(3)
再び二人きりになると、父は「まずは少し食べよう」と言い、フォークを持ってサーモンを口に入れた。寧々もそこがレストランであることを思い出して、一度深呼吸してから食べ始める。適度なサーモンの脂身が口に広がり、噛んでいると知らぬ間に心も落ち着いてきた。しばらくして父が口を開く。
「俺がどこで働いていたのか、もう分かっているんだろう?」
父の方をチラッとだけ見て、黙って頷く。父はおそらく、影踏みの力を持った人間を集めた政府の特殊機関で働いていたのだ。明確に母から聞いた訳ではないが、今になってみるとそうだとしか思えない。父も黙って頷いてから続ける。
「あそこは全国から特に選抜された人間だけを集めている組織なんだ。詳しいことは話せないが、警察よりも内外の様々な事態に機動的に動けるようになっている。だからこそ、各地方でも俺達のような一族と警察との関係も深い」
父の言葉を聞きながら、寧々はハーブティーの入った白いカップに口を付けていた。バジルの香りが心も穏やかにしていくように感じる。
「自分も優秀だと言いたいわけ?」
そう尋ねると、父はこちらを見つめてから、ハハハと笑った。
「これは手厳しいな。……そう言いたいところだが、本当に俺なんか全然力は無くてな。だからこそ、仕事が遅くて、家に帰れなかったと思ってほしい」
そこまで言ったところで、女性が次の料理を運んできた。白身魚を焼いたもので、バターの香りが漂ってくる。
「俺が美姫と出会ったのもその組織だった。お互い田舎から大学生として上京して、その組織の人達に守られ、バイトとしてその仕事を手伝いながら、自分の力を高めていくんだ。その中で組織の人に能力を認められればそのままそこに就職することになる。別に自分に力があるとは思えないが、美姫も俺と同時に組織に就職した」
「そういう事だったのね。今、初めて聞いた」
「ああ。美姫は確かに力を持っていた。影踏み自体は苦手だと言っていたが、他の『一族』の中でも珍しい力を持っていてね。特に、第六感のような不思議なものを感じる時があって、そのおかげで助けられた仲間も多かった。だから、俺達が結婚し、美姫がお前を妊娠して退職することになった時は、上司もかなり残念そうだったよ」
父は懐かしそうに言った。確かに、母は不思議なほどに影踏みの仕事をしない。ほとんどは祖父母や寧々と珠洲に任せている。以前、どうして母が影踏みの仕事をしないのかと尋ねたとき、その理由を母は、「子供を産んでから力が弱くなった」と言っていた。確かに、娘から見ても母は性格が天然なところもあり、影踏みのような仕事は向いていないとも思う。しかし、その母が以前に、父と同じように、全国から人間を選抜した組織で働いていたというのは意外だった。
「美姫が組織でバリバリと働いていたのにすぐに退職したことで、御影のお爺さんは『お前のせいだ』と言って、あの頃かなり八つ当たりされてたんだよ。でも、お前と珠洲が産まれてくれたおかげで、孫への愛情が俺への憎しみを消してくれた」
しばらくして、女性がメインの牛肉のステーキを運んできて、飲み物の追加を確認した。父がノンアルコールのシャンパンを注文すると、女性はすぐに奥から緑色のビンを持ってきてグラスに注いでいく。小さな泡がグラスの中でパチパチと踊る音がした。
「それで、どうして突然現れたの?」
寧々はステーキをナイフで切りながら、最初の問いに戻った。父も黙ってナイフを動かして、それをフォークで一口食べてから答える。
「ちょっと、疲れたんだよな」
「疲れた?」
「ああ。この仕事をすることに」
父はステーキをもう一口食べて、「これは美味しいな」と笑顔で言った。そして、グラスに口をつけてから、それを目の前に掲げてじっと眺める。
「お前はさ。影踏みの一族のことを、正義の味方だと思うか?」
父は寧々の方を見ないまま尋ねた。
「正義の味方? どういうこと?」
「その言葉どおりの意味だよ」
そこで初めて父は寧々の顔を真っすぐに見つめた。細い目がこちらをじっと見つめる。
「誰かの影の中に入ってさ。その人の行動を密かに監視して、秘密を探り、証拠の品を奪い、それによって真実を暴き出す。たぶん、普通の警察だったら、捜査令状が無ければ踏み込めない場所にだって、簡単に入ることができる」
「でも、そいつらは悪い事をしてる奴でしょう。それに、この力はそういう犯罪者だけじゃなくて、誰かの悩みや苦しみの原因を探って、その人を助けることだってできる。そういう意味なら、影踏みは間違いなく正義の味方よ」
寧々が答えると、父は頷いてステーキを再び口にする。
「そうか——」
父はそれだけ言って、窓の外の方に顔を向けた。




