(6)
珠洲は、昨日の夜はなかなか寝付けなかった。おかげで一日中眠かったのだが、合唱練習だけ終われば帰れると思い、目を覚まそうとしてトイレで顔を洗って教室に戻るところだった。3組の教室まで戻ってきた時、ちょうど薬袋がリュックを背負って教室を出て行くのとたまたますれ違った。
(どうして……)
彼女のいる3組でも合唱練習を始めようと机を動かしている時だったので、一度4組に戻って自分のリュックを持つと、すぐに教室を出て彼女を追った。
(まさか、優馬があのサイトのことを先生に伝えたから……)
三枝先生から3組の担任である井上先生にその話が伝わり、教室内で犯人捜しのようなことをされたのではないか。それで余計にクラスに居づらくなって帰ってしまったのかもしれない。合唱練習には担任の教師が出席チェックに来るので、後で小言を言われるかもしれないが、とりあえず彼女を引き留める方が先だ。
急いで玄関に降りて靴を履き替え、外に出て見回すと、既に何人かの生徒が校門を出て行く姿が目に入った。自転車置き場に走って、自転車に飛び乗ると、市山本町の駅に向かって自転車を走らせていく。まだ夕方の帰宅時間帯ではないので、電車の本数も限られている。おそらく、駅で待っていれば彼女に会えるはずだ。
市山町の中央商店街を自転車で走り抜け、市山本町駅の近くまでやって来た。駅舎の脇に自転車を停めて、駅のホームに駆け込む。その駅は無人駅であるため、ホームへの出入りは自由だ。周りを見回すと、そこには何人かの生徒の姿があるものの、彼女の姿は見当たらない。
(まあいいわ。いずれ来るだろうから)
自転車で来たから、いつの間にか彼女を追い抜いてしまったのかもしれない。息も上がっていたので、ホームのベンチに座って彼女が現れるのを待った。次第にホームに立つ生徒の数も増えてきたが、彼女の姿は一向に見えない。もう一度、探してみようと、立ち上がってホームの端の方まで歩いてきた時だった。ホームの先にある踏切がカンカンと音を立て始めた。壁に掛けてある時刻表を見ると、どうやら特急列車らしい。この駅は通過駅になるため、この電車に乗ることはできない。
その時だった。
閉じている遮断機をくぐってその踏切の中に誰かが入ってきたのが見えた。そこに見えるのは自分と同じ制服だ。
珠洲は夢中でホームの端から大きくジャンプした。カーブの向こうに特急のオレンジ色の車体が見える。
(間に合って——)
すぐ下に見えるのは駅のホームの影。そして聞こえる特急のクラクションと急ブレーキの音。一瞬、目の前が真っ暗な影の世界になったのと同時に、影の中を猛スピードで駆け抜け、その先に見える小さな円形の光の穴から飛び出す。
珠洲の手が彼女のどこかを掴んだ。
キキキーッ!
長いブレーキ音が止まった。カンカンという単調な遮断機の音が聞こえている。
「ハアハア……」
心臓がドキドキしていた。目の前には制服を着た薬袋の姿が見える。ハッとして体を起こすと、踏切のすぐ傍の道路に倒れていた。彼女は目を閉じているが、制服の胸の辺りは上下している。珠洲は立ち上がって、近くにあった倉庫の影の辺りまで彼女を引きずっていくと、急いでリュックの中から黒い布を取り出して広げ、それを二人の体の上に掛けた。
「お願い……静かにして」
珠洲は耳元で彼女に言う。しばらくして足音が近くまで聞こえてきた。
「大丈夫みたいです。誰もいません」
男の声がした後で、「よく周辺を点検してください」と無線のような声が聞こえてきた。それからしばらく、その辺りで足音が続いていたが、やがて「安全確認終了です」という声とともに、足音が遠ざかって行く。そして、特急がガタンガタンと音を立てて動き始めると、遮断機の音も消え、辺りに静寂が戻った。
珠洲はそっと周りの様子を見回す。誰の姿もないことを確認して、黒い布を捲った。薬袋の顔が日差しに照らされ、彼女は眩しそうに目を閉じる。
「あなたは——」
こちらを見上げる薬袋の前で、珠洲は立ち上がり、スカートの裾をパンパンと払った。脛の辺りを擦りむいているようで、少しだけ血が出ている。
「バカッ! 何やってるのよ」
言いながら腰に手を当てて薬袋の方を見下ろすと、彼女は座ったまま顔を横に向ける。
「……ほっといてよ」
「どうしてあんな事したのよ?」
「あなたに何が分かるって言うのよ!」
こちらに顔を向けて睨む薬袋の姿を見て、思わず叫んだ。
「分からないわよ! そんな事で死のうとしているあなたの事が」
珠洲は腰に手を当てて、彼女を睨み返した。薬袋はハッとしたように俯く。
「あなたは、あなたじゃないの。誰に何を言われようと、親のせいで、あなたが死ぬなんて絶対におかしい。あなたがやりたいことをできないのもおかしい。それに、みんなだって、あなたを傷つけるような事をするのはおかしいわ。だから、あなたはそれをおかしいって言えばいいの」
「御影さん——」
「葵も、音楽部の人も……いや、それ以外のみんなだって、本当はきっと心のどこかでおかしいって分かってる。だけど、みんな弱いから、ただ周りに流されているだけ。だから、お願い。あなたから、勇気を出してみんなに近寄っていって」
そう言って彼女の前で深く頭を下げた。再び頭を上げると彼女はこちらをじっと見つめていた。
「今日、葵と約束があったんじゃないの?」
「えっ? どうしてそれを……」
「あっ……。まあ、あなたを応援しているのは、葵だけじゃないってこと」
そう言って、少しだけ笑って見せると、こちらを見上げる薬袋の瞳から透明な涙が頬を伝っていく。ウッ、ウッと嗚咽する彼女に近寄り、手を差し伸べると、彼女の手がその手を掴み、立ちあがった。
「ありがとう……。私、あなたの事、勘違いしてたわ」
「勘違い?」
「うん。もちろん、良い意味でね」
瞳の涙を手の甲で拭いながら薬袋は言った。それに珠洲は笑顔で応える。
「そうだ! 私の自転車、乗っていいから。早く学校に戻ってあげて」




