短く返信した
短く返信した
彼女のしなやかな髪を撫で抱き締めようとしたら、目が覚めた。慌てて目を閉じたが遅かった。手のひらから零れ落ちる水のように彼女の影は遠ざかって行った。
まどろむ意識のなか目をあげると夜明けだった。携帯を手繰り寄せ、古いメールを開く。
<いつも悦司は、わかってる、わかってる。て言うけれど、案外、人は走り出したら自分のことは解らないからね。特に悦司はね。それから、お願いだから相手が何か訴えているときにとんでもない理論を組み立てて、相手を服従させようとあまりしないでね。それでは付いて行けないよ。人は人にしか救われないもの。でもそれが悦司の強さでもあるんだけどね。いつも心を閉ざして外で優しい顔を作っているから、いっぱいいっぱいになっちゃうんだよ。色々と考えさせて貰いました。悦司、ありがとう>
携帯を閉じてベッドに放り出しリビングの窓に歩み寄り額を付けた。古いメールに綴られた文字が頭の中を巡る。白ばむ街を見下ろす窓は思いのほか冷たく、悦司の肌がみるみる粟立ってゆく。
<私たちは彼氏彼女じゃない方が長く付き合えるんじゃないかな。私たちが出逢えたのは偶然なんかじゃないと今でも思てる。だから長く知り合てる方がいいじゃない。でもね、この付き合い方にはリスクもあるし確かにキツイかも知れない。彼氏彼女の関係の方が縛りがあって楽なこともあるからね。最近ゆっくり会たりもないから悦司もキツイと思う。彼氏彼女の関係をやめようよ。ベストフレンドじゃダメかな? それでも良かったらまた会おうよ>
悦司は沙希の中で最上位の存在で在りたかった。
別れたカノジョと『友達』になったことなんて、一度もない。だけど悦司は想いの全てを無くし沙希を失うよりもたとえ半分だけでも残し続けたかった。
<ベストフレンド? それも悪くないな>
精一杯の強がりだった。そうして二人は彼氏彼女でなくなった。
ベストフレンドの関係――。
それは以前の関係よりも新鮮で瑞々しかった。見えなかった沙希も見えた気がした。
けれど、ときどき薄ら寒い風が悦司の心を吹き抜ける。
全てを無くし失うよりも、たとえ半分の繋がりであっても、沙希と繋がっていたい。と想っていたはずなのに……。
ベストフレンドの関係――の時が経てば経つほど、
半分の繋がりが苦しく辛くなっていった。
あの日、悦司は云った。
『沙希。オレたち、もう一度最初から付き合わないか』
両手でコーヒーカップを包むようにして、沙希は目をあげた。
切れ長の瞳が俄かに滲んだ。
『ワタシから言い出して別れたにも関わらず、やっぱりワタシも寂しかったのか、悦司と会って話したら、テンション高く始まってしまって……でも、今誰かとちゃんと付き合うのは無理だって気付いた。友人でいることの繋がりを強要したのはワタシなのに、失礼な話しだね。ごめんなさい。どうして会えばいつもぶつかるのかとずっと考えてた。悦司はやっぱり自分だけを見ていてくれる彼女が欲しいんだよ。でもワタシはいらない。そりゃぶつかるよね。もちろんそれだけが理由じゃないけどね。悦司の彼女の定義はワタシみたいなオンナじゃなくて、自分だけを見つめてくれる人だと思う。悦司、ちゃんと別れよう。悦司に友人を強要するのは本当に悪いことをしたと思ってる。ごめんなさい。ワタシは、男性の友達も沢山いるよ。元カレもそう。だけど、元カレは最良の友人だから、悦司が考えているような関係じゃないよ。お互いに新しいカレやカノジョが出来たら話すことになってるから。だから悦司のことも前に話したよ。何度も言うけど、悦司が思ってるような関係じゃないの。ワタシはひとりとだけに向き合える相手にまだ出逢ったことがないし、そんな勝手で都合のいいことばかりを言ってたら、いずれ誰にも相手にされず何もかも失うかも知れないけれど仕方がないわ。『もう一度最初から付き合わないか』って言ってくれてありがとう。でもね、やっぱりカノジョは無理だと思う。沢山いっぱい有難う。ごめんなさい』
あの日以来、悦司は沙希とは逢っていない。
悦司は自分の中にある痛い想いと向き合って、ずっとずっと考えて続けて底が尽きるまで向き合った。凄く辛くて苦しいし痛かった。
だけど吐き出すだけ吐き出して、底が尽きて吐き出すものがもう無くなって、自分という人間を冷静に眺めることが出来始めたような気がした。
悦司はこれまでどんなことに対しても力で平伏せようとしていたのかも知れない、と。
自分の意に反する事には、全否定を前提に押し付けて、彼女を支え守りたいという想いも、結局それは自分以外の人間から隔離し、閉じ込める為の高い堤を作らせることを望み、自分に封じ込め独占することを愛することだと思っていた。
独占し独占され、それに従順する自分に向けられた姿こそが確かな愛情だと考えていた誤り。愛情なんて力で繋ぎ止めようはあろうはずもないということを。
自分以外の者に向ける一句挙動の全てをその仕草さえも嫉妬に満ちた言動で力任せに投げつけてきた自分。拒絶されたのは自分ではなく、退けられる自分を自身で創りあげていたのではないかと。
悦司は、今自分が思うことが正しいのかどうかは分からない。だけど少なくとも沙希は自分という人間を気付かしてくれたのではないのかと思う。
離れて初めて知ること。
失って初めて分かること。
多分、全てがそういうものじゃないのかと。
離れてみて、初めて、
視える。
聴ける。
話せる。
なんて、そんなことが。
悦司は沙希のことを今でも忘れてなんかいない。だけど、別れた時に全てを断ちきらないと、立ち直れない位のちぎれるような想いを擁いていた。
会いたい気持ちや自分だけに想いを向けられたいと思う気持ちと同じくらい、誰でも何かに対する思いや考えが存在していて、そもそもそれらは同じ土俵で立つはずもないことを比べてみたり、優劣をつけてみたくなったり。
でも恋をするっていうのはそんな繰り返し。
正解のない自問自答に苦しんだ挙句、一番大切なひとを責め失ってしまうのかもしれない、と。
もしかしたら、沙希はそれを知っているから『ワタシはひとりとだけに向き合える相手にまだ出逢ったことがない』のかも知れないし、自分勝手なように見えるけれど、本当は何かと何かを比べたり正解のない答えを探したくなかったのかも知れないと悦司は思った。
一年近く前に携帯を変えたとき、何気にコミニティサイトに登録した。ほんの暇つぶしのつもりだった。ゲームや色んな書き込みを見たりして退屈な通勤時間の気休めくらいにしか思っていなかった。何かを期待なんてしていなかった。ましてバーチャルな世界での出会いなんて悦司は馬鹿らしいとさえ思っていた。
それなのに――、と思う。
バーチャルな世界で、見ず知らずの人たちと他愛のない会話をしてる中に、沙希のプロフィールを見つけた。
<男女で最良の関係ってどんなのかな? 皆さんはどう思われますう?>
悦司は軽い気持ちで書き込んでみた。
<はじめまして、こんばんは。最良の関係って? やっぱり彼氏彼女の関係でしょ>
間もなくして、サイトからメールが届いた。
<はじめまして。こんばんは。カキコありがとう。やっぱりそれが普通かな? Etsujiさんは彼女いるんですか? あ、もしかして既婚だとか……>
悦司は舌打ちした。『彼女がいたらこんなメールする訳ないだろ』返信をせずに冷蔵庫のビールを取り出した。
プルタブを開けようとしたら再び携帯が振動した。
短く返信をした。
<どうも。シングルでカノジョなんて居ないよ>
あの時、返信をしていなかったら沙希と出会えなかったな、と悦司は思った。(了)
想いのままつらつらと。