25.月の精霊
「ナーシル様、泣かないで」
はらはらと涙を流すナーシルに、わたしはどうしたらいいのか途方に暮れた。
こういう時は、ハンカチを渡すべきだろうか。
しかし、わたしの手は比喩でなく血まみれなので、この状態でハンカチを手にしたら、血みどろのハンカチをナーシルに渡すことになってしまう。
それに、
「ナーシル様、この……襲撃犯たちの死体、どうしましょうか」
目の前には、首を斬られた魔術師やナーシルに一撃で殺された兵士たちの死体が、累々と転がっている。
獲物なら皮を剥ぎ、血抜きなどの処理を行うが、今回のように、襲ってきた人間を返り討ちにした場合は、どうすればいいんだろう。
「お、王都の警備隊と……、私はギルドに、届け出を、出します。襲撃犯……の、持っていた、け、剣や指輪、などを持っていき、じ……事情を、説明、する必要があります」
ナーシルが泣きながら、一生懸命教えてくれた。
そっかー。
「じゃ、わたし、ちょっと死体を確認してきますね」
「ま、待ってください、エリカ様」
ナーシルは慌てたようにわたしの袖をつかんだ。
「あの、あのちょっとだけ、待って……」
ていうか、ナーシルまだ泣いている。いい加減泣きやんでほしい。
ナーシルはわたしから体を離すと、焦ったように首の回りを両手で探った。
なにやってるんだろう、と思ったら、ナーシルの三重顎の下から、細い金の鎖が現れた。
ナーシル、こんな華奢な首飾りをつけてたのか。顎の肉に埋もれてわからなかった。
ナーシルは震える指で金鎖を探り、その止め環を外した。
しゃらん、と軽い音をたてて鎖が外れ、ナーシルの手に落ちる。
その瞬間、目の前のナーシルの姿が歪み、そこだけ蜃気楼のように揺らめいて見えた。
「ナーシル様!?」
わたしは驚いて声を上げた。
巨大な白豚のようなナーシルの姿が消え、代わりに、いつかシシの森で見た、恐ろしいほど美しい青年がそこに立っていた。
その青年は、涙に濡れた紫色の瞳をわたしに向けた。
「私は……、エリカ様を、たばかっておりました」
震える声で彼は言った。
「何もかも、嘘だったのです。これが、私の、本当の姿です」
暁の空のように美しい瞳から、涙がとめどなくあふれている。
美しい人ってのは、泣いてても美しいものなんだな。
いや、しかし。
「あの……、ナーシル様?」
わたしは、人間とは思えぬほど美しい青年に、おそるおそる声をかけた。
銀髪、紫色の瞳はたしかにナーシルのものだが、本当にこれ、ナーシルなのか。
鼻筋は通り、瞼は彫刻家が細心の注意を払って彫り上げたような、くっきりと美しい弧を描いている。頬は少し削げ、以前のふくふくした白豚の面影はどこにもない。顎もすっきりと形よく、唇は紅をひいたように赤い。
女性とも男性ともつかぬ、月の精霊のように非人間的な美貌だ。
「エリカ様……」
ナーシル(なのか?)は、はらはらと涙を流しながら言った。
「エリカ様、怒っていらっしゃいますか」
辛そうに顔を歪めるナーシル(仮)に、わたしは首を傾げた。
「怒るって、なんでですか」
怒るというより、驚いた。
ていうか本当にこの美青年、ナーシルでいいの?
「わ、私は、エリカ様に嘘をついて……、エ、エリカ様は、私、と、一緒に生きたい、と、おっしゃって……、くださった、のに」
涙、涙でつっかえながらしゃべる姿に、あーこれ、間違いなくナーシルだ、とわたしは確信した。
姿形は変わっても、うじうじ……いや、繊細な性格は変わらない。
そう、ナーシルは、心優しく繊細で、内気な可愛い人なんだよ!
わたしの大好きな婚約者! 泣かないで!
わたしは手が血まみれなので、肘でナーシルの背中をつんつん突いた。
「ナーシル様、泣かないでください。怒ってなんていませんから」
「エリカ様」
「よかったらハンカチ使ってください。右側のポケットに入ってます。いまわたし、手が汚れてるんで」
そう言うとナーシルは、ハッとしたようにわたしの手を見て、慌てて水魔法でわたしの手を洗ってくれた。
優しい。好き。
わたしはきれいになった手でハンカチを取り出し、ナーシルの涙をぬぐった。
拭いても拭いても、ナーシルの涙は止まらない。
「ナーシル様、ほんとわたし、怒ってないんで、泣かないでください」
このままでは脱水症状になるんじゃないかと心配だ。
「なぜ……、怒らないのですか?」
ナーシルは泣きながら、不思議そうに言った。
「私は、エリカ様に嘘をついていたのに……」
何故と言われても。
「ナーシル様が、何か隠してたことはわかってましたから。それに、そのお姿も、一瞬ですけど、何度か目にしましたし」
そう、一緒に狩りをしている間も、ふっとナーシルの姿がぶれて、今の姿が見えたことがあった。
何か魔術で姿変えをしているか、目くらましの術をかけてるか、どっちかなんだろうなあ、とは思っていたのだ。
そう伝えると、ナーシルは驚いたような表情になった。
「え。気づいていらっしゃったのですか」
「まあ、何となく。それに、ナーシル様はとても美しい手をされているでしょう? 通常、太った方は、指まで太っているものです。それもあって、何らかの術をかけていらっしゃるのではないか、とは思っていました」
「そうだったのですか……」
「ええ、しかし改めて拝見して、正直、驚きました。ナーシル様は、まるで月の精霊のようにお美しいのですね」
わたしの言葉に、ナーシルはぽっと頬を染めた。
以前は、こういうところが可愛いと思っていたが、今は可愛いだけでなく、色っぽい。
これ、男女問わずすごいモテるだろうなあ。
それに、
「わたしだけじゃなくて、たぶん、レオン様も気づいてると思いますよ」
「えっ!?」
ナーシルは仰天し、わたしを見た。
驚きのあまり、涙が止まっている。
もー、レオンで涙を止められるとか、なんか婚約者として負けた気がするんですけど!




