14.コップの中の希土戦争4(ギリシャ艦ヘファイストス登場。アヴェロフとメガリ・イデアの夢)
「1922年はギリシャ国民の記憶の中で最も痛ましい集団的トラウマであり、近代ギリシャの歴史における大きな転換点であることは間違いない。それは『小アジアの大惨事』である。これはギリシャで1919年から1922年の希土戦争におけるギリシャ軍の敗北を表すのに使われる用語である」
Dimitris Kamouzis"Reassessing the “Asia Minor Catastrophe” of 1922"(https://journals.openedition.org/diasporas/10419)より。
...1922年の希土戦争で敗北したギリシャには小アジアからの難民が流入し、それまでのメガリ・イデア(大ギリシャ主義)を捨てて新たな国家アイディンティティの構築に迫られた。
フリクト・アヴェロフの艦内に設けられたラウンジでわたしはアヴェロフの手料理をごちそうになりながら、アヴェロフ、ジャーヴィス、雪風の三人の歴戦の戦艦と運命というものについて語り合っていた。
するとそこに
「アヴェロフさーん、ランチをごちそうになりにきましたー」
という元気な声が聞こえる。
誰かと思ったらロイヤルネイビーの巡洋艦グラスゴーである。彼女は第二次大戦ではインド洋の海上護衛でアヴェロフと航を共にした縁で彼女とは国籍、艦歴を越えた古い戦友だと聞いた。
今回のアヴェロフとヤウズの揉め事ではウォ―スパイトやマレーヤの密命を受けて、アヴェロフの様子をそれとなく探っていたはずだ。
グラスゴー「アヴェロフさんはグラスゴーの大切なコムラードです! 」
「あー。マレーヤさんから聞いたとおりだ。アドミラルはこちらにいらしてたんですねー。ジャーヴィスも雪風もご苦労さま」
アヴェロフはグラスゴーにいらっしゃいと言った後で
「あら、よくレーダーや観測ブイに引っかからずに来れたわね」
確かに何の警告音も無かった。ジャーヴィスや雪風も怪訝そうな顔をしている。
グラスゴーは
「それはですねー。ここに来る前に本部の総合ポートでヘファイトスさんと会ったので先導してもらったんですよー」
続いて一人の女性が入ってくる。黒の長髪を後ろで束ねて青のローブを羽織っている。
グリークドレスで女性の魅力を強調しているアヴェロフとは異なり、ボディラインが隠れる寛衣を着用しているため、太い眉毛と相まってどことなく中性的な雰囲気がある。
その女性はわたしに気づくと
「これはこれは。キミが新しく着任したナヴァコスだね。わたしはポレミコ・ナウティコ (Πολεμικό Ναυτικό)所属の工作艦ヘファイストスだ。以後お見知りおきを」
ヘファイストス「これでも30年近くの艦歴があるんだよ。わが生涯は火と鉄とともにあり...さ」
工作艦ヘファイストス。名前の由来は言わずとも知れたギリシャ神話に出てくる炎と鍛冶の神である。『ジェーン年艦』1940年版の243頁によれば1920年にドイツの貨物船として竣工。1925年にギリシャ海軍の工作船となる。艦内には工場設備(Work shops and plant)が設けられていたと記されている。つまり艦を寄港させることなく修理が可能であり、ギリシャ海軍が地中海に迅速な展開をする時には戦闘艦のサポートを務めた艦ということになる。
『ジェーン年艦』1962-63年版の114頁によれば1962年には海軍のリストから除かれたというから、第二次大戦後まで現役だったのだ。
1936年。コルフ島近辺における工作艦ヘファイストス(https://www.facebook.com/photo/?fbid=778795067619491&set=a.133315576710889)
ヘファイトスは敬礼をした後でわたしに
「双子座のカルトスとポルクスはタスマニアでは双子の黒人の神で人類に最初に炎をもたらしたそうだ。ところ変われば神も変わる。知ってるかい?ナヴァコス」
どことなく学者みたいな口振りだ。やはり工作艦だけあって戦士よりもエンジニアとしての面が強いようだ。
彼女が出した質問だがわたしには心あたりがあった。
「フレイザーの『火の起源の神話』の冒頭に書かれていた逸話だね」
ヘファイトスはよくわかったねという顔をして
「その通りだ。フレイザーはイギリスから一歩も外に出ること無く、国内で入手できる文献だけで世界の神話を網羅する著作を書き上げた。イギリス人は太平洋の海から天空に聳える峰々に囲まれたシャングリラの国まで世界の事なら何でも知っている。そんな彼らと渡り合って自国の権益と誇りを守るのは中々に難儀なことさ」
ヘファイトスはそう言って空いている椅子に腰を下ろした。座る直前に隣の椅子を引いてグラスゴーに着席を勧める。
ジャーヴィスはグラスゴーに
「わたしたちロイヤルネイビーの今週の食事当番はマレーヤさんじゃないんですか?」
ここの根拠地は敷地内に大規模な食堂やフードコートなんてものは無い。理由は人間の職員や出入りの企業が存在せず、セントラルキッチンで調理供給するシステムを採用できないからだ。
そのため駆逐艦や巡洋艦の普段の食事の用意は艦内設備が充実している大型艦…基本的に戦艦の役割になっている。
太平洋戦争中に南方に進出した旧日本海軍では戦艦が石油タンクの代わりになって小型艦に燃料を供給していたが、そのやり方を採用したと金剛から聞いた。
「1943年、シチリア海峡で駆逐艦レイダーに給油するウォ―スパイト」(https://x.com/HiddenHistoryYT/status/1958889369697243593/photo/1)
ジャーヴィスの当然と言えば当然の質問に対してグラスゴーは
「あなただってわかってるでしょ? マレーヤさんの手料理ってま・ず・い・ん・だから。どこがと聞かれてもとにかくまずいのよ。あーあ早くウォースパイトさんの当番にならないかなあ」
同じくジャーヴィスも
「わたしも前はああいうものだと思ってましたが、榛名さんのところでごちそうになってから考えが変わりましたね。お煮しめでしたっけ。似たようなホームクッキングなのにどうしてあんなに味が違うのかしら」
まるで友達の家で晩御飯をお呼ばれになった小学生みたいな事を言う。
「でしょでしょ?」
とグラスゴー。
するとキッチンから料理を運んできたアヴェロフが
「あまり悪口を言うと後が怖いわよ。わたしも旗艦だった時には駆逐艦や潜水艦の噂話にはいつも注意してたもの。あの娘たち、ぜーったいに聞かれていないと思ってたけどね。退役する時にエリにそのやり方全部教えたっけ...はい、おまちどうさま」
パンとオリーブオイルで調理した海鮮料理、そしてヨーグルトサラダをみなで食べて、食後のコーヒーを飲んで落ち着いた後、頃合いを見たヘファイトスが
「主力艦会議の一件はグラスゴーから聞いたよ…」と言いかけて気づいたようにジャーヴィスと雪風をちらっと見る。
ジャーヴィスと雪風はそれを察して
「じゃあわたしたちはこの周辺の海域で警戒をしています」
と席を立った。
わたしとアヴェロフは二人に「悪いね」「ごめんなさいね」と声をかける。
ジャーヴィスは
「いいえ、いきなりドローンが飛んでくると大変ですから」
と冗談めかして言う。
雪風とジャーヴィスは「だけど基地の近くに停まっていたトレーラーから攻撃型ドローンが射出されるなんて怖いね」「何いってるの? こちらも同じ事ができないか考えるのよ!」と会話を交わしながら出て行った。
ヘファイストスは出ていく二人に手を振った後で改めて口を開く。
「グラスゴーから聞いたけど主力艦会議ではヤウズと激しくやりあったそうじゃないか」
「向こうから仕掛けてきたのよ。こちらは受けてたっただけよ」
口を尖らせて言うアヴェロフ。
グラスゴーは人差し指を唇に当てながら視線を上に向けて「そうかなー」と呟いた。「なによ」
とグラスゴーを睨むアヴェロフ。
ヘファイストスがわたしに尋ねる。
「そこのところはどうなんだいナヴァコス。キミは一部始終を見ていたのだろう? 事の次第を教えてほしい」
わたしは記憶をたどりながら考え始める。確か、フランス艦ダンケルクの発言でこの艦隊が人間世界の政情に介入するかどうかをみなが議論しだしたのだ。
そしてヤウズがトルコ共和国の外交政策を教訓にできないかと第二次大戦時のトルコの大統領イスメト・イノニュのタイトロープ外交を解説した。それから…何だったっけ
思い出した。その外交でヤウズが自分が軍事的抑止力としての役割を果たしたことを自慢したんだ。それに対抗心を燃やしたアヴェロフがバルカン戦争での自分の活躍を宣伝した。
そこで敵国だったトルコの事を罵ったり、ヤウズが第一次大戦以降は実戦に出ていないことをみくだす発言をした。
それに応じたヤウズが売り言葉に買い言葉で彼女の名誉を傷つけるようなこと…人間体のお前の胸は豊胸手術とか、巡洋艦が戦艦への悪口を言うなら会議から出ていけ等々を言ったので拗れたのだった(第7章~第9章)。
ただでさえややこしい経緯をわたしはかなりややこしく話してしまった。だがヘファイストスはすぐに理解してくれたようだ。
彼女はあきれ果てた顔をして
「一国の海軍の象徴である旗艦がよくもそんなチャルディッシュな争いをするなんて...いや、ナヴァコス、こちらのアヴェロフが皆に迷惑をかけてすまない」
アヴェロフはヘファイストスの言葉を聞いて
「子どもじみたケンカって何よ。わたしは母国の誇りを守ったのよ。ヤウズが話した歴史だとまるでトルコが正しいみたいじゃないの。各国の艦にこちらの話も聞かせておかなければならないわ」
柳眉を逆立ててヘファイストスを睨む。険しい表情でもやはり美人は絵になる…あ、こんなこと言ったらセクハラになるんだっけ。
ヘファイストスはわたしやグラスゴーに向かって頭を下げた後で表情を改めて
「それにしたって言い方というものがあるだろう。これではヤウズがキミの事を罵ってもお互い様になってしまう。ただ、ヤウズの発言で気になることが一つ。巡洋艦以下は戦艦に逆らうな、逆らったら会議から出ていけ…は捨て置けないな」
ん…そうか。そこに引っ掛かったのか。わたしはハッとなった。文献講読の時にこちらが読み飛ばしていた問題点を指摘された感覚に似ている。
ヘファイストスは話を続けた。
「バルカン半島には海軍を持っているけど、戦艦を保有していない国がいくつかあるんだ。ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア…黒海やドナウ川の警備のためだけどね。あとバルカン半島では無いけど東欧のポーランドもそうか。今後、それらの国々の艦艇がここに着任した時に代表権を持てるのかという問題に関わってくる」
「…なるほど…つまり南欧東欧の…その…とりあえず中小海軍国と呼ばせてもらうが彼らの名誉と権利の問題になってしまうわけだね」
…そしてギリシャ艦はそれらの国々の代表として発言している顔をする。ヘファイストスはなかなかに老獪だ。
するとグラスゴーが口を挟んだ。
「まあまあ…まだ起こっていない出来事よりも目の前の問題を考えましょうよー。司令部は心配していますよー。このままだと希土戦争が起こるんじゃないかって」
グラスゴーはヘファイストスの発言の重要さに気づいて話を反らしにかかったようだ。こちらもなかなかに食えない。
そういえばグラスゴーは第二次大戦後はインド洋艦隊や地中海艦隊の旗艦を務めたのだったか。
前者はインドの独立運動が盛んになっているなかで大英帝国の影響力を保持する任務であり、後者はあのマウントバッテン卿を乗せて成立間もないNATOの一員としての共同作戦だ。
いずれも軍事だけでは無くて外交的な見識も要求される。その経験を人間に生まれ変わった現在も受け継いでいるようだ。
するとアヴェロフは
「今のわたくしたちに戦争なんて起こせるわけないでしょ。二度めの大戦で活躍した潜水艦はまだ着任していない。アエトシュたち駆逐艦はイギリス艦隊に加わってスカパーフローで演習しているのよ。本拠地のサラミスを守っている戦力はわたくしだけなんだから」
アヴェロフはむくれたように言う。彼女はあまり政治的駆け引きは考えていないようだ。
そしてヘファイストスも口を開く。
「そもそも現在の我々には戦艦がいない。もしキルキスさんやレムノスさんがいたら主力艦会議でギリシャ艦は出ていけとは言われなかったかもしれないな」
昭和人情劇に良く出てくるセリフ「お父さんが生きていたらこんな悔しい思いはしなかっただろうねえ」みたいな事を言う。
ヘファイストスは最初はアヴェロフが迷惑をかけたと言いながらいつの間にかこれ以上ギリシャ側を責めたら悪いみたいな雰囲気を作り出した。中々に外交巧者かも知れない。
笑顔が一瞬ひきつったようなグラスゴー。そこへアヴェロフが発言した。
「なによ! あの二人がいなくたってこのサラミスはわたくしイェロギオフ・アヴェロフが死守して見せるわ! 生まれ変わる前だってあの二人が着任する前も撃沈されてからもこのわたくしがエラーバの栄光を守ってきたのよ!」
アヴェロフ「エーゲ海でのエラーバの栄光はこのわたくしが背負って来たのよ!!」
そういえばギリシャは1930年代にアメリカから戦艦キルキスとレムノスを購入して海軍力の増強を図った。
しかしこの二隻は1938年のナチスドイツによるギリシャ占領の際にドイツ戦闘機の急降下爆撃で沈められた。
アヴェロフがギリシャ海軍の一枚看板だった時代は戦艦二隻よりもずっと長いのだ。
とはいえ、ヘファイストスは今まで自分が作ってきた会話の流れをアヴェロフに壊されて内心で舌打ちをしたようだ。
「アヴェロフ、まだそんな強がりを言う!キミは日頃からヤウズをポンコツ艦と罵っているけどキミのボイラーはヤウズと同じくらいかそれ以上…」
そう言いかけてグラスゴーの同席に思い至ったようで口をつぐむ
するとアヴェロフは急に腰をさすりはじめた。
「痛たた…痛たた…さっきの神話兵器アストロペレキの発射が効いたわ…今までは気力で押さえていたけどボイラーというあなたの言葉を聞いて一気に痛みが…グラスゴー…お願い」
アヴェロフが助けを求める前からグラスゴーは席を立って彼女に駆け寄り腰を甲斐甲斐しく擦りはじめた。
「ああ…そこ…そこ…ボイラーの不調が腰にきた時はあなたにいつも擦ってもらってるけど助かるわあ」
「アヴェロフさんのボイラーはインド洋にいた時から調子良くなかったですもんね」
「ああ…そこよ…そこのマナの流れを刺激してもらえればかなり楽になるわ…」
その様子を見ていたヘファイストスはやや狼狽した口調で
「アヴェロフ…一国の主力艦のボイラーの稼働状況は慎重に扱う情報なんだ…それをいくら仲が良いとはいえ他国艦のグラスゴーに…」
アヴェロフは事もなげに
「だってボイラーの調子が悪いって言ったらあなたはハンマーでガンガン叩くだけだもの。グラスゴーにさすってもらったほうがずっといいわ。グラスゴーは一番上手なのよ」
グラスゴーは
「ヘファイストスさん安心してください。アヴェロフさんのボイラーの話は誰にも言ってませんよ。ウォースパイトさんとマレーヤさんに未確認情報として伝えただけですからー」
ヘファイストスは降参だとばかりに肩をすくめて
「今のを見ただろう? ナヴァコス。大英帝国と渡り合うのは本当に難儀なことさ」
と苦笑した。
アヴェロフ「ボイラーの調子が悪くなるといつもグラスゴーに腰をさすってもらうけど助かるわあ」
グラスゴー「アヴェロフさんはこう見えても気苦労が多いですもんね」
アヴェロフ「こう見えてもって何よ!」
「アストロペレスキは出力の負担をもう少し押さえた設計にしなければならないな」
ソファーベッドを出して横になり、グラスゴーに腰を揉まれているアヴェロフを傍らに見ながらヘファイストスは一人で呟くとわたしに話し出した。
「これはナヴァコスに聞いてほしいのだが、アヴェロフが就役したのは1913年、わたしがポレミコ・ナフティコに着任したのは1926年だ。13年は一世代にも満たない歳月だが、その間に我が母国は未曾有の変化を経験した」
「ひょっとして第一次大戦後の希土戦争とトルコ共和国の独立国家としての地位が確定したローザンヌ条約?」
ヘファイストスはそこまで知っているなら話は早いと大きくうなずき、
「そうだ。地中海各地にちらばる我らエリネスの統一国家建設を目指した大ギリシャ主義…メガリ・イデアの夢は コンスタンティノポリを首都とすることで完成する…」
わたしは彼女に話した。
「古代ギリシャの後継者を自認した近代ギリシャの民族主義がアテネでは無くイスタンブルを首都に望むのは違和感があるように見える。だがキミたちはビザンツ帝国の後継者として自らを正教徒とも認識していた…いにしえの都コンスタンティノープルを異教徒の支配から奪還することは宗教的な使命だった…そうだね?」
「その通りだ。外国人のキミがわたしたちのことをそこまで知ってるとは驚いたよ」
この問題が起きてから村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史』(中公新書)を急いで読んでおいて良かった。日本の新書文化には助けられた。
わたしの知識が付け焼き刃であることを知ってか知らずかヘファイストスは話を続ける。
「メガリ・イデアの夢はバルカン戦争の勝利から第一次大戦によるオスマン帝国の崩壊でかなうかに見えた。セーヴル条約でオスマン帝国の解体が取り決められ、イギリスの内諾も得て我らエラーバの軍隊は小アジアのスミルナに上陸して小アジアを領有しようとした。これが希土戦争の始まりだ」
わたしはヘファイストスに話しかけた。
「20世紀末から21世紀初頭を日本で生きて来たボクにとってはギリシャは南欧の中小国...と言ってはいけないのだろうが少なくとも国際政治で大きく報道される国ではない。だから20世紀初頭のギリシャがエーゲ海の覇権を目指す軍事大国だったというのはとても意外に聞こえるんだ」
ヘファイトスは頷いた。
「うん、キミの疑問はもっともだ。だがこの時のエラーバは建国後100年に満たない若い国家だった事を思い出してほしい。一つの民族としてまとまり切れておらず、一つの国家として建設途上にある国にとっては高い目標が必要だった。それがメガリ・イデアだ。自己形成がなされていない若者が大きすぎる夢を抱くようなものさ」
ヘファイトスはさらに話を続ける。
「わたしはポレミコ・ナフティコに入るのが遅かったからこの時代を直接には経験していない。だが経験していないからこそ客観的に見ることができるのかもしれないな。古い乗組員が話していたことを聞いたがバルカン戦争で勝利した後の高揚感は非常に大きかったという」
ヘファイトスは一枚の絵を取り出した。「これはバルカン戦争後に作られたポスターだよ」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/New_Greece.jpg
これは文字から判断すると1913年にギリシャで作成されたものと考えられる。ギリシャ文字の乏しい知識で判読しようと試みる。せめて青い文字で書かれたタイトルだけは読んでおきたい。文献を読む時のいつもの癖で独り言をぶつぶつとつぶやく
「エータ・ニュー・エプシロン・アルファ。エプシロン・ラムダ・ラムダ・アルファ・シグマ...後の言葉はエラス...そうかヘラスと同じでギリシャの事か。しかし前の言葉がどうしてもわからない...」
文献購読の演習か資料の現地調査で苦闘する学生のようなわたしを見てヘファイストスは笑いながら教えてくれた。
「前の言葉はイ・ネア。エータで主格を表す女性形の単数冠詞でネアは新しいという意味さ。後の言葉はキミが読んだとおりエラスでギリシャの事だ。新しいエラス。バルカン戦争で新しく領有したマケドニア、テッサリア、そしてクレタ島をはじめとするエーゲ海の島々にわれわれの国旗が書かれているのが見えるかい?この戦争で我らが国土は二倍になり、エーゲ海は我らが海となった。1821年の独立時と比べればまさに新しいエラスと言えるね」
わたしはポスターを見つめていて気付いた「あ、ギリシャ艦隊の真ん中にいるのはアヴェロフじゃないか」
ヘファイストスは
「その通りだよ。ヘラス海戦、レムノス島の海戦でギリシャを勝利に導いたアヴェロフはまさに救国のヒロイン。オペラか映画の花形女優のようだったって古い水兵が言っていたよ」
そのアヴェロフはグラスゴーに腰を揉まれながら「ああ...そこそこ...」と気持ちよさそうに呟いている。
ヘファイトスはいたずらっぽく「もっとも今ではヒロイン役を演じるにはいささか年を取ったけどね」
ヘファイトスが次に出したのはカラー入りの地図だ。「これは1920年のセーヴル条約の締結で手に入れた地域を含めたエラーバの領域を示したものだ」
https://en.wikipedia.org/wiki/Megali_Idea#/media/File:Map_of_Great_Greece_(Megali_Hellas)_Venizelos_c1920.jpg
ヘファイストスが解説する。
「赤で塗られた地域は我がエラーバの領土、プロポンティスΠροποντίσ海周辺の赤の斜線は列強の管理のもとに置かれた地域だ」
「なるほど小アジアがギリシャの領土になっている。ギリシャはエーゲ海を完全に自国の内海にしたということか。これがメガリ・イデアの完成ということだね?」
ヘファイストスは頷く。
わたしはふと気づいてヘファイストスに聞いた。
「左上の人物は誰だい?」
ヘファイストスはちょっと誇らしげに
「当時のギリシャの首相ヴェニゼロスだよ。クレタの政治家でアテネに迎えられて首相となった。メガリ・イデアを体現する人物だよ」
ヘファイストスはヴェニゼロスの功績についてわたしに教えてくれた。
「実は第一次大戦の当初はエラーバは中立国で一時はフランスに占領された。しかしその後で首相になったヴェニゼロスの決断で我が国は連合国に加わった。そしてイギリス首相ロイド・ジョージとの間に密接なパイプを作ったんだ。イギリスの後押しもあってセーヴル条約の締結でエラーバは小アジアを領有できるところまでいったんだよ。」
そしてヘファイストスはできの悪い生徒におしえる教師…いや息がかかるぐらいに二人の距離が近いから家庭教師の口調で
「セーヴル条約で領有を認められた地域を実効支配するために小アジアのスミルナに陸軍を上陸させた。当然ではあるがアンカラのトルコ共和国政府との間に軍事的な衝突が起きる。それが希土戦争なんだ」
すると横になっていたアヴェロフが
「ヘファイストスにグラスゴー。あなたたち二人はあの戦争を経験していないけど、わたくしは参加したのよ。大戦が終わった後は戦勝国の一員として コンスタンティノポリに艦を進め、希土戦争中もずっと金角湾に我が国の旗を立てていたわ。バルカン戦争や大戦で国内は消耗していたけどメガリ・イデアの夢が実現したの。わたくしもエラーバの国民の期待に応えられたのでとても誇らしい気持ちになった。つい昨日のことのように覚えているわ」
もっともトルコにとっては侵略である。自分たちの本拠地を占領されたトルコ海軍はどうしていたのだろう。そのことを聞くとアヴェロフは
「その間、ヤウズもハミディエも連合国の監視下に置かれて手も足も出せなかったの。いい気味よ。まったくバルカン戦争と並んで我が生涯で最高の季節だったわ」
ハミディエ「希土戦争ではわたしたち海軍は何もできずとっても悔しかったわ」
ヤウズ「ああ。港には不確かな情報しか入って来なかったから心配でたまらなかったな。だがサカリヤ川の決戦で勝利したために我がトゥルキエはアナトリア半島を中心とした国民国家として再出発することができたんだ」
だがヘファイストスはアヴェロフの喜びに水を差すように
「しかし運命の三女神の気まぐれで情勢はあっという間に変わった。1921年8月のサンガリオス川の戦い…ここで我が軍は新生トルコ共和国軍に敗北し、小アジアから追い落とされた。その後のローザンヌ条約で列強もトルコ共和国の小アジア支配を承認した。 コンスタンティノポリを首都とするメガリ・イデアの夢は潰えたのさ」
グラスゴーがアヴェロフの腰を揉みながら
「そういえばあの戦争の時にチャナク危機が起こって連合国とトルコ共和国が危険な関係になりましたよねー。その時にダーダネルス海峡に派遣されたカラドックさんやキュラソーさんから聞いたんですけどね。サカリア川で敗北した後もギリシャ政府がコンスタンティノープル占領するための遠征軍を出すって聞いてわたしたちグレートブリテンの首脳部は呆れたそうですよ。戦争中でもヴェニゼロス首相とコンスタンディノス国王の間で権力争いをしているし、これ以上付き合ってられないって手を引くことを決めたそうです」
イギリス軽巡カラドック「チャナク危機ではいつムスタファ・ケマルの軍隊と砲火を交えるんじゃないかって冷や汗をかいていたわ」
イギリス軽巡キュラソー「あの事件でロイド・ジョージ内閣が潰れちゃったわね。カナダ政府も本国が起こした戦争に巻き込まれるのはいやだって言いだすし、あまりいい事がなかったわね」
茶化したようなグラスゴーに対してへファイストスは真剣な表情で語る。
「これがメガリ・イデアの現実なんだ。エーゲ海のエリネスが一つの国にまとまったけど、旧領土と新領土の官僚や政治家たちの間でポストの奪い合いが起きてしまった。コンスタンディノス国王と新領土であるクレタ出身のヴェニゼロス首相の争いもそれが背景にある。政争は我が国の宿痾になってしまった」
二人の醒めた会話を聞いてアヴェロフは
「あなたたち二人はあの時あの場所にいなかったから他人事のように語れるのよ。あの1923年の小アジアのカタストロフは我が国にとって悲劇だったのよ。たくさんのエリネスが殺されたり故郷を追われて難民になったのよ!」
するとグラスゴーはアヴェロフの腰を揉みながら
「でも…スミルナに上陸した時にギリシャ軍はたくさんのトルコ人を殺害したからどちらが悪いとも言えないってカラドックさんやキュラソーさんから聞きましたよ。お二人はあの時にあの場にいたんですけどー」
フンと言ってそっぽを向くアヴェロフ。
そしてヘファイストスは
「あの1923年から我がエラーバの歴史も新しい段階に入った。トルコ共和国との国境を定めたローザンヌ条約で、我々はこれ以上領土を拡大するのは不可能になった。政権を取り戻したヴェニゼロス首相はトルコとの関係を安定させたがそれとともに海軍の役割も変わったんだ」
ヘファイストスはここからが大事という口調で
「つまり、エーゲ海の覇権を得るために拡張政策を取るのでは無く、現在の領海維持を目的とする海軍だよ。そしてイギリスの勧めもあって国家財政に負担をかけないコンパクトな海軍に方向転換をしたんだ。アヴェロフ、もうメガリ・イデアを夢みることができた時代では無いんだ。いつまでも向こう気の強さは通用しないぞ」
ヘファイストス「メガリ・イデアの時代をいつまでも引きずるのはやめるんだアヴェロフ」
しかしアヴェロフは納得しない。
「メガリ・イデアの夢を捨てて現実に沿ったフロティラ・フリートにした結果はどうなの? ナチスドイツの侵略にはなす術も無かったじゃない。奴らに占領された母国から亡命した時の悔しさは忘れないわ。強気じゃないと小国は守れないのよ!」
ナチスドイツの侵略を持ち出されてヘファイストスはもちろんのこと、グラスゴーも黙ってしまった。ここはわたしが何か言わなくては。
「アヴェロフ、先ほどボクはキミと運命について対話したね。その時にキミはトルコと戦うのは果たして自分の運命なのかと悩んでいたじゃないか。人間の姿に生まれ変わって異界という新天地に来ているのに過去に縛られることはあるのだろうか?」
この対話を行った時、わたしとアヴェロフはほんの一瞬だが互いの吐息が触れ合う距離まで近づいた。それは二人だけの交情であり交歓だった(第13章)。それを思い出したのかアヴェロフは顔を赤くして
「そ...それは...あの時は...ナヴァコスと二人だけだったからつい弱音を吐いたけど...でもダメ。これはわたし一人の事では無いの。ポレミコ・ナウティコの誇りがかかっているのよ、ここでわたくしが退いたら、イギリス艦隊に加わって頑張っているアエトシュやオルガたち駆逐艦ががっかりするわ。そうよわたくしは退くわけにはいかないのよ!」
この異界の基地においてギリシャ艦は艦隊の規模が小さい。そのためギリシャの駆逐艦はイギリス艦隊に加わって演習や哨戒を行っている。
近代においてギリシャ海軍は陰に陽にイギリス海軍の援助を受けてきた。第二次大戦では多くのギリシャ艦がナチスドイツに占領された母国を奪還するために連合国に加わってイギリス艦とともに戦った。その歴史がここでも反映している。
ヘファイストスは顔を赤らめたアヴェロフとわたしの顔を交互に見て咳払いすると
「でもアヴェロフ、ナヴァコスから経緯を聞く限りではあの口論は向こうばかりに非があるわけでも無いじゃないか。我々の誇りを守ることも大事だがやりすぎるとトルコだけじゃなくて第三国も敵に回すことに...」
その言葉にアヴェロフは却って闘志がかき立てられたらしい。
「ハッ! どちらが良いか悪いかなんてこの際問題では無いわ。なぜ戦いが起きたかなんてのもどうでもいい。わたくしはたった一人で大勢の敵に立ち向かう! これが全てよ! オリンポスの神々もきっとご加護を下さるわ! これで見捨てるような神々ならこちらから願い下げ!!」
アヴェロフは拳を握りしめて立ち上がる。そのためそれまで甲斐甲斐しく彼女の腰を揉んでいたグラスゴーはその反動で後ろに倒れてしまった。
ヘファイストスは手のひらを額にあてて
「古い伝説に出てくるキンメリア人の戦士みたいな事を言うじゃないか。でもあのクルガンの戦いの武勲詩では一人では無く二人で邪教の使徒と戦ったはずだが」
自分を忘れてはいませんかと言いたげなヘファイストス。
アヴェロフは言う
「だってあなたは非戦闘艦でしょ。もし、わたくしの帰還がかなわなかったらあなたは親友としてこの戦いのクレオス κλέοςを語り伝えて頂戴。」
アヴェロフがそこまでいうのでヘファイストスも黙っていられなくなった
「キミが撃沈されるのを黙って見てろというのかい? わたしだって自衛用とはいえ4インチの対空砲を4門装備してるんだ。水上艦は無理だけど上空から襲い掛かる戦闘機ぐらいは撃墜してみせるさ」
ヘファイストスのセリフを聞いてアヴェロフは感極まったようすで
「ヘファイストス...あなたがそこまで言ってくれるなんて...グスッ...グラスゴー、ウォースパイトやマレーヤに伝えなさい。ギリシャ艦の意志はこの通りよ。ここがわたくしたちのテルモピュライよ! 300人の戦士の魂がわたくしたち二人の中で生きてるわ! ってね」
ヘファイストスはアヴェロフのセリフを聞いてあっという顔をした。後ろに倒れていたグラスゴーは後頭部を押さえながら立ち上がると
「まるで全ての国に宣戦布告するようなものじゃないですか! こんなの伝えたらウォ―スパイトさんに怒られるわ! いいえウォ―スパイトさんに話せと言われても今の言葉は絶対に伝えませんからね! お願いだから落ち着いてアヴェロフさん!!」
いつものからかうような口調とは違い、今は本気になって心配する戦友グラスゴーの様子を見てアヴェロフはあまりにも自分が感情的になっていることに気づいたようだ。
「わかったわ。今の言葉は取り消す。でもナヴァコス、ヤウズの方から謝ってこない限りわたくしは一歩も退かないわよ」
わたしはアヴェロフにゆっくりと近づいた。彼女はわたしをじっと見つめる
「アヴェロフ…キミは1897年の戦争でオスマン帝国に敗北したギリシャの期待を一身に背負った艦だ。バルカン戦争、第一次世界大戦でキミはその期待に応えた。だが、キミがコンスタンティノポリにギリシャの国旗を立てて5年も立たないうちにメガリ・イデアの夢も潰え…」
アヴェロフは黙って聞いている。
「ゼウスの宮殿に置かれている二つの甕には禍いと幸運が入っていて人間には二つを混ぜて…あるいは禍いだけを飲ませる。神々の作り出した運命では幸せだけを手に入れられる人間というものはいないんだ。この一点だけはそれぞれ親友と息子を殺された敵同士のアキレスとプリアモス老王が共感できたことなのだなあ…」
アヴェロフはうつむく。その顔から一滴二滴何かが落ちたようだが気のせいかもしれない。
「ごめんなさい。一人になりたいの。」
と彼女は言った。わたしたちはアヴェロフを残してラウンジから出る。ついとっさに言った言葉であるがやはりいらぬ一言だっただろうか。(続く)
ヘファイストス「さて…ここからどのような工程にするのか考えなくてはならないな」
グラスゴー「ヘファイストスさーん。ここにいたんですかー。あ、その机に置いてあるブループリントは何ですかー?」
ヘファイストス「やれやれ、本来なら軍事機密なのだがグラスゴーには隠し事をしても仕方ないな。アヴェロフの新型ボイラーの設計図だよ。現在、彼女に搭載しているものはかなりガタがきていてね」
グラスゴー「一つじゃなくていくつかの設計図があるんですね」
ヘファイストス「ああ、これはアトランティスで用いられていたオリハルコンで作ったもの、これはアカイア人の使っていた武器から鋳造しなおしたブロンズ、これはドーリア人の神殿の廃墟から集めてきたマーブル石を再構成したもの、…」
グラスゴー「どれも魔法がかかっているんですねー」
ヘファイストス「ああ、だがわたしのような工作艦の魔法力では完成させるのに時間がかかりそうだ。われわれエラーバ艦にも戦艦がいたらあっという間なんだが」
グラスゴー「ウォースパイトさんたちならすぐにできますよー。グラスゴーが頼みましょうか?」
ヘファイストス「ありがとう。だがキミだから本音を言わせてもらうが、あまり大国の援助に頼りたくは無いんだ。いや支援そのものには大変感謝をしている。ただ本国の政情次第ですぐに打ち切られてしまうからね。第二次大戦中のエラス・レジスタンスのようにね」
グラスゴー「あれはレジスタンス内部の主導権争いが武力闘争に発展したからじゃないですかー。でもそう考えるのもわからないではないです。グラスゴーの最後の仕事はスエズ危機ですけど、あれもソ連を押さえるのにアメリカを当てにしていたんですけどね。結局ダレスさんにはしごを外されて中東を失っちゃいました」
ヘファイストス「そういえば今のウクライナもNATOもアメリカの支援に依存しすぎたせいで大変なことになっているな。やはり自国は自国で防衛するしかないということかな」
ジャーヴィス「ヘファイストスさん、グラスゴーさん、アヴェロフさんどうなりましたか?」
雪風「なるべく口を出さないようにするつもりでしたがやっぱり心配で」
ヘファイストス「そうか、キミたちも心配してくれるのか。いや、ありがとう。でももう少し時間がかかりそうだ」
グラスゴー「アヴェロフさんに何とか次回か次次回で吹っ切ってほしいなあと思ってるんですよー。それにはみんなの助けが必要です。グラスゴーもお手伝いします!」
ヘファイストス「みんな、本当にありがとう。次回『コップの中の希土戦争5(時は移りところは変われど)』」
グラスゴー「次回もサービスぅサービスぅ!」




