42.罠
広間を抜け出してすぐ、なんかおかしいな、と気がついた。
ララがわたしを呼び出すとしたら、広間にほど近い控室か、せいぜい広間に面した階段の踊り場あたりだ。
絶対、中庭になんてララは行かない。
そこらへん、ララは危機管理が徹底しているのだ。
と、いうことは。
うーん、まあ、一番可能性が高いのは、アレか。
逆恨み王子の復讐とか?
どうしようかな、とわたしは少し考えた。
ジグモンド王子に、もはや暗殺者を雇うような余裕はないだろう。
ていうか、罪人の塔を抜け出したところを見咎められただけで、さらなる罰を科されるはずだ。
それがわかっていて、そこまでして、わたしに危害を加えたいのだろうか。
それとも、わたしを国外脱出のための人質にしたいのだろうか?
わからない……けど、それに付き合ってやる義理もない。
わたしは、ピタリと足を止めた。
「エリカ様?」
従僕が、不安げにわたしを振り返った。
「……申し訳ありませんけれど、広間に戻りますわ。じき、ララ様にもそこでお会いできますでしょうし」
「そ、そんな」
従僕は焦った様子で胸ポケットから何かを取り出した。
「エ、エリカ様、こちらの品をご覧ください」
従僕の手にあるのは、銀色のビーズで作られたチョーカーだった。
可愛らしいが、それほど高価な品物ではない。
「それは、何です?」
「ユ、ユディト様の飼い猫の首飾りです」
従僕の声が震えている。
ユディト義姉上は、たしかに猫を飼っている。少々太り気味の黒猫なのだが、義姉上は決してそれを認めようとはしない。
いつも「あまりご飯を食べないから、栄養不足ではないかと心配なの」と見当違いの心配をしている。
あれほど聡明な義姉上が、なぜ飼い猫のこととなると、明らかに誤った意見を持たれるのか不思議だが、とにかく義姉上は、あの太った黒猫を非常に可愛がっている。
「……わたしが中庭に行けば、猫は屋敷に戻していただけますか?」
「は、はい、必ず!」
従僕は何度も頷いた。
うーん。やっぱりこれは、ジグモンド王子の差し金だな。
貴族を人質にとったりすれば、幽閉から処刑へまっしぐらだが、愛猫をさらった程度では、そこまで罪は重くならない。それがどれだけ人の心を傷つけようが、たかが猫、で済まされてしまうのだ。
なるべく罪は軽く、相手に対する精神的苦痛は重く、という実に陰湿なやり口が、ジグモンド王子の性格をよく表している。
まあ、単純にユディト義姉上より、その飼い猫のほうが攫いやすかっただけかもしれないが。
わたしは少し考えた。
ジグモンド王子の思う壺になるのは癪だが、ユディト義姉上を泣かせたくはない。
しかたない。付き合ってやるか。
わたしはため息をこらえ、廊下から中庭に下りた。
月が明るく輝き、それほど中庭は暗くない。
少しでも視界のよい場所へ出ようと、わたしは噴水の前に立った。
「ジグモンド王子」
わたしは王子に呼びかけた。
「王子、いらっしゃるんでしょう?」
「……エリカ」
ジグモンド王子が、噴水の裏手にある、生垣の影から姿を現した。
いつも神経質なくらい身なりに気を使っている王子だが、さすがに罪人の塔から抜け出した今は、常のようなきらきらしい装いはしていない。
王子は、簡素な白いブラウスに黒のズボン、魔術師が着るような裾の長い黒いマントを身に着け、腰には細剣を佩いていた。細剣には夜目にもわかる大きな青い宝石が埋め込まれ、それだけが唯一の宝飾品のように美しく輝いていた。
「王子、猫を返してください」
「……猫?」
ジグモンド王子は首を傾げ、それから、ああ、とおかしそうに笑った。
「……猫なんて、さらっていないよ。君を誘き出すため、適当な理由を作らせただけさ」
「では、猫のアクセサリーはどうやって手に入れたのです?」
「バルトスに言って、盗ませた。……できれば飼い主本人を攫いたかったが、さすがにルカーチ家の警備は厳重でね。猫の首飾り一つ、盗むのが精一杯だった」
わたしは目を細め、王子を見た。
ジグモンド王子は、機嫌よくにこやかな様子で、わたしの質問に答えている。
今までこんなに上機嫌な王子など、見たことがないくらいだ。
「……わたしを中庭に呼び出して、それで、何をしようと?」
「君はせっかちだな。卒業祝いくらい、言わせてくれたっていいだろう?」
ジグモンド王子は、うっとりとわたしを見つめ、言った。
「卒業おめでとう、エリカ。……ずいぶん回り道をしたけれど、これから僕たちは、永遠に一緒だ」




