表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

商業化作品

嫁がされた先は白豚公爵のはずですが?

作者: 杓子ねこ

「貴様との婚約を破棄する、ウルリカ・シェルヴェン!!」

 

 パトリックの声が広間に響き渡り、ウルリカは顔をあげた。見れば、たったいま広間に入ってきたパトリックが、ウルリカを指さしている。

 パトリックに縋るように、一人の娘が寄り添っていた。

 

(あのブローチの紋章は、マルメル男爵家? かの家の令嬢はキャロリーナ嬢だけ。ならば彼女はキャロリーナ・マルメル?)

 

 表情一つ変えず、ウルリカは冷静に状況を分析する。

 国王も王妃もいない日にわざわざ王太子の名で舞踏会を開催し、そのうえ婚約者を放置するとはどういうことだろうかと考えていたのだが、答えがわかった。

 

 まっすぐな視線にパトリックはぐっと眉を寄せ、一瞬怯んでしまった自分を隠そうとするかのようにますます声を張りあげる。

 

「貴様はこのキャロリーナを妬み、舞踏会のたびに陰で虐め抜いていたそうではないか! 目撃者もいる! 貴様のような者を王太子妃、ひいては王妃とすることはできない!!」

 

 静まり返っていた広間が徐々にざわめきに包まれる。

 ウルリカを庇って声をあげる者はいなかった。誰も口を出すことなく、不安げな顔で成り行きを見守っている。

 

 状況を優位にすべく、パトリックはさらに一歩前に出た。

 

「さらに、お前が黒魔術を使い貴族たちを呪っているという噂がある! 数年前のドーソン領の不作もお前の呪いだと……! 人がお前をなんと呼んでいるか知っているか!? 飢えた獣のように国を荒らす、狼女(シーウルフ)だ!!」

 

(……そんなふうに呼ばれていたのね)

 

 たしかに、数年前までウルリカは政治の世界に首を突っ込んでいた。それを嫌がっていた貴族たちがいるのも知っている。女のくせに、というのも何度も言われた。

 貴族たちの視線が矢のように突き刺さる。

 ウルリカが挙げた功績は、彼らには忘れ去られてしまったらしい。

 

「だいたいお前は俺といてもにこりともしない!! 優秀さを鼻にかけて俺をバカにしているのだろう!?」

 

(話題が急に主観的なことになったわね)

 

 首をかしげるウルリカの前で、パトリックはキャロリーナを抱きよせる。可愛らしい顔立ちに、ふわふわと要領よくカールした金髪。

 ウルリカの髪は融通のきかないストレートで、色も茶けた濃灰。顔だけは美人だと言われるが、パトリックの言うとおり、愛想を売ってほほえむこともない。

 

 抱きしめられたキャロリーナは頬を染め、恥ずかしそうに笑った。

 

「パトリック殿下……とても、男らしくてかっこいいですわ♡」

「見たか!? これだ!! これが相手を想っている者の表情だ!! お前が一度でも俺に笑いかけたことがあったか!? 『かっこいい♡』とか『頭がいい♡』とか言ったことがあったか!?」

 

(どうして「ありません」としか答えようのない問いを貴族たちの面前でするのかしら)

 

 それが彼の体面を傷つけるだけでプラスに働かないことは歴然だ。

 

「お前は常に真顔で! 俺を監視するように冷めた目で見ていた! 内心では俺を嘲笑っていたのだ! だが彼女は、キャロリーナは違う! 俺は真実の愛に生きると決めた!!」

 

 要は、色々と黒い噂があることよりも、政略上の婚約者であることを前面に押し出していたウルリカの態度が気に食わないということだ。

 

 ウルリカはため息をついた。自分でも驚くほどに心は動かなかった。

 王都にいるほとんどの貴族が集まった場でこんなことをしでかしたのだから、もうウルリカの手に負える事態ではない、という諦めもある。

 

「婚約は王家と侯爵家のものです。婚約を破棄するのならば、国王陛下と父の許可をいただいてください」

 

 初めて声を発したウルリカにパトリックはびくりと肩を震わせた。

 しかしすぐに返答の内容を認識し、唇の端をつりあげる。

 

 パトリックの腕の中で、キャロリーナもウルリカを見つめた。パトリックが惚れたという可憐な笑顔は姿を消し、毒々しい嘲笑がその口元に浮かんでいる。

 

「この期に及んで政治の話か? お前はもうそんなことは考えなくてよいのだ」

 

 次なるパトリックの一言は、さすがのウルリカをも驚かせるものだった。

 

「ウルリカ・シェルヴェン侯爵令嬢――王太子として命ずる」

 

 表情を引き締めたパトリックはそう言ったかと思うと、いっそう唇を歪め、

 

「ノア・クロンヘイム公爵へ嫁げ。狼女には白豚がお似合いだ」

 

 ありえない命令を、下した。

 

 

◆◆◆

 

 

 三日後には、ウルリカはクロンヘイム領の中心部にある公爵邸へ送り込まれていた。

 本当に、送り込まれたと言って正しいほどに、パトリックは兵すら使ってウルリカを追い立て、王都を出立させてしまったのだ。

 

 だが、クロンヘイム邸の応接室へ通されたウルリカは、取り乱す様子もなく主の訪れを待っていた。

 

 

 ノア・クロンヘイム公爵は、謎に包まれた人物だ。

 彼は一度も王都の社交界に姿を現したことがなく、年齢も不詳。そもそもクロンヘイム家がなぜ公爵位を得て今の地位についたのかもわからない。

 

 社交界の噂では、クロンヘイム公爵は領地で酒池肉林の限りを尽くし、醜く太った容貌であるという。隣国とのつながりもあると聞く。王家を憎んでいるとか、謀反を企んでいるとかいった噂もあった。

 領地に引きこもり様子のわからない彼を、王都の貴族たちは軽蔑と恐怖を込めて〝白豚公爵〟と呼んだ。

 

 

 ――狼女には白豚がお似合いだ。

 

 パトリックの言葉がよみがえり、思わず出てしまいそうになったため息を、ウルリカはぐっとこらえた。

 

「お待たせいたしました」

 

 ウルリカを応接室へ案内した執事がやってきて、主人の訪れを告げた。

 立ちあがったウルリカの前で両開きの扉が大きく開け放たれる。

 

「――……」

 

 一瞬、ウルリカはぱちくりと目を見開いてしまった。

 婚約破棄を突きつけられても平然としていたウルリカが、言葉を失ってしまうほどに、たしかに〝彼〟は異形だった。

 

 ボールのようにむっちりと膨らんだ身体を、のばしっぱなしの銀髪がカールしながら覆っている。

 ウルリカのように狼や鼠を連想させる鈍色ではない。光を受けて限りなく白く輝く銀だった。色合いだけ見れば美しいだろうそれは、長くのびて鞠のような全身に絡みつく。

 服も靴も、すべてが特注なのだろう。

 

 ノア・クロンヘイム公爵は、とにかく巨大で、むちむちだった。

 しかし、白豚と蔑む気持ちは、ウルリカの心には起こらない。

 

(丸くて白くてふわふわ――これは……)

 

 自分の五倍は体積を保持していそうな相手(ノア)を見つめ、ウルリカは心の中で呟く。

 

(これは、白豚ではなくて、白羊ではないかしら……?)

 

 そう思ったのと、ウルリカの視線が乱れた銀髪越しに青い瞳にぶつかったのは同時だった。

 我に返ったウルリカは深々と腰を折る。

 

「はじめてお目にかかります。ウルリカ・シェルヴェンと申します」

「……」

「このたびはご面倒ごとに巻き込んでしまい申し訳ありません。経緯は執事にお話したとおりです」

 

 パトリックが根回しなどしているはずがないと踏んだウルリカはあたふたと出迎えた執事に事の顛末を語って聞かせたのだが、案の定執事は侯爵令嬢が嫁いできたという事態に大慌てになってしまった。

 かといって王都に帰るわけにもいかない。主人と話をさせてほしいと頼んだのだが。

 

「国王陛下と王妃殿下は隣国へ外遊中、わたくしの父も付き添っております。連絡が取れるまで、こちらに置いていただきたいのです。それから、お許しいただけるなら領地とのやりとりも――」

「勝手にしろ」

 

 すべてを言い終わる前にぴしゃりと投げつけられた返事は素っ気ないものだった。

 とはいえ、承諾と受けとってよいだろう。

 

「ありがとうございます」

 

 ふたたび頭をさげるウルリカに背を向け、ノアは立ち去った。

 ……どすんどすんと足音を響かせながら。

 

 細かく壁が振動するのを見つめながら、ウルリカは、これまでにない気持ちが胸に湧きあがるのを感じていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 クロンヘイムの客となったウルリカには、広々とした部屋が与えられた。願ったとおりに手紙を書くための道具も、屋敷の中を好きに歩いてよいという許可も。

 

「ただし、主の部屋には訪れないようにお願いいたします」

「ええ、置いていただけるだけでありがたいわ。クロンヘイム公爵にご迷惑はかけないように気をつけます」

 

 申し訳なさそうな執事の様子にそう答えると、執事はほっとした顔になった。

 

 

 当面の居場所を確保したウルリカは、まず王都の自宅と、領地に手紙を書くことにした。父の不在中、領地で何かあれば王都のウルリカに連絡がくることになっていたが、そのウルリカが今は王都にいないのである。

 幸いにもクロンヘイム領とシェルヴェン領とはさほど離れておらず、領地の役人とはすぐに連絡がとれそうだった。

 

(……まあ、こういったことをしているからパトリック殿下に嫌われたのでしょうけれど)

 

 

 父、シェルヴェン侯爵は、貴族としてはいたって普通の野心を持っていた、と思う。

 娘の利発さに気づいた彼は、十年ほどかけて貴族の令嬢が身につけるべき花嫁教育の数々を、三年で終わらせるようにウルリカに命じた。

 ウルリカが幼くしてその命令をこなしたと知るや、今度は領地の経営を教え込んだ。それから国の仕組みを。

 

 そしてある日ウルリカを、貴族たちの会合へ連れて行ったのである。

 

 水を得た魚のようにウルリカは政治の世界に没頭した。国内の商業を発展させるための方策や、外交の方針など、大人に混ざって様々なことを議論した。

 

 父の思惑どおり、ウルリカは国王の目に止まった。

 その頃すでにやや不安要素のあった王太子パトリックの補佐役として。

 

 

「……」

 

 父へ宛てた手紙にことの経緯を書き留め、ウルリカは筆を止めた。

 パトリックに婚約破棄され王都を追いだされてクロンヘイム公爵家に身を寄せていることは書いた。

 だが、そのあとは?

 

 事件が起きたのであれば対策を採らねばならない。

 父に、国王陛下へのとりなしと、事件の解決を要請せねばならないのだ。

 

 自分はどうしたいのだろうかとウルリカは思った。どうすべきなのかはわかっている。けれど――。

 

(……わたくし、王都に戻るのが嫌なのかもしれないわ)

 

 それはこれまで疑問を持たずに生きてきたウルリカにとって、驚くべき気づきだった。

 

 ――お前が一度でも俺に笑いかけたことがあったか!?

 

 パトリックの言葉がよみがえる。

 そう問われれば、「なかった」と答えるしかない。年上の男性貴族たちとやりあうとき、少女の笑顔はむしろ相手に侮られる原因になった。だからウルリカは父の真似をしていかめしい顔を作り、自分が優位であるようなふりをした。

 

 パトリックに対してそういった態度をとっていた自覚はないが、そう感じたというのならそうなのだろう。

 キャロリーナ嬢を虐め抜いたという話も、覚えがなくとも、もしかしたら。

 

 ウルリカは小さくため息をつくと、「わたくしの処遇はお父様のご随意に」とだけ書き添え、筆を置いた。執事を呼び、二通の手紙を送るよう手配してもらう。

 

 どしん、と屋敷が揺れ、ウルリカは天井を見上げた。執事も一緒に見上げ、

 

「おそらく、坊ちゃまが、猫とお戯れかと……」

「猫がいるのですか?」

「はい。坊ちゃまは動物がお好きで」

 

 二人して天井を眺めながら、ウルリカは猫のことを想像してみた。ノアは猫にとって、大きな玩具なのではないだろうか。

 

 どしんどしんという衝撃はまだ伝わってくる。

 

「ウルリカ様も猫がお好きですか?」

「ええ」

「あとで連れてきましょうか」

「そうですね」

「では、失礼いたします」

 

 礼をして去っていく執事を見送りながら、ウルリカは彼の言葉がもたらした新たな気づきについて考えた。

 

 天井を見つめてしまったのは、羨ましい、と思ったからだ。

 人のいい執事は、ウルリカのその気持ちを察し、猫を連れてこようと言ってくれた。

 

 けれどもウルリカが羨ましかったのは、猫と遊ぶノアではなく。

 

 あのもこもこでふわふわそうなノアと遊ぶ、猫のほうだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 政治と野心の渦巻く王都を離れて休養してみると、自分がいた場所がいかにドロドロとして異様な世界だったかがわかる――。

 

 腕の中の猫を撫でながら、ウルリカはそんな一文を思い出していた。

 クロンヘイム家の図書室にあった、誰かの手記に載っていた一文である。

 

(そうかもしれない)

 

 そうは思わなかったけれども、負担だったのかもしれない。花嫁修業を三年で終わらせたことも、父親と同じ世代の人々に混じって意見を戦わせたことも、父が王宮内での活動に充てる時間を捻出するため、領地の経営を任されていたことも。

 婚約破棄と追放同然の縁談のおかげで目まぐるしい毎日が消え去ってしまうと、どうもそんな気がしてきた。

 

(でも、わたくしはここで隠居するわけにはいかないわ)

 

 目を閉じ、弱気な考えを振り払うと、ウルリカは腕に抱いていた猫を持ちあげた。ふかふかの毛皮に顔を埋め、すうーーーーーーーーーっと息を吸い込む。

 陽だまりで昼寝をしていた猫は香ばしい匂いがして、ウルリカの心を落ち着けてくれる。

 

 振り払わなければならない邪心は、王都に戻りたくないという気持ちのほかに、もう一つ。

 

(王都に戻ったら猫を飼おうかしら。白くてふかふかの……もこもこの毛の……おっきく育つ猫を……)

 

 据わった目でそんなことを考えながら、ウルリカはちらりと視線を前方に移した。

 

 そこには、特大のソファに横たわって昼寝をするノアがいた。

 

 猫を追いかけて応接室へ入ったら、彼がすでに寝ていたのである。猫を連れて部屋を出ようと思ったのに、なぜかソファの向かいにある椅子に座ってしまい、猫を抱きあげてしまい、今。

 

(……触りたい!!!)

 

 わきわきと動く指先を猫に押しつける。猫は若干迷惑そうな目を向けたあと、「ナア」と鳴いた。

 

(どうしてしまったのかしら、わたくし)

 

 煩悩を散らすべくウルリカは高速で猫を撫でる。

 こうなってしまいそうだったからウルリカは日中の時間のほとんどを自室か庭ですごしていた。またノアに出会ってしまったら、自分がどうなるかわからなくて。

 

 子どものころ、ウルリカは一度だけ羊を飼っていたことがあった。羊もウルリカによくなつき、ウルリカの顔を見ると庭を飛んでくるようになった。

 それからというもの、ふわふわでもこもこな羊は、ウルリカにとっては癒やしの象徴だ。

 

 ノアを、王都の人々は白豚公爵と呼んだ。白くて太った見た目はたしかにそうなのかもしれない。だがウルリカの目には彼は羊に映った。

 どういうことかというと、ノアの容貌は、ウルリカには厭なものとしては映らず――むしろ、心ときめくものとして映っているのである。

 

「あっ」

 

 腕の中から飛びだした猫にウルリカは声をあげた。猫は慣れた様子でぴょんと飛び、ソファを駆けあがると、なんとノアの腹の上に飛び乗ったのである。

 そして、ここまでおいでとでも言うようにウルリカを振り返り、「ナアナア」と鳴いた。

 

(はしたないわ)

 

 そう思いながらも、吸いよせられるようにウルリカは前へ進んだ。

 

 自分を狼女(シーウルフ)と呼んだパトリックの顔が浮かぶ。

 そうかもしれない。殿方の寝込みを襲うなんて、狼もいいところだ。

 

(でも、でも――)

 

 厳しい世界で研ぎ澄まされ続けてきたウルリカの直感が囁いている。

 彼に触れれば、何かが変わるかもしれないと。

 

 ウルリカの手がのびる。

 

 てのひらが、呼吸にあわせてふわふわと上下する銀髪に触れた。その下には、埋もれそうに柔らかく、それでいてむちむちと弾力のある身が詰まっている。

 

 羊のようにもこもこではない。人間だから、むちむちだ。

 なるほど、と妙な感動にウルリカがひたっていたときだった。

 

「何をする」

 

 冷たい声にウルリカは動きを止めた。けれども手は離さなかった。

 視線を移すと、目覚めたらしいノアが不機嫌そうな表情でウルリカを見つめている。ウルリカも真顔で見つめ返した。

 

「癒やされています」

「……は?」

「癒やされています」

 

 こういうときに笑えればいいのかもしれない、とウルリカは思った。

 笑顔で癒やされていると言えば、ノアも本気にしてくれるだろうし、敵意がないことも伝わる。もしかしたらウルリカがノアに触れることを許してくれるかもしれない。

 

 けれど、愛想笑いもできず、無表情に自分を撫でくりまわすだけの女は、嫌だろう。

 パトリックは正しい。

 それがわかるからこそ、ウルリカは手を離せなかった。

 

「とにかく、手を離せ」

「離したくありません。離したらこれっきりですから」

「何を言っている」

「これが、人のぬくもりなのかと思って……」

 

 言った途端、ぼろぼろと涙があふれだした。

 

「は? お、おい」

 

 ノアの慌てた声が聞こえる。それでもウルリカは手を離さなかった。

 

 パトリックはウルリカの視線を監視するような目だと言ったけれども、彼もまた値踏みするような目をウルリカに向け、ウルリカの能力を知るや、疎ましく思うようになった。

 父も、周囲の貴族たちも、ウルリカに笑顔を向けてくれた者はなかった。

 

 ノアは、言葉遣いや目つきこそ鋭いものの、身体の全部が柔らかそうだった。

 

(誰かに抱きしめてほしかったのかもしれない)

 

 そうウルリカは思い、それからすぐに、

 

(なんて感傷的なことを考えているの、わたくしは)

 

 と首を振った。

 

 

 そんなウルリカに、ノアは驚いた顔になったが、すぐに表情を引き締めると。

 

 小一時間の説教を食らわせた。

 

 

◆◆◆

 

 

「君の事情は理解したし、理不尽な仕打ちを受けたことには同情した。だから普段なら追い返すところを特別に屋敷に泊まらせている」

「はい、ありがとうございます」

「だがこちらにも人と関わりたくない事情というものがある。言われなくともそのくらいわかろうというものだ」

「はい、おっしゃるとおりです」

「それを、あんなところで寝ていた俺が悪いとはいえ、人の背中をまさぐりまわすとは何事だ」

「申し訳のしようもございません」

「反省しているのか?」

「反省しています」

「ではその手を離せ」

「嫌です」

「……」

「……」

 

 ノアとウルリカのやりとりを、廊下に集まってきた執事や使用人たちが恐々と眺めている。

 

(……面倒くさいことになった)

 

 ノアは隠す気のない長いため息をついた。

 

 

 ウルリカ・シェルヴェンという侯爵令嬢が、護衛というには人相の悪い兵士たちに連れられてこの屋敷へやってきたのは一週間前のこと。

 

「〝白豚公爵〟にぴったりの花嫁だ。〝狼女(シーウルフ)〟を連れてきてやったぜ!」

 

 階下の玄関ホールでそんなことを言っているのが聞こえ、ノアは心の中で彼らの平穏を祈っておいた。クロンヘイム公爵家の執事は一見おどおどとして気弱そうに見えるのだが、忠誠心がすこぶる高く、下卑た冗談が大嫌いである。

 祈っておいてなんだが、おそらく彼らがクロンヘイム領を脱出できる日は一生こない。

 

 突然の訪問の理由は、ウルリカから執事へ、執事からノアへと伝言ゲームで伝わったが、よく整理された報告で混乱することはなかった。

 どうやら婚約破棄という大事件は彼女の心になんら影響を及ぼさなかったらしい。

 

 ウルリカと対面してみて、ノアはその推測を確信に変えた。

 ウルリカの挨拶はきちんとしたものであり、彼女は外部との連絡手段を求めた。自分で決着をつけ、迷惑のかからぬうちにこの屋敷を出て行こうとしているのだ。

 なるほど〝狼女(シーウルフ)〟とはよく言ったものだと思う。

 

 それならそれでいい、何かしらの沙汰があるまで、この屋敷に留まるくらいならば。

 ノアはそう思った。

 

 その印象が間違いだったかもしれないとノアが気づいたのは、同じ屋敷に暮らすようになったウルリカの様子が執事から報告されたときだった。

 

「坊ちゃまと同じく動物がお好きなようです。……ですが、猫を撫でながら遠い目をされていることが多く……」

「だからなんだ。放っておけ」

 

 そう言えば執事はそれ以上口を出すことはなかったが、かわりにウルリカが視界に入るようになってしまった。

 窓から外を眺めていると、ぼーっと庭を歩いているウルリカや、ベンチに座ってぼーっと猫を撫でているウルリカが目につく。

 

(たしかにいつも遠い目をしている)

 

 だがリラックスしているようだ。緊張したり、怯えたりといった態度ではない。

 風に髪をそよがせ、花の香りを楽しみ、ウルリカは時折目を細めて遠くを見つめるような表情になる。

 

(何をしているんだ)

 

 そんなウルリカを見て思わず苦笑いをこぼしてしまった、そのとき。

 

 ――ウルリカは笑うことがないのだ、とノアは気づいた。

 

 それでもノアはウルリカに近づく気はなかった。人には人の人生がある。変に踏み込んでどうするというのか。

 

(だいたい俺は――〝白豚公爵〟だ)

 

 兵たちの言った渾名を思い出してみっちりとしたこぶしを握る。

 あのときは笑って聞き流せたのに、今になって苛立ちが湧いてくるのはなぜだろう。

 

 執事を呼び、あの兵たちがどうなったか尋ねると、「年季が明けるまでは鞭打たれて働くかと……」とサラッと言っていたのでそれでいいことにする。

 

「ウルリカ様のことも悪く言っておられましたからね。厳しめにしておきました」

「……心を読むな」

「顔に出ておられますからね」

 

 ふと、ウルリカの内心も、この執事なら読めるのだろうかと思った。

 

「読めませんね」

「俺の心を読むな」

「悩んでおられるのはわかります」

 

 それだけ言って、老獪な執事は去っていった。

 

 庭に目をやれば、あいかわらずウルリカは遠い目をして猫を撫でている。

 いつのまにか、庭のよく見える応接室ですごす時間が増えていた。

 

(俺は何がしたいんだ……?)

 

 だから他人をテリトリーに入れるのは嫌だったのに、と自分もまた猫のようなことを考えながら、そよ風に誘われてノアの意識は眠りに沈んだ――。

 

 

 次に起きたとき、ノアは背中を撫でさすられまくっていて、離せという至極真っ当な要求をしたら号泣された。

 

 

 これまでの経緯を思い出し、ノアはもう一度長い長いため息をついた。

 ウルリカはノアの左手を両手で包み込むと、細い指先でむっちりとした手のひらをぷにぷにぷにぷに押し続けている。

 

「いいかげんにその手を離せ」

「嫌です」

「……なぜ嫌なんだ」

「離したらこれっきりですから」

「そういえばそんなことを言っていたな」

「柔らかくて、癒やされるんです」

 

 真顔で告げられるその一言にウルリカがこれまで背負ってきたものが垣間見えるような気がしてノアは目をつむる。

 

「また触らせてやるから、今は離せ。離さないならこれっきりだ」

 

 ぱっとウルリカの手が離れた。

 

 

◆◆◆

 

 

 ノアはウルリカを避けなくなった。近づいてもいいし、隣に座ってもいいし、「触ってもいいですか」と尋ねれば指定された範囲に限り触ってよいことになった。

 避けられなくなったので、ウルリカも庭でぼーっとするのはやめて、ノアのそばでぼーっとすることにした。

 

 あまりにも撫ですぎるとノアは気配を消して隠れてしまうのだが、動きだせば屋敷が揺れるので居場所がわかる。

 

「……何を眺めている」

「今日はノア様を撫ですぎたので、見るだけにしようと思って」

「見るだけのほうが居心地が悪い」

「では撫でてもいいですか?」

「いや、待て。指示書を書き終えてからにしてくれ。それまでは気が散るから……そうだな、壁でも見ててくれ」

「はい」

「……」

「……」

「……本当に律儀に壁を見ているやつがあるか」

「もしかして冗談でした?」

 

 通じない冗談は冗談ではない、と図書室の手記にあったけれども、ウルリカは黙っておいた。

 ちなみに図書室の手記には、恋人に贈ったという恋詩(ポエム)も大量に収められていた。恋愛にとんと疎いウルリカには「こんな世界もあるのだな」という感想にしかならなかったが。

 恋した相手のことを考え続けて楽しく暮らせる日々というのは、なんと羨ましいものだろう。

 

「もういいぞ」

 

 言われて、ウルリカはノアに視線を戻した。書類を書き終えたノアはそれを執事に渡し、なにかを悩んでいるふうだった。

 ウルリカに手のひらをつつかれても口の中で何かを呟いている。

 

 庭に出ていたからわからなかったけれど、ノアは毎日たくさんの仕事をこなしている。

 猫を追いかけてたまに昼寝をする超牧歌的な生活のイメージをしてしまっていたのはノアが羊に見えているせいだ。

 

 実際にはノアは勤勉で働き者だった。

 領地から届く報告や訴えを日々処理し、次の季節に向けての指示を出し、さらに来年、再来年と先のことを考えている。

 

 自分は本当は、このような人の隣にいたかったのだとウルリカは思った。

 真剣な表情のノアは凛々しいと思う。だから見ていて飽きない。

 

「春までに追加の種を買い付けておきたいところだな……人口の増加が予想以上だ」

「シェルヴェン領の役人に問い合わせてみましょうか?」

「いいのか?」

「はい。おそらく周辺領からクロンヘイム領に人が流入しているのですよね? 実はシェルヴェン領も人口増加を見越した政策を打っていたのですが、予想よりは余りそうだという話で」

「交渉の機会をもらえればありがたい」

「わかりました」

 

 ノアの使っていた紙とペンを借り、ウルリカはすぐに領地宛の書状を作った。ノアにも内容を確認してもらい、クロンヘイム領の役人の名を書き添える。

 

「……礼を言う」

 

 思いがけない言葉に、ウルリカは胸に手を当てた。

 ノアは青い瞳をウルリカに向けていた。鋭いけれども、会ったばかりのころのような険しさはもうない。

 

 羊にくるまれたように心がふわふわとした。

 

 

◆◆◆

 

 

 ずしん、どしんと足音が近づいてきたと思ったら、震動はウルリカの部屋の前で止まった。なにかしらと思う暇もなく、メシ、と扉の向こうから怪しげな音が立つ。

 慌てて扉を開くと、眉をさげたノアがいた。

 

「ノックをしようと思ったら壊した。……慣れないことはするもんじゃない」

 

 他人の部屋を尋ねることなど、これまでのノアにはなかったのだ。

 

 扉の枠より大きいノアはウルリカの部屋には入れない。扉の前に立つと、むちむちの手が、ほら、と一通の封筒をさしだした。

 

「手紙がきたぞ。……何をしている?」

 

 ノアにはいつも言動を尋ねられている気がする。

 

「笑う練習です」

 

 鏡の前で、指で口角をあげて、表情筋に動きを覚え込ませようとしていた。その最中にノアがやってきて扉を破壊したので、片手は離したけれども、もう片手は頬に添えたままだった。

 なので今のウルリカは、半分は真顔、半分は変顔である。

 

「赤ん坊のころは反射で笑っていたはずなのです。生まれて一か月でも、赤ん坊は生きてゆくために笑顔を体得するといいます。そのほうが周囲の協力を得られるからです。赤ん坊のころのわたくしもできていたはずです」

「……そうか」

「手紙はパトリック殿下からですか」

 

 封を開け、ウルリカは中を見た。入っていたのは舞踏会の招待状だ。日程はひと月後。

 一瞬、あの婚約破棄の舞台となった舞踏会を思い出し真顔になったものの、ウルリカは小さく呼吸を整えると部屋に戻りペンをとった。

 

「なぜ笑う練習をしている?」

「王都に戻ったときに、以前よりはうまくやれるように」

「戻るつもりなのか」

「戻らないわけにはまいりません」

「……出席するのか」

 

 扉の前に戻ったウルリカの手には、返信用のカードがある。招待へのお礼と出席を示す定型文を書き添え、パトリックに送り返すのだ。

 

「はい。そろそろお父様からもお返事がくるはずです。元どおりパトリック殿下の婚約者になれと言われるでしょうから」

 

 国王陛下の外遊は終わったはずだ。王都に戻ったシェルヴェン侯爵は娘からの手紙で驚きの事件を知り、国王と相談をする。

 せっかく築いた地位を失いたくないシェルヴェン侯爵は今回のことには目をつむりましょうと国王に持ちかける。ウルリカの能力を理解している国王もその話に乗る。

 

 かくして、何事もなかったかのように、ウルリカは次期王太子妃に返り咲く。

 しばらくは周囲の耳目を集めるだろうが、それだってこれまでと変わらない。

 

「休暇は終わりです」

「休暇、か。なら俺は一生休暇だな」

「ノア様は働いていらっしゃるではないですか」

狼女(シーウルフ)と呼ばれてまで、なぜ王都に戻る?」

 

 びく、とこわばってしまった自分の身体を、ウルリカは他人事のように不思議に思った。

 大勢の前で、パトリックに面と向かって言われたときだって流すことができたのに、この穏やかなクロンヘイム邸で聞くにはその言葉は鋭すぎた。

 

「知っていたのですか」

「ああ。黒魔術を使って人を呪うと……くだらない」

「え?」

 

 顔をあげれば、青い瞳にぶつかった。最近では髪を縛ることの多いノアは、羊っぷりが減ったかわりに、以前よりも表情がわかるようになった。

 彼は言葉どおりの、うんざりとした表情を浮かべていた。

 

「執事に言って調べさせた。婚約破棄の顛末は多くの貴族が記憶していたから裏をとるのは簡単だったそうだ。ヘンリックはドーソン領の不作を挙げて君を非難したそうだな」

 

 ウルリカは頷いた。ドーソン領の一件については、端から見ればそう言われても仕方のない言動を自分はしたと、ウルリカは思っている。

 だが、ノアは首を振り、ふたたび「くだらない」と呟いた。

 

「その点についても調べさせた。ドーソン領の経営について、君は数年前にドーソン子爵に意見をしたことがあった。作付面積の半分近くが輸出向けの高級嗜好品材料に充てられており、さらに手間のかかるそれらを育てるために人手が割かれ、領内で消費する作物が足りなくなるだろうと、君は当然の忠告を述べたに過ぎない」

「……」

「当日の議事記録が残っていたそうだ。ドーソン子爵は君の忠告を無視した。そして実際に不作が起き、ドーソン領は飢饉寸前の状態になった。そして――」

「シェルヴェン家が、ドーソン領の一部を買い取ったのです」

 

 父にその上申をしたのはウルリカだ。父が納得するように、まだ被害の少なかった輸出向け作物の多い土地を高値で買った。その金と、手間のかかる作物から解放された人員とで、ドーソン領は寸前で危機を乗りきった。

 

「しかし恩を忘れたドーソン子爵は、不作はシェルヴェン家の策略だったと主張し領地の返還を迫った。そのとき君はシェルヴェン領主代理として矢面に立ち、さらに激しく非難された」

「はい」

 

 ちょうどそのころにパトリックとの婚約が決まり、父はウルリカを表舞台から隠した。揉め事を収めたい父がドーソン子爵の要求に応じて領地を返還してしまったことで、貴族たちの目にはウルリカが()()()ように映ったのだ。

 ――本来は勝ちも負けも、ありもしないはずなのに。

 

「ほかの君の噂についても調べたが、どれも似たようなものだ。君が経営についての警告を発するとそのとおりのことが起きるのは、ただ君の優秀さを表しているにすぎない。実際、素直に対策を採ったことで難を免れた領地のほうがずっと多い」

 

 ウルリカはノアを見つめた。淡々と語るノアの瞳の奥に、怒りを見たような気がした。

 

「本当に王都に戻るのか? 君の価値のわからない貴族たちの中へ?」

「――……」

「こんなことは調べればわかることだ。それすらもしない彼らの怠慢を、なぜ君が負わねばならない?」

 

 ウルリカは目を見開く。

 そんなことを言われたのは初めてだ。自分の価値は十分に理解されていると思っていた。だからこその次期王太子妃という地位。

 

 でももしかしたらずっと、自分は苦しかったのかもしれない。

 

(戻りたくない)

 

 遮るもののない日差しを浴び、庭のベンチで猫を撫でるたび、ずっとここにいたいと思った。

 ノアと距離が近づいて、その想いは強くなった。

 でも。

 

「戻ります。王都へ。そうでなければ、わたくしはわたくしでなくなってしまいますから」

 

 ノアは目を細めた。鋭い光が瞳の奥に宿っているのをウルリカは見た。

 高鳴りかけた胸を押さえ、ウルリカは呟く。

 

「クロンヘイム公爵閣下。あなた様は、町や村を歩いたことがおありですか」

 

 突然の質問にノアは面食らった顔になったが、小さく頷いた。

 

「子どものころに」

「そうでしょうね。クロンヘイム領は穏やかでよい統治がされております」

 

 酒池肉林の白豚公爵。隣国とのつながり。様々な悪しき噂。ノアもまた、いわれのない噂に晒され続けてきた人物だ。

 しかし、王都から三日間かけてやってきたウルリカが見てきた限りでは、そういった噂とは裏腹に、クロンヘイムの領地は国の東端のごく一部。この屋敷のある町も、交易の要点として栄えてはいるが乱雑な印象はなく、穏やかな地方都市だった。

 

 そんな領地を作りあげたノアだからこそ、ウルリカの真意もわかったのだ。

 けれどもすべての貴族がそんなふうにはいかない。

 

「お父様は地位と富を求めておられます。近くで見てきたわたくしにはそれがよくわかりました。そしてお父様以外の貴族たちも、中央にいるほとんどの者はそうです」

「……知っている」

「なら、声をあげられる者が動かなくては」

 

 ウルリカはまっすぐにノアを見つめ返す。

 おそらくウルリカが表舞台に出ることはもうない。貴族たちとの軋轢を避けるため、今後ウルリカの働きはすべてパトリックの手柄になるだろう。

 でもそれでいい。パトリックのもとで、国を動かす。

 ウルリカに残された道はそれしかないのだ。

 

「国王陛下もそう思っておられるはずです。だからこそわたくしをパトリック殿下の婚約者とした。ならどうしてその責任を投げ捨てられましょう」

「だが君は傷ついていたのだ。だから泣いた」

 

 そして今後はもっと傷つく。それは承知の上だ。

 

「ええ、それが貴族というものです」

「!」

「泣くこともできずに倒れていく者がこの国にはいるのですよ」

 

 ふたりのあいだを沈黙がよぎった。

 やがて、ノアは長いため息をついた。これまでよりもずっと長く、大きな身体がしぼんでしまうのではと心配になるくらいの、重苦しいため息だった。

 

「……わかった」

「わたくしのことを案じてくださるのなら」

 

 つとめて何気なく聞こえるように、ウルリカは言う。

 こんなときにもきっと笑顔があればいいのだろう。笑顔で大丈夫だと言えれば、余計な心配をかけずにすむに違いない。

 

「ときどき遊びにきてもよいでしょうか? そして思う存分ムチらせてください」

「なんだムチらせるって」

 

 ノアは頭を抱えた。その自分の手がむちむちしていることに気づいて微妙な顔になる。

 

「いいのか、王太子妃がほかの男のところにくるなんて」

「どうせパトリック殿下もキャロリーナ嬢を愛人にして浮気三昧です。今回の件の落としどころはそんなところでしょう」

「俺は浮気相手か……」

 

 不遜な物言いに怒るかと思ったがノアは顎に手を当てて考え込んでしまった。

 どうしたのだろうと、ふわふわの髪を撫でながらウルリカもノアが何かを言うのを待った。事前申請なしに身体に触ると怒られるのだが、髪ならギリギリセーフなのだ。

 ノアの髪は細くて柔らかくてふわふわで、ここだけはやっぱり羊のよう。いや、羊よりももっといい。

 

(この髪に包まれて寝てみたい)

 

「何か妙なことを考えているだろう」

 

 顔をあげると、ノアに見下ろされていた。

 

「いいえ?」

「嘘をついてもわかる」

「心が読めるのですか?」

 

 ウルリカの質問には答えず、ノアは手をあげると、ウルリカの頭を撫でた。

 

「……!!」

「君はよくやった。そしてこれが君の休暇なら、俺も休暇を終わりにしなければな」

「ノア様?」

「このままでは、君に意識もしてもらえないだろうし」

 

 おそらく相当力加減をしてくれているのだろう、ノアの手は緊張に震えている。でもそのぶん、柔らかな手のひらの感触をゆっくり楽しむことができた。

 できればノアの手にしがみついて一日中寝ていたい。

 これはあれだ、人を駄目にするやつだ。

 

「条件が二つある」

 

 離れていってしまった手のひらを眺めていたら、また戻ってきた。もしかして残念そうな顔をしていたのだろうか。

 

「一つは、舞踏会まではこの屋敷で暮らすことだ。もう一つは、君の処遇については俺に任せること。国王陛下にかけあってみる」

「ノア様がですか?」

 

 公爵とはいえ、いきなり国王陛下に意見ができるほどの地位だとは思えない。夜会などでも彼を見たことはなかった。王都にもほとんど知人がいないはずだ。

 そう思ったけれども、自分のために何かをしてくれようという心が嬉しくて、ウルリカは頷いた。



◆◆◆

 

 

 翌朝目覚めたときには、ノアは屋敷からいなくなっていた。

 

「……どうして!?」

「申し訳ありません。主はどうしても外せない用事ができまして、屋敷を留守にしております」

 

 執事が深々と頭をさげる。

 

「そんな、だって昨日はあんなにやさしく……」

 

 言って、ウルリカははっと気づいた。

 

「もしかしてノア様は、わたくしのために国王陛下のもとへ行かれたのでは?」

「それもございますが――」

「やっぱりそうなのね」

 

 ウルリカはきゅっとドレスを握りしめた。

 最初は素っ気なかったけれども、ウルリカが泣けば態度を和らげてくれた。ノアはやさしい人なのだ。ウルリカを放っておけなくなったのだろう。

 そのやさしさに、ウルリカも甘えたいと思ってしまった。

 けれどそれはノアにとって危険なことなのではないだろうか。

 

 王都へ出たノアを、貴族たちは白豚公爵と呼ぶだろう。ウルリカに向けたような侮蔑の目を向けるかもしれない。

 もし国王陛下に会う前に、パトリックに会いでもしたら。

 

「こうしてはいられません。わたくしも王都へ」

「いいえ」

 

 立ちあがろうとしたウルリカを、執事が止める。

 

「主人からの命令です。舞踏会まではこの屋敷にいらっしゃるようにと」

「でも……」

「……ウルリカ様、表情ゆたかになられましたね」

 

 思わず眉を寄せたウルリカに、執事はやさしい笑みを浮かべて言った。

 

「昔話をしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、もちろん」

「幼いころの坊ちゃまは、それは聡明な方でした。物覚えがよく、利発で、誰もが成長を楽しみにしていたものです」

「……わかるわ」

 

 ウルリカはノアの幼いころを想像してみた。屈託なく笑う蹴鞠のようなノアが野原を駆けまわっている様子を。きっと可愛らしい子どもだったろう。

 

「けれども……坊ちゃまはある日、大きな挫折を経験されました。坊ちゃまの望む未来のためには膨大な努力が必要になることを知ったのです」

「……」

「それから坊ちゃまはほとんど屋敷を出なくなりました」

 

 それでも彼は、できる範囲のことはしたのだ。それが平穏なクロンヘイム領に表れている。

 

「ウルリカ様がいらっしゃって、坊ちゃまは変わりました。ついになすべきことを見つけたのです。出すぎたこととは思いますが、この老いぼれ、嬉しくて……」

 

 執事はハンカチをとりだすと涙を拭った。

 

「そう……わたくしがなにか少しでもよい影響になったのなら、それは嬉しいことね」

 

 パトリックにも父にも、ウルリカは価値のある令嬢であるはずだ。

 しかしノアとの関係とは違う。彼らはウルリカ自身を見てくれることはなかったのだと思う。

 

「それで、ノア様はどこへ行ったのかしら?」

「この老いぼれ、嬉しくて……ううう」

「……わかった、聞かないわ」

 

 さらに激しく泣き崩れる執事に、ウルリカはため息をついた。

 

(煙に巻かれてしまったけど、ノア様との約束を破るわけにもいかないわね)

 

 舞踏会までは屋敷を出ないと約束した。だからノアの残していった気配を探しながら、ここにいるしかないのだろう。

 

 けれどもノアのいない、地響きのしないクロンヘイム邸は静かすぎて、心にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。

 

 寂しさをまぎらわすために猫を撫で続けたウルリカは、やがて猫たちから遠巻きにされるようになってしまった。



◆◆◆

 

 

 舞踏会の当日は、すっかりと冬めいて凍るように寒い星月夜だった。

 久々に正装を身に着け、ウルリカは王宮の広間へと足を踏み入れた。

 

 一方的に婚約を破棄され、王都を追い出されてから、ひと月と半分。

 けれどもそれ以上の日々をクロンヘイム領ですごしたような気がする。

 エスコートがないのもあの日と同じ。

 

 一人で現れたウルリカに広間がざわめく。

 

「見て、ウルリカ様よ」

「ならあの噂は本当だったのね」

 

(噂?)

 

 ウルリカが王都に戻り、パトリックの婚約者に復帰するという噂が流れていたのだろうか。

 それとも、とノアの丸々とした姿を思い出し、ウルリカは目を細めた。

 

(ノア様が何か――いえ、まさかね)

 

 鳴りかけた胸を押さえて鼓動を静める。

 王都へ戻ってきたからには、クロンヘイム領でのことは思い出。

 これからはまた背すじをのばし、堂々と立っていなければならないのだ。

 

 そう理解しているのに、どうしても以前のようにふるまえない。好奇の視線に貫かれるたび、心が痛む。

 

(わたくし、弱くなってしまったのかしら……)

 

 ウルリカが顔を俯けた、そのときだった。

 

「ウルリカ!」

「パトリック殿下……?」

 

 広間の奥から慌てた様子で駆けよってきたのは、パトリックだ。

 ただしその隣にキャロリーナはおらず、パトリックは冷や汗をかき、青ざめて引きつった顔をしている。

 

(あら? パトリック殿下って、こんなお顔だったかしら……?)

 

 自分を婚約破棄した元婚約者、そして今夜からまた婚約者に戻るだろう男を、ウルリカはしげしげと眺めた。

 ウルリカが見てきた彼は、いつも自信にあふれ、自分の思うとおりに物事を動かす男だった。だからこそ衆人環視の中で婚約破棄などという大それたこともできたのだ。

 けれども、今のパトリックは、瞳の奥に怯えの色を見せ、そしてそれを隠そうと精いっぱい虚勢をはっているかのようだった。

 

 まるで――まるで、以前の自分(ウルリカ)のようではないか?

 

「お前――父上に何を言ったのだ!?」

 

 ウルリカの腕をつかみ、パトリックは怒鳴りつけた。ウルリカは反射的に身体を震わせながらも、パトリックを見た。

 

「何も。わたくしは自分の父シェルヴェン侯爵には事情を説明いたしました。そして父の判断に任せると言っただけですわ」

 

 シェルヴェン侯爵からの手紙はなかった。だからウルリカも、どのような沙汰になったのかは知らない。

 

「ならなぜ……!」

 

 悲痛なパトリックの叫びは最後まで声にならなかった。

 もう一つ駆けよってきた影が、ウルリカとパトリックのあいだに割って入ると、パトリックを遠ざけたからだ。

 

「よさないか、パトリック!」

 

 自分を庇う背中を、ウルリカは見た。

 見慣れた白銀の髪が、一つに束ねられ、ゆるやかに背中を飾っている。その色合いには覚えがあった。きつくパトリックを睨み据えている青い瞳にも、不機嫌そうな声にも。

 

 でも、とウルリカは目の前の貴公子を見上げた。

 その横顔は彫刻のように整い、鼻すじは通って、意志の強そうな唇が鋭く引き結ばれている。

 

 なにより、ジャケットの上からでもよく鍛えられたとわかる身体は、ウルリカの知る〝彼〟とは横幅が五分の一ほど違った。

 

「なんだ、お前は……! お前のような者は知らぬ! 衛兵! この者をつまみだせ!」

 

 激昂したパトリックは衛兵を呼びつける。一瞬、広間は騒然とした。

 だが男は落ち着いた動作で内ポケットからカードを取りだした。ウルリカのところへ送られたのと同じ、真っ白なリボンのついた招待状。

 ただしそこにある印は、王太子のものではなく。

 

「招待状ならある。国王陛下直々のものが」

「……父上が……!?」

 

 パトリックは奪いとるように招待状をつかみ、その名を読みあげた。

 

「ノア・クロンヘイム公爵――だと!?」

「!!」

 

 息を呑むウルリカの前で、男ははっきりと頷いた。

 

「そうだ。お前がウルリカの新しい夫に仕立てあげようとした〝白豚公爵〟さ」

 

 沈黙していた広間に騒ぎが戻ってくる。

 誰も見たことがなかったノア・クロンヘイム公爵が、舞踏会の場に現れたのだ。そのうえ彼は〝白豚公爵〟の汚名が似つかわしくない美青年であり、そして――。

 王太子に反抗し、ウルリカを庇った。

 

 広間のざわめきがぴたりとやんだ。

 変化した空気に顔をあげれば、護衛を引き連れ、国王が入室してくる。

 パトリックほどではないが、国王の表情も暗い。

 

「集まったな」

 

 礼をとる貴族たちに合図をして顔をあげさせると、国王は重々しく口を開いた。

 

「聞け、皆の者。今日わしは、我が息子パトリックと、ウルリカ・シェルヴェン侯爵令嬢との、婚約を解消する」

「父上!」

 

 パトリックの悲鳴のような声があがる。だが国王は一瞥することもなく、淡々と続ける。

 

「同時に、パトリックから王太子の地位を剥奪する。理由は……言うまでもないな」

「父上、しかし!」

「パトリック! この決定に逆らうならば、お前を衛兵に拘束させる」

「……!」

 

 厳しい叱責の声に、貴族たちは顔を見合わせた。この場にいる人々は、前回の舞踏会にも招待されていた。

 

 ひと月前に招待状を受けとったとき、貴族たちもウルリカと同じ予想をした。

 王家と侯爵家は、婚約破棄の騒動をなかったことにし、ウルリカの婚約者としての地位を回復するのだろうと。この招待状はそういうことであろうと。

 

 だが、王都にクロンヘイム公爵が訪れているという噂が誰ともなしに立ち、広がるにつれ、貴族たちはそれだけでは終わらないかもしれないという予感にとらわれた。

 

 そしてその予感は正しかったのだ。

 

「外遊中のことは聞いた。まさかここまで横暴な真似をするとは……ウルリカ嬢には申し訳ないことをした」

「いえ、そんな……」

 

 突然のことに呆然としていたウルリカは、名を呼ばれて我に返り国王に向きあった。

 顔に深い皺を刻み、深刻な表情を浮かべながらも、国王は小さく笑顔を作った。

 

「ノア・クロンヘイム公爵が、君を妻に迎えたいと言っている」

「ノア様が……?」

 

 姿の変わったノアを見上げると、ノアもまたウルリカを見返していた。

 その顔に浮かぶのは苦笑いのようだ。

 

 ウルリカの手をとり、ノアは手の甲に口づけた。重ねられた手も、唇も、ウルリカの憧れたむちむち触感ではない。しっかりとした男のものだった。

 

「君は、この姿じゃ嫌かもしれないけど。考えてみてほしい」

「本当にノア様なのですね」

 

 だから、パトリックとの婚約が解消となったのだろうか。そしてパトリックの非を認めて婚約を解消する以上、お咎めなしという処分にはできないから、パトリックは王太子の地位を剥奪された。

 

「もう一つ、皆に知っておいてほしいことがある」

 

 それでも公爵家にここまでの力があったのかと訝しむ貴族たちに応えるように、国王はふたたび口を開いた。

 

「ノアは、わしの兄の息子だ。……つまり彼には、王位継承権がある」

 

 誰もがぽかんと口を開いた。パトリックですら、寄り添うノアとウルリカを見つめて魂を飛ばしたような顔をしている。

 

「……え?」

「正確には、俺から言って、王位継承権を認めさせたんだ。俺が王族の一員であるという肩書がないと、きっと君を活躍させてあげられないから」

 

 美しい顔に皮肉げな笑みを浮かべ、ウルリカだけに聞こえるようにノアは囁く。

 

「中央の貴族たちが色眼鏡なしで君の優秀さを認められるなら、こんなことはしなくてもよかったんだけどね」

 

 ようやくウルリカにも理解が追いついてきた。

 ノアは、ウルリカを王位継承権を持つクロンヘイム公爵の婚約者とし、将来的に王妃になる可能性も残すことで、パトリックから離れてもウルリカが中央の政治に関われるようにした。

 

 考えうる限りでもっともウルリカの希望を叶えた選択を、ノアはしてくれたのだ。

 

「ありがとうございます、ノア様」

 

 目にじんわりと涙が滲む。

 

「……!」

 

 見上げたノアが息を吞んだ。

 と思えば、急に抱きよせられる。柔らかくもない、自分にとってずっと脅威だった男性の身体のはずなのに、怖くはなかった。

 

「ウルリカが笑った……!」

 

 口元をゆるめたウルリカの耳に、ノアの嬉しそうな声が落ちてきた。

 

 

◆◆◆

 

 

 クロンヘイム家は、国王の兄が立てた家である。王位継承権を弟に譲った彼は、静かな暮らしを望み、王都から遠く離れた国の東端に領地を得てそこで暮らした。

 それからもう、四十年にもなる。

 

 クロンヘイム家に関する事柄は口にすることを憚られるようになり、世代が変わるとともに貴族たちの記憶からも消え去ってしまった。

 触れてはいけない家の名は、いつしか侮蔑をもって〝白豚〟の名を冠されるようになり、しかしそれに反論するだけの気力もなく、ノアは領地から出ようとはしなかった。

 

「……ウルリカがやってこなければ、あのままでよかったのだが」

 

 貴族の誇りを持つウルリカに、ノアは心を打たれた。

 一生踏むまいと思っていた王都の土を踏んだのはひとえにウルリカを守りたかったから。

 

「ただ、それには心の準備と身体の準備(ダイエット)が必要だったからな……ひと月姿を消していたんだ。悪かった」

「いえ」

「むちむちじゃなくなって悪かった」

「はい……」

「そこは否定しないのだな」

 

 半眼になるノアに、ウルリカはこほんと咳払いをして目を逸らした。

 

 貴族たちに衝撃を与えた舞踏会が終わって、一夜が明け、ふたりは王宮の一室で向きあっていた。

 これまでの経緯を、ノアはウルリカに説明した。

 

 国王へ直談判し、侯爵を説き伏せてウルリカとの結婚を認めさせた。

 パトリックに追随すべきかを悩みつつあった侯爵は、国王の心が動いたと見るやすぐに従ってくれたという。

 

 ついで、パトリックを扇動したと思われるマルメル男爵家に捜査の手がのびた。

 

「王家転覆の狙いがあったらしい。彼らは国外追放になるだろう」

 

 王宮内で貴族に対して行われる裁判を見たパトリックは、自身の立場が揺らいでいることに気づいた。顔面蒼白になってウルリカを探していたそうだ。

 ノアが寸前までウルリカをクロンヘイム領に匿っていたのは正しかったのである。

 

「それにしてもどうして〝クロンヘイム家〟は禁句のように……? 国王陛下のお兄様の家なのですよね」

「それはまあ、父のせいだな」

「王兄殿下の?」

「王位を譲った、と言ったが……実は駆け落ちして、国を出たんだ」

「まあ」

「その相手が、昨夜も言ったように隣国の姫君で」

「それは国際問題なのでは?」

「いや、隣国にとってはよい縁談だったのだ。ただ、先代国王……俺のお祖父様が大反対して揉めたらしくてな」

 

 どういう意味なのだろうかとウルリカが首をかしげると、ノアは手帳から一枚の紙を取りだした。厚めの紙には、よりそう二人の肖像が描かれている。

 一人は、今のノアに似ていた。体格のよい、はっきりとした顔立ちで、国王にも似ている。これが王兄殿下なのだ。

 そしてもう一人は、クロンヘイム領での……つまり、羊のころのノアに似ていた。夫を抱え込むように抱きよせている彼女の身体は、夫の三倍ほどあった。

 

「父上は好みが独特な方でな……」

「……ノア様は、ご両親どちらにも似られたのですね……」

「次期国王が隣国の姫君と駆け落ちでは外聞が悪いから、弟に王位を譲り、隣国との国境に公爵領をいただくという条件で戻ってきた……と、そのように聞いている」

 

 それがあの遠くて小さくて穏やかなクロンヘイム領の理由だったのだ。

 

「国王陛下には初めて会ったんだ。ウルリカを手放すことはできない、だが国のために使い潰すことも望まない、と悩んでおられたようだった」

 

 パトリックが王の器でないことは国王にもわかっていた。それでもウルリカがいれば、という親心もあったのだという。

 王の目を覚まさせたのは、パトリックが起こした婚約破棄事件だった。

 

「国王陛下が……そうだったのですね」

「君を認める者はちゃんといたんだ」

 

 ノアの青い目がやさしく細められた。

 心から喜んでくれているとわかる表情に、ウルリカの胸が熱くなる。

 

 あふれそうになる涙を拭ってやると、ノアはウルリカの手をとった。

 

「昨日も言ったが……俺と結婚してほしい」

 

 ウルリカはノアを見つめ返した。

 羊みたいでなくなってしまった彼は、輝くような貴公子になった。真剣な眼差しで見つめられると、鼓動がうるさくなる。

 

 頬に血がのぼるのがわかった。

 

(わたくし、幸せだわ)

 

 熱くなって、ふやけてしまったかのように表情がゆるむ。うまくできているかわからないけれど、これが心からの笑顔というものだろうとウルリカは思った。

 

「ウルリカ……」

「変ですね、心臓がドキドキします。でも、それが嫌ではないのです」

 

 むしろ照れくさくて、嬉しい。

 

「ノア様なら、羊でも、羊じゃなくても……わたくし、おそばにいたいと思います」

「では……!」

「はい、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」

 

 ぱっと顔を輝かせ、ノアは握っていた手を引きよせるとウルリカを抱きしめた。

 

 柔らかい髪が頬に触れる。

 と思ったら、唇が重なった。

 

 

 ……ちなみに、幸せそうな顔でたっぷりと口づけを落としたノアは、数秒後、ふと気づいた顔になった。

 

「……ちょっと待て、羊ってなんだ?」

「あれ、言ってませんでしたっけ?」

 

 

◆◆◆

 

 

 クロンヘイム公爵領の本邸から王都の別邸へノアが拠点を移してから三か月がたった。

 

 ノアとウルリカは国王の許しを得て結婚し、ウルリカはクロンヘイム邸に住んでいる。

 毎朝二人で王宮へ出仕する姿は、貴族たちから羨望と賞賛の目で見つめられるようになっていた。

 

 だが、ノアには一つだけ不安があった。

 

 

「ノア様! いま王都で流行りのお菓子だそうです。見てくださいませ、とても飾りが可愛らしくて」

 

 休日の午後は、仕事の疲れを癒やし、二人で語りあう時間をとることにしている。

 王都を散策して見つけたのだという菓子をウルリカが嬉しそうに見せる。ノアもつられて笑顔になった。けれども、ウルリカが視線を逸らすとすぐに、ノアの表情は曇ってしまう。

 

「はい、どうぞ、ノア様」

「ああ」

 

 菓子をとりわけ、ウルリカはノアの隣に座った。ノアの身体に自分の身をもたせかけ、きらきらと輝く銀髪を見ては、「ふふ」と満足げな息をついている。

 でももしかしたら、その心の中では、以前のノアを懐かしんでいるのかもしれない。

 

 ウルリカは知らないが、ノアは非常にリバウンドしやすい体質であるのだ。

 

 今回、ひと月で身体を絞り込むことができたのは、それができるとわかっていたからである。

 

 思春期のころ、ノアは今回と同じようにダイエットに励んだことがあった。

 ころころとしていた身体は標準体型になり、むしろ父親に近い、筋肉質な体型になったといってもよかった。

 浮かれたノアは、こっそりと町へ出て遊びまくった。

 芝居を見、おいしいものを食べ、サーカスを見物し、おいしいものを食べ、店を見てまわって……。

 

 しかしそのうち、ノアの身体はふたたび膨らみ始め、人々は彼がノアであることに気づくようになってしまった。

 

 結局スマートな体型は三か月ももたず、ノアは挫折を味わった。

 

 努力をしても、無駄なのだ、と。

 

 自分が王都の貴族たちのあいだで〝白豚〟と呼ばれていることを知ってからは、ますます外に出なくなった。

 

 ノアにはいま不安がある。

 それは、リバウンドして嫌われるかも、という不安ではない。

 どんな姿でもノア様のことが好きですとウルリカは言ってくれたし、その言葉に嘘はないと信じられる。

 

 ノアが恐れているのは、その逆。

 

 リバウンドしやすい体質であると知ったウルリカが、自分を太らせようとするのではないか……という不安であった。

 

「ノア様、はい、あーん」

 

 口元に菓子を運ばれ、

 

(これは恋人扱いなのか、羊扱いなのか)

 

 と微妙に悩みつつノアはそれを味わった。

 ウルリカいわく、以前のノアは白豚ではなく白羊で、ふわふわのもこもこのむちむちで癒やしの塊だった……らしい。ノアにはまだよく理解できていない。

 

 妻を癒やせるなら嬉しいと思う。

 また白豚と呼ばれることになっても、今度はもう傷つかないだろう。

 けれども。

 

「今はまだもう少し、君の前では格好をつけさせてくれ」

 

 そう言ってほほえむ夫に、ウルリカは首をかしげると、

 

「ノア様はいつでもかっこいいですよ?」

 

 不思議そうに言った。

お読みいただきありがとうございます!

真面目だけどズレてるヒロインと真面目だけどズレてるヒーローが大好きな作者です。

面白いと思ったら、↓の☆☆☆☆☆をぽちっと押して評価していただけると励みになります。


また、5月10日に新刊が発売になりました。

『売られた王女なのに新婚生活が幸せです』(双葉社様)

こちらも不遇王女が理不尽に嫁がされた先で自分の幸せを見つけていくお話になります。

一見冷たいけど愛が重いヒーローがいます…!


下のタグ欄に書影と出版社さんへのリンクを貼っております。

よろしければお手に取っていただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
返り咲きざまぁの為にはある程度侮られない外見も必要だろうから仕方ないですが、ウルリカ嬢の癒やしが失われてしまって少し可哀想でしたw まあ、でも健康問題もあるからそこは猫様方やなんなら本物の羊で妥協して…
[良い点] 王様が愛情と現状の板挟みになっておいたわしいところ [気になる点] ノアの父親がウルリカ見てたら ものすごい笑顔でニコニコしてそう [一言] ウルリカ嬢の特技は国を肥育。趣味は旦那を肥育。…
[良い点] ほわほわする話の内容で良かったです! [気になる点] リバウンドを繰り返すと体の負担になり、寿命が、、、また太ると糖尿病や内蔵に負担がかかり健康に心配があります。健康面についてウルリカさん…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ