(8)
その時、光が注いでくる穴の方から、蓋をかぶせた茶碗が二つ入ってきた。それはまるで浮いているようにゆっくりと老人の前まで動いてくる。彼はその両方を手にすると、「どうぞ」と言って、その一つを僕の前に差し出した。
「『一族』の者なら、こういう感じでゆっくりと影の中に入って来るだけじゃ。この茶碗にもちょっとしたまじないをかけておってな。お前さんは、たぶん、高い所から一気に落ちたような感覚だっただろうが」
冷静に説明する老人の前で、唖然としたままその茶碗を受け取った。蓋を開けると温かいお茶の湯気が立っている。
「挨拶が遅れて申し訳ない。ワシは御影家の当主、御影青山と申す。お前さんの事は、美姫や孫たちから聞いておる。この辺りの一族以外の『一族』の者がこの神社に来るのは、本当に久しぶりかもしれないのう」
ズズっとお茶をすすりながら、青山は言った。僕も同じように茶碗に口を付ける。かなり濃い日本茶だった。
「あの……ここって、本当に影の中なんですか」
「ああ。そこから見えるとおり、寧々の影の中じゃよ。なかなか信じられんじゃろうがな」
光の穴の外の世界では、寧々が廊下を歩いているようで、その風景が動いている。ただ、廊下の板張りの天井が正面で、床が下の方に動いて行く感じを見ていると、どうしても気持ち悪くなってくる。
「ワシらの一族は、全国各地に住んでおるんじゃが、近隣の者や親戚を除いて、お互いの交流はほとんどないんじゃよ。昔から、『影踏み』の能力は外部の者には絶対に悟られないようにするという掟があってな。まあ、こういう仕事じゃから、周りに怪しまれると動きにくくなるし、自分達にも危険が迫る可能性もある」
「そういうものなんですか」
「うむ。それにしても、影の中でこうしてワシと話ができるならば、少なくともそなたはどこかの『一族』に違いない。ただ、『一族』でも稀にあるのじゃが、余りに影の奥まで落ちてしまうと、出てこられなくなることがあるから気を付けた方が良いぞ」
そこで青山はカッカッと笑った。しかし、僕はゾッとして思わず周りを見回す。穴から入って来る光で照らされている周囲数メートル以外は、深い暗闇が広がっており、その先を窺い知ることはできない。僕の不安を知ってか知らずか、青山は再びお茶を口にしてから、こちらに尋ねてきた。
「ところで、お前さんのお母さんは、宍父の出身と聞いたが」
「はい。そうらしいです」
「あの辺りも『一族』が昔から住んでいると聞いたことがある。確か、育ての親は『神来』という苗字だったようじゃが、その苗字は『一族』だとして聞いたことがある。お母さんもきっとその『神来』一族だったのじゃろうな」
目の前の老人から、あの温和で優しかった母にそのような力があったと言われても、まだ信じられない。
「そうでしょうか。母は、普通に毎日、仕事で都内に通っていましたけど。国のどこかの機関のようだったですが」
「ふむ。それは、『一族』を集めた国の特殊機関かもしれぬのう。国は、全国の影踏みの一族から特に力の強い者を選んで、今でもその力を使っておる。国内はもちろん、中には国外でも活躍している者もいるそうじゃ」
青山はそう言うと、ふと顔を横に向けた。そして立ち上がり、「来なさい」と言った。
慌てて立ち上がると、闇の向こうの方から隣にある光の穴とは別の光が見えた。青山がその方に歩き始めたので、それに従って後ろから歩いていると、それがどんどん近づいてくる。こちらが歩いて近寄っていると思っていたが、途中で、どうやら向こうがこちらに近寄っているようだと分かった。
「少し跳ねてみなさい」
青山はそこでピョンと跳ね上がった。僕も同じようにしてみる。
「うわあ!」
体が再びどこかに落ちていくような感じがした。しかし、必死に目を開けてみると、青山が目の前に立ってこちらを見ている。足元はまだ浮いているような気がしたが、彼の姿を見ていると、そこに地面があるような気がしてきた。すると、バタバタとしていた足が自然に落ち着き、地面に立ったような感触があった。
「ほほう! なかなかセンスが良いのう」
青山が嬉しそうに言った。
「影の中では平衡感覚が取りにくい。だから、一定の鍛錬が必要なんじゃ。寧々と珠洲が神楽を舞う理由の一つはそれじゃ。そして、もう一つは、自分自身を見失わないようにするためじゃな」
「自分自身を……?」
「見ての通り、この影の世界は暗く深い。人間は暗い所にいると、恐怖感や、『失う』とか『死ぬ』といった負のイメージを持ちやすい。そういうものがあると、さらに深い影に呑まれてしまう。そうならないためには、正しい心を持つ事が必要じゃ。神楽を舞うと心が洗われるからのう」
なるほど、と僕が応じると、青山も静かに頷いた。
「それで……僕はどうすればいいんですか?」
それを聞いて、青山はカッカッと笑った。
「可愛い孫娘たちの、言わばボデーガード役が欲しくてのう」
それだけ言うと、青山は僕の手を引いて、光が注ぐ円い穴に向かって突進した。まるで体が浮いてしまうような程、素早い動きだった。




