(7)
次の日曜日のことだった。僕は朝9時頃に「友達と遊びに行く」と言って自転車で家を出た。その日、父は仕事で朝から出ていて、家には祖母だけだったので、特に何も言われなかった。
増沢大橋の近くのコンビニエンスストアの脇に自転車を停めて、広い駐車場を見回した。すると、端の方に1台の白いセダンが停まっていた。その窓ガラスが開けられていく。
「こんにちは」
運転席から顔を覗かせたのは、御影の母の美姫だった。彼女は、麦わら帽子を被ってサングラスを掛けていたので、パッと見ただけでは分からなかったが、その声と長い髪で彼女だと分かった。「後ろの席に乗って」という彼女に言われるまま、後部座席のドアを開ける。
「あっ……」
そこには珠洲が乗っていた。彼女は真っすぐに前を向いたまま、「おはよう」とだけ言った。白いブラウスに、紺色の長いスカートを履き、眼鏡も掛けていない素顔だ。学校で見るのとは別人のような大人っぽさにドキッとする。
「の、乗っていいの?」
「ダメなら鍵を閉めてる。早く乗ってよ」
彼女の言葉に促されて乗り込むと、車はすぐに発進した。彼女はこちらには顔を向けずに、黙って窓の外を眺めている。動き出してしばらくして、美姫が声をかけてきた。
「久しぶりね、優馬くん。今日は、優司くんは休み?」
「いえ。仕事で朝からどこかに出ていました。ウチにはお婆さんだけで」
「そう。忙しいのねえ」
「あの……父の事、昔からよく知ってるんですか」
気になっていたことをストレートに尋ねてみる。すると、彼女は「知りたい?」と言った上で、自分から語り始めた。
「優司くんは、昔、ウチの神社で神楽を舞っていたの」
「えっ、神楽を?」
「あっ、もちろん、珠洲たちの神楽とは意味が違うのよ。昔からある神楽で、県の無形文化財にもなってるの。中学生以下の子供が舞う演目もあるんだけど、過疎化で人が少なくなっちゃってね。優司くんのお母さん、つまりあなたのお婆さんは、元々、ウチの近くの集落の出身だったから、彼まで声がかかって、よくウチの神社に来ていたわ」
「そうなんですか——」
僕が納得すると、彼女は小さく頷く。不思議な落胆と安堵が僕の中に広がる。すると彼女はアクセルを踏み、車は急にスピードを上げた。
車は山道をどんどん上がっていく。美姫は慣れた様子でハンドルを回していくが、同乗している僕にとっては、やや怖くなるくらいのハイスピードだ。父と来た時よりずっと早く御影神社に着いた。
彼女らとともに車を降りると、鳥居の先の石段を上がっていく。珠洲の紺色の長いスカートが風に僅かに揺れる中、その斜め後ろからついていく。彼女らの自宅の玄関の引き戸を開けて、美姫が「ただいま」と言った。
靴を脱ごうとしていると、奥の方から、背の低い老婆がてくてくと歩いてきた。頭髪は真っ白だが、背筋は曲がっておらず、白い装束と袴を履いた姿で足取り軽くやってきた。その隣には、ジーンズを履いた寧々も立っている。
「ホホホ……よく来たのう。寧々、案内しなさい」
彼女が笑いながらそう言うと、寧々の方が玄関に一歩近づいて「どうぞ」と手で案内する。美姫と珠洲は先に玄関を上がっていて、僕も靴を揃えてから「お邪魔します」と軽く頭を下げて、廊下の奥に進もうと歩き出した。
その時だった。
「あっ!」
それは何の前触れもなかった。踏み出した足は床を踏むことなく、体が真っ逆さまに落ちていく。この前、カーテンに映った自分の影に吸い込まれた時と同じような感じだった。「落ちる」と思って、思わず強く目を閉じる。
「もう、大丈夫じゃよ」
老人の声が近くで聞こえた。ゆっくりと目を開けると、2メートルほど前に、頭髪がほぼ抜けきって丸い頭をしたお爺さんが座っていた。周りを見回すと、右の方に窓のような穴が開いていて、そこから光が差し込んでいる。よく見ると、その窓の先には、さっきまでいたはずの御影家の玄関のような風景が見えている。ただ、そこから見えるのは玄関の天井のようで、玄関の引き戸が視線の上の方に見える。その風景をじっと見ていると方向感覚を失い、目が回って来た。
「まだ、あまり外の世界を見ない方がいいぞ。慣れないと酔ったように具合が悪くなるからのう。まあ、その辺りに座りなさい」
老人に言われるがまま、とりあえず座ってみる。自分の体が浮いているような気がするが、一度目を閉じてからあぐらで座ろうとしてみると、何となく座ったような感じがした。目の前で老人が座る姿を見ていると、ようやく目が回るのも収まってきた。
「よく来たのう。ここは、寧々の影の中の世界じゃ」
「影の中の世界?」
「そう。お前さんは、寧々の影を踏んだ。そして、その中に入ってきたという訳じゃ」
カッカッ、と老人は笑ったが、どう考えても「入った」というよりは「落ちた」と言った方が正しいと思った。




