(4)
コースはデザートのティラミスで終わりになった。甘さも控えめでこれまで食べたことのない美味しさを感じる。女性が皿を引き上げてから、ホットコーヒーを飲んでいた時、父が話し始めた。
「お前もそろそろ、社会の仕組みを知らないといけないな」
「どういうこと?」
「社会は期待と誘因で成り立っている。誰かを動かすには、その対価が必要だ。単純なのはお金。給料と言ってもいい。しかし、それ以外にもお金に代えがたい価値もある。地位や名誉、友情や愛情などもそうだろう」
「そんなの、当たり前じゃないの」
「そうだ。だけど、その当たり前のことが意外に分かっていない。例えば、お前を東京の大学に行かせること。美姫は分からないが、御影のお爺さんは、お前に美姫と同じように東京で『一族』のネットワークに入り、組織で働いて欲しいと期待しているだろう。そのために学費も生活費も仕送りしてくれるから、お前は喜んで東京に行く。でも、それで仮に組織に入らなかったとしても、お爺さんなら仕送りした分を返せとは言わないだろう」
「そりゃそうでしょ。おじいちゃんがそんな事を言う訳ない」
「ハハハ……では、組織に入って働き始めたらどうかな。組織は確かにそれなりの給料を払ってくれる。それに対して何を期待しているかな?」
「それは、ちゃんと仕事をすることでしょう」
「そうだ。それだけだな」
父はそこで少し黙ってしまい、窓の外に顔を向ける。雲がだいぶ出てきたようで、窓から差し込む日差しはかなり弱くなってきているようだ。
「影踏みの歴史は古い。元々、祈祷師など神秘的な存在としてあがめられてきたが、戦国時代頃から忍者の一形態として活躍し始めたと言われている。俺の先祖が忍者の家系だったと話したことがあるだろう? 影踏みの能力は、表立った権力者を影で支える存在として、いつの時代にも権力者の側にいた」
父の出身は長野の北の方にある小さな村だ。忍者の家系だったことも知っている。小さい頃はソリ遊びやスキーなどでよく遊びに行ったが、祖父の神方輝造は穏やかな人物で、忍者のイメージにはほど遠い印象があった。その彼も父が行方不明になる少し前に亡くなってしまい、今は祖母が一人で暮らしている。ただ、その祖母の家にも、父が行方不明になってからは一度も行っていない。
「権力者が期待することは単純だ。それは、自らが優位に立つために、敵を弱らせ、排除すること。現代でも基本的にそれは変わらない」
「その仕事が、嫌になったってこと?」
そう尋ねると、父は黙って頷いた。
「仕事の内容は政府が決める。だから、その内容が善か悪かと言われれば、それは善としか言えないんだ。しかし、その内容は、警察では手に負えない、非合法的なものがほとんどだ。影から情報を収集し、何かの物品を奪い、場合によっては、人も傷つける」
「人を、傷つける——?」
父はそこで大きく深呼吸をした。
「政府に対して害を成そうとする存在は、全て敵になる。それがたとえ、善人だとしても。それが、影踏みに期待されていることなんだ」
「そんなの……断ればいいじゃない」
「俺は断ればいい。だけど、誰かがそれを行うだけだ。そうして結局、本当の犯罪者だけでなく、政府にとって都合の悪い存在である、たくさんの人々から何かを奪い、あるいは水面下で社会的に抹殺する。……それって、本当に正しいことなんだろうか」
「じゃあ、どうすればいいって言うのよ。みんなでその仕事をボイコットすればいいとでも?」
するとハハハ、と父は笑った。
「それじゃ、不十分だな……。そうじゃない。影踏みの力そのものを、消してしまえばいいんだよ」
父が言った瞬間だった。大きく開いた窓が上から遮光カーテンのような何かで覆われて、店の中があっという間に真っ暗になった。
「何? 何なの?」
寧々は思わず立ち上がった。すると、暗闇の中で何人かに腕を掴まれ、口もタオルのようなもので塞がれた。声も出せずにいると、あっという間に背中の方で腕を縛られて動けなくなり、床に体を押し倒された。
(お父さん。何を——)
既に暗闇の中、父の姿は見えない。ただ、床をコツコツと歩いて近づく音が聞こえた。そして、その足音がすぐ近くで止まった。
「よくやったな。君には悪いが、この娘にはもうひと働きしてもらうからな」
その声に聞き覚えがあった。
武田校長だった。




