(4)
珠洲は、薬袋由芽の影の中にいた。優馬の影に隠れてから、レジで彼が話しているうちに、薬袋の影に飛び移ったのだった。
薬袋は「セルナ」でのバイトを7時過ぎに終えて、最寄りの市山本町駅まで歩いて行く。そこで10分ほど待って電車に乗り込み、15分ほど乗って、そこからは自転車で10分ほどかかって自宅に着いた。時刻は既に8時頃になっていた。
彼女の自宅は2階建ての普通の家だった。リュックから鍵を取り出して玄関のドアを開けると、中は真っ暗だ。まだ両親は帰宅していないのだろう。彼女は廊下を歩いてキッチンに向かい、冷蔵庫から何かを取り出してレンジに入れた。その間に自分で炊飯器からご飯をお椀に盛った。
「ただいま」
その時、女性の声が聞こえた。廊下を歩く音が聞こえ、灰色の作業着姿の細身の女性が姿を現した。おそらく母親だろうが、顔がやつれていて自分の母の美姫よりかなり年上に見える。薬袋が「おかえり」と声をかける。
「今までバイトだったの?」
「うん」
「そんなに働いたらダメよ。それより、音楽部には行った?」
薬袋は黙って首を振る。母親は大きくため息をついた。
「秋山さんのことを気にすることはないの。今回の事は不幸な事故。それは先方さんも分かってる。お父さんだって、十分に罪を負っているのよ。こういう時だからこそ、あなたが普段通り楽しく高校に通うことが大事なんだからね」
「分かってる……」
薬袋は小さい声でそれだけ答えると、無言でご飯を食べ始めた。
しばらくして夕食が終わると、彼女は階段を上がり、その先のドアを開けた。彼女はそこでパジャマと下着を持って部屋を出ていく。珠洲はその間に、部屋の本棚の影に飛び移った。
その影の中から部屋の中を覗いてみた。部屋には勉強机と本棚、それにベッドが置かれている。彼女も戻ってくる様子もなく、周りから何も聞こえないので、影からそっと出てみた。
低い本棚の中には、ピアノの楽譜がたくさん入っていた。その隣にはキーボードが置かれている。そう言えば、1学期の時に、帰宅しようとして音楽室の辺りを歩いていると、最近流行の曲を誰かがキーボードで弾いている音が聞こえてきた。チラッと様子を見ると、弾いていたのは薬袋で、彼女の周りでは何人かの生徒たちが楽しそうに歌っていた。
(まだ、しばらく無理じゃないかな)
母親の言うように、相手の家族が許していると言っても、高校生にもなれば人を殺してしまったという事態の重大さは十分に分かる。彼女の父親がやったこととはいえ、このような田舎では事故の一つもかなりのニュースになる。それに、悪いことに当の被害者の孫が音楽部にいるのだ。何か皆の興味をそそる別の事件が起こったりとか、年末年始とかクリスマスなどのイベントで皆の頭が切り替わりでもしない限り、彼女を取り巻く環境は変わらないだろう。
珠洲は大きくため息をついてから、薬袋のリュックを開けた。その中に、優馬が渡したルーズリーフに書いた手紙が入っているのを確認する。葵の名前で薬袋を教室に呼び出すとともに、葵の靴箱にも珠洲の書いた「薬袋からの」手紙を置いた。珠洲は、「音楽部に行きたいから、4組で待っててもらって、一緒に行って欲しい」と書いておいた。「葵くんだけが頼りなんです」とまで書いたから、あの葵ならさすがに協力してくれるだろう。
しばらくして階段を上がって来る音が聞こえたので、珠洲は急いで本棚の影に隠れた。ほどなく薬袋が入ってくる。そして彼女は、リュックを開けて優馬の書いたルーズリーフの紙を取り出した。椅子に座ってそれを開く。
少しの間、そこで座ったまま紙を見つめていた彼女は、机の上にその紙を置いて大きなため息をついた。そして、次の瞬間だった。
ビリビリッ!
薬袋はそのルーズリーフの手紙を破っていく。何度も破り続け、その細かくなった紙クズを脇にあったゴミ箱に捨てた。珠洲はその様子を茫然としながら見つめる。
「葵くん——」
彼女はそう呟くと、机の上に組んだ腕の上で、うっうっと静かに嗚咽し始めた。
それからしばらく経ってからだった。ようやく彼女は顔を上げて、ベッドに寝転んで自分のスマホを眺め始めた。珠洲も影の中を移動して、その画面をそっとのぞき込む。
そこで、珠洲はハッとなった。
彼女が見ていたのは、匿名で書き込める掲示板のようだった。文字が沢山並んでいる中に、「殺人者の娘 Mイ 市〇高校1年」と数行にわたって繰り返し書かれている。彼女はそれをじっと見つめ、下に画面をスライドさせていく。「クラス一緒は嫌だ」とか「マジこわ」「よく普通に学校に来られるよね」と言った言葉がそこに続いていく。
薬袋はそれをしばらく見ていたが、やがて新しいタブを開き、ブックマークしていた何かのサイトを開いた。その暗っぽい背景のサイトに書かれた文字を見て珠洲は息を呑む。
(嘘でしょ……)
彼女が見ていたサイトには、「自殺の方法」という文字が見えた。




