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10.艦隊司令部の日常(金剛、ウォースパイトの他にイギリス艦ジャーヴィス、日本艦雪風登場)

司令官「この基地は片付けなくてはならない問題ばかりでな。とりあえず報告書にして提出せよと言っておいて時間を稼いだがこのテの書類は放っておいたらすぐにたまる」

女性部下「書類は天敵ねェ...管理職の」

少年兵士「司令って大変なんだなァ」

...新谷かおる『エリア88』より

わたしは戦艦金剛の艦長私室にあるフカフカのベッドで目を覚ました。昨日の主力艦会議は強烈な出来事があって疲れた。


トルコ艦のヤウズとギリシャ艦のアヴェロフ。親の因果が子に報い...とは少し違うがトルコとギリシャがエーゲ海の海上覇権を争って地域紛争を繰り返していた歴史が影響しているために、二人の関係があそこまで険悪になっているとは思っていなかった。


ちょっとした売り言葉に買い言葉がエスカレートして今や冷戦を通り越して熱戦の一歩手前だ。鍋のお湯がグツグツ煮立ってもうすぐ吹きこぼれるようなものだ。ヤウズとアヴェロフには戒告処分の通知を送ったがそんなものは焼け石に水だ…さてどうしたものかな…


ふと窓から見下ろすと金剛に一隻の戦艦が接弦している。風にひるがえるフラッグはロイヤルエンサイン。艦橋はイギリス艦がアン女王の館と呼ぶ指揮機能を強化した新型艦橋だ。空にそびえる日本艦のパゴダマストと異なり、こちらは砲撃に耐えるよう設計された地を這う稜堡といった作りだ。


日本艦は光学観測、イギリス艦はレーダー、どちらもそれぞれの戦法を突き詰めた設計である。しかしわたしは前者に関してはナントカは高いところが好き、後者に関しては駅前の三階建て雑居ビルみたいという愚にもつかない言葉が浮かんだがアホらしいと頭を横にふる。


でもあの艦橋はウォースパイトかも知れないな…と考えながら食堂となっている第二士官室に降りていくとそこにはやはりウォースパイトがいた。味噌汁とご飯の香りがする。今日の朝食は和食のようだ。


わたしが部屋の中に入ると金剛はおお目を覚ましたかと声をかけ、ウォースパイトはおはようございますと挨拶した。


わたしが席に着くと金剛は三人分の食事を机に置く。昨日のことを気にしているわたしに向かって

「どんな事が起きようが朝食だけはとらなければならぬからの。たとえミッドウェーで一航戦二航戦が沈んでも、レイテで連合艦隊が半壊したとしてものう」


ウォースパイトはコリンズの『月長石』に似たような言葉があったわねと呟き、両手を組んで全能なる主と大地の女神に祈りを捧げてから箸に手をつけた。


ちなみにウォースパイトの箸使いはわたしより上手い。米飯に海苔をくるっと巻いて端のほうに醤油を少しだけつけて口に運ぶ。吸い物の実を取るときも濡らすのは箸先だけである。わたしはと言えば巻いたはずの海苔から米飯を醤油に落とす始末。純白のシャツに飛沫が跳ねるのを防ぐために金剛がこれを使うがよいと紙エプロンを差し出す。


挿絵(By みてみん)

ウォ―スパイト「ハシヅカイというものも難しいですわ」



わたしの食べ方を見て金剛は

「うーん…これは一からしつけ直す必要があるの。おぬしの嫁になるおなごは大変じゃぞ」

と笑って首を振り


ウォースパイトは微笑みながら

「ゴッドスピード、マイアドミラル。わたくしたちとこの世の真心の全てがあなたさまとともにありますわ」


と慰めているのか暗に叱咤激励しているのか判断に迷う言葉をかけてくれる。確かにアドミラルの食べ方が汚いと艦隊全ての評判にかかってくるのである。もっとも某国首相のように食べ方も服装も汚いと批判を受けながら我が道を行くで一向に意に介さないというのも一つの見識かもしれないが。


朝食が終わると金剛とウォースパイトは第一士官室に場所を移して執務を始める。もちろんわたしも彼女たちのお尻にくっついて移動する。ヤウズとアヴェロフのことも気になるが、日常の業務を処理しないと組織が動かないのである。それこそ坊ノ岬で大和が沈もうが、8月15日に玉音放送が流されようが...だ。


さて、司令部詰めとなって参謀の役割を果たす艦は艦隊の意思決定や物資の配分で絶大な権力を握る。しかし洋上で訓練する時間が制限されるため参謀艦となっている期間はうかうかしていると戦闘力が低下してしまう。無理やりにでも時間を捻出して最低限のメニューをこなさなくてはならない。


しかも絶大な権力を握っているといっても役割は組織の調整なので思うままに権力を振り回せるわけではない。トップダウンで意志を通そうとすればそれに応じたリスクを覚悟しなければならないのだ。そして実戦部隊所属の艦は図々しくも遠慮なく自分たちの要求を陳情と言うかたちで突きつけてくる。


まあ参謀とはそういうものだ。旧日本軍のような華々しい活躍?をするスター参謀は極一部というか異常で、本来は近代軍隊という巨大な官僚組織のホワイトカラーなのだ。


かくして司令部詰めの参謀艦は労多くして功少なしというわけでやりたがる艦は少なく必然的に主力艦が担当することになる。たまに駆逐艦などの小艦艇が従卒艦として司令部詰めになるが、その場合は仲間の駆逐艦たちに「なんてかわいそうな○○ちゃん/さん!」と同情と憐憫の対象になる。


ひどい場合は口の悪い仲間たちが「○○ちゃん/さん天国行き!」と言い出す。そして故人?を偲ぶためと称して彼女の秘蔵のボトルを勝手に開けてみんなで飲むのである。閑話休題。


ウォースパイトと金剛はそれぞれ自分たちのPCを起動させた。ウォースパイトのPCはエルダー…ハンノキを切り取って作ったという目にも鮮やかな外装。魔法の力がこもっているという。金剛のPCは漆黒の下地に金泥で梵字が塗り込められている。二人は「ところでアレはどうなったかのう」「ええ、あの案件ね」と二人にしかわからない会話を交わしている。


彼女たちが決裁した書類がわたしのところに上がってくるまでにはまだ間があるようだ。手持無沙汰なので金剛のデスクに積まれていた書類の山から一部を抜き取って見てみる。その表題は...


「第1903号 軍艦阿武隈から神通へ兵器貸与の件...防雷具」

「第2280号 呉鎮守府より軍艦扶桑へ兵器貸与の件...天井用電動送風機」


阿武隈や神通といった軽巡や扶桑といった戦艦の名前が目に入った。兵器貸与...武器だけでは無く扇風機も艦の備品ということで兵器と呼ぶようだ。恐らくは予算の関係上、むやみに新しい備品を購入できないので艦艇同士で融通し合っているのかなと考える。


この二枚をさらにめくるとその下には


「第5305号 艦載電気冷蔵庫換裝の件...附 扶桑には現在移動式冷蔵庫三基あり」

「第1435号 軍艦金剛・扶桑・霧島に洗濯機械装備の訓令。現洗濯機械位置付近に乾燥機を付設するものとす」

「第269番電 軍艦足柄に臨時装備せる合成調理器を本艦固有のものとして本装備に改めるべし。費用は一般修理の予算内より支弁す」


冷蔵庫、洗濯機、調理器など何とも生活臭い内容だ。軍隊が命令と予算に縛られている組織である以上、こういう備品の購入も一艦だけで決めるわけにはいかず、上部組織からの命令という手続きが必要というわけだ。


そんな事を考えながら書類を眺めていると金剛が気づいて


「ほう...提督はそういうお役所仕事に興味があるようじゃの。わしら日本艦の組織運営はとりあえず帝国海軍時代のものに従っておる。書類の書式もその時のものを踏襲しておるのじゃ。いずれ改めるところは改めていくつもりじゃが伝統や慣習というものはすぐには変えられぬ」


「なるほど。これが帝国海軍の文書行政というわけだね。ボクもこういう公文書を使って論文を発表した時期があったから読んでいると面白いよ。軍隊も戦争ばかりやっている組織では無いからね。まさに人間の生活史の一コマだよ」


この異界の艦隊のアドミラル...提督になってそれほど長い時間はたっていないはずだが、人間の世界でポスドクとして研究を送っていた日々が遠い過去のように思える。


するとウォースパイトは往時を懐かしむかのように

「生活史の一齣…その通りですわ、マイアドミラル。洗濯や食事の時間になると下士官や兵があわただしく動き、漂い出す洗剤やソースの匂い…人々のざわめき…」


金剛も遠い目をして

「そうじゃ。むさい男ばかりの狭い艦内とはいえ人の暮らしの全てがわしらの中にあった。30年にわたって親しんだあの人いきれが今は無いと思うといささか寂しくもあるの」


挿絵(By みてみん)

金剛「あのざわめきが今となっては懐かしいのう」



さらに金剛は言葉を続けた

「そして提督の言う通り海軍軍人も戦っているだけではない。下士官水兵に至るまで読み書きの達者なものは常にもとめられておったわい。またこういう書類の作成をいとわぬものが出世したのじゃ。わしの妹の比叡が満洲国皇帝陛下のお召艦を務めたことがあってのう。その時の艦長だった井上成美大将の作成した報告書を読ませてもろうた事があるがそれは見事な文章じゃったぞ」


比叡艦長時の井上成美の階級は大佐であるが、金剛は彼に敬意を表して最終階級で呼んでいる。


そして金剛は羽織のたもとから扇を取り出すとそれを開いて口元にあて、井上成美の報告書の一文を節をつけて朗誦しはじめた。

「鶴一番南ノ方ヨリ飛来シ羽バタキノ音モ輕ク御召艦上ヲ低ク飛翔シ東二向カツテ去ル。(マコト)ニ瑞兆ノ極ミナリ。陛下此ノ趣ヲ聞召サレ禽獣ニ至ル迄日滿兩國ノ親善ヲ欣ブモノニテ天地ノ氣ト人ト物ト(オノズカラ)ラ相通ズルモノアリト仰セラルル......昭和十年四月三日の電文じゃったか」


井上成美といえば今まで私は西洋的な教養を持ち、理数的に物事を捉える人間だと思っていた。しかし、この報告は鶴の出現を瑞兆として寿ぐ内容であり、東洋的な文芸の素養も持っていたのかと驚く。こういう電文も今はアジア歴史センターのサイトで電子公開されているから便利な時代になったものだ。(「比叡行動電報報告」タナ77電、Ref.C05034103400 )


その後で金剛はおっと脱線してしまったのと呟くとわたしの見終わった書類を手に取って

「とはいえ、こういう事は日本艦の鎮守府で処理するべきものでこの司令部に上げる案件では無いの」

どうして混じってしまったのかのと首を振って書類を「差し戻し」のボックスに入れた。


そして金剛はファイリングされた書類を持ってくると

「提督の決裁が必要な書類はこういう案件じゃ」


わたしがそれを確かめると

アドミラルティオーダーNo,5

「イタリア艦軽巡アブルッツィによるMASとSLC公開講座...元祖水上ドローンはイタリアにあり!」

アドミラルティオーダーNo.7

「日本艦軽巡北上による酸素魚雷公開講座...重雷装艦は使えまぁす! 酸素注入のコツと混合気体のレシピ」

アドミラルティオーダーNo. 8

「ブリテン艦軽巡オライオンによるレーダー観測公開講座...ちょっと待て! その光点は敵じゃない!」


...よく見たらアドミラルティオーダーNo.7の余白には小動物のようなプリティーな魚雷のイラストや「命中かくにん! よかった」と頭を抱えたくなるような落書きが書かれてある。


意を決してわたしは金剛に尋ねた。

「このファニーな案件名は何だい?」

あえてファニーという語を使ったわたしの気持ちを金剛はわかってくれるだろうか?


金剛はあたまを搔きながら答えた。

「いや。これらの案件は今までは各国の軍事機密での。それぞれが抱え込んで他国艦には教えようとしなかったのじゃ。今回はじめて提督の命令で公開する運びになったのじゃが、隠し事というそれまでの良からぬイメージを払拭するためにわざとこういうファニーな講座名にしたのじゃよ。わしの気苦労を提督ならわかってくれるはずじゃ」


色々と考えることや言いたいことはあるのだが仕方なしにわたしはサインした。


さて、ウォースパイトと金剛の執務の様子を見ているとわたしはあることに気がついた。


ウォースパイトは案件名を確認すると書類をめくってその中身を読む。万年筆で何やらコメントらしきものを書きこんだ上で決裁済みと上申のボックスに仕分ける。


一方で金剛は案件名を確認した後で書類の表紙を見る。時には視線を動かして隅から隅まで何やら確認している。その後で書類を開いてパラパラめくったと思ったらバン!と印鑑を押す。


必然的に金剛が処理した書類が先にわたしのところに上がってくる。その内容に興味を持ったわたしが時間をかけて読んでいると金剛が声をかけてくる。

「ああ、提督。今おぬしに渡した書類の束はそんなにじっくり読まなくても良いからめくら判…違ったサインで結構。さっさと署名してこちらに下げ渡すがよい」


めくら判という言葉がひっかかったのが今まで書類を見ていたウォ―スパイトが顔をあげてちらっと金剛を見る。金剛は「やあしまった失言じゃった」と頭をかいた。ウォ―スパイトは「もう! 」と呟く。


金剛らしい率直さであるが、めくら判…違ったサインと言い切られるとこちらも引っ掛かるものがある。わたしは金剛に尋ねた。

「いくら何でもそれでいいのかい?」


金剛は自信ありげに答える。

「それでいいのじゃ」


なおも怪訝そうな顔をしているわたしに金剛が説明を始める。

「提督、その書類の表紙を見よ」


わたしが表紙を見るとやたらペタペタ印鑑が押してある。その印鑑を見ると雪風、磯風、北上、大井、川内、神通、那珂、妙高、那智、足柄、羽黒、比叡、榛名、霧島。


そして説明を続ける金剛。

「ほれ見てみい、駆逐、軽巡、重巡、戦艦…ずらりと印が押されとるじゃろう。これは各部署の承認を得て稟議が通ったということなのじゃ。このまま実行しても間違いの無い案になっておる。さっさとサインして決済済みの箱にレッコーじゃ」


挿絵(By みてみん)

金剛「ほれ。印がずらりと並んでおるじゃろう」



金剛はレッコー...レッツゴーが訛った旧日本海軍の隠語を使った。一般にはゴミを捨てたり魚雷を投下する時に使われる言葉だ。そのままさっさと放り出せという事だ。もっともわたしにはまだそこまでの決断力は無い。そもそも日本艦の泊地内部で処理せずに司令部まで上げるとはどんな案件なのだろうと確認しようとすると「分子雲燃焼魚雷を用いた雷撃戦の演習計画」とあった。


金剛は尋ねられる前にわたしの疑問を察したらしい。

「分子雲燃焼魚雷は最近新しく開発した兵器での。現在ではまだ司令部の管轄なのじゃ。武器庫から出そうとしたらおぬしのサインが必要になる」


なるほどという説明だがまだ何かが足りない感じが拭えない。


もっとも感じがすると言うだけで仕事の会話をするのは良くないのだが、思いきってわたしは金剛に聞いた。

「申し訳ないけどそれだけの説明では腑に落ちないものを感じるんだ。もう少し説明してくれないか」


金剛はニヤッと笑って答える。

「感じがすると言うのはどういうことかの。ゆっくりで良いから話してくれぬかの」


わたしは考えた末にようやく疑問を言語化できた。

「そうだね…こんなにたくさんの印鑑が押してある案件が出された背景を教えて欲しい」


すると金剛は艦隊という組織の意思決定の内幕を明かしてくれた。

「実はこの案件に関しては駆逐艦どもから内々に申し出があっての。新しく開発した兵器の運用に一刻も早く習熟したいというものじゃった。ヤツらの意気は買うがどこまで本気なのか知りたくての。軽巡、重巡、戦艦の全てから承認印をもらってこいと言うてあったのじゃ。いや、忙しい任務の暇を見つけてよく印鑑を集めてきたものよ」


ウォ―スパイトが口を挟む。

「分子雲燃焼魚雷は我がロイヤルネイビーでは巡洋艦は発射実験を行ったけど、まだ駆逐艦の運用は試していないわね」


金剛が応える。

「そうじゃ。駆逐艦の機能ではこの兵器は扱うにはまだ難しいところがある。しかし、大型艦が承認印を押したということはあやつらが駆逐艦どもを全面的に支援するということじゃ」


そして金剛はここが勘所とばかりに語気を強める。

「提督よ、承認印を押すというのはな、案に賛成したという証であると同時に、もしもの時には共に責任を負うという意思表示でもあるのじゃ。だから安心してサインすると良い」


金剛は理と情を絡めた上手な説得の仕方をする。それに話を聞く限りではこの案件はわたしがここに来る前から準備が進められてきたようだ。それをわたしがいつまでも止めていては却って支障が出るかもしれない。わたしは納得してサインを記した。


わたしがサインした書類を受け取った金剛は

「これの起案書を書いたのは雪風じゃが、判子取りをやったのは磯風じゃの。同型艦の場合は姉艦から妹艦へ長幼の順番通りに印が押してある。たまに姉さんの判子が無かったらわたしも押さないとゴネるヤツがおるからのう...羽黒とか大井とかいい加減に姉離れをしてもらわないと...おっと提督に妙な予断を与えたらいかんの。今のは忘れてくれるとありがたい」


そういう人間関係も考慮しつつ案件を承認印をもらわなければならないのか。わたしはサラリーマン経験が無いからよくわからないが、まさに宮仕えはツラいよだ。


そんなわたしを見て金剛はこう言った。

「さっきはめくら判で良いなどとお主を試すようなことを言ったが、部下の案を丸呑みする時でも自分が納得するまで説明を求める姿勢は大切じゃぞ。ただ時間との兼ね合いが問題になるのじゃがの」


確かに限られた時間と情報の中で決断しなければならないのは戦時平時問わないだろう。大学院を修了して外務省に入った人の回顧録を読んだが、新人時代にまず上司に言われたことが「アカデミズムの時間で実務を考えるな。完璧主義を捨てろ」だったっけ。


金剛の次はウォ―スパイトが恭しく書類を差し出してくる。最初の一枚には「至急」と書かれた案件があるのでわたしも急いでそれを手に取る。


その案件の表題は「対潜委員会設立の趣意書」と書かれてある。


対潜という文字がわたしの目にとまる。人間の軍の潜水艦と戦闘に入ることを想定しているのかと考えて緊張する。ウォースパイトはそんなわたしの表情を察してご説明が足りなくて申し訳ありませんと声をかける。


「これはサブマリンと言っても人間の艦艇を指しているのではありません」


「じゃあ何を指しているの?」


ウォースパイトの説明によるとこれは異界のモビーディック…クジラ怪獣ということだ。この異界はモビーディックの一大繁殖地であり、たくさんの群れが生息しているのだ。ウォースパイトによれば彼らは知性を持っているのでカオスとは異なる存在だという。


わたしはちょっと引っかかって尋ねた。

「知性のある無しでカオスとコスモスを区別するのかい?」


ウォースパイトは答える。

「確かに日本のお方であるマイアドミラルが疑問に思われるのもわかります。ですが、これは一部の反捕鯨論者とは異なって実際的な問題なのです」


つまりモビーディックは知性があるため狡猾ではあるのだが、むやみにわたしたちの艦隊や人間の船舶を襲うことは無い中立的な存在だという。


ウォースパイトは話を続ける。

「これまでわたくしたちと彼らの間には問題は起きていなかったのですが、最近になって状況が変わりました。わたくしたちが制海権の維持のために哨戒や演習の回数を増やしたのが原因ですわ、マイアドミラル」


海面を多くの艦艇が往来するのを深海から見た若い個体が急浮上してくるようになったという。真下から高速で浮上してくるのでレーダーやソナー等の死角になって事前に察知することが難しい。このまま放置しておくと事故が起こることは確実なので大至急の対処が必要なのです…とウォースパイトは説明した。


ウォースパイトの説明を横で聞いていた金剛も口を開く。

「実は我が帝国海軍がトッテモトオイトオイ泊地で演習を行った帰途でも子クジラの浮上事件が起きたのじゃ。みなが寸前で気づいて舵を切ったから衝突にはいたらなんだがの。奴ら敵意では無くて単なる好奇心なのが厄介じゃの」


その時はその子クジラ…子クジラといってもモビーディックなのだが…はしばらく日本艦隊と並走したあげく、駆逐艦たちが可愛いーとはしゃいで放り投げた握り飯や稲荷寿司を腹の中に入れると気が済んだのかまた海中に姿を消したという。


金剛が言うには演習を統監した比叡は大事故にならなかったので胸を撫で下ろしたそうだ。そして人の気も知らないでと怒っていたということだが、さてどちらに対する言葉だったのか。


挿絵(By みてみん)

比叡「昔の第四艦隊事件のような被害にならなくてよかったですわ」



挿絵(By みてみん)

金剛「そう言えばおぬしはあの時も統監艦を務めていたのじゃったな」



ウォースパイトは金剛の話を聞いて大きくうなずくと

「そうなのよ。どこの国の艦も最近は遭遇が多くなってるのだから、各国艦隊全てを横断するかたちで対策委員会を設立しなければならないわ」


すると金剛が尋ねる。

「これは主力艦会議が管轄すべき問題ということにはならんのかの?」


ウォースパイトが

「主力艦会議は艦隊全体の方向性を決める会議、でもこれは戦術的な問題だからここ海軍本部で扱う案件ね。それに…」


金剛はウォースパイトの言葉を引き取って尋ねる。

「それに…何じゃの?」


ウォースパイトは躊躇いながら答える

「それに…こんなことを言うのは良くないのでしょうけど…主力艦会議にかけたらすぐに決まるかどうかわからないし…重ねて申し上げますがこれは至急の案件なのです、マイアドミラル」

と最後はわたしに念を押した。


それでわたしはサインをしようとしたのだが、この案件の場合は委員会のメンバー選定や組織構成をアドミラルティオーダーによって指示しなければならない。


先ほど金剛が提出してきた日本駆逐艦の兵器訓練の案件については、雪風の起案書に承認印を押した軽巡や重巡たちがそれぞれの所見を付け加え、最後に印を押した戦艦の霧島がそれらを取りまとめた完成案を作成しているので、わたしはそれにサインをすればいいだけだった。やはり事務処理のやり方は各国艦隊によって違うようだ。


もっともいきなり委員会のメンバーを選べと言われてもわたしはわからない。しかしよく見たらウォ―スパイトのコメントが記された紙片が付されてある。そうかこの通りに指示すれば良いのか。


とはいえカンマの位置をはじめとする英文の区切りの解釈で命令の及ぶ範囲が変わってくるので迷ったらウォ―スパイトに尋ねなければならない。そんなこんなで命令書を作成するのが時間がかかってしまった。


それをウォ―スパイトが英訳してそれをまたわたしがチェックする。最後にウォ―スパイトが定式に従って清書を作る。文頭にADMIRALTY, NO.5という文書番号とその後に発令の日時を記し、本文を書いた後で、末尾にBy command of their Lordshipsと発令者を示し、その上でわたしがサインし、その下にウォ―スパイトと金剛もサインをする。


ウォ―スパイトは

「はい、これでこの通達は本日〇〇時を持って実行力を持ちました。お疲れさまでした」

とわたしに言ったあとで決裁に要する時間を短縮する方法をいずれ考えますと付け加えた。金剛はウチは稟議があるからそれ以上の時間がかかるわいと呟き


「それぞれの組織の伝統があるから難しいものだの」

「ええ、本当にそう」

と言葉をかわす。わかっている人間同士の会話なのでわたしはなかなか入れない。


こうして午前中の執務が終わった。わたしが手間取ったので時間がずれこみ、昼食とアフタヌーンティを兼ねた食事になってしまった。ウォ―スパイトが仕事の忙しい時はいつもこうなのですよと言う。


確かE.C.R.ロラックの『悪魔と警視庁』(1938年)にも主人公の刑事が捜査で昼食の時間が無く、アフタヌーンティを兼ねた食事をとっている描写があったのを思い出した。イギリス人もいつもいつも優雅に午後のお茶とはいかないようだ。


さて、午前中の執務は終わったが慣れていないのでわたしはかなり神経が疲れてしまった。シャツのボタンを腹まで外して椅子にもたれかかる。


そんなわたしを見て金剛は

「今日は陽が良いから午後のお茶はわしの甲板にするかの?」

と言ってくれる。屋外の空気を吸ってゆっくり食事ができるのなら願ってもない。そのことを伝えると


ウォースパイトは

「では、わたくしはティーセットを自分の艦から取ってきますね」

と部屋を出ていった。アフタヌーンティーの食事は彼女の手作りということで楽しみだ。


さて金剛と二人きりになるとわたしには妙な出来心が生じてきた。これまで艦隊内部の揉め事や慣れぬ執務で神経を消耗したので心が潤いを欲していたのかも知れない。


わたしは金剛の後ろから近づくと彼女を抱きすくめる。その金髪からは良い香りがする。かすかな記憶の中から大正生まれの祖母が使っていた化粧品の匂いが甦ってくる。


わたしはしばらく彼女の髪の匂いをかいでいたが、ちょっとわたしが力を緩めた隙に金剛はスルッと抜け出して

「こらこら、提督。そんな悪戯をしてはいかんぞ」

口調こそたしなめるようであるが、目は笑いながら両手でわたしの頬や頭を撫でてくれた。


そしてわたしの髪の毛をくしゃくしゃと玩ぶと

「もう少しおぬしに付き合ってやってもよいが今日はこれからおぬしの従卒艦に任命した駆逐艦が着任の挨拶に来るからの。甲板に上がらねばならぬ」


金剛はわたしの手をとってさあ行くぞと言った。



甲板の上に上がると二隻の小艦艇が戦艦金剛に横付けしているのが見えた。煙突…いや船の場合はファンネルだったか…一隻はファンネルが一つで鋭角的なスラッとしたボディだ。


もう一隻はファンネルが二つがあるが、そのシルエットは最初の艦に比べるとやや丸まった印象を受ける。よく見ると船体に横書き文字がある。日本のカタカナだ。ゼ…カ…キ…ユ? そうだ、あの有名な雪風じゃないか。戦前の慣習に従って左書きで読むべきだった。


するともう一隻のファンネル一つはどういう艦だろう。ホワイトエンサイン...英国軍艦旗を掲げているからイギリス艦であることは確かであるが。


わたしが考えている表情を見た金剛が

「あのイギリスの駆逐艦はジャーヴィスじゃ。もう一隻はおぬしも気づいたように日本艦の雪風じゃ」


挿絵(By みてみん)

駆逐艦ジャーヴィス(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/HMS_Jervis_on_sea_trials.jpg)


挿絵(By みてみん)

駆逐艦雪風(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/Yukikaze_2.jpg)



そして金剛は一人で考えこんでいるよりもわしに聞いたほうが早いぞと笑いながら

「二人とも日本とイギリスを代表する強運の艦での。あの二人を従卒艦に選んだのは本人たちの資質に加えて験を担いだのが大きいのじゃよ」


すると甲板でお茶の準備をしているウォースパイトをセーラー服を着た二人の少女が手伝っているのが見える。その二人はわたしたちの姿に気づくとすぐにタッタッタッと走ってきて

「はじめまして! Your Excellency!HMSジャーヴィスです。よろしくお願いします!」

「はじめまして司令! 日本艦の雪風..又の名を丹陽です。司令部の従卒艦に選ばれて光栄です」


二人ともビシッと敬礼する。わたしもあわてて敬礼を返す。


さらにでウォ―スパイトが二人を促す。

「ほら、二人とも。もう少しマイアドミラルに自己紹介をしたら?」


するとジャーヴィスは快活な笑顔で

「 アドミラルは大変な任務ね。でも イッツオールライト。 このラッキージャーヴィスがついているから大丈夫よ! わたしとともに艦長以下のクルー全員はこの艦は絶対に沈まないという固い信念のもとに戦ったのよ。 ジャーヴィスのフォーチュンをあなたに!!」


雪風は

「雪風が幸運艦? いいえ!これ全て乗組員の人の和です! ......先に沈んだ戦友・姉妹があんなに望んでいた復興した日本、第二の祖国・中国の面子を傷つけることはできなかったけどせめてこの眼で見たかったなあ」


挿絵(By みてみん)

ジャーヴィス「このラッキー・ジャーヴィスがあなたについてるわよ!!」


挿絵(By みてみん)

雪風「雪風が沈まなかったのは全て乗組員さんの団結です!」


ウォ―スパイトたちがお茶の準備を続けている時に、わたしは手元の資料に目を通した。


まずはジャーヴィス。1938年竣工のJ型駆逐艦。フロッティラリーダー(Flotilla leader )...日本語では嚮導駆逐艦と訳すのが一般的だが...要するに駆逐艦船隊の指揮官として建造されたということだ。第二次大戦中では戦闘勲章13個が刻まれた板を艦内に飾る栄誉を与えられた。これはイギリス艦の中でもトップクラスだ。これと同じ記録は軽巡のオリオンと駆逐艦ヌビアンだけであり、それを上回る記録は戦闘勲章14個を授与されたウォースパイトだけだという。


挿絵(By みてみん)

クイーンエリザベス(本編未登場)の戦闘勲章板(https://www.royalnavyresearcharchive.org.uk/Battle_hons.htm)


特筆すべきはこれだけの戦績を上げながら艦内で一人の戦死者も出ていないということだ。連合軍のイタリア上陸を支援する1944年のシングル作戦ではドイツの爆撃で艦首を吹き飛ばされる損害を受けたが乗組員は全員が生還した。


ジャーヴィスの艦長だったロジャー・ヒルの回顧録『死闘の駆逐艦(Roger Percival Hill:Destroyer Captain )』が参考資料として付けられていたので目を通す。多くの僚艦が沈んだ戦闘でも生き残ったジャーヴィス。ヒルは彼女の艦長を務めるうちにこの艦の幸運は宿命的なものだと考えるようになったそうだ。



次は雪風。1940年竣工の陽炎型駆逐艦。アメリカと開戦する約一年前か。開戦とともに激戦地に投入されて赤城、比叡、大和が沈む時には同じ戦場にいた。帝国海軍の幸運艦と謳われて終戦まで生き残ったがその時は姉妹艦である陽炎型駆逐艦19隻は彼女一人を残して全て沈んでいた。


その後は賠償艦として中華民国に引き渡されて丹陽となり、台湾の防衛に従事して1970年もしく1971年に解体。先ほど彼女が中国と言ったのはどうやら中華民国を指しているようだ。


国際連合の中国代表権が台湾の中華民国から大陸の中華人民共和国に移ったのが1971年だったのを思い出した。雪風改め丹陽が中華民国海軍に就役している時代は台湾こそ中国だと国際的に認められていたのだ。その時の意識が雪風には残っているようだ。


お茶の準備で椅子を揃えたり、テーブルに食器を並べているジャーヴィスと雪風を改めて眺めてみる。


人間に生まれ変わったジャーヴィスはブラウンヘアの肩までかかったウェーブ。顔立ちはわたしの基準では必ずしも美人とは言えないが活力に満ちていて魅力的な少女だ。幸運艦として運命に打ち勝つ生命力と13個の戦闘勲章を受勲した武勲艦としての誇りが自然に調和している。


人間体の雪風は三つ編みをお下げにしていて十代の女学生のようだが、その一方で妙に臈長けた雰囲気が垣間みえる。彼女は日本の敗戦とともにそれまでの敵であった中華民国の海軍に移った。一艦にして二生を経た数奇な艦歴をその表情に醸し出しているようだ。


「マイアドミラル、お茶の準備ができましたよ」


ウォースパイトの優しい声でわたしは物思いから現実に帰った。テーブルの上のティーセットにはサンドイッチやスコーン、ケーキなどの軽食がポットと一緒に置かれている。ティーカップはウェッジウッドの陶器だろうか。


雪風が感嘆したように声を出す。

「うわぁー。やっぱりイギリスの戦艦で出されるアフタヌーンティーって優雅ですねー!」

ありあわせのものしかないけどお口に合うかしらと謙遜するウォースパイト。


その横からジャーヴィスが口を挟む。

「あら? この間、日本の駆逐艦を招待して私たちもアフタヌーンティーをやったじゃない」


雪風はジャーヴィスから目を反らすように少し上を見て

「んー…あの時はティーカップじゃなくて紙コップだったし、サンドイッチはパサパサで、ケーキは3Dプリンターで作ったような出来合いだったし、とても優雅なんて…」


ジャーヴィスが言い訳と反論を同時にした。

「仕方ないでしょ! 駆逐艦は戦艦や巡洋艦と違って補給事情が良くないんだから! そもそも日本人は食事にうるさすぎなのよ」


すると雪風は

「んー…こっちも駆逐艦だからそこまではわかるんだけど…びっくりしたのはその後で送られてきた会費の請求書。あれで一人五千円は高すぎる!ってみんな怒ってたよ」


ジャーヴィスは言い返す言葉を探してほんのちょっと黙る。雪風は米軍の空爆を回避した呼吸でその間を逃さず

「それでね。会費は日本艦が手土産で持っていった羊羹やカステラで相殺ということにしたいんだけど…」


ジャーヴィスはフンと鼻をならし

「何よ。レッドビーンズばかり使っているスイーツじゃない!」


すると雪風が

「でもジャーヴィスってばシベリア…ほらカステラで羊羹を挟んだお菓子…美味しい美味しいって一人で食べてたじゃない」


ジャーヴィスは今度こそグムッと黙り

「次はちゃんとしたオモテナシにするわよ」

と言い返した。


このあたりが潮時かと考えたらしい金剛が

「さあさあ、二人とも遠慮無く食べるがよい。ウォースパイトの作ったキューカンバサンドは絶品じゃぞ」

と二人に声をかけて日英駆逐艦の心暖まる?歓談は一時中断した。



ジャーヴィスたちのティーセット↓

挿絵(By みてみん)

雪風「これで一人五千円はちょっと...ニュースで見た大阪万博のイギリス館のティーセットみたい」

ジャーヴィス「ああ、値段が高すぎるって日本人がネットで騒いでいたヤツね。わたしたちも今度はちゃんとティーカップに入れて出すわよ。確かどこかの景品でもらったマグカップがたくさん余っていたはず...」

雪風「......イギリス人ってケチなんだね」

ジャーヴィス「アングロサクソンの質実剛健を受け継いでいるって言ってちょうだい」




みなでウォースパイトの心尽くしのサンドイッチやスコーンを手に取る。日本人であるわたしの好みに合わせてくれたのか、しっとりしたパン生地のキューカンバサンドも美味しかった。だが素晴らしかったのがマーマレードロール。ジャムがたっぷり入っているのが甘党のわたしには嬉しい。


ジャーヴィスが言っていたがこういう食感を英語ではステッキーStickyというそうだ。ジャムの粘着性を表現しているのだろうが、日本語に訳すとベトベトといういささか汚い言葉になる。しかしたくさんのジャムがパン生地に染み込んでいる贅沢の前にはそんな日本語の語感なんて吹き飛んでしまう。


ティーカップに口をつけながら、金剛はちらりちらりと洋上に視線をやる。それに気づいたウォ―スパイトは

「午前中だけでは終わらないかもしれないわね、金剛シスター」

金剛はそうかも知れぬのと言って視線を戻した。


昼食を兼ねたティータイムが終わると金剛は執務を行っていた部屋からジェラルミン製のトランクをいくつか持ってきた。トランクには固く施錠がしてある。


「ではジャーヴィスに雪風。おぬしたちの従卒艦としての初仕事じゃ。このトランクの中に入った機密書類やフラッシュメモリをそれぞれの部署の責任者のもとに届けてもらいたい。心得ていると思うが受け取りのサインや印鑑を必ずもらってくるのじゃぞ」


ジャーヴィスも雪風もアイマム!と元気に答えて自らの艦を駆ってそれぞれの泊地に向かっていった。


わたしは金剛に聞いた。

「機密書類は当然かもしれないけど他の命令書も手渡しが多いよね。暗号をかけてブロックした電子テキストを送信したり、共有クラウドで管理するわけにはいかないの?」


金剛は答えた。

「電子メールとやらで送信するとわたしは見ていないとか気づかなかったとかいうヤツが必ず出てくるのじゃ。直接手渡しして受け取りのサインをさせれば言い訳ができなくなるからの。手間暇がかかってもこちらの方が良いのじゃ」


なるほど。そう言えばポスドク研究員をやっていた時に研究所の事務長さんがぼやいていたのを思い出した。


「○○先生に原稿の締切日をメールで送ったけどそんなのわしゃ知らんとか言うとる云々」


うーん。組織というものはどこも同じか...しかし人間に生まれ変わったウォーシップたちも人間と同じようにゴチャゴチャやっているのは中々興味深いなあ。もとは機械とはいえ人間の歴史を受け継ぐと人間の非合理性まで受け継いじゃうものなのだな。


...と自分の考えにふけっているわたしに金剛が声をかける。


「それでは提督。わしたちも執務に戻るぞ。ひょっとしたら明日から忙しくなるかもしれぬでの。今日のうちに片づけられる書類は片づけておきたいのじゃ」


かくしてわたしは金剛やウォースパイトとともに夕刻まで書類の決裁を行った。金剛の

「ではそろそろこのあたりで一区切りつけるかの」

で本日の仕事は終了になる。ここは戦艦金剛の中なので勤務を始めるのも終わるのも金剛の指示になる。彼女たちの前世はウォーシップだったので艦内の全権をキャプテンが握る海の掟をそのまま受け継いでいるというわけだ。これは戦艦だけでなくて駆逐艦も変わらない。


夕食は新たに従卒艦となった二人の駆逐艦を歓迎する意味もこめてスキヤキになった。アイルランドの民話に出てくる妖精が育てた牛の肉をウォースパイトが持って来てくれたのでそれを金剛が調理する。


「ああ、こらこらジャーヴィス、そんなに水をドバッと入れてはいかん。スキヤキは鍋料理とは違うのじゃ。ほら提督、そこの肉は煮えてきたからわしがとってやろう」


金剛はなかなかの鍋奉行ぶりである。みなに肉と野菜が行き渡って食べながらのおしゃべりが始まる。


金剛が雪風に話しかける

「おぬしが起案書を書いた駆逐艦による分子雲燃焼魚雷の演習じゃが本日提督のサインをもらったぞ。しかしおぬしは実戦部隊から司令部付きに転属したから演習に参加できないのは残念じゃの」


雪風が応える。

「ありがとうございます。任務半ばでの転任は軍人の宿命ですから承知しています。でも磯風に任せれば心配ありません」


そういえばこの演習計画は雪風と磯風の陽炎型駆逐艦コンビで起案したのだった。しかしずいぶん信頼しているのだな。それを言うと雪風は


「はい! あの戦争の終わり頃は磯風と同じ駆逐隊にいましたから。安心して背中を預けられます!」


するとジャーヴィスが口を挟む

「へー。駆逐艦の上申書が採用されるなんて珍しいわね。わたしのヒル艦長なんか何度意見具申しても本部が相手にしてくれないんだってすっかり拗ねちゃってたわ」


雪風が言った

「これでも苦労したんだよ。雪風の書いた起案書は最初は神通さんに見てもらったけど、比叡さんに読んでもらいなさいって言われたの。神通さんが言うにはわたしはただの水雷屋だけど、比叡さんならお召し艦や演習統監艦といった幅広い任務を経験してるからって」


ふんふんそれでと身を乗り出すジャーヴィス。雪風は話を続ける。

「それで...最初に比叡さんに提出した起案書は朱筆の訂正で真っ赤になって帰ってきて…磯風と相談して書き直して三回目でこれなら稟議にかけられるって言ってもらったの。でも比叡さんは日本艦鎮守府全体の運営を見ていて忙しいから磯風が書類を持って回って…軽巡重巡の皆さんからたくさんの所見を書いてもらって、最後は霧島さんがまとめてくれて、ようやく司令部に提出できたんだよ」


挿絵(By みてみん)

雪風「こう見えても苦労したんだよ?」


ジャーヴィスはそれを聞いて

「なるほどね。それだけのことをやらないと採用されないのね。いや、わたしのヒル艦長も機雷掃海の起案書を提出したんだけどね。中身をチェックしたのは気心の知れた部下二人だけ。しかも上層部は何もわかっていないって感じの文章だったし、あれじゃあ通るわけが無いわね」

と話しながら頭をふった。


ジャーヴィスはその後で

「それにね。今だから話せるけどヒル艦長が考えた機雷掃海のプランってわたしが囮になって機雷を爆発させるものだったのよ!」


え?…それはちょっと強引すぎるな。艦だけでは無くて乗組員も危険だ。


ジャーヴィスはだんだん興奮してきて

「『本艦は沈没するだろうが機雷の掃海は成功間違いなし』って何よ! わたしはラッキージャーヴィスなのよ! そんなプラン却下されて当たり前よ!! あー思い出すと腹が立ってきた!!」


まあ当然といえば当然だが怒りがおさまらぬ様子のジャーヴィス。それを雪風がどうどうと馬を押さえるようになだめる。


確かこの話はヒル艦長の回顧録『死闘の駆逐艦』に書かれていたな。手元に置いてあった朝日ソノラマ文庫本を取り出して中を探す。あった。393頁以下だ。食事中ではあるがわたしは頁を示しながらジャーヴィスに話かける。


「ヒル艦長の回顧録にも機雷掃海にキミを使う話は乗っているけど『ジャーヴィスならびに同乗組員をこのような実験に供するのはあまりにも高価にすぎる』という上層部からの命令で取りやめになったようだよ。その他にもジャーヴィスの艦長になったら人の見る目が変わったようなことが書いてあった。キミは海軍の中で大事にされていたようだね」


ジャーヴィスはそれを聞くと機嫌を直して

「あったりまえよ! わたしはロイヤルネイビーきってのラッキーシップなのよ! 上の人はわかってるじゃない!」

と誇らしげに胸を張る...さすがに 4.7インチの主砲は戦艦に比べるとミニサイズではあるが。


その後でジャーヴィスは

「でもヒル艦長も対空...対潜...上陸支援...どんな任務でも活躍した素晴らしい海の勇者だったわ。勲章を三つも授与されたのよ。ま、わたしの十三個には及ばないけどね」


ロジャー・ヒルは2001年にニュージーランドで亡くなっている。その風貌を見ると貴族的な線の細さは無くいかにも海の男だ。まさしくアングロサクソンの戦士かヴァイキングの子孫といった形容がぴったりくる。優秀な指揮官だったが上層部との関係はあまり良くなかったという。気の強さはジャーヴィスといい勝負かも知れない。


ヒル艦長は著書の中では上層部を批判していたが、その自分がかっての乗艦にヤイヤイ言われているのを聞いたらどのように思うのか。もしヒル艦長とジャーヴィスが出会ったらどんな会話になるのか興趣尽きることが無い。


挿絵(By みてみん)

ロジャー・ヒル(Roger Percival Hill,1910-2001,https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/HMS_Grenville_R97.jpg )


ヒルの上官だったジョン・エガートン・ブルーム(John Egerton Broome)の皮肉交じりの評「ヒルは陸上で指揮する参謀をほとんど信用しなかった。まるで反逆者のようだった。世が世なら素晴らしい海賊になっていたことだろう。もちろん人道を忘れない海賊であるが」をジャーヴィスに伝えると彼女は大笑いした。その顔にはかすかにそばかすが見える


「あっははは! ぴったりだわ。ジャッキー・ブルームもよくわかってるじゃない。今の言葉を駆逐艦仲間のレドベリーやグレンヴィルにも聞かせてやりたいわね。二人ともヒル艦長の操艦で戦ったのよ」


挿絵(By みてみん)

ジャーヴィス「あっははは! わたしも海賊船になってみたいわね!」


それからジャーヴィスはヒル艦長の想い出を語ってくれた。足の水虫に悩まされていたこと。10歳以上の年が離れた妹ディムプスが婦人部隊の伝令として駆逐艦ジャーヴィスを訪れた時には頭が上がらなくて見ていられなかったこと。六歳の長男リチャードを艦に連れてきたが父親に似てなくて良かったこと。...を笑いながら話してくれたが、戦争神経症による不眠に苦しんでいたことに話題が及ぶと「戦争だものね...」とポツリと呟いた。


ウォ―スパイトはそんなわたしたちを微笑みながら眺めていたが、時折、夜の洋上に視線をチラリチラリと送る。昼間の金剛と似たようなことをやっている。金剛はそんな彼女を見て

「今日は待ち人来たらずのようじゃの」

と声をかけた。


さて食事が終わり、ジャーヴィスと雪風がかいがいしく後片付けをしてそれぞれの艦に引き取った後、金剛はウォ―スパイトと二人、真剣な表情でわたしに語りかけた。


「実は提督、先般の主力艦会議でトルコ艦のヤウズとギリシャ艦のアヴェロフが仲たがいした件ではな、チェザーレとマレーヤに仲介を頼んでいたのじゃ」


「チェザーレはイタリアの戦艦、アヴェロフもイタリアで建造されたので彼女を説得する主力艦としては適任だと考えたのですわ。マイアドミラル。わたくしたちのマレーヤも外交使節としてトルコに派遣されたことがあるのでヤウズとも顔見知りですし」


....確かマレーヤはオスマン帝国最後の皇帝メフメト6世が革命で亡命する時は彼の乗艦となり、トルコ共和国の元首ケマル・アタトゥルクが亡くなった時はその弔問艦を務めたのだった(第7章参照)。


「それでウォ―スパイトがあの二人に説得に向かってもらうよう頼んだのじゃが、朝早く行って夜の今に至るまでこちらに来ないということは十中八九...」


「成功しなかったと見ていいわね、金剛シスター」


「まあそういうわけで明日から少々忙しくなる。心得ておいてもらえるとありがたいの」


激戦地で艦とその乗員の命を預かったヒル艦長と一緒にしたら怒られるかもしれないが...今夜わたしは眠れるだろうか。(この章おわり)





補遺



挿絵(By みてみん)


比叡「姉さま、申し訳ございません。この間お見せした井上艦長の報告書ですが、ひょっとしたらご本人の手によるものでは無く代筆だったかもしれません。満洲国皇帝陛下のご様子を伝える電文は今川飛行長が執筆して艦長のお名前で発信していましたから」(井上成美伝記刊行会 『井上成美』164頁、阿川弘之『井上成美 』新潮文庫版145頁)



挿絵(By みてみん)


金剛「ほう、そうであったか。また提督に申し上げねばならぬな。やはり海軍の文書は一筋縄ではいかぬものじゃのう」


金剛「さて、今回からいよいよ我らが艦隊の雑ようがか…」

ウォースパイト「オホンオホン、金剛シスター!」

金剛「もとい艦隊の要である駆逐艦が登場したわけじゃが…」

ジャーヴィス「うわー! いきなり大型艦の本音を聞いちゃったわ」

雪風「でも金剛さん、どうして雪風たち駆逐艦って魚雷戦から大型艦の護衛から対潜水艦戦から鼠輸送まで幅広い任務を与えられたのですか?」



金剛「うむ、それを話すならばまずは水中機雷や魚雷の発明と発達まで遡らなくてはならん」

ウォースパイト「1842年にはサミュエル・コルトが電気発火式の機雷を実験しているわね。1866年には我がグレートブリテンの技術者ホワイトヘッドが魚雷を発明して1870年代には各国で実用化されたわ」

金剛「それらはすぐに実戦に用いられた。南北戦争では南部同盟の誇る装甲艦アルベマールが機雷によって撃沈しておる。この時は小艦艇が接近してアルベマールの艦底へ棒にくっつけた機雷を差し込むといういささか無茶な作戦じゃったがの」

ウォースパイト「この水雷艇による戦術は戦艦にとっては脅威だったわ。視認できない小型艇が接近して機雷を仕掛けられたり魚雷を撃たれたりしたら撃沈まで至らなくても損害は大きいわね」



金剛「そこで戦艦に接近する水雷艇を撃退するために開発された艦種がおぬしらなのじゃ。最初に開発された駆逐艦はウォースパイト、おぬしの故国のイギリスじゃったの?」

ウォースパイト「そう。1894年に就役したHMSハボックとHMSホーネット。当時の仮想敵国だったフランスの水雷艇を打ち砕くという意味をこめてデストロイヤー(打ち砕くもの)という艦種名を与えられたの」

金剛「それが日本では駆逐艦と訳された。もちろん水雷艇を駆逐すると言う意味じゃ」

ジャーヴィス「へー。そうなんだ。はじめて知ったわ」

雪風「はい、勉強になりますっ」



金剛「そして肝心なのはここからじゃ。我が帝国海軍は日露戦争で駆逐艦を本格的に実戦に用いた。すると速力が高くて喫水の浅い駆逐艦というのは本来与えられた任務の他に通報、偵察、上陸部隊護衛でも働ける艦種というのがわかったのじゃ」

ウォ―スパイト「わたくしたちロイヤルネイビーは第一次世界大戦ね。ドイツのUボートの通商破壊に対抗する時にデストロイヤーが大活躍したわ。あの時は日本海軍にも地中海に援軍に来てもらったわね」

金剛「かくして水雷艇を迎撃する本来の目的は名前だけに残り多種多様な任務をこなす艦種に変貌を遂げたわけじゃ」



ウォ―スパイト「どれも制海権を握り本国へ物資を運ぶためには欠かすことができない大事な任務だわ」

金剛「なお、我が帝国海軍については特殊事情があっての。軍縮条約で戦艦の保有数が制限されたために駆逐艦をも艦隊決戦の主力に用いようとした。それで吹雪たちのようなトップヘビーの大型駆逐艦が建造されることとなった。しかし、いざ戦ったら目論見通りには...まあこれは雪風、おぬしが一番わかっておるじゃろう」


雪風「アメリカとの戦争が始まる前には水雷戦の演習ばかりやっていたのに...ガダルカナルの戦いが始まってからは全く訓練していない戦いを手探りでやることになってしまいました。鼠輸送では多くの仲間たちが...」

金剛「うむ。あの戦いではわしら戦艦も不甲斐なさを見せてしまったの。それもあって現在ではわしら戦艦はお払い箱になってしまったが、駆逐艦は今だに現役でイージスとかいう防空戦力を持った艦艇も建造されておる。だから雑用係と卑下せずに自らの任務を誇りとするが良いぞ」



ジャーヴィス「うわー! 雑用係って最初に言ったのは金剛さんじゃない!」

雪風「あはは(乾いた笑い)...ジャーヴィスって大型艦にも遠慮が無いね。あっ、金剛さん、羽織のたもとから何か落ちましたよ。本? ....堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』...」

金剛「おっとカンニングがバレてしまったようじゃの。いやわしは今の最新の研究よりも堀元美技術中佐や福井静夫技術少佐のような元帝国海軍軍人の書いた本のほうが頭に馴染むようじゃ」

ウォ―スパイト「少し長くなってしまったわね。次回は『コップの中の希土戦争』読んで楽しんで頂けると嬉しいわ」


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