表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/26

26. 青島旅情ー懐かしさは苦さに変わる

青島旅情解説

時間 現代、我々の歴史が影のように滲み出す季節。

場所 異界の中華民国・青島の中国人街


人物

わたし(異界の艦隊のアドミラルとなった高齢ポスドク、日本人)

金剛 榛名 比叡(日本艦)

雪風(日本艦だが中華民国艦としての艦歴も持つ)

逸仙(穏やかな笑みを浮かべつつ、歴史の痛みを胸に隠す中華民国艦)

喫茶店の主人や客たち。そして日本人を憎む中国人女剣士の紅娘子。



異界の東シナ海で演習中に海の怪物キレイン・クロインに遭遇した我が連合艦隊。


イギリス軽巡オライオンの助けも借りて見事、怪獣を撃ち取って、一路演習航海の目的地である青島に向かった。(前回のあらすじ)


青島は中国大陸山東半島の付け根にある都市の名前だ。


日清戦争後にドイツが租借してかの国の東洋艦隊の母港になったが、第一次大戦で日本が占領した後、ワシントン軍縮会議で中華民国に変換されたのは歴史の教科書に記される通り。


もっともこれは人間界の話であるが、この異界にも青島があるというのだ。



「おっ! 海の水が黄色に染まってきたの。もう黄海に入ったようじゃ、提督、あと少しで青島に到着するぞ」


わたしに声をかけたのは金剛。現在、わたしは戦艦金剛の艦橋に居る。



「水平線の向こうまで黄色に染まっているのだね。異界の海も人間界と同じなのは不思議だね」


と、わたしは金剛に答える。この異界でも黄河は流れているのだろうか?


「でも、今日は黄海特有の濃霧が出てこないのはようございました」


わたしに話しかけるのは金剛の妹艦である比叡。今回の演習では金剛とともに統監艦を努めている。


しばらく進むと艦首の方向に二つの島が見える。


その島の灯台には青天白日旗が翻っていた。日本艦が接近するとスルスルと旗が降りる。


続いて日本艦も軍艦旗を竿頭から少し降ろして答礼する。


わたしは驚いて金剛に尋ねる。


「あっ! あれは何だい?」


「あれは何だと言ってもあれは中華民国の国旗じゃ。前から思っていたが、おぬしは文学博士のくせに妙なところで常識が無いの」


「いや、僕だってそれはわかる。聞きたいのは何で旗が降りるんだ」


「中華民国と我ら大日本帝国は国際法上、対等な国家じゃ。それ故に公海ですれ違ったら互いの旗を降ろして礼を交わさなければならぬ」


「わたしたち帝国海軍が青島港で投錨できるのも、両国が結んだ条約に定められているからなのです。現実には国家間の力関係というものがありますが、条約には無い要求を無理押しすることはできません。良く言われている半植民地という言い方は正確ではありませんわ」


例によって金剛の説明を補足する比叡。そうだ、彼女たちは海軍の戦艦なので国際法の知識もあるのだった。


…では無くて!!


「それは人間界、そして大雑把にいうと1949年以前の国際情勢だ。 なぜこの異界でも中華民国の国旗が掲揚されているんだ!?」


すると金剛は、ああその事かという顔をして…


「提督、これには複雑な事情があってな。話せば長くなる。じゃが、今からは入港作業で忙しくなる。のちほど説明させてもらうとしよう」


そろそろ青島の市街が見えてきた。双眼鏡で覗くと目に入るのはヨーロッパ風の赤屋根の家並みだ。


そうだ、ここはドイツの租借地になった時にヨーロッパ風の市街が建設されたのだった。


海軍士官の回顧録にも、青島港に入港したところ、中国様式の家が見えないので意外だったような事が書かれていたっけ(堀元美『造船士官の回想』上巻、第二章「黄海の霧」)


…おっと、ここは人間の世界ではなかったのだった。


だんだんこの異界と人間の歴史世界との区別が自分の外でも内でも曖昧になってきたようだ。


艦隊は黄色の海を押し分けながら進む。


そして陽がもうすぐ中天に昇ろうとする頃、青島市街を正面に見る外港に投錨した。


桟橋を下ると美しい防波堤がある


「提督、これはカイザア・ヰルヘルム防波堤といってな、ドイツが支配していた頃の名残りなのじゃ」


観光ガイドよろしく解説してくれる金剛。


わたしたちはホーエンツォレルン街を歩いて税関に向かう。


ワイワイガヤガヤ…駆逐艦たちが騒がしい。


演習と思いがけぬ実戦が終わった後に、ようやく上陸したので解放感が満ちているのだ。


「あー。これでようやく羽根を伸ばせるわ」


「ロシア料理やシナ料理のお店に行きたーい!」


「はーい! みんなきちんと整列するのよー!」


軍艦旗を持った衣笠がツアーの添乗員か修学旅行の教師よろしく皆を誘導する。


「ここはもう我が国の租借地では無いからね! お行儀よくすること!」


衣笠の注意に山城が付け加える。


「わたしたちは『あの』だらしないシナ兵とは違うのよ! 外地でも規律正しくしなさい!」


「山城さん…それはちょっと言い過ぎなのでは…」


「おだまり衣笠! 事実を事実と言わないからわたしたちは戦争で負けたのよ! 」


…艦隊乗組水兵の市中における紀律ある態度は、支那兵士の無秩序と外国兵士の節制鮮き(すくな)とに比し、格段の差あることを従来の行動に依り、支那人間にも諒解せられ居りし...

(「第2艦隊青島芝罘回航状況」大正十五年四月十一日、青島総領事江戸千太郎より外務大臣幣原喜重郎へ。JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04015138000、公文備考 艦船7 巻32(防衛省防衛研究所))※現代カナ遣いと読点は引用者。


確かに戦前の日本で、規律正しい日本兵と無秩序な中華民国兵の対比は、盛んに言われた言説であるが…そのイメージの反動のように、戦後になって八路軍は軍紀厳正だという賛美が盛んになる。


そう考えていると金剛がわたしに声をかける。


「提督、夕方にプリンツ・ハインリヒ・ホテルで我らの歓迎会があるがそれまでは自由時間じゃ」


わたしは再び金剛の言葉に引っ掛かった。


「歓迎会? 僕らを誰が歓迎するんだい? やはりこの異界には中華民国が存在しているんじゃないのか?」


よく見ると向こうのほうでは比叡と霧島が入関手続きをしている。


だが、係員はおらずQRコードのスキャンで行っている。人の意志があるような無いような。どことなく不気味である。


金剛は言葉を濁して

「ま、それはおいおい話そう。ところで提督は昼食に何が食べたい? 連合艦隊の休息所でもそのあたりの店でも良いぞ」


何やら話を反らされたような気がしたが


「それじゃあ中華料理が食べたいな。せっかく青島に来たのだから」


「ふむ…歓迎会では夕食が出るが連中は見栄っ張りだから洋食のようにこじゃれた料理しか出さぬかも知れぬな。よし、シナ人街でこれぞシナ料理! という料理を食べるか」


金剛は駆逐艦と一緒にいる雪風を手招きする。


「あっ! 司令と金剛さんが呼んでいる! ごめんね、みんなと一緒に遊びに行けないの」


「えー。雪風なら中国艦だからあたしらの入れないところに連れて行ってもらえると思ってたのに」


「ほんとぅに! ごめんねっ!」


雪風はこちらに走ってきたが、途中で何か思いついたのか、メモ帳にサラサラと記して駆逐艦たちにわたした。


「これ、介紹信(紹介状)! ここのお店に行ってこの手紙を見せれば点心ぐらいはサービスしてもらえるから!」


「さすが! よっ! 中華民国海軍総旗艦!」


かくして一行は別れることになった。


比叡と霧島は申し訳ないが留守番。巡洋艦と駆逐艦は自由行動。観閲武艦の外国艦は友誼商店で買い物をしたいと言うので扶桑・山城とジャーヴィスが付き添っていく。


そしてわたしの趣味のような昼食には金剛、榛名と雪風が護衛してくれることになった。


挿絵(By みてみん)

雪風「それじゃあ、中国人街は雪風がご案内しますねっ」


挿絵(By みてみん)

榛名「では参りましょうか、提督」



チョコレート色のレンガの町並みが続く旧ドイツ人街。


「ここはビスマルク街じゃな。日本が占領した後に地名を日本式に変えたのじゃが、洋館の街並みには浜松町や静岡町よりもやはりドイツ語が似合うのう」


金剛が解説してくれる。


洋館のファサードに眼をやる。あの奥には人が住んでいるのだろうか?


ここで時間を潰すのも悪くなかったかなあ…旅行にありがちなことを考えていると


「そろそろ中国人街ですよっ!」


雪風が声をかける。後半生を中国艦として送ったためなのか、どことなく嬉しそうだ。


すると榛名が懐にしまったものを確かめるような仕草をした。


「最近、治安が悪くなっているという情報があるが、市内は大丈夫じゃろう」


「ええ、何も起きないのに越したことはありませんが、万が一の用心ですわ。金剛お姉さま」


そしてゲートを出ると…


そこには中国が広がっていた。


油の匂い、花椒の匂い、密集する人々が発する声声声…


わたしの覚えている中国がそこにあった。懐かしさに思わず涙が出そうになる。


学部生から大学院博士後期課程にかけての時期だ。あの頃は中国に何度も調査旅行に出かけ、現地で撮影した写真資料や購入した図書を使って論文を書いた。年齢的にはトウが立っていたがあれはわたしの青春だった。


「司令、お昼はどんなお店で食べたいですかっ?」


雪風が聞いてくる。


「ああ、ボクは昔、何回か中国に調査旅行に出かけたことがあってね。その旅行ではバスを降りて宿に荷物を預けたら、近くの小さな食堂に入るのが楽しみだった。中国の人の日常に多少なりともふれることができるような気がしてね。そんな店はないかな?」


「んー…そういうことなら…そうだ、茶館に行きましょう! あそこなら色んな人が来てはおしゃべりしていますから、中国の人の暮らしをのぞけますよっ」


茶館か。日本で言うところの喫茶店だが、日本の喫茶店と同じく軽食も食べられる。


日本の喫茶店と違うところは、あちらはお湯をタダでもらえるので茶葉を買えば何時間でも飲んで粘れるのだ。


わたしも中国に旅行した時はよく入った。


例えば成都の交通飯店の側には西洋風の茶館…カフェと読んだほうがいいのか…があって、剥き身のリンゴやオレンジが豪快に入っているフルーツティーを頼んだことを覚えている。今はもう無いかも知れない。


そして天府広場の書店市で買った書籍をめくりながら豊かな時間を過ごしたものだ。


さて、雪風はわたしたちを一見の茶館の前に連れていく。


茶館の店名は「裕泰大茶館」。何やら老舎の戯曲『茶館』に出てくるような雰囲気である。


雪風は先に店の中に入って店主らしき人物と何か話している。


店主が頷くと雪風はわたしたちを中に招き入れた。


四人がけのテーブルに座って店内を見渡す。


すると、二人の紳士が鳥かごを持ち寄って、それぞれの飼育した小鳥を自慢しあっている。


書物で読んだことのある、古き良き?時代の北京を彷彿とさせる趣味じゃないか。この店の客層は悪くないらしい。


店主がお茶の急須と湯呑みを持ってくる。一杯目を店主自ら淹れてくれるのはサービスらしい。


かなりの量の茶葉が急須から湯呑みにこぼれ落ちたが、銀色の針のような葉で、それが器の中で美しく映える。


そのお茶をゆっくりと飲む。薄すぎず濃すぎずの緑茶の味が心地よく、旅行の疲れが取れていく。


「まあ、美味しい」


自ら抹茶を点てる榛名がそう言うのだから、本当に淹れ方が上手いのだろう。


しばらくすると店主が食事を運んできた。ホカホカと湯気が出ている麺だ。


興味深く眺める三人に雪風が紹介する。


「このお店の爛肉面は有名なんですよっ!」


雪風の説明によれば醤油と酒で煮込んだ豚肉が具材のメインらしい。


中国の肉入りラーメンと言えば、日本にも入ってきた蘭州牛肉麺がある。


わたしが以前に蘭州で食べた牛肉面は辣椒油がたっぷり入った激辛だったが、この店の爛肉面の味付けはあっさりとしている。


そうだ、北京の宮廷料理の源流とも言われる山東料理の味つけだ。


わたしは日本の京都のある老舗中華料理店を思い出した。


山東料理の流れを組むその店のスープとよく似た味だ。


異国ならぬ異界でも、若い頃に親しんだ場所とのつながりを見つけて懐かしい気持ちになった。


さて、食欲を満たして落ち着くと店内を観察する余裕ができる。


良く見ると店の中のあちこちに「莫談国事」の貼り紙がある。


「あれは何だい? 雪風」


「『国事を談ずるなかれ』このお店では政治のお話は禁止なんですよっ」


…ますます老舎の『茶館』じゃないか。あの戯曲の第一幕は戊戌政変、第二幕は北洋軍閥政権、第三幕は第二次大戦後の国民党の腐敗。時代とともに政情が厳しくなるにつれて、茶館の中の貼り紙に書かれている「莫談国事」の文字も大きくなって行ったのだ。


「まあ、どこの国でも庶民は床屋政談が大好きなものじゃ。じゃが物言えば唇寒しともいう。事と次第によっては店にまで類が及ぶからの」


「嫌ですよ、金剛さん。浮き世のことを忘れてお茶を楽しみましょうっていうお店の心配りなんですっアハハ」


金剛の勘繰りを乾いた声で笑い飛ばす雪風。


しかし、その額には冷や汗が一筋…


そういえば、雪風が台湾で丹陽として送った艦歴は、国民党による軍事独裁で外省人が本省人を押さえつけた時期にあたる。確か老舎『茶館』も第三幕で国民党の憲兵が店に押し入って悲劇的なラストを迎えたはずだ。


雪風も色々と人には言えぬ苦労を…そう考えていると、甲高い声がわたしの耳を直撃した。


「英法聯軍燒了圓明園!跟洋人干去!去冲锋打仗吧!」


一人の茶客が片手を振り上げて叫んでいる。


わたしも中国語...漢語の普通語はかじったことがあるが、ネイティブの早口は聞き取れない。


雪風と眼を合わせて通訳を頼むと


「んー…我が国の有名な庭園が火事で丸焼けになって残念だ! って言ってるんですっ」


「そうおっしゃってるの? やっぱり火事って怖いわね」


口元に手を当てて呟く榛名


するとみすぼらしい麻の道袍を着た道士がふらりと入ってきて


「大英帝国的烟,日本的"白面儿",两大强国侍候着我一个人,这点福气还小嗎?」


と、嬉しそうに店主にしゃべっている。


「あの人は何を喜んでいるんだい?」


と、わたしは雪風に聞く。


「んーんー...イギリスの煙草と日本の白い粉...違った、うどん粉っ。二つの大国の名産品を手に入れることができて私は幸せ...って言っているんですっ」


「イギリスの煙草というとブリティッシュ-アメリカン社の煙草かの?それなら有名だからわかるわい。しかし、本邦のうどん粉が好いなんて変わった御仁じゃな。やや?シガレットにうどん粉を詰め込んでおるぞ」


「でもお姉さま、あの方はとても幸せそうに吸っておられますわ。夢幻の世界にいらっしゃるような」


その時、店の中に異形の人間が入ってきた。女性だ。


旗袍(チャイナドレス)褲子(パンツ)を合わせた活動的な服装。背中には長剣を背負っている。


険しい顔をしているが20歳少し前ぐらいの年齢だろうか。


特筆すべきはその女性の服の色で、上から下まで目に鮮やかな…そう、赤でもピンクでもなくてまさにホンというべき色だ。


茶客は息を飲んだように静まった。うどん粉氏だけは自分の世界にトリップ…いや入り込んで気づかぬようだが。


その女性は、和装に黒髪の榛名を見ると近寄ってきて声をかける。


「你是日本鬼子嗎?」


しかし、訛りがきつくてわたしには何を言っているのか聞き取れなかった。


それは話しかけられた榛名も同じだったようだ。相手の発音をぎこちなく繰り返した。


「え?…ひのもとおにこ…?」


榛名のボケに耐えかねた雪風が割って入る。


「違いますっ! リーベンクイ…はっ!いけない! んー ...あなたは日本のお方でしょうか?って尋ねているんですよっ!」


それを聞いて榛名は頷く

「ええ…そうですが…何かご用でしょうか? 」


雪風の通訳を待たずとも、榛名の態度で向こうの紅娘子はわかったようだ。


腕を組んで納得した態度を取ると榛名に強い口調で声をかけた。


「是啊。你是大炕嗎?野鶏嗎? 馬上滚出中国吧!帯着白面儿的小東洋!」


再び通訳する雪風

「んーんー…あなたのような女性を大和撫子というのですね。中国へようこそ! わたしはあなたたちを歓迎します!」


すると礼儀正しい榛名は席から立ち上がると

「これはこれは。わたくしは榛名と申します。あなたさまからの過分なごあいさつ恐れいります。こちらこそよろしくお願い申し上げます」


そう言って一礼するとにこやかに笑った。


すると相手は激した口調で

「肏你的媽! 渣女、快滚過来! 你若想活命、爬在地下向爺爺磕三個響頭、便讓你多活一年!」


「んーんーんー…ワンダフル! これから遊びに行きましょうお姫さま。精一杯のおもてなしをします。是非お姉さまと呼ばせてください!」


雪風が通訳を終えるや否や、紅娘子女史は背中に負った長剣をスラリと抜き放った。


事、ここに至ってようやく金剛と榛名も会話が食い違っていることに気づいた。あ、ついでにわたしもだ。


「あの…雪風ちゃん、あの方はそんなことをおっしゃってるの?」


「強いて訳せば『一手御指南!』というところかの。さて、雪風。あの女史が何を言っているのか、そろそろ本当のところを教えてもらおうか」


金剛にじっと見つめられて雪風は観念したのか。


「わかりました。でもこれは雪風が言ったのとは違うんですよっ」


雪風は息を深く吸い込むと

「悪鬼羅刹のような日本人! お前は淫売か立ちんぼか? ヘロインなんか持ち込みやがって! 中国から出ていけこの野郎!表に出ろ尻軽女! 俺様をあがめて三回土下座すれば命だけは助けてやる!」


わしが想像していたよりも無茶苦茶言うておるのと金剛。


自分を売春婦と呼ばれた榛名は一瞬眉をひそめる。


「これでも加減して通訳したつもりです!本当はもっとひどい悪口なんですよっ!」

と、雪風。


そうそう、思い出した。紅娘子女史の言葉にあった大炕(オンドル)野鶏(キジ)。確か大炕で室内での売春婦、野鶏で街娼だったっけ。大炕(オンドル)は、北方中国で寝床になるので、そこから来ているのだろうか。


ちなみに大炕(オンドル)で、売春婦という語義は、現在の辞書に収録されていないようだ。恐らく中華人民共和国になった後に、旧来の性風俗業を一掃したから、その時に意味が失われたのだろう。わたしは、中華民国時代の辞書をもとに編纂された、古い日中辞典で読んだ覚えがある(鐘ヶ江信光『中国語辞典』「大」の見出し語より)


何を言いたいのかというと、紅娘子女史が使っている中国語は昔の言葉だということだ。そう、中華人民共和国が成立する以前の20世紀前半の中国語だ。


「つまりあの女史は、我らの言うところの抗日分子なのじゃな」

と、金剛。


「中国語では愛国人士って言うんですよ!」

と慌てて付け加える雪風。


「しかしならず者でも日本人に絡めば愛国者と持て囃されるのは納得いかぬなあ」


と、金剛。実際には絡む以上の事をされておるのじゃが、それはこちらもお互い様じゃから今は言うまい、と呟いた。


「でもお姉さま…我が国がヘロインを密輸したのはさすがに言い訳ができませんわ」

と、榛名。


「そうじゃ。砲艦外交はあの時代のならいじゃが、麻薬についてはこちらの分が悪い。あれは特務が隠れてやったことで我らは預かり知らぬ…と言っても通用せぬじゃろうな」


金剛は、シガレットに詰めたうどん粉…いやヘロインを吸って陶酔している先ほどの道士を見てそう呟いた。


「雪風も中国艦になってから初めて知りましたが…中国にとっては隠れてとかこっそりでは済まないんですよ。日中アヘン戦争」


すると紅娘子女史は自分を無視して話している我々にますます怒りを募らせたようで、剣を振り回し始めた。


「さて、どうするかの。あの女史、このままでは収まりそうにないぞ」


「わかりました。榛名がお相手をするしかなさそうですね」


「しかし、ここは中国人地区…向こうの土俵じゃ。相手を叩きのめしたらそれこそどうなるかわからぬ。かといって最初から降参しても我らの名誉に関わる」


「わざと四分六分で相手に勝ちを譲る…という手もなくはないですが、今の場合は難しいですわ。抜刀する時の所作をご覧になりまして? あの方はかなりの手練れです」


「うむ。わしもそれは感じておった」


かくして日本人が小田原評定…違った、寄合い民主主義による積み上げ式の意志決定を行っている間、紅娘子女史の怒りはついに沸点を越えたらしい。


風車のように剣を回転させながら、いわゆる胡旋舞のごときアクロバティックなダンスを踊りはじめた。


それでも店の机や椅子に傷一つ付けないところが、榛名の言ったとおり、ただならぬ技のほどを伺わせる。


金剛と榛名の視線を受けて、わたしは意志決定を伝えた。


「是非もなし...だね。こちらは榛名に相手させよう。そして相手もひとかどの剣士なら、手加減は却って彼女の誇りを傷つけることになるだろう。全力で頼む」


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


わたしたちが外に出ると、どうやって聞き付けたのかはわからないが、既に物見高い群衆が集まっていた。


みな熱気に溢れている。ここで感情に火がつくと不味いな。


金剛の顔を見ると彼女も頷いた。同じことを考えていたようだ。


金剛は雪風に目をやる。雪風は金剛の視線を受けると群衆の前に出ていった。


群衆が雪風に注目する。ザワザワ...ヒソヒソ...「何だあの娘は?」と言っているようだ。


すると雪風はバッグから長剣を取り出してスラリと抜き放つ。その場の空気は静まり返った。


雪風から気勢がほとばしり、空中を剣が複雑な軌道を描いて走る。わたしのような素人目にも素晴らしい演武だ。


彼女が台湾にいた時に身につけた剣法…型なきを以て型とする独孤九剣を見るのも久しぶりだ(第13話)。先ほどまでとは異なり、今の雪風は剣士としての武徳が漂っている。


「総旗艦丹陽!」「独孤九剣!」


群衆が雪風の民国艦としての艦名である丹陽の名前を呼び、その剣技を称賛する。


確か老舎の小説『断魂槍』の冒頭にふれられていたが、中国の伝統武術は近代化とともに一旦は見捨てられた。義和団事件のように、西洋そして日本の近代火器の前では、彼らの武技は無力だったからだ。


しかし1920年代、国民党による統一政権の樹立と民族主義の高揚によって、伝統武術が国技として再評価されるようになる。軍隊では武術家が教師として招聘され、都市では武術大会が開催されるようになり、社会的な認知が上がったのだ。


そのような歴史が背景となって、中華伝統の絶技を披露した雪風は、この場を圧する存在となった。先ほどまで激情に駆られていた紅娘子も息を呑んだように黙ってしまった。


雪風は群衆に何か叫んだ。「これは正式の立ち合いなので手出し無用!」と言っているかのようだ。


群衆は後ろに退いて立ち合いの場所を空ける。


シンと張り詰めた空気が漂う。


その中を榛名はしずしずとすり足で進む。


紅娘子は腕を組んで榛名を睨み付けている。


榛名は対手に向かって一礼すると懐から名刀を取り出して腰に落し差しにする。


そして鞘から刀をスッと抜き放って晴眼に構える。


わたしはいつの間に抜いたのかわからない。


「あれは腰を落とす、鞘を引く、刀を抜くの三つの動作を一拍子でやったのじゃ。居合いじゃの」


と、金剛が解説する。


紅娘子は榛名の抜刀を見て表情を改めた。榛名を剣士と認めたようだ。


ブワッ! 紅娘子の着ている服が風をはらんだ帆のように膨れあがる。


「何という内功!」


雪風が呻くように呟いた。わたしたちの言葉でいうオーラのごときものだという。


紅娘子は右の拳を左の手のひらで抱くように包むと

「你的門派什么呢?」


「榛名さんの流派は何ですかって聞いてるんですよっ!」


この果たし合いでは審判と通訳を兼ねた雪風が叫ぶ。


「大日本武徳会の剣道に加えて海軍高山流拔刀術を少々」


榛名が答えると紅娘子は

「俺是泰山派!」


と、叫ぶや背中から抜剣して榛名に襲いかかった!


それは黒旋風ならぬ紅旋風だった!


紅娘子の一の剣が繰り出されると同時に二の剣がとどく。


紅娘子は正面に向き直って斜めより刺突を送る。そして榛名の右肩から離れたところで一回転して斬撃が襲う。


だしぬけに腰を捻ると後ろから剣を突きだす。剣を出すのも引くのも迅速極まりない


…むかし佳人公孫氏あり。ひとたび剣器を舞えば四方を動かす…


杜甫「剣器行」に歌われる唐の時代の剣舞の使い手、公孫大娘を見るようだ。


「むむ! あの女史の剣法! 華やかではあるが実戦では使えぬ剣法に見える。しかしその内側に激しく鋭い一撃を隠しておるぞ!」


「その通りです。金剛さん。あれは泰山剣法の『矯如龍翔』。時折繰り出される鋭い突きは正確に榛名さんの穴道を狙っています。変の中に幻あり、幻の中に実ありです」


「あれじゃあ榛名は防戦一方じゃないか」


内心で焦るわたし。榛名に戦わせるという決断は間違っていたのか…


「今のところは互角の戦いです」

と、雪風。


「あれが互角の戦い?」

わたしは雪風に尋ねる。


剣と刀が打ち合う音が響く。わたしには一方的に榛名が押されているように見える。


「はいっ。互角の戦いです。榛名さんは相手の誘いの攻撃には乗らず、最小限の体移動と重心を乗せた刀さばきで、力を使わずに急所への刺突をそらしています。体力を温存しながら反撃の機を伺っています」


紅娘子の激しい剣を榛名は受けているだけに見える。だが雪風に促されて榛名の足を注意して見ると一歩も退いていない。


「提督、あれが剣道でいう懸待一致じゃ。防御に回っている間も敵の手筋を読んで攻撃に転じる姿勢を崩さぬのじゃ」


金剛はわたしに説明した後で

「しかし、並の相手なら自らの激しい攻撃で力尽きたところを狙って、必殺の一撃を繰り出すところじゃが、あの女史はそうはいかぬじゃろうな」


確かに金剛の言う通りだ。自らの激しい攻めを相手が持ちこたえていたら、多少なりとも焦りの色が見えるものだが、紅娘子の顔をよく見たら笑みを浮かべているではないか。


「変幻にして精妙が泰山派の武術の特徴です、あの人が泰山剣法の達人だったら、榛名さんの方位、剣の筋、身長に得物の大小、日光の照らす位置の全てを計算して、死門へ追い詰めるはずです。雪風の見たところ、残りあと七手」


「シナの剣術はまこと奥深いものじゃな。ここは死地に追い込まれる前に、榛名が相手の拍子に合わせて石火の機を掴めるかどうかじゃが…」


追い込まれているという榛名の顔を見る。それは波一つない湖面のように静かだった。その瞳は鏡のように相手の姿を映しているのではないか。


そう思った瞬間、静から動に榛名が転じた。何が起きたかわたしにはわからないまま、群衆がワッとどよめいた。


「よし、榛名め。上手く相手の間合いの外に出て、丹田からの一撃を叩き込んだの」


「良かった。榛名さんは剣譜の破綻を見つけたようです。あのままだったら『膻中』『肩貞』『神蔵』『曲池』『環跳』の穴道を次々と突かれ動けなくなるところでした」


広場では榛名に小手を峰打ちされ、剣を落とした紅娘子がうずくまっていた。


雪風の言葉を借りれば、中国武術に経脈からの内力あれば、日本武術に丹田からの気力あり。


金剛によれば、両者の力は拮抗していたが、榛名が拍子を対手に合わせることができたため、決着がついたという。


群衆がどよめいているなか、榛名は刀を構えたまま、ゆっくりと後退りしてわたしたちのところに戻ってきた。


「かなり危なかったの」

と、金剛が声をかける。


「ええ、気づかないうちに土俵際に追い込まれたように感じました。あの方の打ち込みの拍子を読むことができたのはギリギリでしたわ。お姉さま」


「榛名さん、あの人の剣の一瞬の破綻をよく見抜けましたね」

と、雪風が言う。彼女は審判として勝敗の結果を宣言して戻ってきたところだ。


「ええ、日頃のみんなとの稽古のおかげよ。昔、高山先生が剣道では人は斬れぬとおっしゃったけど、それでも間合いの攻防を会得する基礎だと感じたわ」


そう言うと榛名は右手を押さえたままの紅娘子に遠くから一礼する。


「よくやった榛名」


わたしは榛名を労う。そして

「榛名が勝ったのは嬉しいが、あの中国人たちの反応はどうだろう」


ここは中国人のホームグラウンド。彼らの民族としての感情がどちらに傾くのだろうか。



わたしに尋ねられた雪風は首をふった。


「あの人たちの話し合いがどうなるのか、雪風にもわかりません」


中国人たちは大声を張り上げ、オーバーアクションで口から泡を飛ばすように議論している。


「日本の武術も格があるじゃないか」

「美人だから甘いんだろこの助平!」

「いや、あの女剣士は礼を心得ている。乱暴な日本の兵隊とは違う人間だ」


雪風の通訳によると以上のことを話しているという。中国人の間でも意見が別れているらしい


そのうちに中国人の中から声が上がってきて、それは大波となった。

「美人的日本女剣士!」

「抗日神劇的日軍女将校柳生美子!」


雪風はわたしたちに伝えた。


「良かった。榛名さんの勝ちは認められたようですっ。みんな榛名さんを褒め称えていますっ!」


わたしと金剛が胸を撫で下ろした側で、榛名は紅娘子に歩み寄って行った。負けたとはいえ彼女の剣技を讃えるつもりだ。


その時、利き手の痛みでうずくまっていた紅娘子は、差し出された榛名の手を払いのけて


「正義不倒!」


と叫ぶや、自らの首を左手の親指で突いてそのまま倒れた。


「しまった! 自分で自分の穴道を!」


雪風が叫ぶ。


「金剛さんっ! これはまずいですっ!」


紅娘子の壮烈な最後に群衆は静まりかえった。わたしも声すら出ない


何も自決することは無くても…という考えが少しだけ頭をよぎったが、それは現代日本人の感覚というものだ。


次第に群衆から泣き声が聞こえてくる。ついには「日本鬼子!」「日本鬼子!」と我々を罵りはじめた。


なんと、一番大きな声で罵っている中国人はさっきまで榛名を「美人女剣士」と褒め称えていた人間ではないか。


本当に大衆ってヤツは…あ、わたしもその中の一人だった。


「提督! ここは三十六計しかないぞ!」


金剛の声で我に帰る。


「ああ! とっとと逃げたほうが良さそうだ。でもどうやって?」


通りには群衆が群がっている。


「わしと榛名は大声をあげて通りを逃げる! 雪風は提督を抱えてあそこの路地から脱出するのじゃ!」


「わかりました! 金剛さんも榛名さんもご無事で!」


「人を投げ飛ばしても傷つけないようしなくては! お姉さま、参りましょう!」


その時、警笛の音が鳴り、「軍警」の腕章をつけた兵隊たちが走ってきた。


ぐずぐずしていてはバカを見るとばかりに、群衆は蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。


そして軍警の中から一人の女性が出てくる。


チャイナドレスを着たスタイルの良い大人の女性。ヘアスタイルは断髪で、1930年代上海のモダンガールと言ったところか。


雪風はその女性の姿を見るや駆け寄っていく。


「逸仙姐姐! 好久不見!」


その女性はにこやかに挨拶を返す。


「丹陽妹妹、我們再見了」


彼女たちの中国語は普通語とは違っていたので半分もわからなかった。


だが、タンヤンという固有名詞だけは辛うじて聞き取れた。


雪風を中国艦の名前で呼ぶ彼女の旧知といえば…わたしの頭にある名前がよぎった。


その当否はともかく、雪風にとって大切な人のようなので、わたしも挨拶しなければ。


しかし、ニーハオにニンクイシンじゃあ英語の教科書のジャック&ベティみたいだしなあ…そう考えながら頭の中で作文をしていると…


「どうぞあなたの言葉でお話になってください。あたし、日本語がわかりますから。そう、日本でしばらく暮らしたこともありますからね。ほ、ほ、ほ」


もう間違いない…というには少々確証が足りなかったが、わたしは思いきって聞いてみた。


「人違いだったら失礼ですが…ひょっとしたらキミは中国艦の逸仙?」


「ご明察の通りですわ。丹陽妹妹はYet-senと広東語であたしを呼んだから、最初はわからなかったようね。でも、日本の方とお会いするのは本当に久しぶり。日本海軍に所属して、練習艦阿多田と呼ばれた頃は、たくさんの兵学校の生徒さんをお乗せしたのよ。ほ、ほ、ほ」


挿絵(By みてみん)

逸仙「ほ、ほ、ほ」




陳舜臣の小説に出てくる中国人のような特徴的な笑い声をあげる中国艦逸仙。


そして、再会を喜ぶ雪風とは違って、金剛と榛名は彼女を見て複雑な表情をしていた…


そして、逸仙が片手を上げて合図すると軍警たちはサッと四方に散らばって歩哨に立った。


「これで、あなたたちの安全は確保されました。彼らは地方軍閥の雑軍と違って中央直系の部隊です。規律の正しさはあたしが保証しますわ」


「ありがとう。手数をかけるがよろしく頼むよ」


みんなを代表してわたしが礼を言った。


さて、我々の安全が保証されると今度は紅娘子を思い出した。


彼女の身体は路上に横たわっている。さっきまでその壮烈な自決に涙を流していた群衆は、軍警の出現とともに我が身を守るため逃げ出してしまった。


ここは残った我々が何とかさせてもらわなくては…


しかし、これはわたしが榛名に紅娘子との決闘を命じた結果なのだ。その重さがズッシリと心にのし掛かってきた…


「提督、気にしてはいかん。気にしたらおぬしの心がもたぬぞ」


と、戦艦として多くの死を見てきた金剛がわたしを励ます。


「そうですよっ! 司令! こうなったのは誰のせいでもありませんっ! 中国語の没法子…中国艦になってから『仕方ない』よりもっと深い意味を持っていることを知りました」


と、雪風。幸運艦として称賛される一方で多くの仲間の撃沈に立ち会った雪風のみに言える言葉かもしれない。


「この方と最後に戦ったのは榛名です。榛名におとむらいをさせてください」


あなたは喜ばないかもしれないけど許してくださいね、と紅娘子に声をかける榛名。


すると横たわったままの紅娘子の身体が輝きだす。


光が収まるとそこには紅色のランタンがあった。どことなく艶かしい装飾や色づかいだ。


逸仙がランタンを拾い上げる。


「このランタンは異界の精気を受けて人の姿を得たもの。そして、もともとは紅灯照の持ち物だったのですわ」


「紅灯照…?」


その固有名詞にわたしは覚えがあった。


「なんじゃ、知っておるのか提督?」


「金剛、1900年の義和団事件に関連する言葉だ。」


1900年、山東省に興って華北全体にまで広がった外国人排斥運動。


最初は雑多な民衆運動だったが、次第にまとまって義和団を名乗る集団となった。


義和拳という伝統武術に加えて、孫悟空をはじめとする中国の英雄の霊魂が自らに憑依したと信じた宗教結社だ。


しかし、外国人…この場合は欧米や日本の民間人を多数殺害したために、英米独仏露奥伊そして我が日本の八ヶ国の軍事介入を招きいれ、中国伝統の武術や神々は列強の砲火に敗北したのである。


その義和団の女性部隊が紅灯照である。彼女たちは12歳から18歳の若い女性から構成されていた。


紅の衣装を身に着けて武術を修行し、情報収集や負傷者の看護に活躍したという。その部隊名の由来となった赤いランタンがシンボルだった。(小野和子『中国女性史』「紅灯照のむすめたち」)。



「そう、よくご存知ね」

と、逸仙。


「彼女たちの多くは義和団が敗れた時に八ヶ国連合軍に殺され、あるいは辱しめを受けまいと自決しました。このランタンは人間になる時に、もとの持ち主だった彼女たちの心も受け継いだのです」


この紅灯照の編成には中国の民間習俗が関係していると論じる研究者もいる。義和団はキリスト教を淫祠邪教と見なしており、教会には女性の臓物がばらまかれていると考えていた。


当時の民間習俗では、女性の身体は汚穢として畏れられていた。そして、若い女性のみが穢れを払うことができると信じられていた(蔣竹山「女體與戰爭──以明清厭砲之術 「陰門陣」為例的探討」『「健與美的歴史」研討會論文集』)。


つまりは彼女たちは超能力を持った存在として民間信仰の対象だったのだ。その魂がランタンに宿り、一人の女剣士を誕生させても不思議ではないということだ。


「それであんなに日本人に憎しみを持っていたのか」

と、わたしは言った。


逸仙はうなずくと


「このランタンはあたしの艦に持ち帰ります。大丈夫、彼女の魂は死んではいません」


「そう、良かった」

と心の底から安堵したように言う榛名。刃を交えたもの同士しかわからない友情というものだろうか。


逸仙はじっと榛名を見つめると

「21世紀になって我が母国はアメリカと肩を並べる強国となり、中国の夢を実現しました」


これまでの会話の流れとは関係無いように見えることを逸仙が言い出したので当惑するわたしたち。


それに構わずに言葉を続ける逸仙。


「ですが、阿片戦争以来100年にわたる屈辱の歴史。これは消え去るものではありません。この異界の中華民国はその100年の時代に生きて、そして死んでいった魂が流れ着く場所」


「だから、老舎の戯曲…戊戌の政変から第二次大戦終結までの時代を描いた『茶館』のような場所があるのか」


逸仙はわたしの疑問に頷いた後で


「ですが、誇りを奪われた魂はこの異界でも癒すことは難しいのです。このランタンも誇りを取り戻さない限り何度でも甦るのですわ」


紅娘子の魂が生きていると喜んでいた榛名は、逸仙のこの言葉を聞くや、沈痛な表情になった。


そして誰もいなくなった大通りにただ一人残っている中国人がいた。


先ほどのうどん粉道士氏だ。日本から輸入されたヘロインを吸って、自分だけの夢幻の世界にいる。それが切れたらどうなるか…わたしは怖くなって想像するのを止めた。


逸仙はその道士を助け起こすと、彼の額に自分の息を吹き掛けた。道士はぼんやりした姿になって消えた。


「『イギリスの阿片と日本のヘロインを吸えば、二つの大国がわたしに仕えているようだ』この道士の口癖です。帝国主義の麻薬に冒されたこの人は、今の言葉でいう消費者になることで、自分が主人になったと慰めているのです。幻想のなかで。異界でも彼の魂は癒されることは無いでしょう」


発する言葉が見つからないわたしたち日本人。


逸仙はそんなわたしたちに気づくと

「でも王子飯店…プリンツ・ハインリヒ・ホテルでのあなたたちの歓迎会は心をこめて行います。恨みに報いるに徳をもってせよ…我らが蒋中正閣下の言葉ですから」


逸仙は紅いランタンを抱えて立ち去ろうとする時、くるっと振り向き冗談めかしていった。


「歓迎会は定刻どおり始めますわ。中国時間なんて思わないでね。あなたたちの言葉を借りれば、シナは昔日のシナにはあらじ…よ」


逸仙は去っていった。彼女の言葉は「徳」による寛容さを示すものだったが、許しではなくて上から与える慈悲だった。


わたしが10代から20代に差し掛かる頃は、もはやあの戦争の記憶が薄らいだ時代であり、日中両国の文化的・経済的交流は密接だった。


現在から見れば意外だが、日本の大学生の海外旅行先あるいは語学留学先として、中国は人気のある国だった。


そんな時代の空気の中で、中国にわたしは調査研究の真似事に出かけたのだ。それはかけがえのない想い出となった。


しかし歴史はやはり歴史だった。解釈を変えることはできても消すことはできないのだ。


わたしは誰にも聞こえないようにして独りごとを呟いた。

「懐かしさはやがて苦さに変わる…か」(続く)



後書き


雪風

「今回初登場の逸仙さんをスペシャルゲストとしてお招きしました。雪風にとっても丹陽と名乗っていた中国艦時代の大先輩ですっ!」


逸仙

「日本の皆様、はじめまして。中国艦の逸仙と申します」


雪風

「逸仙さんは日本語にも堪能でいらっしゃるので、今日は日本の言葉でお送りします」


逸仙

「日本語で話すのは、ほんとうに久しぶりですから、おかしかったら許してくださいね」


雪風

「さて、まず逸仙さんの巡洋艦としての基本的な情報から。1931年に江南造船廠で竣工。ここは曾国藩大人が計画し、李鴻章大人が完成させた由緒ある造船所です。そして逸仙さんの艦名は、なんと革命の父、孫文先生の号である逸仙からつけられたものですっ!」


逸仙

「あたしの進水式は民国19年11月12日。この日は孫中山先生の誕生日だったわ。ところで、日本の皆様の間では、近代中国の海軍は北洋水師が有名なのでしょう? でも定遠・鎮遠大姐はドイツ製、甲午戦役の後に再建された艦隊の姐姐たちもドイツかイギリスで建造された艦が多かったわ。ただ、中国にも上海に江南造船廠、福州に馬尾造船廠があって自力で艦を建造していたことは知って頂きたいのです」


雪風

「さて、逸仙さんは福建省主席陳儀先生を乗せて当時は日本の植民地だった台湾に来航するなど、外交艦として活躍します。しかしその運命は大きく変わります。あの昭和12年に起きた第二次上海事変ですっ!」


逸仙

「あの八一三戰役では日軍は陸海合わせて二十万の兵力で上海から首都南京に向かって長江を攻め上がりました。あたしたち中国海軍は江陰要塞で日軍を迎え撃ったのよ」


雪風

「江陰要塞は長江が河口に向かう時に川幅を広げる位置にありますね。そういえば長江下流はあの阿片戦争でも激戦地になりましたねっ」


逸仙

「ええ。清朝の水師は大運河を封鎖しようとしたイギリス海軍と呉松で激突しました。あたしたちが守っていた江陰も少し離れているけど近くだったのよ」


雪風

「そこで逸仙さんや寧海さん、平海さんをはじめとする中国艦の姐姐たちは日本軍の航空機の爆撃を受けて撃沈したのですね」


逸仙

「そう。阿片戦争で呉松を守った水師提督、敵の砲弾で身体中に百の傷を負い、胸に三つの穴を開けられて壮烈な戦死を遂げた陳忠愍公に殉じたのです、あたしたち」


雪風

「だけどその後…あの…いいですか?ここで放送して」


逸仙

「大丈夫。あたしのなかで気持ちの整理はついています。あたしたち中国艦は、戦役が終わった後に日軍にサルベージされ、日本海軍に編入されました。あたしは阿多田という艦名をあたえられたのですわ」


雪風

「帝国海軍では逸仙さんは練習艦とされ、終戦まで第一線部隊に加わることはありませんでした…」


逸仙

「日軍艦艇の中でも山城はわたしのことを雑役船と言っているのでしょう? 」


雪風

「え…ええ…あの…やっぱり悔しいですか? 逸仙さんの軍艦としての名誉を奪った帝国海軍の仕打ちは…」


逸仙

「ええ。悔しくないといえば嘘になります。ですが、あたし、最近に方方という人が書いた本を読みましたの。水上灯という漢劇の名女優の物語よ。彼女も日軍の将校に芸を売ることを潔しとせず、戦争中は舞台から退いて洗濯女に身をやつしたそうです。『不枉此身貶落在凡間』たとえ俗世に落とされても我が身をおとしめることはせず...ですよ。ほ、ほ、ほ」(https://youtu.be/6c7Nf-nUrRc?t=203)


雪風

「そして戦争が終わって逸仙さんは中国海軍に返還されます」


逸仙

「丹陽妹妹と出会ったのもその頃だったわね」


雪風

「はい、今度は立場が逆転してしまいました」


逸仙

「そうね。でも、あたしが中国に返還される時に心をこめて修理してくださった、旧海軍の技術者にはとても感謝しているの。日本鬼子…失礼! と言っても軍閥政府と一般民衆を一緒にしてはいけないと学んだのよ」


雪風

「ですが、その後も国共内戦や台湾への首都移転などの事件が盛りだくさん。あの時はお互い大変でしたね」


逸仙

「ええ。二人ともよく共産党の軍隊から逃げ延びることができたわね」


雪風

「味方のはずの国民党の軍隊からも裏切り者が出ましたからね。それも一つや二つの部隊ではなくて雪崩を打つように」


逸仙

「あの人たち、あの後に自分たちの寝返りを『起義』と言っているそうよ。ただ勝ち馬についただけのことを大袈裟に…ああ可笑しい。ほ、ほ、ほ」


雪風

「この時の中国海軍の動きは複雑だったのでここでは語りつくせません。今度また、重慶と名前を変えたオーロラさんも交えてじっくりと...さて、逸仙さんは台湾で哨戒任務について1958年に退役します。でも改めて振り返るといろんなことがありましたね。逸仙さんの艦歴」


逸仙

「ええ。ほんとうに色々な事が...でもそれはあたしだけではありません。あの時代の乱世はどれ程多くの人々の物語を呑み込んできたのでしょう」


雪風

「はい、本当にそうです。雪風もまさか中国艦になるなんて、そうなる六年前...英米と戦争が始まった時には想像もしていませんでした」


逸仙

「ねえ丹陽妹妹、あの時代を生きた仲間って今では何人もいないでしょ。だから大事にしなければならないわ。そう、お互い大切にしなければ…」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ