番外編 獅子の眠り
レオン・バルタにとって、世界は単純明快だった。
己の為すべきことを為せ。
そう教えられたレオンは、自分が為すべきこと、すなわち戦闘に全力を尽くした。
戦えば、だいたい勝った。
敵が十人いても、百人いても、頑張れば何とかなった。
たまに大怪我を負い、意識朦朧となることもあったが、そのたびに誰かが助けてくれた。
今回もそうだった。
四方を敵に囲まれ、斬っても斬っても敵がわいて出てくるような状況で、レオンは体中に傷を負い、遂に膝をついた。
「今だ、殺せ!」
「『セファリアの金獅子』を倒して名を挙げろ!」
敵が勢いづき、鬨の声を上げる。
レオンは大きく息を吐いた。
血まみれの手がぬるつき、うまく剣を握れない。
膝をついたまま、レオンは自分に向けられる殺気に反応し、何とか剣を構えた。
剣をふるえる内に、ここを突破しなければならない。
今回負った怪我はどれもひどく、とくに腹に刺さった槍の怪我は致命傷になりうる。自力で陣地に戻るのは無理だろうと思ったが、それでも戦いを止めるという選択肢はレオンにはなかった。
その時、銀色の何かがレオンめがけて走ってきた。
銀色の何かは、レオンに向けて振り下ろされた剣を間一髪で跳ね飛ばし、彼を庇うように前に立った。
見上げると、その銀色は、最近ケナの地に派遣された神官だとわかった。レオンは兵士の顔や特徴をすべて覚えている。名前は覚えていないが。
神官は巨大な両手斧を振り回し、敵を軽々と吹っ飛ばした。
囲まれていた一角が崩れ、そこから味方の軍勢がなだれ込んでくる。視界の隅に、号令をかけるアドリアン・ルカーチの姿があった。
本来、後方支援が任務のアドリアンが最前線に立たねばならぬほど、戦況は逼迫している。
だが今は、とりあえず命拾いした。
レオンは剣を支えに何とか立ち上がり、神官に礼を言った。
「ありがとう、アーサー殿。おかげで助かった!」
「いえ、私はナーシルですが、……レオン様!? レオン・バルタ様!?」
いつも俺は誰かに助けられているな、とありがたく思いながら、レオン・バルタはゆっくりと地面に倒れ伏した。
慌ててこちらに駆け寄ってくるアドリアン・ルカーチの姿が目の端に入ったが、それ以上目を開けていられなかった。血を流しすぎたのだ。
意識を失った人間は、とても重い。
自分を運ぼうと悪戦苦闘するアドリアンのことを思うと、レオンは申し訳ない気持ちになった。
アドリアン・ルカーチは名門ルカーチ伯爵家の跡取りだが、特に秀でたところもない自分に、学生時代から何かと親切にしてくれる、気立てのよい青年だ。
またアドに迷惑をかけてしまうな、と薄れる意識の中でレオンは思った。
「すまない……」
つぶやきながら、レオン・バルタは意識を失った。
痛みとともに覚醒し、レオンは目を開けた。
少し体を動かしただけで全身に激痛が走ったが、レオンは気にかけなかった。
戦場で痛みを覚えぬ日はない。今日は特にひどいが、それだけだ。
ふと横を見ると、アドリアン・ルカーチが泣きはらした目をして寝台の脇に座っていた。新年を祝う飾り若葉のように美しい緑色の瞳が、今は充血して濁っている。
「アド、どうしたんだ。ひどい顔だ」
「……目覚めて最初に言うセリフがそれか!」
アドリアンは怪我に配慮してか、声をひそめて怒鳴った。ひどく心配そうな表情をしている。
「おまえ、死にかけたんだぞ」
「そのようだな」
レオンは何とか利き手を動かし、腹を撫でた。
この分では、内臓も損傷しているだろう。完全に回復するまで、少し時間がかかるかもしれない。
「戦況はどうだ? 俺はたぶん、一週間は戦えぬ」
「バカ、半年だ! 半年は大人しく寝てろ!」
アドリアンは再び小さな声で怒鳴ったが、レオンは首を横に振った。
「いや、一週間だ。一週間、時間を稼げるか?」
敵側の援軍は、季節外れの雪で行軍が遅れている。
だが、到着してしまえば、こちらは終わりだ。その前に、なんとしてでも戦闘を終わらせなければならない。
アドリアンにもそれはわかっているのだろう。
端正な顔を歪め、アドリアンはレオンを見つめ返した。
「一週間なら、なんとかできる。だが、おまえのその怪我では……」
「大丈夫だ」
レオンは苦労しながら上半身を起こした。
アドリアンから水の入った器を渡され、何とかそれを飲み干す。
手も足も動く。痛みは気にならない。
だが、怪我で動きが制限された状態では、勝算は低くなる。
敵はなんとか援軍が来るまで粘ろうとしている。ひどい状況なのは向こうもこちらも同じだ。
この前の戦闘で、敵方の将軍と切り結び、一太刀浴びせることができた。それ以来、将軍の姿を見ない。
おそらく将軍は、伏せったまま采配を振るっているのだろう。敵の動きは鈍いが、総崩れを起こすほどではない。指揮系統が機能している証拠だ。
だが将軍が死ねば、他にめぼしい指揮官もいない敵側は、援軍を待つ余裕もなく逃げ出すだろう。
戦果を挙げたうえで撤退したいなら、将軍を殺すしかない。
未だ自分の与えた傷が癒えず、伏せったままだというなら、今の自分でもとどめを刺すことは可能だろう。
ただ、自分の命と引き換えになるかもしれないが。
「一週間後、向こうの野営地に忍び込んで、将軍を殺す」
「無理だ」
「たぶん出来る。帰ってこられるかどうかはわからんが」
分の悪い賭けだが、レオンはそれ以外、方法が思い浮かばなかった。
これ以上、ケナの地に留まることはできない。だがいったん退くにしても、戦果を挙げねば王が納得しないだろう。
レオンは、出兵式の時に見た王を思い出した。居並ぶ兵士達を前に、王は上機嫌で長々と何か演説していた。
金髪に青い瞳の美貌の王。剣を握ったこともない姫君のような、白く美しい指をしていた。
好きになれない。王を見たレオンは、そう思った。
特に理由はない。見た瞬間、好きになれない顔だと思っただけだ。
そう言うと、間違ってもそんな事は言うな、と騎士団長に怒られた。
だがその後、酒を飲みながら「実はおれも好きではない」と騎士団長がこぼした。「あれは人の上に立つ器ではない」とも。
王がどんな器なのか、レオンにはわからない。
わからないが、戦争が下手なことはわかる。
馬鹿だ馬鹿だとよく言われる自分でさえ、この戦は失敗だとわかるのに、何故か王にはわからぬようなのだ。
援軍は送れぬが、将を殺せ、戦果を挙げよと言う。
でなければ、撤退は認めぬと。
だが、一刻も早く王都に帰還しなければならない。そうでなければ、騎士団長が死ぬだろう。
「団長の具合は?」
「人の心配をしている場合か。……持ちこたえていらっしゃるが、アンスフェルム様はご高齢だ。しかも、この寒さではな」
アドリアンは苦虫を嚙み潰したような表情になった。
王城直属騎士団の長、アンスフェルムはこの戦に反対していたが、王直々に総大将に任じられ、ケナの地に赴いた。
だが、王や宮廷貴族の意向を反映した軍の編成は、めちゃくちゃだった。
一度も実戦を経験していない公爵の子息に、部隊をまるまる一つ任せるなど、正気の沙汰ではない。案の定、功を焦った公爵の子息は団長の命を無視して攻撃をしかけ、逆に敵に殺されかかった。
団長は公爵の子息を庇い、重傷を負った。
公爵の子息は軽い怪我、レオンからすれば怪我というより擦り傷を負っただけで済んだが、彼は痛みに泣きわめいた。あげく、貴重な治療師を連れて戦線を離脱し、勝手に王都へ帰ってしまったのだ。
帰るのは別にいいのだが、治療師は置いていってほしかった、とレオンは思った。ただでさえ治療師は足りない。泥沼化したこの戦で、兵も疲弊しきっている。
時期も悪かった。
王都と違い、ケナはまだ冬の寒さだ。もうじき新年とは思えぬ凍てつくような空気の中、援軍も望めぬまま戦いつづけなければならないのだ。士気も下がっている。
レオンは周囲を見回した。
狭い天幕の中に、粗末な寝台をぎゅうぎゅう詰めにしてあるが、それでも足りずに地面に転がされている負傷者もいる。急ごしらえの野戦病院などこんなものだが、自分のせいで寝台を使えぬ兵士もいるのだろうと思うと、申し訳ない気持ちになった。何としても一週間でケリをつけなければならない。
「……すまない、レオン」
弱々しい声でアドリアンが謝った。レオンは首をかしげ、アドリアンを見た。
「何を謝る。敵に情報でも流したのか?」
そんなことするか! とアドリアンは怒ったが、すぐにため息をついた。
「私は、お世辞にも優れた騎士とは言えない。体力もなく、剣も大した腕前ではない。……おまえの代わりには、とてもなれない」
「俺だっておまえの代わりは無理だ」
レオンは真面目に言った。
本当にそう思っていた。
アドリアンは、自分の知る限り一番賢く優しい人間だ。何でも知っていて、何でもできる。
だが、そう言ってもアドリアンの表情は晴れなかった。
騎士団長が伏せったまま、レオンも失うことになれば、立場上、アドリアンが総指揮を執ることになる。それがイヤなのかもしれん、とレオンは考えた。
アドリアンは優秀だが、戦場においても常と変わらぬ優しさを捨てられずにいる。この場でレオンに「敵の将を討て」と命令できずにいるのも、そのためだ。
それ以外、アンスフェルムの命を、大勢の兵の命を救う方法はないとわかっていても、それでもレオンに死ねとは言えないのだ。
「敵の指揮官を討つと言っても、おまえは身動きもままならぬ重傷者だ。そのような状態で、敵の野営地に忍び込んだうえ、厳重に警備されている敵将を殺害するなど、いくらおまえでも不可能だ」
「できる。俺はそういったことは得意だ」
レオンは簡単に答えた。
自分には、人より優れたところは特にない。
だが何故か、自分は人殺しが上手い。あまり自慢にはならないが、こういう場合は役に立つ。
いつも人に助けられているのだから、自分にできることは全力を尽くさなければ。
そこまで考えたレオンは、ふと銀色の神官を思い出した。自分を助けてくれたあの神官に、ちゃんと礼を伝えたかどうか、よく覚えていない。
「アド、すまんが俺を助けてくれた神官に、礼を言っておいてくれないか」
「神官?」
銀色の髪の神官だ、と告げると、アドリアンは、ああ、と思い出したように声を上げた。
「あの太った神官か。見事な戦いぶりだったな。わかった、必ず伝えておく」
アドリアンの言葉に、レオンは再度、首をかしげた。
意識を失う直前のことで、よく覚えていないのだが、あの銀色は太ってはいない。とても美しかった。
王と似た顔立ちをしていたが、あの顔は好きだ、とレオンは思った。
「俺は、いつも誰かに助けられているな」
レオンのつぶやきに、アドリアンは驚いたような表情になった。
「なにを言っている。おまえが皆を助けているんだろうが。おまえがいなければ、とっくに軍は崩壊して敗走している。兵達が逃げずに戦い続けるのも、おまえがいるからだ」
自分を力づけようとしているのか、必死に言い募るアドリアンにレオンは笑顔になった。
「ありがとう、アドは優しいな!」
「何を言って……」
アドリアンは言葉を切ると唇を噛みしめ、レオンから目を逸らした。
「もういい、寝ろ。私は治療師を探してくる」
「俺はいい。団長と他の負傷兵にまわせ」
「バカ、おまえが一番重傷なんだ!」
アドリアンはそう言うと、逃げるように天幕を出て行った。
レオンは寝台に横たわり、目を閉じた。
怪我を癒すために、休息をとらねばならない。
アドリアンはああ言ったが、自分を癒すほど余力のある治療師はもういないだろう。
薬さえ与えてもらえぬ兵士もいるのだ。手当を受け、寝台を使えるだけ自分は恵まれている。
痛みが激しく眠れる気はしなかったが、レオンは目を閉じ、じっとしていた。
動かず寝ているだけでも、体力は回復する。
一週間しか時間はない。なんとか最低限、体を動かせるようにしなくてはならない。
しかしこの寒さには参ったな、とレオンは思った。
そろそろ年も明ける頃、春から初夏に移り変わる時期なのに、ケナでは平地でさえ霜が降りる。王都ならば、むせ返るような緑あふれる季節だというのに。
王都はもう、新年を迎える準備を始めているのだろうか、とレオンは思った。
閉じた目裏に新緑の鮮やかな色が浮かんだ。薄紅色の小さなシカラの花が散る頃、王都は一斉に緑に包まれる。新年の色。アドリアンの瞳の色に。
もうあの景色を見られないのかと思うと、少しだけ残念だった。
ふと気配を感じ、レオンは目を開けた。
眠れぬと思ったが、少しうとうとしていたようだ。
天幕の入り口に視線を向けると、この世のものとも思われぬ美しい精霊がそこにいた。
全身が銀色に淡く光り、神々しい美しさに満ちている。
初めて見たが、精霊は伝承通り、かほど麗しい姿をしているのか、とレオンは感心した。
精霊は黙ったまま静かに、レオンの寝台の前にやって来た。
「レオン様、ご気分はいかがですか。水を飲まれますか」
声をかけられてようやく、これは精霊ではなく昼間、自分を助けてくれた神官だとレオンは気づいた。
「すまんが、水をもらえるか」
レオンの求めに応じ、精霊もとい神官は、レオンに水の入った器を渡した。
水を飲み干し、人心地ついたレオンは、あらためて神官に礼を言った。
「ありがとう。貴殿には、昼間も助けてもらったな。こんな状態ゆえ、直接礼を言えず、アドに伝言を頼んだのだが」
「いえ、レオン様に頭を下げていただくほどのことでは。……それより、アドリアン様からレオン様の治療を頼まれました。来るのが遅くなり、申し訳ないのですが、治療させていただいてもよろしいでしょうか」
聞けば、神官は治療魔法も使えるという。
何から何まで世話になってすまぬ、とレオンが言うと、神官は不思議そうにレオンを見た。
「レオン様は戦場の英雄、『セファリアの金獅子』と詠われる尊い御身にございます。私などにそのように気をつかわれる必要はありませぬ」
神官の言葉に、レオンは思わず笑った。
「それこそ思い違いというものだ。俺は英雄などではない。たまたま何度か戦から生きて戻れた、運のよい男というだけだ。俺は、ただ剣をふるい、皆に助けられてここまできた。それだけだ」
神官は、思慮深そうな紫色の瞳でじっとレオンを見つめた。
そしてレオンの手を取ると、金色の淡い治療の光をそこからレオンの体に流し込んだ。
温かい力が体内を巡り、痛みを消し去り、怪我を癒していくのを感じる。
レオンは大きく息を吐き、目を閉じた。治療魔法をかけられた時の、あの体が沈み込むような強い眠気に襲われたのだ。
「すまんが、少し寝る……」
「ええ」
神官がやわらかく応えた。
「……レオン様、あなたはまぎれもなく偉大な英雄、後世に語り継がれる伝説の剣聖となられることでしょう。そのようなお方をお救いできたこと、我が誉れにございます……」
美しい神官が、美しい声で何か言っている。意味はわからぬが、心地よい。
レオンは神官の声に聞きほれながら、睡魔に身をゆだね、意識を手放した。
「よし、今夜、行ってくる!」
「いくら何でも無茶だ!」
翌日、レオンは元気よくアドリアンに告げたが、もちろんアドリアンは反対した。
「昨日、おまえは死にかけたんだぞ! 体から腸がはみ出てたんだぞ!」
「うむ、だがもう治った!」
「ウソつけ!」
アドリアンは目をつり上げて怒鳴った。
「おまえだって昨日、襲撃は一週間後と言っていたではないか! そもそも、あの神官がどんなに優れた治療師であったとて、瀕死の重傷者を一日で元通りにすることなどできぬ!」
たしかにそうだ、とレオンは頷いた。
内臓の損傷まで治ったわけではない。だが痛みは軽減し、体も問題なく動く。
つまり、戦える。
「早ければ早いほどいい。引き延ばして、明日にでも敵の援軍が到着したら、取返しがつかん」
レオンの言う通りだと、アドリアンにもわかっているのだろう。
禿げるのではないかと心配になるくらい髪をかきむしり、さんざん悪態をついてから、アドリアンは不承不承、頷いた。
「……わかった。私も付いて行ければいいのだが……」
「いや、それでは成功の確率が下がる。アドは体力がないし、剣技もいまいちだからな!」
昨日、アドリアン自身が言ったことなのだが、そう言うと何故かアドリアンは怒った。
フーフー怒る様が、毛を逆立てた猫のようだ、とレオンは思った。
そう言えば実家の猫は、いつも自分を見つけると飛びかかってきて暴れたな、と懐かしい気持ちになる。
「そこまで言うなら、何がなんでも、体力があって剣技の優れた護衛を付けてやる! 拒めば、今夜の襲撃は認めないからな!」
「なら無断で行く」
「レオン!」
アドリアンは慌てたように叫んだ。
「わかった、襲撃には行っていい、だが護衛は連れてゆけ! いや連れていってください頼む!」
泣きそうなアドリアンを見て、レオンは可哀想になった。
「うむ、わかったから泣くな」
「誰が泣くか! バカ!」
そういう訳で、襲撃が決まったのであった。
襲撃にはおあつらえ向きの、月のない夜だった。
「少し遠回りになるが、左手の林を抜けて向こうの野営地に向かう」
「わかりました」
神妙な表情で、銀色の神官が頷いた。
アドリアンが選んだ護衛は、昨日レオンを助けたあの神官だった。
卓越した剣技、治療魔法が使えるということで決定したらしい。
「すまぬな、ルーシー殿。危ないと思ったら、遠慮なく逃げてくれ」
「いえ、私は護衛ですので逃げません。それから私の名はナーシルと申します……」
噛みあわぬ会話を交わす二人を見つめ、アドリアンは心配そうにそわそわしている。
「アド、落ち着け。おまえが心配してもしなくても、結果は変わらん」
「おまえな! そういう言い草はないだろ!」
アドリアンは怒りながらも、心配そうに眉尻を下げている。
「いいかレオン、無理だと思ったらすぐに戻ってこい。おまえの命と引き換えにしてまで、敵将の首をあげる必要はない」
それはできない、とレオンは思った。
戦果を挙げずに撤退すれば、あの王はこちらの事情などお構いなしに、盛大に文句を言うだろう。そしてその責任をとるのは、団長とアドリアンなのだ。
レオンは、この戦は失敗であり、今すぐ撤退すべきだと思っている。
だが、そうはできないのだ。自分にはわからぬ事情で、戦果を挙げずに即時撤退すれば、騎士団長もアドリアンも、まずい立場に追い込まれる。
レオンには政治的なことは何もわからない。
高位貴族からは、先代まで平民だった卑しい男、剣をふるうほかは何の能もない阿呆と蔑まれている。それはその通りだから別にいいのだが、団長やアドリアンの力になれないことをレオンは悲しいと思った。
自分には、戦うことしかできない。
剣をふるい、敵を倒すことしかできないから、命を懸けて戦う。
今回の襲撃も同じことだ。
襲撃で命を失っても、それはそれで、特に問題はない。
全力を尽くして戦い、敗れれば死ぬ。それはある意味、レオンの望み通りの死に方だったからだ。
「では行ってくる。成功したら、狼煙をあげる。それを見たら、すぐに全軍を撤退させろ。山道で挟み撃ちにされるのがわかっているから、向こうも深追いはせん。狼煙が上がらなければ……」
「その時は私が出る」
アドリアンの言葉に、レオンは顔をしかめた。
「おまえが来ても、どうしようもない。無駄死にするだけだ」
「うるさい、おまえを見殺しにしたとわかれば、どのみち私はアンスフェルム様に殺される! 私を殺したくなくば、おまえが生きて戻るしかないのだ!」
無茶を言う、とレオンは思ったが、こうなったアドリアンは、誰の言うこともきかない。
「わかった。最善を尽くす」
レオンの言葉に、絶対だぞ、死んだら殺すからな、とアドリアンは何度も念押しした。
死んだら殺せないのでは、と思ったが、レオンは大人しく頷いた。
アドリアンはとても賢い。ひょっとしたら、死人を再び殺せる魔法でも知っているのかもしれない。
神官は、その見事な銀髪を黒いフードで隠し、巨大な両手斧を手にとって言った。
「参りましょう、レオン様」
「よし、行こう!」
散歩にでも行くように晴れ晴れと言うレオンを、アドリアンは怒ったような、泣きそうな表情で見送った。
厚い雲で夜空はおおわれ、月も星も見えない。闇の中、レオンと神官は静かに林を駆けていた。
風が湿っている。この分では、帰りは雨になるかもしれない。
野営地の明りを林の端で確認したレオンは、神官に囁いた。
「将軍は野営地の右、川沿いの天幕にいる」
「……なぜご存じなのですか?」
「分かるからだ」
レオンは短く答えた。
神官は納得がいかない様子だったが、それ以上は聞かず、黙ってレオンの後をついていった。
レオンは気配を消し、静かに敵の野営地に侵入した。
考えるのをやめて、ただ意識の奥にぼんやりと光る将軍の存在を探す。
川沿いに張られた天幕の中に、ひときわ大きな天幕があった。入口に、二人の兵士が座り込んで番をしている。
「……あそこですか?」
神官の問いに、レオンは首を横に振った。
あの天幕ではない。
大きな天幕のもう一つ奥、小さなみすぼらしいテントに、将軍がいる。あの小さなテントの中に、巨大な光が輝いている。間違いない。
神官に見張りを頼むと、レオンは気配を断ち、小さな天幕の内にするりと入り込んだ。
粗末な寝台に素早く近づく。
寝台の脇には巨大な剣が立て掛けられ、水をたたえた盥と布がその横の小さな椅子に置かれていた。
寝台の上に身を縮めるように横たわっていた大きな体が、ゆっくりと寝返りを打った。
癖のある長い髪が肩を滑り落ちる。明りがないために黒ずんで見えるが、レオンにはわかった。
夕日で染め上げたような、見事な赤い髪。自分が切りつけた、あの将軍の髪だ。
寝返りを打った際、空気の揺れに気づいたのか、横たわっていた将軍は、カッと目を見開いた。
信じられぬと言いたげな表情を浮かべ、将軍は反射的に寝台の横に立て掛けてあった剣に手を伸ばしたが、レオンのほうが一瞬早かった。
レオンは寝台に飛び乗り、枕を引き抜くと将軍の顔に押し当てた。
声が漏れぬようにしながら、短剣を将軍の首にあてがう。
刃を沈み込ませるように、一気に力をかけた。
「……か……、っは………」
痙攣する体を組み敷き、レオンは剣を取ろうともがく将軍の手を寝台に押さえつけた。
将軍の体から、徐々に力が抜けてゆく。
痙攣がおさまり、動かなくなった将軍から手を放すと、レオンは寝台から降りた。少し考えた後、レオンは将軍の手からケナの紋章が刻まれた指輪を抜き取った。
「終わった。戻るぞ」
天幕の入り口で見張りをしていた神官に声をかけると、
「……首を持ち帰らずとも良いのですか?」
神官は声をひそめて言ったが、レオンは首を横に振った。
「指輪があるからいい」
ケナの地では、死者の体が欠けていると、埋葬し祈りを捧げても、死者は欠けた体を探しまわり、常世に行けぬと信じられている。
レオン自身は何の信仰ももっていないが、相手が信じているのなら、そういうものなのだろうと思う。
今回の任務は、将軍を殺し、その証を持ち帰ることだ。証は首である必要はない。
来た時と同じ道をたどり、野営地の端まで来たレオンは、小さく息を吐いた。
思ったより首尾よく事が運んだ。
これならば夜闇にまぎれ、誰にも見咎められずに陣地へ戻れるかもしれない。
その時だった。
一瞬、厚い雲の切れ間から月が顔をのぞかせ、月光を浴びた何かが、ぴかりと光ったのだ。
神官も気づいたようで、体を強張らせて前方を見ている。
レオンと神官は、背をかがめ、素早く林まで走った。
木に隠れ、もう一度前方を確かめる。
「あれは……」
神官が呻くように言った。
光ったのは、兵士達が構える槍の穂先だった。
山道を迂回し、こちらの退路を断つように、敵側の援軍が密かに近づいていたのだ。
考える間もなく、レオンは言った。
「ナンシー殿。風の魔法は使えるか?」
「使えます。それほど威力のある攻撃はできませんが……」
「攻撃しなくともよい」
レオンはほっと安堵した。
風の魔法があれば、アドリアン達を無事、逃がすことができるかもしれない。
今この時、アドリアン達は撤退の準備を済ませ、狼煙が上がるのを今か今かと待っているはずだ。
当初の予定では、山道を挟みこむように軍を幾手にも分け、撤退を悟られぬよう山を下るはずだったが、その方法をとれば、待ち構えていた敵の援軍に各個撃破されてしまうだろう。
山道を使えぬなら、夜陰に乗じ、一気に平地を駆け抜けるしかない。遠回りにはなってしまうが、幸い、向こうはこちらが既に撤退の準備を済ませていることを知らない。勝機は十分にある。
「ナンシー殿、俺がこの光玉を発火させたら、風の魔法で敵の援軍の頭上まで一気に飛ばしてくれ」
「わかりました」
闇夜にあげる狼煙のため、光玉はその名の通り、花火のように明るく輝く。
敵の援軍の頭上に飛ばせば、その居所をアドリアン達に知らせることができるだろう。
その代わり、光玉の軌跡をたどって自分たちの居所を敵側に知られてしまうが、それは仕方ない、とレオンは思った。
目的は果たした。
後は、己の剣技と運がすべてを決めるだろう。
「ナンシー殿、魔法を使った後は……」
「私はレオン様の護衛ですので、戻るまでご一緒いたします」
平然と言う神官に、レオンは申し訳なく思った。
「すまんな、ナルシー殿!」
「いえ、レオン様と共にあるほうが、生き残る確率が高そうだと思いましたので」
神官はこんな状況だというのに、穏やかに微笑んでいた。
大した胆力だ、とレオンは思った。
熟達した兵士であっても、死を目前にすれば動揺する。
この神官は、よほどの修羅場をくぐり抜けてきたのかもしれんなあ、と呑気に感心しながら、レオンは懐から光玉を取り出した。
光玉についた紐を勢いよく引っ張ると、しゅうしゅうと煙が出始める。レオンはそれを、思い切り上に放り投げた。
間髪入れず、神官が風の魔法を光玉にぶつける。
光玉は魔法をかけられ、まるで流れ星のように夜空に美しい弧を描いた。火花を散らし、長い光の尾を引いて、光玉は林を抜けた先、敵軍の上空へ飛んでいった。
鮮やかな輝きを放つ光玉は、狙った通り敵の援軍の真上で止まった。
月のない暗闇の中、それはまるで小さな星のように見えた。
光玉に照らされた敵軍が、動揺したように隊列を乱すのが遠くからでもわかった。
己の為すべきことをやり遂げ、レオンはほっとした。
撤退の指揮を執っているのがアドリアンなら、これできっとレオンの意図に気づいてくれる。
光玉を見届けた後、レオンと神官は全速力で林の中を駆けていた。
もう気配を殺す必要もない。ただ少しでも早く、林を抜け平地へ出なくてはならない。
自軍と合流できずに敵の援軍に囲まれてしまえば、打つ手はない。
馬のいななきが聞こえたような気がした。どちらだ、とレオンは素早く気配を探った。
すると、少し先から、こちらに向けて駆けてくる足音がした。自軍の兵の、甲冑をつけた重い足音ではない。山岳民族らしい、軽やかな足音だ。
よし、とレオンは覚悟を決めた。
「アドリー殿、この指輪を持って走れ」
神官に、先ほど敵将の指から抜き取った指輪を押しつける。
「俺に託されたと言えば、貴殿を責める者はおらん。それでも何か言われたら、アドを頼れ。俺が頼んだと言えば、アドは貴殿を守ってくれる」
「お断りいたします」
だが神官は、即座に言った。
「私はレオン様の護衛ですので。それに、私の名前はナーシルと申します」
ひゅん、と飛んできた矢を、レオンは剣で払った。言い争っている時間はない。
「来るぞ!」
レオンは言いざま、猛然と走り出した。このまま敵陣を突破し、自軍の元にたどり着かねばならない。
神官が後ろに続く。
レオンは、払いそこねた矢が刺さっても速度を緩めずに走り続けた。何とか少しでも距離を稼ぎ、神官だけでも生きて戻らせなければならない。
林を抜けると、槍を構えた敵兵の集団が待ち構えていた。
レオンはかまわず、一直線に敵兵の中に突っ込んでいった。
ここを抜ければ、撤退する自軍に合流できる。どれだけの兵を投入されたのか、百を超えていなければ何とかなるかもしれん、とレオンは思った。
その時、さっきよりもはっきりと、馬のいななきが聞こえた。
敵兵の向こう、平地の端に、馬に乗ったアドリアンと数十名の騎士の姿が見えた。
「矢を放て!」
アドリアンの声とともに、火矢が射かけられた。
通常ではありえぬ距離を超えて火矢が敵兵の上に降りそそぐ。アドの魔法だ、とレオンは思った。
アドリアンは、体力もなく剣技もいまひとつだが、名門貴族らしい豊富な魔力量を誇る。
どちらかと言えば繊細な魔法を得意とするアドリアンだが、今は力押しで敵兵の頭上に大量の火矢を放っていた。
これはありがたいが、自分にも当たりそうだな、とレオンが思った瞬間、矢が不自然にその軌道を変え、自分と剣を交わしていた敵兵を貫いた。
アドリアンは何らかの補助魔法を使い、レオンと神官に矢が当たらぬよう、きっちり防御しているようだった。
ぽつぽつと雨が降り始めたが、火矢自体にも魔法がかけられているのか、火が消えず、敵兵たちは恐慌をきたしていた。
矢を折り、火を消そうと躍起になる敵兵たちと切り結びながら、レオン達は敵軍の中央を突破することに成功した。
「レオン! ナーシル殿!」
平地の端にたどり着いたレオン達を、アドリアンと騎士達が迎えた。
魔力を大量に消費したせいか、アドリアンは蒼白な顔をしている。
「アド、顔色が悪いぞ。大丈夫か」
レオンの言葉に、アドリアンは微妙な表情になった。
「いや、それおまえに言われても……」
レオンは林を抜ける際、避けそこねた敵の矢が数本、刺さったままだ。
神官も左腕を斬りつけられたのか、服に血がにじんでいる。だが、今ここで手当てはできない。
治療魔法は、かけられた側に強い眠気をもたらす。この場で休む余裕はないのだ。
「もう少し、我慢してくれ。味方と合流できれば、手当してやれるから」
アドリアンがすまなそうな表情で言った。
レオンと神官は騎士達に渡された馬に乗り、アドリアン達と一緒に、敵兵の追撃を振り切ろうと馬を疾駆させた。
敵兵とは逆方向に山道を迂回し、平地を抜ける。
しばらく馬を走らせると、撤退する自軍に合流できた。
アドリアンはほっとしたようにレオンと神官に声をかけた。
「もう少しで王領の村に入る。そこで治療魔法をかけさせるが、その前に応急処置をさせよう。衛生兵を呼べ!」
アドリアンは馬首をめぐらせた。
「私はアンスフェルム様の様子を見てくる。レオン、ナーシル殿も、無茶はするなよ。これ以上の騎乗が無理なら、輿に乗せて運ぶから、そう言え」
アドリアンがレオン達のそばを離れると、騎士達が話しかけてきた。
「レオン様、敵将を討ち果たされたと聞きました!」
「お一人で敵の野営地へ忍び込むとは、なんと豪胆な!」
レオンは首を横に振った。
「いや、俺ひとりではなく、ナンシー殿も一緒だ。それに、将軍は怪我で伏せっていた。でなければ、殺せたかどうかわからん」
レオンは、つい数刻前にこの手で殺した敵の将軍について考えた。
戦場で、ただ一度だけ剣を交えた反乱軍の長。
やや単調な剣筋で隙も多かったが、豪快で気持ちのよい戦いぶりだった。
殺しておいてなんだが、俺は自国の王より、あの敵将のほうが好きだ、とレオンは思った。
だが、それが己の為すべきことなのだ。
戦場で剣をふるい、敵を殺す。
それ以外、自分にできることはないのだから。
頬を濡らす雨に、レオンは未明の空を見上げた。
雨あしが強くなってきた。
あと何度か雨が降れば、山の根雪もとけるだろう。ケナの地に、遅い春が訪れたのだ――。
§
「――そういう経緯で、レオはナーシルと知り合ったのか」
ケナの紛争についてレオンが語り終えると、王太子はほっと息をついた。
王宮の中庭にある四阿で、王太子はくつろいだ様子で足を組み、椅子に座っている。
王太子の前には、レオンとアドリアンがひざまずいていた。
「アドリアン、君も我が弟と深い関わりを持っていたんだね。教えてくれればよかったのに」
「……恐れながら王太子殿下、私は戦場では何の役にも立ちませぬ。ナーシル殿下の武勇については、もっとよく知る者がいくらでも」
「おお、とんでもない」
アドリアンの言葉に、王太子がにっこりと笑った。
「我が弟の妻、エリカ夫人は、君の妹ではないか。君ほど弟に近しい者はいないよ。そうだろう、レオ?」
「御意!」
元気よく返事をするレオンを、アドリアンは睨みつけた。
レオンに、王太子殿下に何か言われたらとりあえず「御意」と答えとけ、と教えたのは自分なのだが、少しくらい空気を読んでくれても……とアドリアンは恨めしく思った。
王太子殿下が、いきなり現れた腹違いの弟、ナーシルに興味津々なのは理解できる。
だが、それに自分を巻き込まないでほしい、とアドリアンは思った。ただでさえレオンとエリカが巻き起こす騒動の後始末に追われているのに、これ以上厄介ごとを背負い込みたくない。
アドリアンの切なる願いを知ってか知らずか、王太子はにこやかにレオンに声をかけた。
「レオ、君は勇猛果敢でその輝かしい武勲は他の追随を許さない。わたしはおまえを、高く評価している」
「ははっ!」
「……だが、一部の血統至上主義者どもが、おまえをひどく煙たがっていてね。今日、ここにおまえを呼び出したのもそのためなのだが」
「恐れながら王太子殿下!」
アドリアンがずい、と前に出た。
「殿下にどのような讒言がなされたかは存じませんが、これだけははっきり申し上げます! レオン・バルタほど二心なく、忠義と武勇を兼ね備えた者は、この国のどこを探してもおりませぬ!」
「うん、わかっている。心配しないでいい、アドリアン」
王太子はひらひらと手を振った。
「己の権力欲のためだけにわたしにたかるハエのような輩と、わたしに忠義を尽くしてくれる可愛い犬を、見誤ったりはしないよ。安心して」
アドリアンはほっと息をついた。
ハエとはまた、優しげな見た目によらず、王太子殿下はなかなか苛烈な気性のようだ、とアドリアンは思った。
そしてレオンは犬扱い……。まあ、わからなくもないが。
王太子はレオンに向き直った。
「わたしは、血筋や家柄でその者の評価を下したりはせぬ。……公正に考えて、わたしの護衛騎士を務めるのは、おまえを置いて他にいないと思っている」
王太子の言葉に、レオンではなくアドリアンがはっと息を飲んだ。
「で、殿下、それは……」
「が、そうなれば例の血統至上主義者どもが、うるさく騒ぎ立てることは目に見えている。レオ、おまえがわたしに忠義を尽くしてくれていることは、誰よりもこのわたしがよく承知している。だがおまえが公爵の子息を飛び越え、わたしの護衛騎士に任命されたとなれば、今までの比でなく、おまえを陥れようと画策する輩があらわれるだろう。まあ、その時は」
王太子は言葉を切り、ちらりとアドリアンを見た。
「――その時は、おまえの友人に色々と頼むこともあろうが」
やっぱりそうか、とアドリアンは肩を落とした。
レオンの出世は嬉しい。
嬉しいがしかし、今から厄介ごとの匂いしかしないのは何故だ。
「自分は陥れられても気にしません! が、殿下とアドに迷惑をかけぬためには、どうすればよろしいでしょうか!」
元気よく言うレオンに、いや気にしろよ、とアドリアンは思った。
実際、レオンは濡れ衣を着せられても平然としていそうでコワい。
「おまえはそのままでいい。……まあできれば、任命式の時、三秒以上抱負を述べてくれればありがたいが」
「抱負……」
レオンは助けを求めるようにアドリアンを見た。
「いや、レオン、抱負って意味わかるよな? あれだ、どんな騎士になりたいとか、そのためにどんな努力をするとか、そういうやつだ。……おまえだって、騎士になったのには理由があるだろ?」
こそっとレオンに伝えるも、
「騎士になったのは、それ以外、できることがなかったからだ!」
胸を張って答えるレオンに、王太子は笑い出し、アドリアンはレオンの首を絞めた。
首を絞められながらも、レオンは何事かを思い出したように言った。
「そう言えば、騎士になる前、神殿で助言をいただいた。それで、騎士になるのを決めたのだった」
「……ほう?」
アドリアンはレオンから手を放した。
「それは初耳だな。どんな助言だったのだ」
「己の為すべきことを為せ、と。……それで俺は、己の大切な人を守るため、剣をとることを誓ったのだ」
ふーん、とアドリアンは頷いた。
「なかなか良い助言をいただいたのだな。助言してくれたのは、どんな神官だったのだ?」
「いや、神官ではない! ……と思う!」
え? とアドリアンと王太子は首をかしげた。
「いや、レオン、神官でないなら、誰がおまえに助言を……?」
「それが、俺にもわからんのだ!」
「わからん訳があるか!」
再びレオンの首を絞めそうになったアドリアンを制し、王太子がレオンに説明を求めた。
そしてレオンの語ったところによると、以下のような経緯を経て、レオンが謎の助言をもらったことが判明した。
その日、レオンは学院から実家へ帰る途中だった。
もう卒業も間近になってから、卒業試験でレオンが不正を働いた、との通報があったため、学院で遅くまで取り調べを受けていたのだ。
もちろん、レオンは不正などしていない。
卒業試験も、決してよい成績ではなく、不合格スレスレの点数だった。それだってアドリアンに毎日つきっきりで勉強をみてもらい、ようやく取れた点数なのだ。
それを不正と言われ、レオンは困惑していた。
正直言って学院側も、レオンが不正を働いたとは思っていなかった。
性格的に、これほど不正をしそうにない生徒も珍しい。というか、そもそも不正を思いつくような頭などレオンにはない、というのが教授陣の一致した見解だった。
だが、いかんせん不正を通報してきたのは、学院側に巨額の寄付をしている高位貴族だった。いかにあり得ぬ通報であっても、金持ちの高位貴族の言い分に対して「そんなわけねーだろ」と簡単に突っぱねることもできず、レオンは毎日、遅くまで学院で取り調べを受けるはめになったのだ。
そのこと自体は、レオンはあまり気にしていなかった。しかし、その取り調べにアドリアンも付き合い、反証のためにあちこち駆けずり回ってくれているのを、申し訳なく思った。
アドリアンだけではない。
卒業までにレオンと関わり、その人となりを知った多くの生徒は、レオンが不正などするわけがない、と力添えを申し出てくれた。
それをありがたいと思うのと同じくらい、レオンは何故か、自分が狭い箱に押し込められているような息苦しさを感じた。
レオンは、身分や家柄が何なのか、どうしても理解できなかった。
それを大切に守っている者達がいるのは知っている。
アドリアンも、身分にふさわしくあろうと日々、努力している。人の上に立つ者であることを自覚し、それに見合った人間になろうと己を鍛える者は、尊敬に値する。
だが、身分や家柄、それ自体は、レオンにとってはどうでもいいものだった。どう考えても、何の価値もないものだったのだ。
自分とは価値観が大きく異なる者達に囲まれ、レオンは、なぜ祖父は貴族の称号など貰ってしまったのだろう、と残念に思った。
両親も貴族との付き合いで苦労している。自分だってつまらない。こんなどうでもいい事に時間をとられるより、筋肉を鍛え、剣の鍛錬を積みたいのだ。何故みんな、血筋や家柄にこだわるのだろう。何の意味もない称号ではないか。
だが、これからも自分は貴族の中で生きていかなくてはならない。
おそらく卒業後は騎士か領主……、領主は無理だから、騎士しか選択肢はない。だが、騎士もやはり、貴族が大半だ。どこまでいっても貴族がついてまわる……。
珍しく鬱屈した思いを抱え、レオンはその夜遅く、神殿を訪れた。
以前、気苦労の絶えないアドリアンが「神殿に行ったら、神官長が親身に相談にのってくれたのだ」と嬉しそうに話していたのを思い出したのだ。
中央神殿は、夜も遅い時間であったからか、誰もいなかった。
祈りの場は常に開放されているが、そこにも人気はない。
レオンはかまわず、祈りの場に置かれた椅子に座り、おぼろげに覚えている記憶を頼りに手を組み、祈ってみた。
――俺は身分も血筋もよくわからん。剣をふるうことしか能のない人間だ。だが、これからも俺は、貴族の中で生きていくしかないのであろうか……。
そう心につぶやいた時だった。
きらきらきら、と天井から光が降ってきた。
光はレオンを包み込むように渦を巻き、輝いた。
これは何だろう、とレオンは自分を包む光を不思議に思った。すると、レオンの頭に声が響いた。
――己の為すべきことを為せ……
男とも女ともつかぬ声だった。
その言葉は、悩んでいたレオンの心にすとんと落ちた。
よし、とレオンは思った。
「俺は、俺の大切な者達を守るために、全力を尽くして戦う。それが、俺の為すべきことだ」
レオンは剣を抜き、己自身に誓った。
すると、光の渦はレオンに吸い寄せられるように、その身の内に入り込み、消えていった。
レオンは席を立った。
なんだか気分がすっきりし、心も決まった。
神殿に来てよかった、とレオンは思った。
「――そういう訳だ。アド、おまえのおかげで心が決まったのだ。改めて礼を言う。ありがとう!」
「いや、それ私のおかげでは……、ていうかそれ……、それって……」
震えるアドリアンの言葉を受けて、王太子が言った。
「それは、天啓だな」
「殿下!」
アドリアンが思わず声を上げた。
「つまりレオは、天啓を受けた勇し「お待ちを殿下! それをおっしゃったらお終いです!」
必死の形相でアドリアンが王太子の言葉を阻んだ。
「いや、アドリアン、だってどう考えても」
「いやいやいや、こうしたことは慎重を期して神官並びに有識者を集め、真剣に議論を重ねた上で結論を出すべきかと! 少なくとも殿下の立太子式が終わるまでは、何とぞ伏せていただきたく……!」
土下座せんばかりのアドリアンに、王太子は口元をゆるめた。
「……わかっている。建国以来の勇者誕生となれば、あの目立ちたがりの父上が、レオを放っておくはずはない。きっと、勇者という新しい玩具に夢中になり、自分のものにしたがるはずだ」
勇者って言っちゃったよこの人、とアドリアンは絶望の眼差しで王太子を見た。
「そう言えば、建国神話を知っているかい、レオ?」
王太子は楽しげにレオンに話しかけた。
「はっ! 教えてもらいましたが、覚えておりませぬ!」
「そうか。まあ、大した話ではないのだが」
王太子はにこにこしながら続けた。
「当時、烏合の衆の頭目にすぎなかった建国王は、四人の傑物に助力を願った。一人目は勇者」
レオンをじっと見つめ、王太子は言った。
「勇者は神からいただいた加護のためか、不思議な力を持っていたという。探索魔法ですら探し出せぬ敵を、勇者だけが見つけることができたとか」
そんなことができたのですか、とレオンは純粋に驚いているが、アドリアンは気づいてしまった。
ケナの地で、レオンは月もない暗闇の中、あやまたず敵将の天幕を見つけ、その命を奪った。あれはひょっとして……。
「そして、二人目は神官。恐るべき怪力と、気弱……、優しい心を併せもつお方だったそうだが」
アドリアンの頭に、何故かナーシルの姿が浮かんだ。
「三人目は、冒険者リリーナ様。貴族令嬢でありながら、伝説の冒険者であられたお方だ」
かすかな笑いを含んだ声に、アドリアンは王太子から視線を逸らした。
いやいやいや、妹はたしかに冒険者となったが……、ナーシル殿は怪力で気弱だが……、だがしかし。
「そして、最後の四人目。賢者エド、……エドアール様。賢者様は、何かと主張の激しい三人を取りまとめ、その尻拭いというか何というか、まあ、お世話をされていたようだね」
王太子の視線が痛い、とアドリアンは思った。
「この四人が建国王を支え、導き、この国を造り上げたのだ。もし、勇者や他の傑物たちが再びこの世に現れたというのなら……」
王太子は言葉を切り、ため息をついた。
「わたしは、その者たちがこの世を楽しみ、己の為に生きられるような国を造りたい。その者たちの意思を無視して、国の為、王の為に命を捨てさせるようなことはしたくない」
王太子の言葉に、アドリアンは目をみはった。
「殿下、それは……」
「勇者であれ賢者であれ、わたしが治める国の民なのだから。わたしが守って当然ではないか」
アドリアンは王太子を見上げた。
アドリアンは混乱する頭で考えた。
すると王太子は、レオンが勇者であることを、政治利用するつもりはない、ということなのだろうか。
たしかにそんなことをせずとも、王太子の地位は盤石ではあるが。
「レオは己の大切な者を守るために剣をふるう、と言ったが。わたしも、わたしの民を守るために、できることをしようと思う。……英雄が活躍する世ではなく、英雄が昼寝できるような世が、わたしの理想なのだ」
「御意にございます、殿下!」
レオンが嬉しそうに王太子の言葉に応えた。
「及ばずながら、自分も力を尽くします!」
コイツわかって言ってんのか、とアドリアンは目を眇めてレオンを見た。
だが、そんな世の中をつくるためなら、苦労するのも悪くない、とアドリアンは思った。
「……私も、微力ながらお手伝いさせていただければと思います」
アドリアンの言葉に、王太子は目を細め、いたずらっぽく笑って言った。
「ありがとう。期待しているよ、賢者アド」
じき新年を迎える、あたたかい春の昼下がりの事であった。




