21. 柱島泊地にて2(衣笠とわたし。日本艦三笠登場)
「文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧は今も東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄せ木細工の表す図柄が新しく変化しているのだ。新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚であろう」
渡辺京二『逝きし世の面影』より。
(続き)
わたしたち二人の乗った水上機春鳥号は金剛、ジャーヴィス、雪風の乗った夏鳥号を従えて柱島泊地上空に戻る。
そして水上機は高度を下げると島の入江に着水した。衣笠はわたしの手を取って水上機から浮き桟橋に降りるのを手伝ってくれる。
わたしは衣笠の手を再び握った。両手で覆うようにゆっくりと優しく...
衣笠はうつむくだけで何も言わない。だが彼女の気持ちを表すかのようにその手の暖かさがわたしに伝わってくる。
そしてわたしはちょっとした冒険を試みる。衣笠の手を握ったままわたしの口元に持ってくるとその指先を軽く口に含んでみた。
衣笠の手が一瞬ビクッとふるえるのが口腔を通じて感じられたがそれでも彼女は手を引こうとはしなかった。
海鳥の鳴き声が遠くから聞こえる海辺で二人だけの時間が流れていく...
金剛たちの操縦する夏鳥号が着水すると衣笠はハッとしたように手を引く。そしてわたしから顔を隠すように後ろを向いた。
再びわたしを振り返った彼女は何もなかったように笑顔でわたしに説明をする
「今から柱島を鎮守している神社にお参りします。お祀りしているのは神倭磐余彦命と五十鈴姫尊...神武の帝と綏靖の帝のお妃ですよ」
衣笠は努めて明るい声で
「それに特別な方にもお会いできます。楽しみにしていてください」
「それは誰なんだい?」
「それまでは秘密です。ふふっ、驚きますよ」
金剛は雪風とジャーヴィスの二人を連れてこちらに来る。
「うむ。やはり提督は真っ先にこの神社にお参りせねばの」
「三笠さんにお会いするのは雪風も久しぶりですっ」
「三笠ってあの日本海海戦の!? わたしたちロイヤルネイビーにとっても大先輩じゃない! うわー緊張するわね」
彼女らのやり取りにわたしは驚いて問いただした。
「三笠ってイギリスのヴィッカー社が建造した、日本海海戦での連合艦隊の旗艦?。その艦がこの神社で巫女をやっているのかい?」
「駄目じゃない雪風。提督やジャーヴィスには秘密にしておこうって考えてたのに」
「あっ! いっけない! すみません衣笠さん」
ばれてしまったかとばかりに頭をかきながら説明をはじめる金剛。
「うむ。提督の言う通りじゃ。一つだけ訂正するなら三笠殿は巫女では無い。宮司じゃ。昨今は人間の世界の神社でも女性神職が増えておるらしいの。わしらも時代の新しい風を取り入れようというわけじゃ」
...神社本庁に断らなくて良いのだろうか?
そんなわたしの顔色を読んだ金剛が
「なあに。日本海海戦で連合艦隊が勝利しなかったら日本はロシアに負けていたのじゃぞ。下手をすると日本の神社はみな正教の教会に変えられていたかもしれぬ。三笠殿が女性宮司を名乗ったぐらいで神祇院なぞに文句は言わせぬわい」
...神祇院って神道を管理する神社局の後身で1940年に設立されたが、戦後にGHQの命令で廃止されたんじゃなかったっけ。新しい時代を取り入れるといいつつ頭はどこか古い感覚が残っている金剛。
「大丈夫。ここは人間の世界だと神社本庁に属さない単立神社ということになるのかしら? その場合は運営や人事の独立は保証されます。そもそもここは日本国の実効支配の外にあるから宗教法人への登録も必要ないわね」
衣笠が解説してくれた。とりあえず法的な問題はクリアしているようだとひとまず胸をなでおろす小心なわたし。
話しているうちに神社の鳥居が見えてきた。一礼して参道に入る。清潔に掃き清められた玉砂利、しんしんとした鎮守の森。やはり神域にくると心が引き締まるようだ。
手水で手を清めて社殿で拝礼する。神社にお参りするのは久しぶりだがそれが異界でのことなので懐かしさもひとしおである。日本の旧植民地...台湾やパラオにある神社に参拝した戦前の日本人もこんな気持ちだったのだろうか。
社殿の屋根は檜皮葺。人間の世界では樹齢80年以上の檜の皮が手に入らない、職人の後継者がいないとしばしば伝統工芸の断絶の危機が訴えられているが、この異界では大丈夫なのかな。
「雪風が復員船をしていた時、乗せた兵隊さんの中に檜皮葺の職人さんがいたんですっ。その人の記憶をたどって工事をしました」
「それで材料の檜はこのあたりの島々にはたくさん生えておるからのう」
金剛はそう言った後で
「では社務所の方へ三笠殿に会いに行くかの」
とみんなを連れていく。
柱島の異界神社
「三笠殿、中におられるかの? 提督をお連れしたぞ」
現れたのは一人の西洋人女性だった。銀髪で彫りが深い顔に巫女服という取り合わせにはつい見入ってしまう。
そう、彼女も金剛と同じくイギリスで建造された青い眼の戦艦である。
「金剛の坊かの。そなたに会うのもしばらくぶりじゃのう」
三笠はわたしを見ると
「そなたが新しい提督か。わらわが三笠じゃ。昔の手柄でみなが持ち上げてくれるが、なに、戦艦としてはとうの昔に現役を退いた婆じゃよ」
そして三笠は衣笠や雪風と挨拶を交わすと一行の中でただ一人のイギリス艦ジャーヴィスに気づく。
ジャーヴィスは三笠と目が合うと直立不動になってビシッと敬礼し
「ヨア・エクセレンシー!! お会いできて光栄です。ロイヤルネイビーのJクラス駆逐艦、HMSジャーヴィスです! HMSウォースパイトやHMSマレーヤからくれぐれもよろしくと! マイ・レイディ!」
三笠は目を細めてジャーヴィスを眺めると
「おうおう。礼儀正しい挨拶痛み入る。じゃがわらわは既に退役した記念艦じゃ。そんなに固くなることはないぞよ。さあ、上がるがよい。何もないが冷やした甘酒ぐらいは出せるからのう」
皆は社務所に上がって甘酒をごちそうになる。
いつもは傍若無…は言い過ぎだが豪放磊落な金剛が大人しい。
「今日はやけに大人しいじゃないか。金剛?」
「うむ。わしが日本に来た時、三笠殿は既に帝国海軍におられたからの」
わたしは三笠に聞いた
「巡洋戦艦時代の金剛ってどんな感じだったの?」
「ふむ…金剛の坊が来た時の事かや。あの時はドレッドノートの竣工でわらわを含めたそれまでの戦艦が一気に旧式になった時じゃった」
「いわゆるドレッドノートショックだね」
「そうじゃ。それで帝国海軍も薩摩や河内といった新型戦艦を開発したが上手くいかぬ。そんな時じゃったのう。わらわのふるさとイギリスで最新技術を用いて建造された超ド級巡洋戦艦金剛が来たのは」
この時の話は、はじめて金剛にあった時に聞いたっけ(第一話参照)。
「それでみなに言われておったのがな。『新造艦なのに日露戦争の武勲艦よりも偉そうに見えた』じゃ。ま、これぐらいにいたそう」
「いや、三笠殿、その時の話はやめてくれ。降参じゃ降参じゃ」
三笠「あの日本海海戦の後もわらわには色々あったのう。あの戦争が終わった直後に水兵どもの火遊びで爆沈事故を起こしてしまい凱旋式に出られなんだのは心残りじゃ。海防艦になった後は日本海で座礁してなんとウラジオのドックに入渠したのじゃ。まさかロシア人に助けられるとは思わなんだのう。もっともあやつらの仕事が雑だったせいであの震災で古傷が開いて大破着底じゃ。じゃがわらわの保存運動が起きて記念艦になった時は嬉しかったのう。人の情けが身に染みるとはまさにこのことじゃ」
金剛「...またいつもの長い話じゃ...しかも毎回同じ内容...」
衣笠「シッ!金剛さん!」
三笠「ん? 今何か聞こえたような」
雪風「んー…んー...そうだ! 今まで三笠さんが一番楽しかったことって何ですか?」
三笠「それはのう。大東亜戦が終わった後にダンスホールになったことじゃ。こんな婆でもドレスを着こんで、アメリカ人と年甲斐もなくタンゴやタップダンスを踊ったのがとても楽しかったのう」
ジャーヴィス「三笠さんってファッショナブルでクールな艦なんですね。憧れちゃいます」
三笠は冷やした甘酒に口をつけると
「ま、昔話はほどほどにしておこう。大切なのはこれからのことじゃよ。新しい提督を迎えてみな張り切っておるが、提督? そなたはまだ自分の力を出し切ってはおらぬようじゃ」
「ボクが自分の力を出しきっていないって?」
「そうじゃ。そなたは提督の資質とは何じゃと思うかえ?」
三笠はわたしの眼から心を覗くようにして尋ねてくる。
「それは…統率力かな?」
「ふむ…ではその統率力とは何かえ?」
…わたしは具体的に答えられなかった。海軍兵学校の生徒ならば先輩後輩の集団生活で会得するものかも知れないが、一般大学出身で体育会クラブにも入らなかったわたしはすぐに言語化できない…
答えに詰まっているわたしを見て三笠は話を続ける。
「それは部下をよく知ることじゃよ」
「部下をよく知る……?」
三笠は話を続ける。
「東郷元帥は強運を買われて連合艦隊の司令長官に選ばれた…大山元帥は部下に任せて自分は何もしないのが大将の器だった…と巷間に言われておる。じゃがそれも部下の能力や性格をよく把握していたからこそ安心して秋山中将や児玉大将に任せることができたのじゃ。提督、そなたもわらわたちの指揮官になったからにはわらわたちの事をよく知らなければならぬ。そして信頼関係を築かねばならぬ」
そう言いきると三笠は少し咳き込んだ。長いセリフでむせたらしい。衣笠が背中を擦る。
三笠は大丈夫じゃとばかりに衣笠に手を振るとお茶を飲んで喉を湿らせ
「ま、これ以上わらわが言わなくても金剛たちに任せておけば心配ないであろうの。現役を離れたわらわがそなたにしてやれるのはこれぐらいじゃ」
三笠は机の引き出しから何かを取り出すとわたしに差し出した。
それは縁結びの御守りだった…
「こ…これは何だい」
「何って見ての通りじゃ。先ほど言うたであろ。そなたはわらわたちの事を良く知らねばならぬと」
「あ…ああそこまではわかるのだけどなぜ縁結びのお守りなんだい? ボクは婚活しているわけでは」
三笠はまだわからぬかという顔をして
「ここではのう。部下を良く知るということは艦と縁を結ぶことじゃ。そして提督の統率力とはできるだけ多くの艦と縁を結ぶことじゃ。それには勇気を出して一に押し二に押し三に押しじゃぞえ。わらわがそなたのために祈祷したお守りも助けになろうぞ。」
...まるでお見合いおばさんみたいな事を言う三笠。
金剛が尋ねた。
「三笠どのは祈祷もやるのかの?」
三笠は
「うん。せっかく神職の資格を取ったから色々なことにチャレンジしてみようと思ってのう」
チャレンジは旧制中学出身者によくあるアクセントを強調した英語の発音である。
「それで最近は航海安全、火の用心のお札も作っておる。良かったらそなたたちも土産に持って行くがよい」
そして三笠は衣笠を見ると
「先ほどはわらわの背中を擦ってくれてかたじけなんだの。これは礼じゃ。提督に渡したのとお揃いじゃぞ」
三笠が衣笠に差し出したのは縁結びの御守りだった。
衣笠は「わ、わたしは別に…」と呟くと顔中を紅く染めてスーツの内ポケットに急いでしまった。
三笠に別れの挨拶を告げて神域を退出する。
鳥居を出ると目の前には瀬戸内の海が広がる。
昼下がりの日差しが注ぐなかで多島海を見下ろすのは気持ちのよいものだ。
わたしは彼女たちに言った。
「しばらくこのあたりを散歩してみるのはどうだろう」
「おお、それは良いの。飲み物も菓子もあるし一つピクニックと洒落こむか」
と金剛。
こうして景色を楽しみながら島のあちこちを散策する。
衣笠は蛇腹のセミコンドル・カメラを取り出してみなを写しはじめる。
こういう時は例によってカメラ担当は写真に入らないものだ。
わたしは衣笠に言った。
「衣笠、キミの写真も撮ろう。カメラを貸してくれ」
衣笠は一瞬ためらったがわたしにカメラを渡した。
そのカメラを受け取ってわたしは衣笠がためらった理由がわかった。
彼女が使っているカメラは戦前のものなので絞りやシャッター速度が手動設定なのだ。
わたしにとってカメラとは80年代以降に開発されたオートやデジカメだ。こんなわたしが撮影したら灰田勝彦の「僕はアマチュア・カメラマン」ではないがピンぼけ、首無し、二重取りになってしまう。
戦後しばらくまで、写真は誰にでも簡単に写せるものではなかったのだ。
さて、どうしよう…わたしが迷っていると金剛が助け舟を出してくれた。
「提督、あそこのご一行に頼んだらどうかな」
浜のほうを見るとスーツにソフト帽の一団がモデルらしき女性を取り囲んで写真を撮っている。
その中の一人に頼むとカメラマンを快諾してくれた。
彼は手慣れた扱いでセミコンドル・カメラの機器を確かめると
「おや、国産ですか」
と呟いて
並んだわたしたちをパチリパチリと撮影してくれた。
金剛や衣笠たちにお礼を言われると嬉しそうに仲間のほうに戻って行った。
「あの人たちはどういう人なんだい?」
わたしが聞くと金剛は
「あれはカメラ狂の撮影会じゃよ」
撮影会…戦前にそのような催しがあったなんて
「まあ、本格的に入れ込んだら現像液や乾燥機まで一通りの道具を揃えねばならぬからの。かなりの金がかかる趣味じゃったが、それでも楽しむものはいたのじゃ」
戦前の大衆小説だが、アッパーミドルに区分できるサラリーマン家庭の貯金が100円のところ、子どもが壊したカメラが120円という話があったっけ(鹿島孝二「新父性学」『キング』昭和14年8月号増刊)
衣笠も
「わたしに乗り込んでいた士官も『アサヒカメラ』や明光社の『小型カメラ』を愛読していたわ。偵察写真を撮影する時の参考にするって言って艦内に雑誌を持ち込んだけど、完全に本人の趣味ね」
「それであの手の撮影会には海軍も関わることがあったのじゃ」
「ええ、昭和14年の5月だったかしら。アサヒカメラが主催した平安丸の洋上撮影会は海軍省も後援していましたね」
「海洋思想の普及とか言っておったが要は海軍の宣伝じゃの。参加した士官はたまたま眼病を患っていて片目じゃったが、それでも豪華客船の船旅なのでいそいそと参加したらしいのアハハハ」
わたしは感心して
「戦前でも洗練された趣味を楽しむ催しが行われていたのだね」
「はい、提督。わたしは昭和の初めに竣工しました。提督の時代では世界恐慌で貧富の差が広がり、戦争に向かう暗い世の中だと言われているようですね。それでも楽しいこともあったのですよ。わたしたちの時代」
そして衣笠はわたしを見つめると
「そういうことを忘れないためにもこの柱島泊地を作ったのです。わたしたち」
「するとあの撮影会の一行は…?」
「うむ。わしらが神話の力で再現したものじゃ」
金剛たちが浜に座って菓子や飲み物を飲んでいる間、わたしは少し離れた浜辺でこの異界における柱島泊地について考えていた。
すると横にサイダーの瓶を二つ持った衣笠がやってきた。
わたしは彼女に聞いた
「この異界の柱島泊地はキミたちにとっては単なる基地と言う以上に失われた時代の追憶と鎮魂のための場所なんだね」
衣笠は大きくうなずく
「はい! その通りです! 提督」
わたしはさらに尋ねる。
「しかし三笠も言っていたけど、失われた時代は大切にしつつも、わたしたちは前に進んでいかなければならない。そのためにボクがいると言うことだね」
衣笠はより強くうなずく
「提督のおっしゃる通りです。でも過去を捨てずに未来へ進むということはとても難しいことです。でも、あの時、失われた魂に涙を流した提督なら…」
衣笠はわたしを見つめながらそっと手をふれた。
わたしも衣笠を見つめ返す…そしてごく自然に二人の唇が重なった。
潮騒の音とともに唇を重ね合わせているうち、わたしはふと三笠の言葉を思い出した。「一に押し二に押し三に押し」
わたしはソフトキッスからフレンチキッスに進もうとして自分の舌を衣笠の口腔に入れる。
しかし衣笠はビクッとして唇を放した。
「ご…ごめんよ衣笠。でも今の言葉の過去を大切にしつつ未来へ進む…そのためには新しい酒を古い皮袋に入れることが必要とは思わないかい?」
衣笠はしばらくうつむいたが顔を上げると
「提督…もしあなたが軍艦としてのわたしにご興味がおありなら…いいのよ? わたしに乗艦しても…ただ…わたしは重巡でも愛宕のように艦隊の旗艦になった経験が無い…司令部を置く人員設備も整っていない…提督の将旗を掲げることは責任上受け入れられないけど…臨時の乗艦なら…」
わたしは衣笠の手を優しく握ると再び彼女の唇に自分の唇を重ねた。
「じゃあ、キミのフネに行こうか」
わたしが声をかけると衣笠は無言で頷いた。
操艦の儀式は彼女たちの艦で行うのが仕来たりだ。これは二人の交歓にして交歓に非ず。ウォースパイトが言ったように聖別された交わりなのだ(第18話参照)
二人は湾内にある衣笠の水上機春鳥号に向かう。これから春鳥号に乗って重巡衣笠に向かうのだ。
だが、二人の前には海が広がっていて水上機までたどり着くことができない。
どうしたものかと考えていると衣笠がわたしの手を握った。
結ばれた二人の手が輝くと目の前の海が二つに分かれた。
わたしと衣笠は手をつなぎながら水が退いた海底を歩く。
「大丈夫?」「気をつけて」と声を掛け合いながら。
横から見た衣笠の顔は紅潮していたが、わたしの視線に気づくと優しく微笑み返してきた。
春鳥号の操縦席につくと衣笠は操縦桿を握る。
わたしは操縦桿を握った衣笠の手に自分の手を重ね合わせる。
そして衣笠の指の間に自分の指を入れて二人の指を絡ませる。
そして見つめ合いながら手を合わせて操縦桿をひく。
すると春鳥号のエンジンが動きだす。
二人の吐息は熱く激しくなる。
そして春鳥号は海面を疾走して離陸した。
離陸してもわたしたちは手を絡ませながら二人で操縦桿を握っている。
わたしは衣笠の指示に従って操縦桿を上に左右に動かす。
「ンッ…ンンッ…て…提督…アウッ!」
わたしに自分の手を導かれるかたちになる衣笠は、わたしが力を入れるたびに喘ぎ声をだす。
もっとも力を入れるタイミングは衣笠が目で指示しているので互いに導き導かれながら春鳥号を操縦しているのだ。
やがて春鳥号は重巡衣笠の上空に接近する。
するとそれまで甘い喘ぎ声を出していた衣笠は軍艦の顔に戻った。
「提督、これから着艦します。衣笠に搭載している九五式カタパルトは他のカタパルトとは違って直接その上に降りることができますが、目標が小さいので気をつけて」
わたしは操縦桿の上に置いた手を左右に動かす。しかし衣笠の手のひら越しなのでうまく行かない。
すると衣笠はわたしの耳元に唇を近づけてささやくように言った。
「ダメですよ。もっと繊細に動かさないと」
そして衣笠は、操縦管を握った自分の手のひらに重ねられた、わたしの手の甲にさらに自分の手のひらを重ねる。わたしはまたその上に自分の手のひらを…
かくして自分の両手のひらを互いに重ね合わせた二人。
互いにの手のひらを通じてそれぞれの体温を感じながらゆっくり操縦桿をコントロールする。
そして春鳥号は鳥が木の梢にとまるように九五式カタパルトの上に舞い降りた。
わたしは衣笠に手を取られて重巡衣笠の甲板に降りる。
「提督、気をつけてね」
先に甲板に降りた衣笠は振り向いてわたしに声をかける。
わたしは衣笠の顔をじっと見つめる。見つめられた彼女は頬を赤く染めながらニッコリと笑う
すると海からの強風が突如拭いた。
衣笠のスカートが浮き上がる。その内側から桜の花の匂いが漂う。そういえば衣笠の艦名の由来の一つと言われている神奈川の衣笠山は桜の名所だった。
そして衣笠の太ももをつたって桜リキュールのような液体がツツーッと甲板に流れ落ちた。
それに気づいた衣笠は
「イヤッ…! 恥ずかしい!...み...見ないで!」
しかしリキュールの強い香りと甘い声に刺激されたわたしは意馬心猿を制御できず…
後ろから衣笠を抱きしめた。
「あッ…! だ…だ…め…! 提督…ここではいけません。お洋服がシワになっちゃう」
それでも衣笠に自分の身体を密着させようとするわたしをかろうじて引き離すと。
「もう! 戦場では冷静さを欠いてはいけませんよ!」
いかにも軍艦らしいセリフでわたしをたしなめた後、指でわたしの額をチョンとつつき
「これから用意を整えますから。少しだけ後ろを向いていてください」
わたしの後ろでリノリウムを剥がす音が聞こえる。
その音が止んでしばらくたったので振り向くと船体をあらわにした衣笠が立っていた。
しかし気になることに200ミリ連装の主砲だけは覆いをつけたままだった。
衣笠はわたしの訝しげな表情に気がつくと
「ご…ごめんなさい。あなたにはわたしの全てを見せるつもりでした…でも…でも…やっぱり主砲だけはだめなの」
衣笠の表情を見ると羞恥以外の理由があるのではないか。わたしは彼女にやさしく話しかける。
「もしかして何か深い理由があるんじゃないかな。よかったらボクに話してみてくれないか?」
衣笠は少しだけためらったがやがて意を決したように
「わたしは…最初は古鷹や夕張と同じで、平賀譲先生の設計だったの」
そうだ。重巡の古鷹や軽巡の夕張は今までの外国の模倣から日本独自のデザインを目指して平賀譲が苦心した設計だった。
海軍で神聖視されている技術将校の平賀譲。古鷹も夕張も重武装と船体強度のギリギリのバランスを追及した設計と言われていた。
その古鷹の同型艦が青葉やわたしの目の前の衣笠だったはずだが…
「だけど…軍令部は平賀先生の設計には不満で…古鷹に装備された単装砲では発射速度が遅いという理由で…平賀先生が外国に行っている間に強引に連装砲に取り替えたの」
なるほど軍令部と艦政本部との間で意見の対立があったのか。平賀譲は平賀譲らずとあだ名されたほど、自らの設計については妥協しなかったという。もちろんそれを裏打ちする才能と研鑽があったのだが、新造艦を注文する側だった軍令部はやりにくかっただろう。
「わたしの再設計を担当した藤本喜久雄少将も平賀先生と並び称される天才技術者。連装砲では後部砲塔の重心が高くなりすぎると言われていたけど、船体のデザインや実戦の運用では問題の無い設計にしてくれたんです。でも…でも…ウッ」
衣笠はそこで嫌なものを思い出したかのように声を詰まらせた。
「平賀先生のお弟子の技術者の人たちは…わたしや青葉のことを…平賀デザインから逸脱した艦だって…ウウッ…友鶴事件で平賀派が艦政本部の実権を握ってからはますます陰口がひどくなって...わたしたちのことを欠陥艦だとを言う人もいたの…軽量な船体に分不相応な重砲を積み込んだ欠陥設計だって…ウッ…ウウッ」
衣笠はわたしの前なので必死になって嗚咽をこらえる。顔に当てた両手の指の間から涙がこぼれる。
今にも泣き出しそうな彼女を擦りながらわたしはやりきれない思いにとらわれた。
この逸話は設計思想が異なる二人の技術者、即ち保守の平賀譲と革新の藤本喜久雄との対立と言われる。
だが、その背後には艦艇の建造について、それを運用する側の軍令部と、設計を担当する艦政本部の主導権争いがあったはずだ。
つまりは衣笠は人間の組織の権力争いに巻き込まれたかたちになったのだ。そしてそれがここまで心の傷になっているなんて…
わたしは衣笠の肩を強く押さえ、正面から彼女の目を見つめて言った。
「衣笠、キミは欠陥艦じゃない。古鷹や加古だって後の改装でキミに搭載された連装砲に取り替えたじゃないか。それはキミの設計が認められたということだ。ボクは技術者では無い。軍艦のプラモデルだって子どもの頃に駆逐艦を雑に素組みしただけだ。フネのデザインなんかわからない。それでもキミの艦首から艦尾への流れるようなラインは美しいと思う」
衣笠は赤い目でわたしを見る。
「キミの竣工は昭和2年だったね。あの大戦になる直前の平和な時。まだ人々の心に余裕があり、美しいものを美しいと言えた最後の時代。そんな時代の精神がキミの船体に現れている。ボクはそんな気がするんだ」
「ア…アア…提督…戦争の無い日本で育ったあなたがそんなことを言ってくれるなんて…わたし…わたし…」
すると重巡衣笠の煙突から「じゅん…」という音をたてて水蒸気煙が吹き出してきた。
かくしてわたしたちは対の貝殻が合わさるように操艦し操艦される関係となった。
わたしは衣笠を操艦するために彼女を抱いて艦橋の一室に入る。
本来なら最初に機関の暖気を行うのだがその必要も無いほど衣笠のボイラーも二人の心も燃えさかっている。
わたしは情熱のおもむくままに衣笠を操艦する。
ひょっとしたらかなり強引な操舵だったかも知れない。
しかし、彼女に搭載された操舵システムはヘルショウ式電動油圧舵取機だ。
戦前の川崎重工業がライセンス生産を始め、衣笠の他には飛鷹に搭載された。そして戦後は民間の漁船に普及した優れた操舵システムだ。
わたしが面舵取舵を行うたびに吸い付くように応えてくれる。
「あっ……ああっ....んふぅっ……あん....あん……あはあっ……ふぁぁあん」
ヘルショウ式の油圧ポンプが甘い音をあげる。
「ひあん……ひぁぁあん......ていとくぅ……ていとくぅ……すきぃ…すきですぅ…」
わたしが力をこめるたびにポンプが反応する。まるで衣笠はわたしの楽器のようだ。
「だからぁ…………もっとぉ……もっとぉ……わたしをあいしてぇえ……んはぁ...ふぁん...そ...そこぉ....」
わたしの舵取りと衣笠の操舵システムとの相性はピッタリのようだ。
わたしはさらに高機動な操舵を試す。航空機による爆撃からの回避運動をあの大戦より高速で行うのだ。
「やぁん!!……そこはだめっ....そんなのわたしムリっ.....こわれちゃうっ....やめて....おねがいっ!!......」
「ボクの操舵に従うんだ衣笠。ボクが命を預けられる艦はキミしかいない!!!」
「あ♡ あ♡ あ♡ あ♡ ていとくぅ♡...ていとくぅ♡...わたしだいじょうぶぅ...だいじょうぶだからぁぁ...あぉぉぉぉ♡♡♡♡♡あぁぁぁぁあああああ♡♡♡♡♡♡」
わたしによって自らの操舵システムの性能を限界まで引き出された衣笠はそのまま意識を失った。
わたしは彼女に腕を回して横から優しく抱く。
その姿勢でしばらくすると衣笠は目を覚ました。
「ねェ……わたしのヘルショウポンプって乱れた音をたてていなかった?」
「そんなことは無いよ。とても素敵な油圧音だったよ」
「そう? 何だか恥ずかしいわ」
恥ずかしいと言いつつどことなく誇らしげな衣笠。
その通りだろう。先ほどの高機動は第二次大戦時の巡洋艦の限界をはるかに越えるものだった。
それにも関わらず、彼女の船体には何も異常は無かったのだ。
藤本喜久雄少将が再設計を行った衣笠の船体は100年後も立派に通用することが証明された。
自信を取り戻した彼女は、わたしに二つの主砲を隠すことなく見せる。
わたしは衣笠の主砲200ミリ連装砲を掬い上げる。わたしがふれたことのある、ウォースパイトの381ミリ砲、金剛の350ミリ砲に比べるとさすがに大きさでは劣る。
だが手のひらに乗せてみるとさすがにずっしりとした重さだ。衣笠の気持ちを考えると口には出せなかったが。
「どう? 重たい主砲だと思っているのでしょう?」
「い……いや……それは……」
「ふふふ……口に出しても大丈夫よ。わたしはあなたの操艦で自信がついたわ。さっきの高機動でもわたしの船体には異常が無かった。もう平賀デザインではないと言われても平気」
わたしは衣笠の強さに感動した。そして彼女の隠された性能をさらに引き出したくなった。
「じゃあ、次はキミの主砲のテストをやろうか」
「もう! あなたったら!」
彼女は照れた顔をしながらうなずいた。
かくして衣笠の船体のすみずみまで公試が行われた。
終わった後、二人はぐったりしながらそれぞれの身体を互いに持たれ合わせている。
衣笠は肌襦袢を身体に羽織っている。長谷川町子『サザエさん』でも描写されているが。外では洋装をしても家庭内では和装というのが戦前から戦後しばらくまでの日本女性だった。衣笠もそれに従っているというわけだ。
わたしは彼女に話しかけた。
「衣笠、今の時代の軍事ゲームのファンは自分がプレイするウォーシップをパートナーに見立てて嫁艦と呼んでいるそうだ。それにちなんでボクもキミのことを愛艦と呼んでいいかなあ?」
自分でもセンスの悪い呼び方だと思ったが案の定衣笠は吹き出した。
「ぷっ……なあにそれは? 今の世の中ではわたしたちをそんなふうに呼んでいるんだ」
しかし衣笠は吹き出した後に
「でも嬉しいっ」
とわたしに抱きついてきた。
しばらく抱擁を交わした後で衣笠は真面目な顔になって
「でも提督、二人の相性が良いからと言ってわたしにばかり乗っていてはダメよ。三笠さんも言ったでしょう? あなたはたくさんの艦と絆を結んで指揮官として成長しなければならない」
真剣な顔をした後で不安げな表情になり
「興が醒めちゃった? わたしのことが嫌いになった? でもこの事は言っておかなくてはならないの。重巡としての責任がわたしにはあるから」
「わかったよ。衣笠の言う通りだ。でも今日だけはこのままキミに乗っていたいな」
わたしは衣笠を抱き寄せてその額に接吻した。彼女もわたしに自らを預けてきた。
こうして二人で寄り添いながら夢うつつの境目にたゆたう。時間が静かにすぎていく。
夢とうつつを行ったり来たりしながらわたしは考え事にふけっていた。
…この柱島泊地は失われた過去の追憶と鎮魂のために作られたと聞いた。
しかし過去をよみがえらせても以前と同じでは無い。それを取り巻く環境が異なっているからだ。
そういえば『逝きし世の面影』で、古い文明は滅び去る。現在に残っているその残滓も新しい時代の価値観で再構成されたものにすぎないと書かれていた。
だが『中世の森の中で』(生活の世界歴史6)ではこうも書かれていたのを覚えている。滅び去る中世はその中に近代の種を宿していたと。
そうだ。過去は植物の種のようなものだ。前に進むも後ろに退くもその育て方次第だ。伝統文化を否定して暴走した社会主義国のように、現代が過去をどのように受け取るかで未来も変わってくる。
衣笠も戦後世代のわたしとふれあうことで戦前の記憶から前に踏み出した。
異端の平賀デザインという過去を消すことはできないが、その受け取り方を変えることで成長したのだ...
「あらら。また難しいことを考えてるんだ」
衣笠が指でわたしの胸にのの字を書きながら言う
「ああ、キミたちの行く末と来し方についてちょっとね」
「ふふっ...わたしたちを導いてね、提督」
返事の代わりにわたしは胸に抱いた衣笠の頭を撫でる。
どれだけの時間がたったかわからなくなった頃、洋上に飛行機のエンジン音が響いた。
重巡衣笠の95式カタパルトに金剛の操る水上機夏鳥号が着陸したのだ。
あわてて服を着て甲板に降りたわたしたち。
水上機の風防を開けて顔を出した金剛は
「提督、洋上訓練に出ていた艦隊が戻ってきたぞ。これから大演習のはじまりじゃ!!」(続く)
後書き
金剛「さて、提督と衣笠は当分こちらに戻っては来ぬの」
雪風「これから衣笠さん、船体のすみずみまで公試されちゃうんですねっ!」
ジャーヴィス「あんたってそういう話になるとホント嬉しそうね。ノンベーの時雨にスケベ~の雪風だっけ? 磯風から聞いたとおりだわ」
金剛「そういえばもうすぐ時雨が着任する頃合いじゃの。そうじゃ! わしの秘蔵の名酒を隠しておかねば!」
雪風「時雨はギンバイの達人ですもんね」
金剛「あそこまでいくとの。銀蝿ではなくて頭の黒い鼠というのじゃ。……それはそうとしてこのまま提督と衣笠を待っているだけではつまらぬの。もう一度、水上機に乗って柱島上空を見物するか」
ジャーヴィス「賛成! わたしは柱島ははじめてだからもっと色々見たいです!」
金剛「それでは決まりじゃの」
雪風「うわ~やっぱり空からの眺めはいいですねっ!」
金剛「あの島々の一つ一つはわしらの艦内神社の御神体が祀ってある神域じゃ。明治の御代に官に整理された祠も集めてある。三笠殿が宮司を努めている柱島神社を中心とする霊的防衛基地というわけじゃ」
ジャーヴィス「わたしたちロイヤルネイビーがケルティッククロスやオガム文字、ラテン語の石碑を立てるようなものですね。あ、向こうのほうにあるメカニックな区域は何ですか?」
金剛「あれは呉の工廠じゃ。よかったら上から見てみるか」
ジャーヴィス「いいんですか? 軍事機密じゃないんですか?」
金剛「かまわん、かまわん。わしらはもう家族みたいなものじゃからの」
ジャーヴィス「へー。柱島とは違って近代的な工場なんですね。物資の運搬にトラックや鉄道が走っているわ。あ、あそこの工場に何かが。」
金剛「おっと、あれだけはいかぬ。あそこに見えているものはGR計画の一部じゃ。ウォースパイトには話しておるがまだ艦隊全体に公表はできぬ」
ジャーヴィス「あ~見えなくなっちゃった~」
雪風「金剛さんっ! 豊後水道のほうを見てくださいっ!」
金剛「おっ! 洋上訓練に出ていた水雷戦隊の連中が戻ってきたようじゃ。このまま提督を迎えに行くぞ、二人とも」




