2.バルタ家終了のお知らせ
翌日、チェイス伯爵家からこの縁談を進めたい旨を伝えられたバルタ男爵は、大喜びでその申し出を受けた。
「レオン、でかした! よくやった!」
バルタ家当主、ウォルターは小躍りしながら息子の背を叩いた。
「いや、正直むりだと思っていたのだ! お相手は伯爵令嬢だからなあ、いくら金銭的に厳しい状況だとは言っても、なかなかその……、うむ、まあ、なんだ、おまえは悪い人間ではないが、繊細な貴族のご令嬢とは、あまり合わぬようだからなあ」
「はい、自分もそのように思います!」
元気よく答える息子を、バルタ男爵はつくづくと見た。
「……レオン、その……、今さらなのだが、その、おまえは大丈夫か?」
「自分は健康です!」
「そうではなくだな……」
バルタ男爵は、そっと胃の上あたりを手でさすった。
「この話を進めてもよいのか? ……ゲルトルード嬢を妻として、おまえは後悔せぬのか?」
レオンは首を傾げ、一瞬考えたが、すぐに迷いなく答えた。
「後悔しません!」
「な……、なぜ言い切れる? ゲルトルード嬢に、そのう、好意を抱いたと、そういう事か?」
「よくわかりませんが、彼女の瞳は豚に似て、優しそうだと思いました!」
「!? ぶ、豚!?」
うろたえる父親に、レオンは説明した。
「領内で飼育している動物のことです!」
「それはわかっている!」
バルタ男爵は思わず怒鳴り、ハアと大きく息をついた。
「レオン……、その、豚とは……、いやしかし、優しいということは、つまり、アレだな、おまえはゲルトルード嬢の瞳を褒めているのだな? そういう事なのだな?」
「はい、その認識で間違っておりません!」
「……それならもっと、わかりやすく褒めたほうが……。宝石のようだとか、星のようだとか、女性の瞳を褒める言葉などいくらでもあるだろう……」
「申し訳ありません、思いつきませんでした!」
「……そうか、うん、そうだろうな……。いや、だがなレオン、豚はマズい。うん、わかっている、おまえに悪気はない。それにもちろん、豚は優しく綺麗好きな動物だ。私だって豚が大好きだ。なんといっても豚は、我がバルタ家を貴族に押し上げてくれた動物だしな……」
「はい、存じております!」
バルタ家は養豚業で国の飢饉に貢献し、それで男爵位を賜った。
今でもバルタ領では豚は特別な存在であり、もう養豚業を営まなくとも問題ないほど経済的に成功しているが、半ば象徴的に豚の飼育が続けられているくらいだ。
そのせいで豚男爵だの何だのと陰口を叩かれているが、バルタ男爵は、心から豚に愛着を持っていた。レオンが幼いころ、自ら養豚場へ案内し、豚を見せてやったこともある。
それが良くなかったのだろうか、とバルタ男爵は心の内で思った。
レオンに悪気はない。彼は純粋に、日頃慣れ親しんでいる動物、愛着を持っている豚に、令嬢の瞳を重ねあわせただけだろう。
だが、いくら何でも豚はマズい。せめて馬だったら……、いやそれもどうだろう。ギリギリ羊なら許されたかもしれない。いや蛇よりはマシと思うべきか……? バルタ男爵の心は千々に乱れた。
「と、とにかくだ、レオン、その褒め言葉にはいささか問題がある。決して決して、ゲルトルード嬢に言ってはならん。いいな?」
「わかりました、父上!」
素直に、元気よく返事をするレオンに、バルタ男爵は複雑そうな表情を浮かべた。
バルタ男爵は息子と違い、剣術にも筋肉にもとくに興味はなかった。
レオンが剣に秀で、その技量を王国一とさえ称賛されていることは承知している。それでも彼は、レオンに騎士などという常に命の危険がつきまとう職業ではなく、できれば領主として安穏な人生を歩んでほしいと思っていたのだ。
バルタ男爵は、つくづくと己の息子を見た。
親の欲目かもしれないが、息子は礼儀正しく親切で、そして何より誠実な人間に育ってくれた。
何故かルカーチ伯爵家の次期当主と愛称で呼び合っていたり、いつの間にか王太子殿下のお気に入りと見なされていたりと、己のあずかり知らぬところで妙に高貴な方々と交流があるようで、たまに空恐ろしい気持ちにもなるが、とにかくレオンは、自分の大切な一人息子だ。心から愛し、誇りに思っている。
だが、その息子が少し……、いやかなり変わり者であることは、バルタ男爵も認めざるを得なかった。
レオンに結婚してほしい一心で、チェイス伯爵家からの縁談を受けてしまったが、しかし、これで本当に良かったのだろうか、とバルタ男爵は考え込んだ。
少なくともレオンは、チェイス家のご令嬢に好意を持っているようだった。向こうも縁談をすすめたいとおっしゃっている。……つまり、ご令嬢もレオンと結婚してもよいとお考えなのだろう。ならば問題はない……、はず、だ。
しかし、このまま何事もなく、無事に結婚までこぎつけられるのだろうか、とバルタ男爵は不安に思った。
これまで、レオンの容姿や王太子殿下のお気に入りという点を見込んで縁談を申し込んできた数多の貴族が、最後には憤然としてレオンの前から去っていくのを、いやというほど男爵は見てきた。今回もそうならないという保証はどこにもない。というか、無事に結婚できると考えるほうが楽観的すぎる。
バルタ男爵は最近クセになってしまった手つきで、そっと胃の辺りを押さえた。
どう考えても、何も起こらぬはずがない。
そんな不吉な予感が、心配性のバルタ男爵の心と胃を、キリキリ痛めつけていた。
だが父親の心配をよそに、レオンとゲルトルードは意外にも順調に交際をすすめていた。
「すると、母君が亡くなられた後、あなたが弟妹たちの面倒をみておられたのですか。大変立派なことと思います!」
庭園内の四阿で、レオンとゲルトルードはお茶を飲みながら話をしていた。
話をしながらも相変わらず、剣の鍛錬がしたい、筋肉を鍛えたいとレオンは思っていたが、ゲルトルードの煙水晶のような瞳に見つめられるのは、悪い気分ではなかった。
「そのような……、たいそうなことは、何もしておりません。弟も妹も、みな素直で良い子たちばかりですし、何の苦労もございませんでしたわ」
「しかし、弟妹の面倒を見ながら、同時に領地経営もされていたのでしょう。簡単なことではありません」
「……でも、結局はチェイス家の財政を立て直すことはできませんでしたわ。わたしがもっと経営に長けていれば、父の心労も減っただろうと思うと、残念です」
レオンは、ゲルトルードをじっと見つめた。
「あなたは、素晴らしい女性だと思う」
「……え」
「あなたは弟妹を大切に育て、父親を助けて懸命に領地の立て直しに尽力した。誇ってよいことだと思う」
レオンの素直な褒め言葉に、ゲルトルードは頬を染め、うつむいた。
「……レオン様こそ、騎士団でのご活躍は、わたしのような社交に疎い者でも聞き及んでおりますわ。セファリアでの戦や、ケナの紛争を収められたこと……、レオン様はお一人で敵将を討ち果たし、王国に勝利をもたらされたのだと」
「いや、それは事実ではない」
レオンはきっぱりと言った。
「どちらの戦でも、俺はみなに助けられて、なんとか生き延びることができた。とくにケナの紛争ではひどい怪我を負ったのだが、神官やアドに助けられ、命からがら国に戻ってくることができたのだ」
ゲルトルードは顔を上げ、レオンを見た。
「アド、とは……、ルカーチ家の次期当主さまのことでしょうか?」
「ええ、彼はたいへん親切で賢い、良い男です」
レオンはにこにこして言った。自慢の友達の話ができて、レオンは嬉しかった。
「彼とは学生時代からずっと一緒にいるが、素晴らしい人物です。剣の腕はいまひとつだが、何しろ賢い。彼の知らぬことなど何もないし、どんなことでも解決できる知恵を持っている。それに、とても優しいのです。妹思いで、よく妹の話を聞かされます」
爽やかに笑うレオンに、ゲルトルードはいくぶん硬い表情で言った。
「ルカーチ家の、妹姫……、エリカ様のことですか?」
「おお、あなたも彼女をご存じか? 彼女もアドと同じく、とても素晴らしい人物です」
大好きな人達について語れて、レオンは嬉しかった。いつもより饒舌なレオンを、ゲルトルードはじっと見つめた。
「アドの妹は、他の女性とはどこか……、何かが違う。特別な人です。彼女はまるで……」
言いかけて、レオンは少し考えた。
彼女を見ると、手ごわい魔獣を思い出す。生命力にあふれ、獰猛で、少しの油断もならない。……しかし、貴族令嬢を何かの生き物に例えるのは、良くないことだと父親は言っていた。豚のような大人しく優しい生き物でさえダメなのだから、魔獣はもっとダメだろう。
「彼女は……、そう、まるで、宝石のような人です!」
ようやくピッタリする言葉を探し当て、レオンは満面の笑みで言った。父も「星とか宝石とかいう言葉で女性を褒めろ」と言っていたし、実際、アドの妹は「ルカーチ家の色違いの宝石」と呼ばれている。これならば問題なかろうと思ったのだが、
「……そうですか……」
なぜかゲルトルードは、沈んだ表情を浮かべた。
「どうかされましたか、エリー殿?」
「……わたくしはエリーでは……、いえ、大丈夫です。何でもありませんわ」
弱々しく微笑むゲルトルードをレオンは不思議に思ったが、とくに気にしなかった。
空は晴れ、ようやく残暑の落ち着いた庭は、とても心地よかった。
体は健康でどこも痛まない。戦争に駆り出される恐れも、今しばらくはなさそうだ。
目の前には優しく美しい女性がいて、大好きな親友とその妹について話すことができた。
今日はよい日だな、とレオンは思った。
騎士団の仕事が立て込み、レオンはゲルトルードとしばらく会えずにいた。その間、両家で話がトントン拍子にまとまり、婚約が調ったのだが、
「エリカ殿、お久しぶりです」
「……お久ぶりです、レオン様。……わたくしの名前はエリカではございませんわ」
久しぶりに会えたゲルトルードは、どこか硬い表情をしていた。
レオンは不思議に思ったが何も言わず、彼女の好きな庭園へとエスコートした。
「失礼した。申し訳ない、俺は人の名前を覚えるのが苦手で」
「わかっておりますわ。……でも」
ゲルトルードは満開の秋薔薇を背に、レオンを見上げた。
ゲルトルードを見て、美しい人だ、と改めてレオンは思った。
彼女は艶のある黒い巻き毛をきちんとまとめ、今日も年頃の娘としてはいくぶん地味な黒っぽい装いをしている。
しかし今日、その煙水晶のような瞳は、まるで炎を宿し燃え盛っているようだった。ふだんは優しい穏やかな瞳が、そうして燃えるように輝いていると、なるほど父親が言った通り、星のように見えるとレオンは思った。
この女性が俺の婚約者なのだな、と思うとレオンは嬉しくなり、にこっと笑った。
「……レオン様」
ゲルトルードはレオンの微笑みに息を呑み、うつむいた。じわじわとその首筋が赤くなる。
どうしたのだろう、とレオンが思っていると、小さな声でゲルトルードは話し始めた。
「わたくしは……、金目当てで縁談を申し入れた、最低の人間です。それなのに、身の程知らずにも、わたくしはレオン様を……」
「どうかされたのですか、エリー殿?」
「……もう、無理です。これ以上は耐えられません」
震える声でゲルトルードは言った。
「エリカ殿?」
「わたくしはエリカ様ではございません!」
ゲルトルードは叫ぶように言った。
レオンは驚いて目を瞬いた。
「も、申し訳ない」
「……わかっておりますわ、このお話は両家それぞれの思惑あってのこと。そもそもチェイス家が言い出したことですもの。わたくしに怒る資格などないのです。でも……」
「資格、……です、か?」
レオンは、彼にしては慎重に言葉を選んだ。
よくわからないが、何だかマズい状況にあることを、レオンは野生のカンで察知していた。戦場で、気づかぬ内に敵に四方を囲まれてしまった時のような、ぞわぞわした焦りを感じる。
「……タルゴン家のご令嬢に、教えていただきました。レオン様は本当は、ルカーチ家の妹姫を想っていらっしゃるのだと。その想いが叶わぬから、わたくしとの話をお受けになったのだと」
「タルゴン……?」
レオンは一生懸命、考えた。
どこかで聞いたような名前だ。だが思い出せない。
それはしばらく前、レオンが見合いをしてこっぴどく振られた相手なのだが、それは既にレオンにとって、忘却の彼方にあった。
「申し訳ない、よくわからぬのだが」
「いいえ、おわかりのはずですわ」
涙に濡れた瞳に見つめられ、レオンは往生した。
わかっているはずだと言われても、本当にわからないのだ。よくアドが「これは前に教えたんだから、わかってるはずだ!」と怒るが、今回もそれと同じことなのだろうか。しかし、ルカーチ家の妹姫……、アドの妹? なぜ彼女の話?
混乱の極みにあるレオンは、しどろもどろに言った。
「妹……、アドの妹のことは、むろん、知っているが……」
「レオン様は、その姫君と……、エリカ様との婚約を、望んでいらしたのでしょう?」
ゲルトルードの言葉に、レオンはほっと息をついた。なんだ、その話かと合点がいったからだ。
「ええ、その通りです! 彼女との婚約を希望しましたが、父に反対されて断念……」
言いかけて、レオンは珍しく言葉を止めた。
ゲルトルードが、その美しい瞳からぽろぽろと大粒の涙をこぼしたからだ。
「えっ……? その、あの、どうかされましたか? どこか具合でも……」
医師を呼んできます、と腰を浮かしかけたレオンの腕を、ゲルトルードがつかんで止めた。
「いいえ……、いいえ、良いのです。なんでもありませんわ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「ですが……」
「本当に良いのです。……正直に話してくださって、ありがとうございます。これでようやく、心が決まりましたわ」
「それは……、良かった、です……?」
言いながら、何とはなしにレオンは悪寒を感じていた。
これは、ちっとも良くない……ような気がする。何が良くないのかはわからないが、とてつもなく悪いことが起こっているような、そんな気がしてならない。
はたしてその日の夜、バルタ家にゲルトルードから、婚約解消の申し入れが届いたのだった。




