(8)
僕は、昨日買い物をした増沢大橋の近くのショッピングセンターで、「忘れ物したかもしれないから」と竜弥に電話してから、彼の家の方に戻ってきていた。竜弥の両親には朝食の時に会っていたが、僕達が家を出る時には、既に二人とも出勤していた。だからその家には竜弥以外に誰もいないはずだ。
自転車で彼の家の庭に入り、自転車をそこに停めて彼の部屋である離れに向かう。そして「竜弥、僕だけど」と言って、その入口のドアを叩くと、すぐにドアが開いて竜弥が顔を出した。
「よう……忘れ物って……」
そこまで言ったところで、竜弥はこちらの方を見てハッとした様子で口をつぐんだ。
「ど、どうし……」
彼の声が途中で消える。それは一瞬のことだった。
「ふう……どこに行けばいいの?」
「すみません。増沢中学校に」
僕は目の前にいた寧々にそう伝えた。既に竜弥の姿はどこにも見えない。ただ、僕は寧々の足元に広がる黒い影の姿をチラッと見た。
増沢中学校は、役場にも近い住宅地の中にあった。寧々が低速でスクーターを運転する後ろから、自転車をこいでついて行くと、5分ほどで中学校の校門の前に着いた。冬休みとあって校庭には誰の姿もない。空を見上げると、西の山の方から雪雲のような厚い雲が漂ってきているのが見える。校門の脇にスクーターと自転車を停めると、二人で急いでそこから校舎に走った。
「まだ来てないみたいね」
寧々は言うと、校舎の玄関の扉の前に立った。そこで周りを見回してから、自分の影に手をかざすと、竜弥の体がそこから地面に浮き上がってきた。
「気絶状態になってるだけだから、早くその玄関の扉の前にでも座らせて」
寧々の指示どおり、うなだれたままの竜弥の脇を持って引きずるように動かして、その背中を扉につけて座らせる。
「大丈夫。すぐに意識は戻るわ。じゃあ、私は帰るね」
「寧々さん。ありがとうございました」
背中を向けて右手を軽く上げてから、彼女はスクーターまでダッシュで走って行く。やはり彼女はかなり足が速い。陸上部に入っていれば優秀な記録が出せていたかもしれない。その時、スマホがメッセージの着信を告げた。
『もう中学校に着くよ』
珠洲からのメッセージを確認して、慌ててその近くにあった木の影に隠れた。するとしばらくして、光の穴から、竜弥が頭を上げたのが見えた。
「あれ? ここは……」
不思議そうにゆっくりと周りを見回していた彼は、すぐに一点を見つめた。
「香菜——」
竜弥が呟く。すると、一人の少女が彼の前に立ったのが見えた。竜弥は茫然とその姿を見上げている。
「久しぶり。竜弥」
相手はショートカットにした身長の高い少女だった。薄茶色のロングコートを着た彼女は、走ってきたのかハアハアと白い息を出している。すると竜弥は、顔を横に向けて小さな声で尋ねた。
「どうして、ここに?」
「ある人から、竜弥がここにいるって聞いてね」
そう言って、彼女は笑顔を見せる。
「竜弥に、ちょっと見て欲しいものがあるの」
そう言って彼女は手に持っていたA4ほどの冊子を彼の前に差し出した。竜弥はそこで立ち上がった。
「これは——?」
「律の、小学校の卒業文集」
竜弥がハッとしたような顔になった。それに気づいているのか分からないが、彼女は黙って下を向いてその冊子をペラペラと捲っていく。そして、「ここ」と言って、どこかのページを開いて竜弥の前に出した。
「小学校の卒業式の前に学校からこの文集を渡されてたんだけど、家族の誰もこれを開けなくてね。四十九日が終わってから、ようやく家族みんなでこれを開いたの。それであの子が何を考えていたのか初めて知った。それを竜弥にも知ってほしくて」
竜弥はその冊子を受け取ってそこに視線を落としていく。彼はじっとそのページを見ていた。かなり長い時間、彼は同じ体勢だった。そして突然、彼の目から大粒の涙が地面に流れ落ちた。
「何だよ、これ……律は……」
竜弥が嗚咽し始めた。その前に立っている彼女は、彼を見つめた。
「ねえ、竜弥。律は、本当に犬たちが大好きだったの。ちょうどお正月の頃だったかな。……自分は勉強ができないから、私が動物病院を継いで欲しいって急に言い出した。その代わり、自分は保護犬たちをできる限り引き取って、新しい家族に渡してあげる仕事をするってね。急に大人みたいなことを言い出したと思ったら、あなたからそうしたらいいってアドバイスを貰ったって言ってた。そしてその理由を、あなたは律に説明した」
彼女はそこでじっと竜弥を見つめる。彼は俯いたまま、絞り出すような声で答えた。
「俺も、香菜と一緒に……その仕事をするから。……そうしたら、3人ずっと一緒だって」
竜弥が嗚咽をこらえて必死に答える。
「『真田動物病院の姉ちゃん先生の下で、僕は保護犬を引き取って、新しい家族に渡す仕事をしています。竜弥兄ちゃんと一緒に』。たぶん、ここに書かれている10年後の自分の姿は、間違いなく律の本当の気持ちよ。私は、律のしたかったことを絶対に叶えたいの。だからね——」
彼女が一歩竜弥に近づいた。そして、その細く長身の体で、竜弥の体を抱きしめた。
「私はあなたの支えになる。だから、あなたも私の支えになって。お願い——」
まだ嗚咽する竜弥の手が、その冊子をしっかりと持ったまま、ゆっくりと彼女の背中に回っていく。




