(9)
休日の土曜日は、運動部系が校庭や体育館を部活で使っているが、校舎内にいる生徒は多くない。その日は寒かったこともあって、自習室の人数も少なかったが、2階以上には全く人気がない。二人の足音だけが不気味に響く中で4階までゆっくりと上がっていく。そして、階段からすぐのところにある1年2組の教室に入った。窓の近くまで来て、藤川は寧々の正面からナイフを向ける。
「あなた、何をしているか分かってるの?」
「分かってるさ」
彼が一歩近づく。
「僕にはもう、未来が無いんだ。警察に調べられれば、間違いなく僕は逮捕される。だから、その前に君とゆっくり話をしたくてね」
「……どういうこと?」
「僕は常にこの学年を引っ張る存在でいたかった。なぜなら、あの藤川病院の院長の息子として、そして県会議員の母親の息子として、そういう存在でいることを周りから求められていたし、何より自分もそう思い込んでいた。だから、必死に勉強もしたし、生徒会長にもなった」
「そうよ。みんなその頑張りを認めていたし、尊敬もしていたわ。それはあなたにも分かってるでしょう? なのに、どうしてこんなことを……」
「君がいたからだよ」
藤川が能面のような無表情になって答えた。
「私が——?」
「君は、学力において僕と同等、もしくは上回る時もあった。それに、その美貌。男子はもとより、女子からも羨ましがられるくらいの存在だ。君のその校内での高い位置。しかしそれは、僕の存在価値を相対的に下げることになった」
彼がナイフを近づける。思わず一歩足を引いた。
「僕は負けたくなかった。校内でトップの位置にいる存在は僕なんだ。だから僕は、君に対して圧倒的な学力差をつけようと必死に勉強した」
「そうよ。この前の模試でも、あなたは学年トップの成績だった。私なんかよりずっとすごいのよ」
「そう……。でもそれには、秘密があってね」
彼はそう言うと、ポケットから小銭入れを取り出した。そこから鮮やかなオレンジにカラーリングされた小さな粒を乗せて、手のひらに乗せて寧々に見せる。
「これが何だか分かる?」
ハッとする間に、藤川はそれを口に入れた。ゴクッと飲み込む音が聞こえる。そして彼は、こちらを見つめた。
「これを飲むと、集中できるんだよね。……ただ、後で信じられないくらい悪い夢を見るけど」
「あなた……それは、まさか」
「ウチの病院はこの辺りでは人気の病院でお金はある筈なんだけど、父さんが倹約家でさ。母さんが選挙活動でウチのお金をかなり使い込んでいるからって、最近離婚しようとしてるくらいなんだ。それで僕にもあんまりお小遣いをくれない。だから、僕は自分でお金を作り出すことにした」
「作り出す……?」
「お金になるものを売るってこと。ウチにある情報でも、薬でもね」
フフ、と彼が不気味に笑う。よく見ると彼の瞼の下にかなり黒い隈ができている。彼がナイフを持ったまま、また一歩近づいてきた。逃げようと思うが、右腕が彼の左腕と縛られているので離れられない。
(縛られてなければ……)
自分の影の中に彼を落とし込むこともできる筈だった。しかし、自分の腕と縛られているため、彼が影に落ちれば自分も一緒に引きずり込まれてしまう。「自分の影に入るようなことだけは絶対にしてはいけない」という祖母の言葉を思い出す。
「やめて……お願い」
「心配することはないさ。僕は、大きな勘違いをしていたみたいでね。僕が悪夢にうなされることもなく、君の影にも怯えずにいる方法が、もう一つあったことに気づいたんだ」
藤川はナイフを持った右手で寧々の隣の窓の鍵を開け、それを開けた。外から冷たい風が入り、顔に当たる。すると、藤川は左手で寧々の手を強く掴んだ。
「一緒に飛ぶんだ。僕が君と同時に死ねば、すべて終わるんだ!」
藤川は椅子を窓際に寄せてそこに足を掛けた。寧々は必死に抵抗する。
「嫌っ! やめて!」
彼が力尽くで寧々の腕を引く。その時だった。
「ぐわあ!」
目の前の藤川が大声を上げてその場に倒れる。ナイフがカタンと床に落ち、彼が足を掛けていた椅子もガタンと大きな音を立てて倒れた。寧々も彼に引きずられるように床に倒れ込んでしまった。すると次の瞬間には、彼の体の上に優馬が乗って押さえつけていた。軽く痙攣しているように床で動けなくなっている藤川の後ろには、もう一人が立っている。
「飛びたいなら一人で飛びなよ!」
スタンガンを手に、冷たい目をして吐き捨てるように珠洲が叫んだ。
「珠洲……優馬……」
寧々はそれだけ言うと、そのまま力が抜けたように床に仰向けになった。




