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12.コップの中の希土戦争2(トルコ艦ハミディエ登場。他ヤウズ、雪風、ジャーヴィス)

「バルカン戦争中の海軍力の行使は、実質的な利点を持ち、陸上作戦と重要な関係があることが示された。戦術や戦略の問題については、現在の段階(1914年)で得られる乏しい情報から新たな結論を導き出すことはできない。...(中略)...ただ、トルコの巡洋艦ハミディエの単艦による通商破壊戦に過度の重要性を与えてはならない。ギリシャ艦隊の弱さだけがそのような襲撃を許したのであり、戦局に実質的な影響を与えることはできなかった」『ブラッセー海軍年鑑(The naval annual)』1914年の号の168頁より。※文章の一部は訳者による改変


原文:The exercise of sea power was thus shown to have been of material advantage, and to have had an important bearing on the land operations. Upon questions of tactics or design , no new conclusions can be drawn from such meagre details, but the immense value of wireless telegraphy was demonstrated by its use by the Greek Admiral. Too much importance must not be attached to the escape and exploits of the Hamidieh. Nothing but the weakness of the Greek Fleet permitted such a raid, which, moreover, could have no material effect on the progress of the war.

巡洋戦艦ヤウズの士官用サロンで、わたしたちが歓談していると急にブザーが鳴った。海峡に接近する艦があるという合図だ。


するとわたしとともに歓談していたジャーヴィスや雪風は急いで自分の艦に戻っていった。


そしてヤウズはそうだ、忘れていたという顔をして


「今日はトゥルキエ艦がもう一人来るんだ。オルミラルに引き合わせよう」


わたしは甲板に出て洋上の向こうに目を凝らす。するとトルコの軍旗である三日月を掲げた三本煙突…専門用語ではファンネルだったか…のウォーシップが近づいてくるのが見えた。あれがヤウズの言うもう一隻のトルコ艦か。


ファンネルから何かが吹き出ている。…煙? いや異界に生まれ変わった彼女たちは神話の力で艦艇を動かしているので石炭も石油も使っていないはずだ。


もう一度よく見てみると三本のファンネルから出ているのは火炎だった。火柱のように轟々と空へ吹き上がっている。まるで艦艇の感情を表しているかのようなものすごい剣幕だ。駆逐艦ジャーヴィスも駆逐艦雪風もあわてて進路を譲る。


その艦艇はわたしの乗っているヤウズに接舷しようと近づいてくるが、遥か手前で一人の女性がその艦からヒラリとこちらに飛んで来た。


こちらに飛び移るなりその女性は

「ヤウズ! ヤウズはどこにいるの!」

と甲高い声で叫ぶ。


甲板へ出てきたヤウズは

「おお、ちょうど良かった、オルミラルにハミディエさんを紹介しよう。我がオスマン帝国・トゥルキエ共和国の誇るイギリス生まれの巡洋艦だ。艦歴はわたしよりも長いんだぞ」


紹介されたハミディエを改めて見てみると黒のヒジャブとアバヤというイスラム教徒の女性ムスリマの服装をしている。


ヒジャブの隙間からちらりと見える髪の毛がブロンドのウェーブなのはイギリスで建造された名残りなのか、それとも中央アジアのコーカサス系の臣民が多かったオスマン帝国の国際性を反映しているのか。


目はパッチリというよりもバッチリという感じでかなり気の強そう…姐さんと呼ぶべきなのかな。彼女はわたしに挨拶してくれた。


「あなたが新任のオルミラルね。トゥルキエの巡洋艦ハミディエよ。バルカン戦争ではオスマン海軍にハミディエありとその名を轟かしたこのわたしを覚えておいてね」


その後でヒジャブから金髪がはみ出ていることに気づいて

「あら、ちょっと失礼」と言って髪の毛をわたしから見えないようにヒジャブの中に押し込める。


ヤウズが誇らしげに解説する。

「ハミディエさんはバルカン戦争では地中海や紅海に単艦で出て通商破壊戦を行ったんだ。その大胆さと勇敢さはヨーロッパでもよく知られていた。わたしはその後にドイツからオスマン帝国に来たのだが、ダーダネルス海峡が見えてくるとわたしのドイツ人クルーは話していたよ。イスタンブルにはあのハミディエがいるぞってね」


挿絵(By みてみん)

ヤウズ「ハミディエさんは我らがオスマン艦隊の誇りなんだ」




挿絵(By みてみん)

ハミディエ「バルカン戦争中のわたしのゲミ・コムタナ(艦長)gemi komutanıだったラウフ・オルバイ大佐が戦後にドイツを訪問した時、ヴィルヘルム二世皇帝陛下からわたしの通商破壊作戦についてお褒めの言葉を頂いたそうよ」


わたしへの挨拶を済ませるとハミディエはヤウズに向かって

「バフル・アル・アフマルの海は異常無しよ。補給でアル・イスカンデリアに立ちよったけどそこの基地の自動プラントも問題無く稼働していたわね。良い小麦が育っていたから積み込んできたわ」


彼女たちは異界の土地に自らにゆかりのある地名を任意でつけているようだ。


ハミディエはヤウズにそう報告するとすーっと息を吸って

「ちょっと! イギリスの巡洋艦から聞いたわよ!! ヤウズ、あなたは主力艦会議でアヴェロフに暴言を吐かれたのですって? あのシャイターン(悪魔)!! みんなの前で我が海軍のバイラク()ゲミシ()(Bayrak gemisi)を侮辱するなんて許せないわ!!」


先日の主力艦会議でヤウズとアヴェロフが喧嘩になった経緯がもう知れ渡っているのか(第8章、9章)。ハミディエはイギリスで建造されたからそのつながりでイギリスの巡洋艦から聞いたのだろうがえらい速さで情報が伝わるなあ。


するとヤウズは両手で彼女を押さえるように

「まあ落ち着いてくれハミディエさん。わたしだって受けた侮辱をこのままにしておくつもりはないさ。だが行動する時は感情的にならず冷静に…」


「これが落ち着いていられるものですか! あなただけが悪く言われたのでは無いのよ! わたしたちや乗組員まで侮辱されたのよ! オルミラルもそう思うでしょ? そう思うわよね? 返事! 口ごもっていないでエヴェト(はい)Evetってちゃんと言いなさい!! ああ悔しい、こうなったらバイカル社のドローンでユナン(ギリシャ)艦の基地に非対称攻撃を仕掛けてやろうかしら!!あらオルミラル、そんな顔をしないで。何も宣戦布告ってことじゃないのよ。ちょっと脅かしてやるだけ」


ハミディエの勢いにわたしが何も言えずにいると彼女はオスマン帝国皇帝の紋章があしらわれた懐中時計を取り出して


「あーっ!! そろそろ礼拝の時刻だわ。ヤウズ、メッカのカーバ神殿は現在の位置から演算するとどちらの方角になるの?」


ヤウズが手を上げて指し示しながら答える

「そこから後甲板に出て向かって右40度だ。白線で印をつけてある」


ハミディエは

「わかったわ、ありがとう」

と言って駆けだしたがすぐにくるっとこちらを振り向いて

「ああ、ヤウズ。あなたは世俗化が進んだ時代の影響を受けているけどは礼拝はちゃんとやるのよ。旗艦の仕事で忙しいのはわかるけど」

一方的にしゃべった後でパタパタと走り去っていった。


そういえばハミディエはイギリスで建造されたとはいえ最初からオスマン海軍の艦だった。一方でヤウズはもともとドイツ艦の所属で後になってオスマン海軍に加わった。同じトルコの艦といっても宗教への姿勢は異なるようだ。もっともイスラム教だって時代や地域によって教義の解釈や戒律の遵守はかなり異なるようであるが。


ヤウズは苦笑しながら

「すまなかったな、オルミラル。中に入ろうか。ああ、ジャーヴィスと雪風は変事が起きた時に即応できるように内海内を警備してくれるそうだ」


そうか。あの二人には色々と世話をかけるな。そしてわたしには考えるところがあった。ハミディエってヤウズは自分より艦歴が古いと言っていたし、バルカン戦争では活躍したそうだし、ひょっとしたらトルコ艦の意志決定では重要な役割を果たしているんじゃないだろうか。


そこでわたしはヤウズに言った

「ハミディエについてもう少しレクチャーしてくれないか」


ヤウズはわたしがトルコ艦に興味を持ったと思ったらしい。

「喜んで! 艦長室には資料がそろっているからそちらに行こう」


巡洋戦艦ヤウズの艦長室の中に入るとラテン文字で書かれた現代トルコ語とアラビア文字で書かれたオスマン語の書籍が入った書棚が目に入った。そして、一国の旗艦としての知識と情報が集約された部屋の中にあるのは優美な装飾のチェアとデスク。


ヤウズによればオスマン帝国最後の皇后ナジケダ・カドゥンが愛用していたものを模したという。彼女は細やかな心遣いをする人と言われていたそうだ。そういわれてみれば戦艦の兵器としての側面を忘れさせるような温かさのある家具である。


さらに部屋の奥に目をやると大きな地図が壁にかかっている。それには見覚えがあった。16世紀トルコの有名な航海家であるピーリー・レイスの作成した地図じゃないか?


挿絵(By みてみん)

ピーリー・レイスの地図(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/70/Piri_reis_world_map_01.jpg)


それをヤウズに聞くと彼女は目を丸くして

「よくわかったな。いや、わがトゥルキエの有名な航海家を日本人のお前が知っているなんて嬉しいな」


わたしが大学の史学科に入って最初の講義が確かピーリー・レイスについてだった。その教授がピーリー・レイスによる地理書『キターブ・イ・バブリエ』の訳注をライフワークにしていて、一緒に地図の話もしてくれたのだっけ。使いふるされた言葉だが大学の授業には意外なところで助けられるものだ。


ヤウズはわたしの話を聞いて

「そうか、日本人でもピーリー・レイスを研究している学者がいるのか。彼の地図に書かれていたテラ・アウストラリス(南の大陸)。人間の学者の間では南極大陸かどうかと議論があったが、この異界にもあるかもしれないな。いつか行ってみたいと思っているんだ」


挿絵(By みてみん)

ヤウズ「もう一度冒険の旅に出てみたいな。まだゲーベンだった頃のあの航海が懐かしく思えるんだ」


そしてヤウズはおっと話がずれてしまったと言ってハミディエに関する資料を空中に写し出してくれた。


防護巡洋艦ハミディエ、1904年竣工。一口に巡洋艦とは言っても防護巡洋艦とは主機室の周囲にだけ鋼鉄の装甲を施すもので、アヴェロフのような舷側にまで装甲を張った装甲巡洋艦とは異なる。防御に劣る分機動性に優れており、後の軽巡洋艦にあたる艦種だったか。ギリシャ独立戦争やクリミア戦争で海軍力の弱体化が決定的となったオスマン帝国がイギリスから購入した艦だ。


挿絵(By みてみん)

ヤウズ「左がわたし、右に写っているのがハミディエさんだ。確かイズミットだったかな...」(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/89/Hamidie_from_Yavuz_Sultan_Selim.jpg)


ハミディエの初陣は1908年のサモス島のギリシャ人反乱の鎮圧だが、その名を大きく知らしめたのはバルカン戦争だろう。


オスマン帝国海軍は、エリの海戦、レムノスの海戦でアヴェロフたちギリシャ艦隊に敗北してダーダネルス海峡の内側に押し込められたが、ハミディエだけが単艦で地中海に出て通商破壊戦を行った。


ランゲンジーペンとギュレリュズの著作によれば1913年1月14日午前9時にダーダネルス海峡の入り口にあるケベズを離れ、その翌日にはギリシャの武装商船マケドニア号を沈めている。


そして3月12日には陸上のギリシャ軍の陣地やセルビア軍を輸送するギリシャ船を砲撃する。しかし海軍力の優勢なギリシャ艦隊に対しては、単艦ではこれ以上の活動は難しかったようだ。


3月16日にエジプトのアレクサンドリアに寄港する。その後はベイルート、ハイファ、紅海といったまだオスマン帝国の影響力が残っている中東各地を回って補給や機関部の修理を行った。そして1913年9月7日にイスタンブルに戻る。


約8か月の大航海だ。紅海のKameronで機関部の修理に二か月間費やしたのが長かったのかもしれない(Bernd Langensiepen, Ahmet Güleryüz,The Ottoman Steam Navy, 1828-1923, pp. 25-27)。


バルカン戦争が終わったすぐ後に発行された『ブラッセー海軍年鑑』1914年の号ではバルカン戦争を総括した記事がある(第8章、Chas. H. Robinson執筆)。


そこではトルコ海軍に対して「トルコ海軍には輝かしい過去と勝利の伝統があるにも関わらず、この戦争ではトルコ人はその歴史に学ぶことなく何の適性も機知も示さなかった」と手厳しい(pp.154-55)。


原文を以下にあげる。

"The Turkish Navy is not without its glorious past , and has traditions of victory, but although in every war in which the Ottoman Empire has been engaged maritime strength has been exerted with important results , the lessons have never taught the Turks anything of lasting value. Nor has the Turk ever shown any realaptitude for naval work, or signs of that essential energy or readiness of resource which are required for any great achievement by sea."


15-16世紀のヨーロッパを脅かしたオスマン帝国海軍を持ち上げた後で現在のトルコ海軍は無能で愚鈍であると言いたいのであろう。nor~or構文や二重否定を用いた複雑な英文でオスマン帝国の栄光と衰退を表現している。


ヤウズはそれを見て苦笑しながら言う。

「まあ、先日の主力艦会議でも話したようにこちらもこちらの事情があったのだが、敗北は事実だから仕方ない」


わたしはヤウズに言った。

「しかし、モダンイングリッシュはやはり難しいね」


するとヤウズはそうだろうという顔をして

「確かに英語を解さない人間が一読してもすぐには意味が取りにくい文章だな。こういう持って回った言い方で辛辣な評価をするのがイギリス人だよ。オルミラル」


ヤウズのイギリスに抱く複雑な感情もわからないではない。しかし、わたしがここで同意したらウォ―スパイトたちが悲しむだろう。


「確かに伝聞や文字から得られるイギリス人像にはそういうところもある。だけどウォ―スパイトたちイギリス艦と親しくしているとそれだけでは無いと感じるよ。いや、それだけでは無い部分のほうが大きいように思うんだ」


そう言うとヤウズもうなずいて

「わたしにとってもウォ―スパイトやマレーヤたちは大切な友人だ。今回の事では心配をかけてすまないと思っている」


わたしはためらったが思い切って聞いてみた。

「じゃあ、アヴェロフはどうなんだい?」


ヤウズは笑うだけで返事をしなかった。そして

「ここからがハミディエさんの航海について書かれているところだ」

とスクリーンに映ったブラッセーの頁をスクロールしながら言った。


『ブラッセー年鑑』のハミディエの航海についての記事は165頁から166頁だ。一隻の艦の解説に一頁をを割いているのでやはり国際的にも注目されていたといえる。


これから目を通そうとした時にわたしは用を足したくなった。出物腫れ物ところ選ばず。とは良く言ったものだ。

「ヤウズ、トイレはどこだい?」

「艦長室のトイレは撤去してしまったから外だ。そこを出てまっすぐ行って右に曲がったところだ」


ついて行こうかというヤウズの申し出を断ってわたしは外に出た。用事がすんで戻ろうとしたが艦内の通路は暗くて低いので道に迷ってしまった。


帰り道を見失いウロウロしていると廊下の奥に明かりが見える。湯気のようなものも出ている。誰かが鼻歌を歌っている。止せばいいのにわたしは好奇心を押さえきれずにそこに向かい扉を開けると...


「あら、オルミラルじゃない」

部屋の中の浴槽に浸かっていたのはハミディエだった。最初に肩上部から胸部、そして湯に隠された部分へ順番に視線が下がってしまったが、それだけでは無くてヒジャブに隠されていた豊かな金髪もまぶしい。


ハッと我に返ったわたしは慌てて

「ご...ごめん! すぐに外へ...」


ハミディエは動じた様子も無く

「ごめんなさい。戒律で夫以外の人間には肌を見せられないの。ちょっと後ろを向いていて下さる?」


挿絵(By みてみん)

ハミディエ「ごめんなさい。今から服を着るから後ろを向いて下さる?」


わたしは後ろを向いたがその間にバスタオルで身体を拭く音、衣服を身体につける音が妖しく響く。


「はい、もういいわよ」

振り向くと黒のヒジャブとアバヤ姿のハミディエがいた。


ハミディエはにこっと笑って「それでは...」と呟くと鶏が首を絞められるような金切声をあげた!


するとイェニ・チェリ姿の兵士がドカドカとやってくる。外見こそ髭面のトルコの兵士であるが、その正体はヤウズが神話の力で召喚したジン(精霊)で陸戦隊や儀仗兵の代わりとして艦内に置いてあるのだ。


「アドミラル! 何が起きたの!!」異変を感知したジャーヴィスや雪風、ジャーヴィスの愛犬スノーボールまで飛び込んできた。彼女たちがイェニ・チェリのコスプレをしたジンともみ合っている時にヤウズが来て思わぬ騒動は幕を下ろした。


みなで艦長室に行ってヤウズが笑いながらトルココーヒーを出す。

スノーボールにはトルコがEUに輸出しているオーガ二ック・ペットフードが出された。


ハミディエは

「ごめんなさいね。少しだけど肌を見られたのでそのままにしておくわけには行けなくて」


ジャーヴィスは額に手をあてて

「我が艦隊のアドミラルがピーピング・トムだなんて受け入れたくない現実だわ」


雪風は平然とした様子で

「でも男の人が女の人に興味を持つのはごく自然な欲求だよ。雪風の乗組員も港に着くときれいな女の人がたくさんいるお店に魚雷のように突入していったっけ」


ジャーヴィスは思い出したように

「あー。そういえばわたしのクルーも婦人部隊とのダンスパーティにはいそいそと出かけて行ったわね。まったくわたしというものがありながらどういうこと!?」


雪風は

「......ジャーヴィス、それは当たり前だよ」


するとジャーヴィスは

「そうね。その点アドミラルはわたしたちにも人間の女性と同じような興味を持ってくれるからクルーよりもずっとマシ…んなわけあるかっ!!」

1人ボケツッコミをする。


わたしがいくらハミディエが入っているなんて知らなかったと言っても聞いてくれない。


するとヤウズがあろうことか

「今、オルミラルとハミディエさんのことで話していたんだ。オルミラルはハミディエさんに興味を持ったようだ。本人が来たからちょうどいい」

などと言い出す。


それを聞いたハミディエは両手で身体を抱きしめるようにかばってズズッと後ろに下がり

ジャーヴィスは冷たい目でわたしをジロリと眺め

雪風は無邪気な顔をしてとんでもない事を言いだした。

「司令も男の人ですもんね。でも遊ぶ時は悪い病気をもらわないように気を付けてくださいね。膿が出るのならまだしも鼻が取れたり頭がおかしくなっちゃうと大変ですから。そうだ、雪風の艦内に軍の衛生品の鉄かぶとが残っていたはず...」

鉄かぶとってコンドーさんの隠語だって知ってて言っているのか?いや知ってるんだろうな。


挿絵(By みてみん)

雪風「面倒くさがる水兵さんが多かったけど司令はちゃんとつけないとダメですよっ! んー...わたしたちが相手をしたらその心配は無くなるわけか...」


あまりにも性に対して無邪気すぎる雪風の言葉にヤウズとハミディエは唖然となったが何も言わなかった。駆逐艦たちがよく口に出す悪いジョークだと判断してあえて聞かなかったことにしたらしい。わたしもそう思った。


しかしジャーヴィスは

「『飲兵衛の時雨、助兵衛の雪風』って日本の駆逐艦の間で言われてると磯風から聞いたけど本当のようね」

と首を振る。くどいようだがそれでもわたしは冗談だと思った。その時は。


わたしはハンカチで顔の汗を拭きながら改めて強調する。

「入浴の最中に覗いたのは謝るけどわざとじゃない!!」


ヤウズは冗談だよと言って『ブラッセー年鑑』のハミディエの記事を映し出す。


その中の興味深い記事はハミディエの艦長ラウフ・オルバイ(Rauf Orbay)への評価である。


「ハミディエの艦長であるラウフ・ベイ(ラウフ・オルバイ)。確かに彼はその大胆な襲撃で素晴らしい勇気と冒険心を示した(her captain , Raouf Bey, certainly showed great pluck and enterprise in his daring raid)」


「オスマン帝国海軍での将来が期待されている(he should have a future before him in the Ottoman Navy)」


先ほども話題に出たようにバルカン戦争のオスマン海軍に対するイギリスの評価は辛口なのだが、ハミディエの艦長ラウフ・オルバイに対する評価はかなり高い。確かこの人って後に出世したんじゃなかったかな。


挿絵(By みてみん)

ラウフ・オルバイとハミディエ(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/60/Hamidi%C3%A9%2C_Croiseur_de_1%C3%A8re_classe.jpg)


わたしはハミディエにラウフ・オルバイについて興味を持ったから教えてくれと頼んだ。


ハミディエは誇らしげに

「もちろん! わたしのコムタナ(艦長)、ラウフ・オルバイは名家の出身でね。そこにいるだけで皆に頼りにされる人だったわ。第一次大戦の時は参謀総長。海軍大臣を歴任した後に政治家に転身して首相にまでなったのも納得ね。浮ついたところの無い人でね。わたしの航海を終えた後は新聞社から英雄と持ち上げられたのだけど、そのために自分を見失うことは無かったわね。」


ヤウズが補足する。

「ラウフ・オルバイはイスタンブルに住んでいたアブハジア人家庭の出身でな。父親も母方の祖父も帝国の高官だった。青年トルコ人と言われる統一と進歩委員会に加わって、海軍大臣に任じられたのは1918年だな。これは第一次大戦の休戦を定めるムドロス協定締結のための人事だったらしい。彼はトルコ側の代表としてイギリスと交渉したんだ。それから共和国の要職を歴任して首相になったのは22年から23年になる」


アブハジア人といえばコーカサスの民族だ。確か宗教は正教とイスラム教スンナ派に分かれていて、19世紀にロシアに支配された時にはイスラム教を信仰するアブハジア人がトルコに移住したのだっけ。移民の子孫でも高官に出世できるところは皇帝を中心とする多民族の緩いつながりで成り立っていたオスマン帝国そのものだな。


わたしもヤウズに話しかける。

「すると1914年の時点でラウフ・オルバイの将来に期待するとしたブラッセーの記事の見立ては正しかったわけだ。ムドロス休戦協定締結の代表に選ばれたところを見ると外交官としての資質もあったのだろうか」


ハミディエはわたしの問いに「あら、そこに気がついたのね」という顔をして

「ええ、その通りよ。わたしの通商破壊戦は本国を離れて8か月の航海。そのあいだ、石炭、食糧や水、艦の修理は大問題だったの。結局はイギリスのマルタ、ベイルート、紅海沿岸の諸都市で補給を行ったのだけど、イギリス領のマルタはもちろん、他の港もオスマン帝国に名目的に従属しているとはいえ半独立の地域がほとんどだった。列強やギリシャに制海権を奪われたオスマン帝国からは距離を置きたがっていたようで言を左右にして補給をしぶったわ」


「うーん...日露戦争の時にロシアのバルチック艦隊が日英同盟のために補給を受けられずに日本に来たのと似ているね」


ハミディエは答える。

「そうね、オルミラル。わたしたちもまだ補給や搭乗員の休息がすんでいないのに出港するように通告されたこともあったわ。でもラウフ・オルバイは辛抱強く交渉して補給を続けてもらったの。その時には大砲で脅すのではなくて国際法に基づいて説得したのよ。この姿勢でイギリスからの信頼を得たのが後の政治家としての活躍につながったのね」


うーむ。やはり海軍軍人たるもの戦場の勇者だけではなく、外交官としての資質、良き紳士であることも必要というわけか。



ハミディエはさらに話を続ける。

「彼が海軍を離れて政治家として活躍するのを海上から眺めていたけど、首相にまでなった時は嬉しかったわ。でもアタテュルクの独裁を批判したために失脚した時は悔しかったわ。とはいえ、また政界に復帰できたのは彼の人望からすれば当然ね。二度目の大戦の時は駐イギリス大使としてイスメト・パシャのタイトロープ外交に貢献したのよ。あの人が心臓発作で亡くなった年とわたしの解体作業が始まった年は同じ1964年...お互い革命の動乱を乗り越えて長く生きたものだわ。ふふふ...一緒に生涯を終えるなんて運命を感じてしまうわね」


そしてハミディエは年老いた貴婦人が若い頃の恋人を追憶するような表情で

ハミディエ(ハミディエの)カーラマニ(英雄)Hamidiye Kahramanıたるラウフ・オルバイ...わたしの夫たちの中では最高の男性(ひと)だったわ」


え?夫「たち」? わたしは一瞬とまどった。ヤウズが察してハミディエは自分の艦の搭乗員をムスリマの私室に入る事を許された男性としてみな夫と呼んでいると教えてくれた。


ヤウズは笑いながら訪ねた。

「その数え方でいくとハミディエさんの夫は一体何人いるんだい?」


ハミディエは今まで飲んでいたトルココーヒーのカップをテーブルに置いて

「さあねえ。何人いるのか数えきれないわね。勇敢な人間、臆病な人間。誠実な人間、ちょっとずるい人間。色々といたわ。でもムハンマドもおっしゃっているでしょう? 複数の妻を娶っても全ての連れ合いを平等に扱いなさいってね。その教えに従ってみんなを平等に愛したつもりよ、わたし」


「連れ合いの数は教えに定められた四人をちょっと越えちゃったけどね」と付け加えるハミディエ。


それを聞いたジャーヴィスと雪風は60年の艦歴を持つハミディエを感嘆と尊敬のまなざしで見つめる。まるで十代の少女が将来は自分もああいう女性になれるかなあという趣きだった。


挿絵(By みてみん)

ハミディエ「ラウフ・オルバイ...わたしの夫たち(搭乗員)の中では最高の男性(ひと)...でも他の夫もちゃんと平等に愛したわ」


これを機会にヤウズは宣伝とは言い過ぎだがトルコ海軍についてもう少しわたしに話しておこうと考えたらしい。


「ハミディエさん、あのメダルは今持っているかい? いい機会だからオルミラルに見てもらったらどうかな」


ハミディエは「そうね」と言って懐を探ってモロッコ革で覆われた小箱を出し、蓋を開けてメダルを見せる。


「これがわたしの航海を記念して作られたハミディエ勲章よ。わたしが乗組員とともにイスタンブルに帰ったときはすごかったんだから。市民の歓声と金角湾の建物のバルコニーには海軍旗がずらっと飾られて、新聞も連日大きく取り上げて…そんな世論の声を無視できなくなって政府もハミディエ勲章を作ったのよ。その時はわたしの乗組員394人全員が授けられたわ」


わたしは彼女からメダルを受け取る。現在では貴重な文化遺産だ。手の汚れや指紋がついてはいけない。手袋でもあれば良いのだが今は持っていない。とりあえずハンカチで手を拭いてティッシュペーパーで端のほうをつまんだ。


じっくりと眺めると、表には何かの紋章、裏には巡洋艦ハミディエの絵が刻まれている。


挿絵(By みてみん)

ハミディエ勲章(表)https://gmic.co.uk/topic/46459-cruiser-hamidiye-medal-hamidiye-kruvazoru-humayunu-madalyasi/


挿絵(By みてみん)

ハミディエ勲章(表)https://gmic.co.uk/topic/46459-cruiser-hamidiye-medal-hamidiye-kruvazoru-humayunu-madalyasi/



ハミディエが解説する。

「表に彫られているのはその時のパーディ(オスマン帝国)ーシャー(皇帝)・メフメト5世のトゥグラ(サイン)Tuğra、裏にはわたしの絵、そして波間の下にアラビア文字で書かれているのは数字で1328。我が栄光の1328年、わたしが航海を行った年のイスラム暦よ。さらにその下は受取人の名前を書く欄ね。もっとじっくり手にとっていいのよ。ジャーヴィスと雪風も見てちょうだい」


わたしは小箱の中にメダルをしまってジャーヴィスと雪風に回す。二人ともしげしげと眺めている。


確かに勲章を貰った艦はあるが、勲章になった艦はあまり無いだろう。ただ、ハミディエの通商破壊戦はバルカン戦争の戦況に大きな影響を与えることはできなかった。敗戦から臣民の目をそらすためという皮肉な見方もできるだろう。それでも、ハミディエ勲章の創立は海軍と文化や社会との関係を考える貴重なエピソードと言えるのではないか。


「いや、良いものを見せてもらったよ」

わたしはハミディエとヤウズに礼を言う。


その後でジャーヴィスと雪風に声をかける。

「ではそろそろお暇しようか」


今日中にギリシャ艦のところにも行かなければならない。さっきはジャーヴィスに乗ったから今度は雪風にしよう。こういう小さなことで気分転換をするのも悪くない。


ヤウズとハミディエはわたしが雪風に乗り移るところまで見送ってくれた。ジンが化けたイェニチェリの儀仗兵がメフテルを演奏する。


その時にヤウズが

「オルミラル、ギリシャ艦とのことだが、あちらが謝罪を申し出ればこちらもそれを受け入れよう。これがギリギリのラインだ。アヴェロフにもそう伝えてくれ。まあ伝えても激昂するだけだろうがな」


ヤウズはわたしが非公式の訪問という体裁を取ってトルコとギリシャを視察することに気付いていたようだ。油断ならないと言う感情とだからこそ頼りになるかも知れないという期待が同時にわき上がる。


しかしハミディエはそれを聞いて今気がついたようだ。

「何ですって! オルミラル!これからアヴェロフ! あのシャイターン(悪魔)!のところに行くの!? あのクソ女に伝えておきなさい! 戦艦のヤウズが出るまでもないから、このハミディエがあんたをスクラップにしてあげるってね! バルカン戦争で戦えなかった決着をつけてやる! 」


ヤウズは激昂するハミディエを見て、しまったという顔になり

「さっきも言ったけど落ち着いてくれハミディエさん」


しかしハミディエは

「さっきも言ったけどこれが落ち着いていられるわけないでしょ! もうすぐトルグート・レイスさんやメジディエが駆逐艦や潜水艦を連れて着任するのよ! ここで退くわけにはいかないわ! わたしの実家のイギリスに勇気が無いだのと嫌味を言われるのはもうたくさん! そうだわ! わたしもオルミラルについて行ってアヴェロフのクソ女の顔面に手袋を…ウグッ…モガモガモガ…」


ヤウズはハミディエの口を手で押さえて

「それではオルミラル、よい航海を!」

と言った。


まるでヤウズは血の気の多い森の石松を押さえる次郎長親分みたいだ。大政小政に相当すると思われる戦艦トルグートレイスや巡洋艦メジディエがまだ着任していないから大変だな。


駆逐艦雪風に乗ってギリシャ艦の泊地に向かったわたしはすっかり気疲れしてしまった。


わたしの心とは裏腹に今日の異界の海は凪で風も気持ちが良い。


艦橋に雪風が置いてくれた長椅子に座ったわたしはうつらうつらと…


ハッと目を覚ます。少し眠ってしまったようだ。雪風がにっこり笑っておしぼりを差し出してくれる。


「あと、20分でギリシア艦の泊地につきますよっ、司令。」


さてこんどは何が待ち受けているのやら(続く)


ヤウズ「いや、今日はオルミラルにオスマン海軍について宣伝することができて有意義だった。今までわたしたちにはあまり良いイメージが無かったからな」


ハミディエ「あのブラッセーの記事はひどいわね。わたしのことを取り上げたのはいいけど、ラウフ・オルバイがサー・ダグラス・ギャンブル(Sir Douglas Gamble)に部下として仕えていた( He had served on the staff of Sir Douglas Gamble)ってどういうこと!? 確かにサー・ギャンブルはオスマン海軍の軍事顧問でわたしたちはとってもお世話になったわ。だけどあの時のラウフはパーディシャーの軍人だったのよ!」


ヤウズ「まったくだ。まるで我々がイギリスの助けを借りないと何もできなかったように書かれているな」


ハミディエ「わたしはイギリス生まれだけどホントに失礼しちゃうわ!」


ヤウズ「ところがハミディエさん。これはオルミラルから聞いたのだが…わたしたちの時代のオスマン帝国について、現在の歴史学者はただ滅びていくだけではなくて、限界はあるが近代化を進めていた部分に注目しているそうだ」


ハミディエ「あら、そうなの。確かにバルカン戦争では既に航空機を実戦で運用していたものね、わたしたち。 オスマン帝国の近代化に力を尽くしていた若い頃のラウフの情熱が認められて嬉しいわ」


ヤウズ「それでネットを漁っているとこういう論文を入手できた。『鉄の船とそれに乗った男たち(Iron Ships and Iron Men)』。Emir yenerという我がトゥルキエの若い海軍史研究者の修士論文だ。オスマン海軍を日本や中国、ロシアのそれと比較したもので、単なる軍事史ではなくて工業基盤も視野に入れた後発地域の近代化の比較史研究とも読める内容だ」


ハミディエ「ふーん…今はそういう論文もネットで手に入るのね。どれどれわたしも検索してみようかしら。『ヤウズとその修理がトルコ・ギリシャ関係に与えた影響』あら、ヤウズ、これはあなたに関する論文じゃない。へー、公文書から新聞記事まで使っていてとっても詳しいわ。あなたのことが丸裸になってるみたい」(Tuğba Belenli̇2019 "Yavuz Zırhlısı ve Tamirinin Türk-Yunan İlişkilerine Etkisi")


ヤウズ「そ…そうか。わたしも女性だからすみずみまで研究されるなんて何だか恥ずかしいな…」


ハミディエ「あら、わたしの論文もあったわ。『バルカン戦争中のエーゲ海、アドリア海、東地中海における巡洋艦ハミディエのギリシャ海軍に対する活動』....この論文によればドイツの新聞にもわたしの大活躍が報道されていたのですって。まあ、イラストまで載っているわ。やっぱりわたしって外国にも知られていたのねえ」(Ozan Tuna2021"Balkan Savaşı’nda Hamidiye kruvazörünün yunan donanmasına karşı ege denizi, Adriyatik denizi ve Doğu Akdeniz’deki faaliyetleri")


ヤウズ「こうやって我々についての研究が進められていると思うと感無量だな。財政が厳しくて満足に稼働できずに悔しい思いをしたこともあったが、わたしたちのやってきたことは無駄ではなかったんだ」


ハミディエ「でもヤウズ、やっぱりわたしよりもあなたのほうを扱っている著書論文は多いのね」


ヤウズ「い...いや…そ…それは…ほら本当に重要な情報はネットには出さないって言うじゃないか。あっ、もうすぐ礼拝の時間だぞハミディエさん」


ハミディエ「あら、大変。そうだ、ヤウズ、あなた今日こそ礼拝に出なさいよ」


ヤウズ「それが今日の夕方までに機雷の再配置図を司令部に電送しなくてはならないんだ。暗号ブロック化に時間がかかりそうでね。すまない」


ハミディエ「仕方ないわねえ。それじゃああなたの分までお祈りしておくわね。」


ヤウズ「ふう…ほかの戦艦も巡洋艦もわたしより艦歴が上だから気を遣うよ。我が母国は予算不足でわたしの後は戦艦や巡洋艦を購入できなかったからな…ブレスラウ…イスタンブルまで航を共にしたお前が側にいてくれたら…」


ヤウズ「おっ、オルミラルは今頃ギリシャ艦の基地に到着している頃か。さて、アヴェロフはどう出るかな? そしてウォースパイトや金剛の考えは…次回『コップの中の希土戦争』3。しばしの別れだ また会おう諸君」


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