(13)
珠洲に呼ばれて、彼女の方に顔を向ける。
「何?」
「この影の世界はね……。記憶を消化してしまうと言われているの」
「記憶を……消化?」
「要するに、記憶を消すということね。ここに捕らえて彼らの力を奪うだけじゃなくて、二度と戦うことがないように影踏みに関する記憶自体を消してしまうの。校長も言ってたでしょう? 優馬のお母さんの実家を襲撃した事を、長い間忘れていたって。あの時は、もちろん爆発もあったんだろうけど、たぶん同時に影の底に閉じ込められたんだと思う」
「そういうことか……。でも、校長は思い出したって言ってたけど?」
「うん。だから、影切りの奴らがそういう方法を編み出したのかもしれない。だけど、ここは御影一族の力を結集した深い影の世界。こんなところに長くいたら、さすがにもう無理だと思うわ」
珠洲は真面目な顔で言った。武田やその仲間にその効果があるのであれば、いずれこの世界から出たとしても安心だということになる。先ほど、武田をそのままにしておいたことにやや不安があったのだが、その話を聞くとホッとする気がした。
しかし、珠洲は黙ったまま、じっとこちらを見ている。
「どうしたの?」
黙ってこちらを見つめる彼女に声を掛ける。
「ここは、深い影の世界――」
彼女が繰り返した。僕の方をじっと見つめるその大きな瞳を見ていて、急にハッとなって体を起こした。
「もしかして……それって、僕達の記憶も、消えるってこと?」
横になったままの珠洲の方をじっと見つめた。
「もし、影踏みの記憶が失われたら、私達ってどうなるのかな?」
珠洲もゆっくりと体を起こした。彼女の真っすぐな視線を受けながら思い出してみる。
彼女とは転校してから同じクラスになり、席も前後であったが、普通に話せるようになったのは影踏みの事を知ってからだ。僕自身も影踏みができるようになり、彼女と一緒に影に入ることもあった。影踏みをすることで、心を閉ざしていた人間の心を開き、悪事を働く人間を懲らしめ、求め合う人間を結び付ける。それは、影踏みを知ったからこそできた事なのだ。そしてそれは、珠洲がいつも近くで手助けしてくれたからだ。
(もし、影踏みの記憶が失われたら――)
影踏みの事を知らなければ、僕は何もできなかった。そもそも珠洲とこんなに一緒にいることも、話すことすら無かっただろう。きっと、僕はこの田舎ではやや珍しいただの転校生で、彼女は単なる無口で変わり者のクラスメイトでしかない。
「そんなの……嫌だ」
「えっ――」
彼女が不思議そうにこちらを見つめていた。次の瞬間、僕は彼女に近寄って、思わずその体をギュッと抱きしめた。
「珠洲の事を忘れてしまうなんて嫌だ! 僕は、珠洲の事が好きなんだ!」
彼女の背中に回した腕に力を込めた。そうだ。僕は彼女の事が好きなのだ。それは、影踏みという同じ能力を持つ一族だというだけではない。ただ、神楽の修業でも、何気ない話をするだけでも、彼女のそばに少しでもいたかった。その時間が、ずっと続いて欲しかったのだ。
「優馬――」
抱きしめた彼女から小さな声が聞こえた。そっと彼女から離れると、珠洲の瞳に光るものが見えていた。
「――バカ。遅いよ。言ってくれるのが」
珠洲はそこでフフっと笑った。笑顔で細くなった瞳から溢れた涙が頬を伝っていく。
「私だって、優馬の事が好き」
「珠洲……」
「私はずっとひねくれていた。影踏みの仕事で人間の裏の顔をたくさん見てきたこともあるかもしれないけど、いつもどこかで人間という存在を冷めた目で見ていた。だけど、優馬は違った。あなただけは私に向き合って声をかけてくれた。それに馬鹿正直で、見返りなしに突っ走って、犯罪者を追い、誰かを助けようとする。そういう真っすぐな性格が、私の心を少しずつ変えていった」
彼女の頬を流れる涙が青白く光って見えた。
「だからね。影踏みの記憶が無くなって、私達が出会った頃のような関係に戻ったとしても、私の心は変わらない。影踏みの力も、その記憶も無くても関係ない。きっとすぐに、私は優馬の事が好きになる」
彼女は潤んだ大きな瞳のまま笑顔を向けた。僕も頬を伝う涙を感じながら彼女を見つめる。
「珠洲――」
そっと名前を呼ぶと、ゆっくりと彼女の顔が近づいてきた。唇に優しい感触が伝わり、彼女の手が背中に回るのが分かる。そして、彼女の体を感じながら、ゆっくりと背中から倒れ込んでいく。
柔らかな感触が、体をふわりと包み込む。腕時計の青白い光だけが二人の姿をぼんやりと照らし続けていた。




