10.夜空に輝く星のように(ナーシル視点)
「ナンシー殿、迎えに参った!」
朝早く神殿を訪れたレオン様が、意気揚々と私に告げた。
週末に、レオン様と何か約束をしていただろうか。まったく覚えがないのだが、とりあえず私はレオン様に謝罪した。
「申し訳ありません、レオン様。何かお約束をしておりましたでしょうか。うっかり忘れてしまったようです。森に行く前にいらしていただけて、助かりました」
「いや、約束はしていない! ……森? どこの森へ行かれるのか?」
「え?」
私は噛みあわぬ会話に苦労しながらも、休日は冒険者として付近の森を探索しているのだ、とレオン様に告げた。すると、
「よし、では今日はシシの森に行こう!」
レオン様が元気よく言った。
「え?」
「装備はこんなもので大丈夫だろうか? 武器は長剣だけだが」
「あ、ええ。シシの森でしたら、大した魔獣は出ませんので、問題ないかと」
そういう訳で、よくわからぬ内に、レオン様と一緒にシシの森に行くことになってしまった。
レオン様に悪気はまったくなく、素直に「一緒に森に行くのがすごく楽しみ!」と態度に出されてしまうと、お断りするのがとても難しい。
また、こんなことを言うのはレオン様に対して大変不敬であるのだが、嬉しそうに私を見るレオン様の様子が、まるで遊んでもらうのを待っている人懐こい犬のようで、どうにも邪慳にできないのだ。
それにレオン様は、私にエリカ様を紹介して下さった。この一点だけでも、たとえ百回約束なしにシシの森へ連れ出されたとしても、何の文句もない。
私はエリカ様を思い出し、少し赤くなってしまった。
……エリカ様は、たいそう変わった姫君だ。
美しく、由緒正しいルカーチ家のご令嬢でありながら、まったく驕ることなく、私のような卑しく醜い人間を嫌悪することもない。
それどころか、私を「優しく、思いやりがある」と褒めて下さった。
頭を下げてまで、私との婚約を望んで下さった。
あの時のことを思いだすと、心がふわふわと浮き立つような、それでいて悲しくなるような、不思議な心持ちになる。
エリカ様が学園を卒業されれば、婚約も破棄され、言葉を交わす機会もなくなるだろう。
わかっているが、もう少しだけ、エリカ様の婚約者でいたい。
婚約が破棄されるまで、あと二、三回はお会いすることもできるだろう。そうすれば、あの宝石のような瞳に見つめられ、あの弾むように楽しげな声で、私の名を呼んでいただく機会もあるだろう。
その思い出があれば、残りの一生を幸せに生きていけるような気がする。
そう考えていたら、何故かシシの森にエリカ様が現れ、私は仰天した。
しかも、私に会いにいらしたのだと言う。もしかしてもう婚約を破棄されるのかと恐怖に凍りついたが、そうではなかった。
エリカ様は、私の身の安全を心配し、わざわざ会いに来て下さったのだ。
第二王子との関わりについて説明された時は、心臓が止まるかと思ったが、エリカ様が第二王子を嫌っていらっしゃるのがわかり、私は安堵した。
なるほど、そういう事情なら、私が婚約者でもかまわないような気もする。
いやしかし、どう考えても、私より条件のいい貴族の子弟くらい、いくらでもいるだろう。
いくら婚約破棄が前提とはいえ、エリカ様は、本当に私が婚約者でかまわないのだろうか。
私が女なら、私のような男など、まっぴらごめんだと思うのだが。
考え込む私に、エリカ様は屈託なく、私の子ども時代について質問された。
私の子どもの頃の話か……。
あまり良い思い出はないのだが、これは話しても大丈夫だろうか?
初めて一人で市場へ行った帰り道、知らない大人達にさらわれかけたことや、近所の親切なお兄さんが実は奴隷商人で、あやうく売り飛ばされそうになったことなど、そうした思い出を話したら、驚かれてしまうだろうか。
いや、エリカ様の子ども時代の思い出も、貴族令嬢としてはかなり破天荒な部類だと思われるし、私程度は問題ないような気もするが。
……難しい。平均的な子どもとはどんなものか、見当もつかないので、判断できない。
私は迷いながらも、口を開いた。
エリカ様の瞳がきらきらと輝き、私を見つめている。
その瞳はまるで、夜空に輝く星のように美しかった。




