロフ
「ヤーサスΓεια σας、ナヴァコス。ポレミコ・ナウティコ (Πολεμικό Ναυτικό)所属、イェロギオフ・アヴェロフよ。イタリア生まれのギリシア育ち。戦わんとする海軍の名前のとおりこの小さな国の独立を仲間たちとともに守り抜きました。宿敵トルコの皆さんはわたくしの事を悪魔の戦艦って呼んだんですって。オホホホホ」
アヴェロフ
「あ、ナヴァコス、一言断っておきますけどわたくしはクルーザーではなくθωρηκτό フリクト、つまり戦艦ですのよ戦艦。そこのところはお間違えの無いように」
特徴的な高笑いといい中々プライドの高そうな女性だ。
しかしギリシャ海軍? イェロギオフ・アヴェロフ? 恥ずかしい話だがわたしはどちらも良く知らない。そもそもギリシャの歴史自体、高校の世界史レベルの知識では古代で終わっているのだ。あとは近代におけるオスマン帝国からの独立運動だったか。ドラクロワが描いた『ミソロンギの廃墟の上のギリシャ』、ギリシャの暗喩である若い女性が廃墟の上に立っている絵画を思い出した。トルコの旗艦であるヤウズに食って掛かったのもその歴史が関係しているのだろうか。
そしてあわててネットで検索したら英語圏の艦船サイトにアヴェロフに関する項目があった。PCの画面に映したその文章を読むと...
「海軍全体を見渡しても旗艦として非常に長い歴史を持つ栄誉を与えられ、そのこと自体が歴史的意義を持つ艦艇は稀である。それについておそらく海軍史における最良の例と言えるのがイェロギオフ・アヴェロフである。1908年にイタリアの改良されたピサ級装甲巡洋艦として発注され、国ではなく個人(その個人名が艦名に付けられた)の資金で〔ギリシャに:訳者〕購入されたイェロギオフ・アヴェロフは、たちまちギリシャ海軍の旗艦となった。1912年のバルカン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を戦い、冷戦初期を迎えた1952年まで現役を保っていた。海軍から退役した後、今度は博物館艦として任務を再開した。現在もテッサロニキで見学できる」(https://naval-encyclopedia.com/ww2/greece/giorgios-averof.php)
なるほど、現在も残っていて見学できるのか。そしてギリシャ海軍が運営している博物館艦アヴェロフのサイトには「装甲巡洋艦ゲオルギオス・アヴェロフ、その伝説の歴史」と紹介されている。その内容は
「ギリシャ艦隊の特定の部隊の活躍と功績は、時に海軍史における決定的な瞬間となることがあります。装甲巡洋艦100年の歴史の中でもゲオルギオス・アヴェロフの活躍はこの真実を裏付けています。世界史において、これほど半世紀近くにわたり国家の歴史と運命に深く関わった軍艦は他に類を見ないでしょう」(https://averof.hellenicnavy.gr/en/historical-brochure/)
こちらのサイトによれば博物館艦アヴェロフの所在地はテッサロニキでは無くてアテネ近郊のピレウスである。
二つともかなり持ち上げた書き方である。ふむ...彼女の艦歴の特長は1908年から52年までの40年以上にわたって現役だったことと、その間ギリシャ海軍の旗艦として一国の象徴的な艦艇だったというわけか。
「装甲巡洋艦は日露戦争の頃に作られた古い艦種でな。戦艦と同じく重金属の装甲をまとわせることで、防護力と航続距離やスピードを両立させようとしたのじゃよ。後にこの艦種はわしらのような巡洋戦艦に進化するのじゃが、いくらかのフネは大東亜戦争の頃も現役だったはずじゃ。我が帝国海軍の出雲殿や八雲殿のようにな」
「わがグレートブリテンのジョージ6世陛下が1936年に即位なされた後、それを祝う観艦式がスピッドヘッドで行われましたが、集まって頂いた各国の艦艇の中でアヴェロフは特別な存在でした。というのも先代のジョージ5世陛下即位の観艦式に出席した艦はアヴェロフだけだったのですわ。その艦長が賓客として迎え入れられたことをわたくしは覚えています」
ステレオサウンドによる解説にわたしはびっくりした。気が付くと金剛とウォ―スパイトがわたしの後ろに立って両側からPCの画面をのぞき込んでいる。ウォ―スパイトはわたしが見ているサイトについて艦艇構造図の青焼きや資料写真も掲載されていて良く出来ていますとつけくわえ、金剛は自動翻訳の機能を見て便利になったものじゃと呟いた。
アヴェロフは議長席で話し込んでいるわたしたちを見てあの特徴的な高笑いを出した
「オーホホホ! ナヴァコス!! そんなどこの誰ともわからない人間が作ったインターネットよりもこの私本人が直接語ってあげるわ! このアヴェロフ栄光の歴史をね!!」
アヴェロフは語り始める。今までの高調子な声は一転して遠くを見つめるかのような語り口だ。
「ギリシャ...エラーバΕλλάδα..…エーゲ海の美しき国…情熱の詩人サッフォーが愛し歌いあげた金色に輝く常夏の島々...オスマン帝国のスルタンの暴政から独立した後もトルコ人は再びこの国を征服しようと狙っていたわ。独立運動を弾圧したトルコが民間人まで虐殺したことをエリネスΈλληνες...ギリシャ人は忘れない…そして祖国防衛のためにイタリアで作られたわたくしを呼び寄せたの。わたくしの建艦費用は国民の募金で賄われたわ。わたくしの艦名イェロギウス・アヴェロフは一番多くの献金をされた方のお名前から取られたもの。わたくしにはこの小さくて美しい国の平和への希望が託されているのよ」
アヴェロフはスルタンの暴政と言ったが、確かオスマン帝国のバルカン支配は民族による差別や非ムスリムの排除は基本的には無かったのだったっけ。彼女の話は自国の立場をやや美化しすぎているきらいはあるけど、それでも小国の独立を守るって大変なんだなあと思って聞いているとウォースパイトがわたしにの耳元に唇を近づけて小声で囁いた。
「ギリシャの独立は1832年のコンスタンティノープル条約で完全なものとなりました。わたくしたちグレートパワーズ...列強諸国とギリシャの旧宗主国であったオスマン帝国との間でこの条約が締結されたことが独立国家としての地位を確固なものとしたのですわ。アヴェロフが竣工した1911年当時のギリシャは大ギリシャ主義…他国内に居住するギリシャ系住民への保護を理由にエーゲ海沿岸部に領土を拡張していた時期にあたります。マイアドミラル」
わたしはウォースパイトに尋ねた。
「するとアヴェロフが呼ばれたのは祖国防衛ではなくて国家戦略としてエーゲ海の海上覇権を握るため…?」
もっとも当事者にとってはこの二つの違いは無いのかもしれないが。
わたしの言葉を聞いてうなずくウォースパイト。
「はい、その直前の希土戦争の経緯からそう考えて間違いは無いと思います。それと独立戦争中にはオスマン帝国に従っていると目されたイスラム教徒やユダヤ人をギリシャの革命家が虐殺したことも忘れてはなりません」
悲しいことですが…といってウォースパイトは目を閉じる。
確かに少し前のユーゴ紛争を見てもバルカン半島の...いやバルカン半島だけではないのだが...民族紛争の凄まじさはおいそれとコメントできるものでは無い。
他方、ヤウズを見ると彼女の故国オスマン帝国を悪の帝国と言わんばかりのアヴェロフの話を聞き、より一層凄まじい形相で睨み付けている。
そしてマレーヤが両手を何度も下に振ってここは押さえろと目でヤウズを説得している。一方でバーラムは自分は観客に徹すると言わんばかりに片頬杖をついてそれを眺めている。そしてヴァリアントは小声でステイステイと呟いている。席が少し離れているから気づかないだろうと考えているのだろうけどヤウズに聞こえても知らないぞ、ヴァリアント。
そんなイギリス艦たちの様子に気づいているのかいないのか、アヴェロフは話を続ける。
「オーホホホ! そしていよいよ我が栄光のエリとレムノスの海戦よ! このわたくしアヴェロフがトルコのポンコツ艦隊を完膚無きまでに打ち砕いたのよ!!」
「何だと!! 貴艦の暴言にはもう我慢できん!!」
「ヤウズ落ち着け!! アドミラルの前だぞ!!」
アヴェロフ、ヤウズ、マレーヤの三者三様の声が交錯するなかでわたしは考えた。これは...誰かが司会をやった方が良いな。ウォ―スパイトをちらと見たらマイアドミラル、お願いしますと目で言ってくる。確かにわたしがやるべきだろう。何かしくじったらウォ―スパイトと金剛がフォローしてくれると信じてわたしは口を開いた。
「コホン...ここからはボク...いやわたしが司会をやらせてもらう。いいねみんな?」
ウォ―スパイトが
「はい! 是非お願いしますわ! マイアドミラル」
金剛が
「うむ! ここは何といっても提督の出番じゃな!!」
とみんなに言い聞かせるようにことさら大きな声で言う。
マレーヤはホッとした顔をし、バーラムは面白そうな表情でわたしを見た。
わたしは話を続ける。
「それではエリとレムノスの海戦の話に入る前にその背景となったバルカン戦争...1912年からだったかな...についておさらいしたい。アヴェロフだけの話では無くて第一次世界大戦につながる重要な事件でもあるしね」
するとアヴェロフが
「この戦争はね、わたくしたちバルカン半島の小国がトルコ人の支配から独立するきっかけとなった重要な戦い。落ち目の帝国に青年トルコ人とかいう変な奴らがでてきてね。失った栄光を取り戻そうと悪あがきしてバルカン半島にトルコ語を押し付けてきたの。もちろんブルガリアやトルコ人の支配下にあったクレタ島のエリネスは立ち上がったわ。そして同じ正教を信仰する同胞たちを助けるためにわたしたちエラーバも参戦したのよオホホホ!!」
青年トルコ人といえば末期のオスマン帝国で憲政を導入しようとした活動家たちで、後のトルコ革命の立役者であるアタテュルクやエンヴェルパシャも加入していた重要な政治集団のはずだ。それを変な奴らと言い放つとはさすがギリシャの歴史的名艦、人間の政治家なんか小僧っ子扱いだなあ。
するとヤウズがまた立ち上がった。
「貴艦、アタテュルクを変な奴らとはなんだ! 取り消せ! そしてバルカン戦争はブルガリアをはじめとするバルカン諸国がベルリン会議で定められた国境線を越えたのがきっかけだ。我が方が伊土戦争で敗北した後に政変で混乱している隙を狙ったんだろう! われわれの圧政が原因じゃない!! そもそも帝国時代は強制的なトルコ化は政策としては実行していないんだぞ!! だからこそドイツから来たわたしやわたしのクルーもオスマン海軍に加われたんだ!!」
ヤウズ
二人の意見は完全に食い違っている。しかし西アジア史はわたしにとって完全に専門外だ。困ったあげくにわたしはウォ―スパイトに尋ねた。
「ウォ―スパイト、どう考える?」
ウォ―スパイトは片手の指をその細い顎に当てて考えながら話し始める。
「バルカン戦争は半島の民族主義の勃興、オスマン帝国内の政変、グレートパワーズの一員であるロシアの汎スラブ主義が絡み合っていて簡単には整理できない問題ですわ、マイアドミラル。ただこの時のオスマン帝国の政変を主導した『統一と進歩委員会(CUP)』...先ほどアヴェロフが青年トルコ人と呼んだ政治集団をより厳密に指すものですが...はその内部に様々な思想を持つグループを含んでいるとはいえ、帝国内の諸民族に等しく議会の議席を与えようとも考えていたようです。バルカン戦争の敗北から急進的なトルコ化が行われて第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺につながりますが、それは当初からの政策では無かったと存じております」
ウォースパイトの解説を聞いているうちにわたしは考えることがあった。
「うーん…民族主義の大義がいつの間にか自国の領土拡張に変わってしまったバルカン諸国、国内の政争にかまけてバルカン半島の民族主義への対処ができなかったオスマン帝国、パワーゲームの道具にした列強諸国…わたしは誰が悪いという言い方はしたくないのだが…この戦争はどのプレイヤーにも少しずつ責任があるようだね」
実際にバルカン諸国が団結してオスマン帝国と戦ったのは第一次バルカン戦争で、その直後の第二次バルカン戦争ではマケドニアの帰属を巡ってバルカン諸国同士が相討つことになった。
ウォースパイトは真剣な表情でうなずいていった。
「その通りですわ、マイアドミラル。この戦争では我がグレートブリテンはバルカン半島の現状維持を望みましたが、ロシアの南下を防ごうとして中途半端な介入をしたことが戦争の拡大になったことは否定できません。オスマン帝国の領土保全をうたいながらギリシャに士官を派遣して海軍力の強化を助けました。二枚舌の外交と言われても仕方ありませんわ」
わたしとウォースパイトの発言を聞いてアヴェロフもヤウズも不満があるようだが黙ってしまった。トルコもギリシャもイギリスには恨みがある一方で受けてきた恩も大きいのだ。
このあたりが頃合いだと考えたらしい金剛が大きな声で発言した。
「では、次の話にうつるかの」
するとアヴェロフがさらに大きな声を張り上げた。
「もう陸の政治のこ難しい話はもうたくさん! いよいよわたくしが大活躍したエリとレムノスの海戦よ!! 小さな美しい国を小さな強い戦艦が守った物語よ!!」
時折感情的になるとはいえ、故国の歴史を冷静に語ることのできるヤウズとは違い、アヴェロフの人間体はロマン主義史観で自らの歴史を抒情詩のように捉えているようだ。ロマン主義といえばさっきアヴェロフが言っていたサッフォーが愛した常夏の島々ってバイロンの英詩The Isles of Greeceの冒頭に似た文句があったような。そんな彼女にとっては複雑な要素が絡む国際政治の話題は退屈だったらしい。
今までアヴェロフの話を何も言わずに黙って聞いていたバーラムが
「国は小さくても声はバスボイスなのね」
とチクリと皮肉をこめて言っても
アヴェロフは
「国は小さくても意気は高し! 例え小さな三段櫂船でも西の海の果てまで行って見せるわ!」
と意に介さない。
確かに現代でもギリシャの海運業は世界有数だ。一時期は国家財政の低迷が話題になったが、それでもギリシャ人がヨーロッパの物流を支えているとも言われる。アヴェロフの自信はそんなところから来ているのかも知れない。
そしてアヴェロフはその栄光の戦史を語り始める。
「さあ! 時は1912年ユリウス暦の12月3日! ところはダーダネルス海峡河口付近! 我らがナヴァコス・クントゥリオティス提督は!!」
ロマン主義史観というより釈台の講談師だ。横に座っていたダンケルクの万年筆を取って頭上で振り回している。ダンケルクは一瞬驚いたのちにちょっと嫌な顔をしたがアヴェロフの艦歴に敬意を表して何も言わないでいる。
そしてアヴェロフが指をパチンと鳴らすと空中にスクリーンが出現する。その中に映し出されたのはギリシャの伝統的な影絵芝居であるカラギオジス風の人形だった。海軍軍人と思われる口髭を生やした人形がエリの海戦のギリシャ艦隊総司令官で後にギリシャ共和国の大統領にも就任したパブロス・クンドゥリオティスだろう。
パブロス・クンドゥリオティス(Pavlos Kountouriotis, Παύλος Κουντουριώτης,1855-1935)
「レムノス島を占領したナヴァコス・クンドゥリオティスは! ダーダネルス海峡の奥に閉じこもるトルコ艦隊の総指揮官に挑戦状を送ったの! 我々はテネドス島を占領しました...トルコ艦隊のおいでをお待ちしています...あなた方に石炭が無いのなら...こちらの分をお譲りいたします...という電報をね! そしてついに出てきた三日月の艦隊!!」
アヴェロフはダンケルクの万年筆を講釈師の張り扇のようにテーブルに叩きつけようとしたが、他人からの借り物だということを思い出したのか辛うじて寸前で止めた。ダンケルクはその隙に万年筆をひったくるようにして自分の手元に戻す。戦艦だった時代に自分の艦長が愛用していたものと同じウォーターマン ゴールドペンシルだという。フランスで製造が開始された初期のモデルを苦労して入手したらしい。そりゃあ壊されたくないよなあ。細い万年筆を身体全体で庇うかのように抱え込んでいる。
アヴェロフの語りはいよいよ佳境に入る。彼女が空中に写した人形劇ではオスマン海軍の司令らしき人物が拳骨を振り上げて何やら命令を下している。そのキャラクターデザインはまさしくギリシャの人形芝居でトリックスターとして有名なカラギオジスそのものである。
https://www.explorerides.com/karagiozis-and-the-legacy-of-greek-shadow-theatre/
そういえばこの人形芝居はトルコでもカラギョズとして有名なんだよな。またヤウズがカンカンになるなと思ってトルコ艦の席を見たら彼女はいなかった。気を落ち着かせるために別室の休憩室に行ったようだ
「さあ! ダーダネルス海峡を出ようとする三日月の帝国の艦隊! 我らが戦う海軍は15年前の希土戦争の雪辱戦を果たさんと満を持して迎え撃つ! 12月3日午前8時20分! 無電EX EX EX!! われ敵艦隊を発見せり! 55分! ナヴァコス・クンドゥリオティスは全艦にあの有名な信号を送る!! 神の力! 国王の祝福! そして正義の名のもとに! 勝利を確信してほとばしる力とともに征け!!」
アヴェロフは片手を振り上げたが何も持っていないので具合が悪そうだ。横にいたダンケルクが仕方ないという顔をして、バッグの中から雑誌を取り出しそれを丸めてアヴェロフに渡す。彼女は片手を軽く上げて礼を返すと丸められた雑誌をパン! と勢いよくテーブルに叩きつけた。
そして影絵芝居にはアップリケのような船が複数映し出される。ギリシャとトルコの艦隊だろう。
「開戦は午前9時、我らがナヴァコス・ クンドゥリオティス は戦闘開始を宣言す! 22分、トルコ側の砲撃が始まった! トルコ人も敵ながら天晴れ! このわたくしに砲弾を何発も命中させたわ! このままでは埒があかないと考えたナヴァコス・クンドゥリオティスはある決断を下す!」
ギリシャ・オスマンのアップリケ艦隊からアップリケの砲弾が互いに飛び交う。アヴェロフは何度も何度も丸まった雑誌をテーブルに叩きつける。
「ナヴァコス・クンドゥリオティスの作戦に従ってわたくしは敵艦隊を引き付けるためにその快速を生かして単独行に出た! わたしは必ずみんなのもとに帰ってくると手を振る仲間たちに笑顔で答えたの!」
クンドゥリオティス提督の人形とアヴェロフらしき船のアップリケをオスマン艦隊が追いかける。途中でアップリケのアヴェロフはくるっと向きを変える。アップリケのオスマン艦隊にアップリケのギリシャ艦隊が後ろから近づいてくる。
そしてアヴェロフは丸めた雑誌で机をバンバンたたく。
「35分!海戦の最終局面よ!ナヴァコス・クンドゥリオティスの作戦は見事に成功! トルコ人どもは前方のわたくしと後方の仲間たちから挟み撃ちよ! トルコ人どもに飛んで行く砲弾! 50分! こらえきれなくなったバルバロッサはじめ敵艦隊はついに方向を変えて戦場から脱出する! 10時17分! 我が艦隊は追撃を中止して戦闘終了! かくしてエーゲ海は古代以来再び我らが海に! 英語で言うならメイク・グリーク・グレートアゲインよ!」
オスマン艦隊のカラギオジス提督人形が頭を抱えながら這う這うの体で逃げ、それにアップリケのオスマン艦隊がついて行って舞台の袖に消えて幕が下りた。流れる音楽はギリシャ伝統の民族音楽だろうがトルコのそれと微妙に似ているのが何とも言えない。カラギョズとカラギオジスの人形芝居が共通しているように両国の文化は互いに影響を受けているのだ。
退室したヤウズがいつの間にか自分の席に戻っていた。彼女が挙手して発言した。
「アヴェロフ、わたしはオスマン帝国の艦だが、この戦争での貴艦の勇戦には心から敬意を表したい。その上で貴艦の話にいくつか訂正したい箇所がある」
先ほどと違って冷静だ。彼女の机を見るとコンパクト・シーシャが置いてあるのに気づいた。どうやら休憩室で水タバコを吸って気を落ち着かせてきたらしい。コンパクト・シーシャは大型の水タバコとは違って喫煙時間が短くてすむのだ。
ヤウズは口を開いた。
「オルミラル・クイントリオスが我が方の艦隊司令官タヒル・ベイに挑発的な電報を発信したことは他国でもよく知られた話だ。しかし、それで侮辱されたと考えて艦隊を出撃させたという貴艦の話は単純化がすぎる」
ほう…わたしもアヴェロフの話はインパクトを狙って色々なところを端折っているんじゃないかと考えていたところだ。わたしは口を開きかけたアヴェロフを制してヤウズに続けるように合図する。
ヤウズはさらに話を続ける。
「そもそもユナン…ギリシャの艦隊から電報が発信されたのは10月24日、我がトゥルキェ艦隊が出撃したのはの12月16日、二ヶ月近くの間が空いているんだぞ。両者がつながっているはずがないじゃないか」
ヤウズはグレゴリオ曆で話しているので、当時のギリシャの習慣に従ってユリウス暦で話しているアヴェロフとは日付が異なる。ややこしい。もっとも彼女たちはその能力の一端を使って瞬時に暗算しているので迷わないようだ。
しかし、アヴェロフの話では挑戦状を送られてすぐにトルコ艦隊が出撃したといっているので、まるでギリシャ側の見え透いた挑発に引っ掛かったようだった。しかし、ヤウズの話を聞くと確かにおかしい。
ヤウズの話は続く。
「真相はエーゲ海を制圧したギリシャ海軍がブルガリア兵などの陸兵をバルカン半島の戦線に上陸させていたので我々もそれを押さえるために艦隊を出さざるを得なかったのだ。それに伴って艦隊司令官も慎重派タミル・ベイから主戦派のラミズ・ベイに交代した」
そしてヤウズが語気を強める。
「そして貴艦たちの陸兵輸送は12月3日にロンドンでバルカン戦争の和平交渉が始まってからも続けられた! だから我々は16日に出撃せざるを得なかったのだ!」
なるほど、騎士物語のように侮辱によって傷つけられた名誉を挽回するためではなくて、陸軍の作戦や政治状況も考慮した上での理性的な判断だったのだ。結果的に敗北したとはいえ、この時期のオスマン帝国は近代化が進んでいてそれがトルコ革命につながったということが改めてわかる。
ちょっと旗色が悪くなったアヴェロフが言い返す。
「な…何よ。わたくしたちはその時の休戦には反対してたんだから...それにそちらだってバルカン諸国との休戦交渉の最中に艦隊を黒海からダーダネルス海峡に集結させていたじゃない…わたくしたちばかりが非難される覚えは無いわ」
ヤウズがうなづきながら話す。
「そうだ。きれいごとではすまぬことをやっているのはお互い同じ。貴艦はオスマン帝国のギリシャへの暴政を強調するがギリシャ側もトリポリツァやナヴァリノで民間人虐殺を行っているではないか。しかし貴国は自らを古代のギリシャになぞらえ、野蛮なアジアの専制国家に抗する文明の発祥地と言うイメージを宣伝してヨーロッパの世論を動かし、莫大な援助を勝ち得た。小国の生き残る知恵とやらにはこのヤウズ・スルタン・セリムも感嘆の極みと言うしかない」
さらにヤウズは畳み掛けるように言う。
「だが、わたしたちの時代では貴国には古代文明なんてアクロポリスの遺跡以外には一片も残っていないのだ! 先ほど貴艦が得意になって映していた人形芝居を見ろ。その起源には諸説あれども貴国にはトゥルキェを通じて入ったものじゃないか。カラギオジスだって語源はトゥルキェの言葉で黒い目を意味するカラギョズ(Kara+göz)だ」
わたしも思い出したことがあって発言した。
「近世から近代に移る時期のバルカン半島の諸集団の帰属は複合的だね。オスマン帝国が宗教教団による間接統治を採用していたことと、近世にはまだ民族という集団が形成過渡期だったこともあって、オスマントルコ語を母語とする正教徒も存在した。近代初期にもその状況は受け継がれたと思う。20世紀ギリシャの有名な歴史家パブロス・カロリディスはオスマントルコ語が母語であり、オスマン帝国内で正教の高等教育を受けてヨーロッパに留学し、その後にはギリシャに移ってアテネ大学で歴史学を教えた経歴のはずだ」
パブロス・カロリディス(Pavlos Karolidis, Παύλος Καρολίδης, 1849-1930)
ヤウズが我が意を得たようにうなづく。
「うん。オスマン帝国には多くのユナン...ギリシャ人のための教育機関があった。中にもオーソドクスの総主教所在地であるイスタンブルやイズミルにあった宗教校が有名だった。ギリシャ軍に加わる卒業生もいたという。先ほどのパブロス・カロリディスは若い頃にはオスマン帝国議会の議員を務めていた事をわたしは強調したい。オスマン帝国はギリシャに多くの人材を供給しているんだ。その関係を無視してヨーロッパとギリシャの繋がりのみを強調する貴艦の言い分はあまりにも一方的だよ。アヴェロフ」
「ウ…ウソよ! ! わ...わたくしたちは古代ギリシャ文明の正統なる後継者よ。サッフォーの情熱をその魂に受け継いでいるのよ。ウォースパイト、他のヨーロッパ艦のみなさん、ギリシャはヨーロッパの一員よ! わたくしを信じてちょうだい!」
さすがに一国の旗艦を努めただけあって戦略眼はもっているようだ。古代ギリシャの後継者という自己認識で国民をまとめ、ヨーロッパ文明の発祥地として西欧諸国の支援を引き出した自国の国家戦略をよく理解している。もちろん他にはロシアやバルカン諸国といった正教諸国との関係も重要なのだがこの会議室には英・日・伊・仏の艦しかいないのでヨーロッパ艦のみに支援を呼び掛けている。
「わたしたち日本艦は眼中に無いようね」
霧島が小声で榛名に呟く。榛名が人差し指を口にあててシーッとさらに小声で呟く。比叡がジロリと二人を見る。二人は縮こまったようになった。
そして名指しされたウォースバイトは困った顔をしている。わたしも困った。一人の人間をこれ以上追い詰めることは本意ではない。ここは話題を変えるか。わたしは発言した。
「エリの海戦についてはわたしはまだ十分理解できていない。その後に起こったレムノスの海戦も合わせて誰か説明してくれないか」
ウォ―スパイトが慌てて空中にスクリーンを映し出す。エリの海戦の合戦図だ。ウォ―スパイトが説明する。
「確かにアヴェロフの映した子ども向けのパペット・カトゥーン...あら失礼、アヴェロフの説明だけではわかりにくいので補足を加える必要がありますわ。今、映したエリの海戦のマップはカッサヴェッティが作成したものです。マイアドミラル」
Dimitrios John Cassavetti, Hellas and the Balkan wars, pp. 48-49.
海戦に参加した艦は、ギリシャ側がアヴェロフの他にヒドラ級装甲艦のヒドラ、プサラ、スペツァイ(Spetzai)、アエトス級駆逐艦のアエトス、イエラックス、パンサー、レオン。オスマン艦隊は戦艦バルバロス・ハイレッディン、トルグート・レイス、装甲コルベットのアーサール・テヴフィク 、メスディエ、防護巡洋艦 メジディイエ 、駆逐艦 ムアヴェネティ・ミッリイェ、ヤーディギャール・ミッレト、タソス、バスラである。オスマン艦隊もヨーロッパで建造された艦艇を有している。アヴェロフの言うポンコツ艦隊は言い過ぎと言うべきだろう。
金剛は苦笑しながら「この時代ではアヴェロフは新型じゃが、ヒドラ級もオスマン側と同世代の艦じゃぞ」 ダンケルクは「ひどい言い方ね」とムッとしている。
マップを見るとギリシャ艦隊とダーダネルス海峡を出てきたトルコ艦隊が砲撃を開始したのが9時16分。双方が単縦陣を組んで北に進む。この間に自艦の砲を用いて撃ちあいをやっているのだろう。そして9時30分にアヴェロフが単艦で突出して20ノットのスピードでオスマン艦隊の前方に出ようとする。海戦の決定的瞬間は9時52分。アヴェロフに先頭を抑えられたオスマン艦隊は方向転換してダーダネルス海峡に撤退する。
ウォ―スパイトがわたしに解説する。スクリーンにパワーポイントのような映像が映し出される。そこには以下のような箇条書きが書かれている。
エリ海戦のギリシャ側の勝因
1. 機動性の活用:アヴェロフの速力(23ノット)でオスマン艦隊(改装後のメスディエで17ノット)を翻弄。
2. 統制された砲撃:単縦陣で火力を集中、敵旗艦を牽制。
3. 地形の利用:ダーダネルス海峡の狭さを活かし、敵の動きを制限。
4. 慎重な追撃:クントゥリオティス提督の判断で、損害を抑えつつエーゲ海の制海権を確保。
オスマン側の敗因:
1. 訓練不足:乗員の練度が低く、艦隊の連携が不十分。
2. 整備不良:主力艦のエンジンが老朽化、予算不足で修理不足。
3. 戦略的制約:陸兵輸送を優先し、積極的な海戦を避けた。
ウォ―スパイトはこれに説明を加える。
「これらの勝因を現実の結果に結びつけたアドミラル・ クンドゥリオティスの手腕は非常に優れたものですわ。後にギリシャ第二共和政で大統領を二期も務めたのもうなずけます」
ウォ―スパイト
その後にウォースパイトはヤウズのほうにちらりと視線を向ける。
「ただオスマン側の敗因はもう少し複雑です。主力艦であるバルバロス・ハイレッディン、トルグート・レイスはドイツのブランデンブルク級戦艦をオスマン帝国が購入したものです。速力こそ16ノットでアヴェロフの20ノットに劣るものですが、主砲はクルップ社製の11インチ砲を6門搭載しており、アヴェロフのエルズウィック社製9.2インチ砲4門よりも攻撃力において優れていました。ですが乗員は訓練不足の上にエンジンも満足な整備も受けていなかったのでその性能を出し切れませんでした。その背景には慢性的な海軍の予算不足があったようです。今の説明でどうかしら?ヤウズ?」
ヤウズがうなずく。
「ああ、カッサヴェッティの著書は全体的にはギリシア寄りだ。だが海戦の経過についてはトゥルキエの戦史家ブユクトグルルの著書と比べてもほぼ同じだ。時刻の細かい違いはあるが、それはここでは問題にしない」
ヤウズが指を鳴らして空中にスクリーンを出現させる。そこに映し出されるのはトルコ語の学術書のPDFファイルだ。 Afif Büyüktuğrul著『Osmanlı Deniz Harp Tarihi』Cilt 4...第4巻だろう...の234頁が映し出されている。そのページにはカッサヴェッティによるエリの海戦図と似た地図が描かれている。その地図のキャプションには....İmroz Deniz Muharebesi....? ヤウズが「イムロズ島の戦い」エリの海戦をトルコではこう呼んでいると補足してくれる。その地図を見ると運命の9時52分が10時になっている他は大きな違いはない。
「予算に関してはオスマン帝国末期で政局が混乱していた上に我が帝国は内陸に多くの領土を持っていたので陸軍の維持が重要な問題だった。つまりはランドパワーを優先して海軍の予算が後回しになったということだ。これは海戦に参加したこちらの艦から聞いたのだがラミズ・ベイも陸兵の輸送を考えて不利になった時点でそうそうに撤退を決断したそうだ」
ドイツで作られたヤウズがイスタンブルに来て、ドイツ人のクルーとともにオスマン海軍に加わったのはこの海戦の二年後だったか。
ウォ―スパイトはヤウズにうなずき返し、艦艇の維持には費用がかかるので予算の獲得はどこの国も深刻な問題ですわと呟いた。
そしてウォ―スパイトはさらにこの海戦の戦略的な意義にまで解説を広げる。
「この海戦ではアヴェロフの機動力を活用した戦術が注目されています。ですが、ギリシャ側も損害を受けており、ガリポリやアナトリア沿岸からの砲撃もあって追撃が不完全なものに終わりました。オスマン艦隊も艦艇の損失は無かったのでギリシャ側の一方的な勝利と結論づけることはできません。それはバルカン戦争全体で見るならばオスマン艦隊が戦略的重要地に陸兵を輸送する脅威が依然として残ったということです。決着は次のレムノスの海戦に持ち越されたのですわ。マイアドミラル」
すると自己の形勢有利と見たのかアヴェロフが元気を取り戻す。
「オーホホホ! 誰が何と言おうとエリ…ヘラス沖の海戦で勝ったのはエラーバ! 大活躍したのはこのわたしアヴェロフなのよ! さあ!次はレムノスの海戦よ!」
さらにアヴェロフの煽りがエスカレートしてさらにヤウズが怒り狂わないうちにわたしは発言した。
「では小休止しようか」
アヴェロフが盛大にずっこけるのが見えた。彼女には申し訳ないが一休みして時間を置けば多少は落ち着くかも知れない。それにわたしも少々疲れた。話がレムノスの海戦に入る前に一息入れたい。先はまだ長そうだし。
再び会議は小休止に入った(続く)。
金剛「いやはや…今回は強烈じゃったの。あの二人の鍔迫り合いは提督には少々刺激が強すぎたようじゃ」
ウォースパイト「でも仲直りしてもらいたいわ。ギリシャもトルコもグレートブリテンの大切なジュニアパートナーですもの」
金剛「相変わらずもってまわったような言い方をするのう。ハッキリ子分と言うたらどうじゃ」
マレーヤ「いや。こういうことはハッキリさせたら却ってダメだ。お前は約束を破るなよと釘をさすよりもお互いにフェアプレイで行こうと言うのが外交の知恵だ」
バーラム「そうよ。そういう外交の知恵があってこそ日英同盟は長続きしたんだから」
金剛「…ん?…まあそういうおぬしらのファニーなジョークはそろそろ他の国も気づいておるからの。使う時と場所には気を付けたほうが良いぞ」
ヴァリアント「へへへー金剛もあたしたちの事がわかってるじゃん」
ウォースパイト「次回は引き続き『主力艦会議』読んで楽しんでくださると嬉しいわ」
金剛「次回で完結させたいものじゃのう」