Episode.1:少年・ライオネル
ボクは生まれてこれまで、外の世界に幸せというものがあるのか疑っていた。
「おい、ライオネル。オレ達は釣りに行くからちゃんと床磨いとけよ!!」
モップがこっちに飛んできた。身体が思わず跳ねちゃって、モップを弾いてしまう。床にカランカランと音が鳴って、アイツらがすっごい睨んでるのが見えた。
だってしょうがないじゃないか、ケットシーはびっくりさせられるのが苦手だ。
「なんだよ、モップもキャッチできないのかよ」
「ホント、ライオネルは出来損ないだよなー!!」
またボクに向かっていっぱい悪い言葉を言ってくる。ボクはそんな悪いことをしてないのにどうしてそんなにいじめるのだろうか。
なんかもやもやする。ボクはアイツらを思いっきり睨んだ。睨んだけど、ケンカするつもりはない。怒ってるっていう意思表示をしないと、ケットシーの中ではいじめられるんだ。
「なんだ、お前、ケンカすんのか?!」
「おー、やってやるぞー!!」
ああ、睨むことなんてしなければよかった。クラスのリーダーとその取り巻きがこっちにやってきてしまった。やっぱり身体が大きいケットシーは怖いんだ。
頭を押さえつけられて、背中がゾクッと寒くなった。今度は噛みつかれるのかな。それとも引っかかれるのかな。
「ホントお前は、やせっぽちのガリ勉だもんな」
「俺達ケットシーは頭だけが良くちゃいけないんだぜ」
「お前は頭だけはいいけど、それ以外ダメダメだ。臆病な《《インファニア》》人と一緒だ!!」
ぎゅうっと丸くなって、コイツらが叩いたりしてくるのをやり過ごす。いつもみたいにじっとしてれば終わるんだ。
手で叩いたり、容赦のない言葉を言ってきたり、噛み付いてきたり。みんなどうしてそんなひどいことができるんだろう。
「おい、決めたよ。お前、アルヒャーネの森に流れてる沢のほとりに棲んでるっていう、白い毛皮のオオカミ捕まえてこいよ」
何言ってるんだ、オオカミなんて捕まえられる訳ないだろう。武器が無ければすぐに襲われて終わりだ。
家に帰れば猟銃がある。父さんの形見だけど、オオカミを撃つっていうんだったら母さんも許してくれると思う。
「今から行くんだからな」
「家に帰るのはズルだぞ、もうこの学校から追い出すからな」
しまった、コイツらそういうずる賢さがあるんだ。クラスのリーダー、ダンテの父さんはボクも住んでいるユンケル村の村長さんの息子だ。みんな逆らうことはできない。
逆らえば、村民投票で住んでいる所を追い出されてしまうかもしれないからだ。みんなはこれを村八分って呼んでる。
これじゃあもうダメかもしれない。見つからなかったって言って、戻ってくればいいか。
「わかったわかった、今から行くよーっ!」
「よし、早く行ってこい!」
教室を飛び出す。叩かれなくなったけど、でももっと怖いことになった。死なないといいなぁ。まだいっぱい読みたい本はあるからね。
さっき終業の鐘が鳴ったから、先生に怒られることはない。だから早く行って、一時間くらい探検して、適当に帰ろう。
オオカミは怖いけど、森は嫌いじゃない。静かな中に鳥の声とか、水の流れる音とか、オオカミの遠吠えとか、オオカミは怖いんだった。じゃなくてクマの足音っ、いやもっと怖かった。
森ってやっぱり怖いんじゃないか。なんで行っちゃったんだろう。
適当に長い木の棒を拾って杖の代わりにする。杖は足場の悪い所を歩くときに便利だってお父さんが昔言ってた。
森の中を歩きながら、今日の授業の内容を思い出す。
この世界にはヒューマン、エルフ、ライカンスロープ、そしてボク達ケットシーがいる。
エルフは、王国北部ゲルジニア地方よりももっと北でインファニアという国を作ったらしい。
ヒューマンは西部ガリル地方と地続きの、レアリード大公国という国にいる。この国はボク達が住んでいるリリキャット王国の同盟国と教えてもらっている。
ライカンスロープは敵だ。東の国はいつか倒さなければいけないと、先生は怒っていた。
でも、リリキャット王国陸軍が、いつも街中を背筋を伸ばして歩いている兵隊達が、負けるわけがないと思っている。
「うにゃぁ、気持ちいいのにゃ……」
ふと、声が聞こえたので身を隠す。ボーッとしてる間に沢の方に辿り着いたようだ。岩陰に隠れて沢の方の様子に聞き耳を立てた。
「にゃっ、お魚なのにゃ」
女の子が、沢で遊んでいる。この辺で聞いたことのない声だ。一体誰だろう。
ゆっくりと顔を出して、そっと声がする方を見る。そこには四つんばいになって魚を追いかけ回すケットシーの少女がいた。
尻尾と髪の毛の色は金色。でも少し毛が多い気がする。今のケットシーは継承種と言われてて、もっと肌がツルツルしてるはずだ。
というか、どうして身体の毛がボクに見えてるんだろうか。
そこでやっと、彼女が服を着てないことに気がついた。
多分、水浴び中だったのかもしれない。どうしよう。そっと逃げて森を抜けるしかない。姿を見せずに逃げる道は何通りかあるけど……
ポサッ、と音がして思わず目が開いた。さっきまで杖代わりにしていた木の棒。その木の棒が倒れてしまった。落ち葉の上だったから大きな音はしないけれど。でも音がした以上はまずい。
だって、ケットシーは耳がいいんだ。現に、女の子がこっちの匂いを嗅いでいる息遣いがボクにも聞こえている。
「誰かいるのは分かってるにゃっ、出てくるのにゃ!!」
こっちに近づいてきている。ここから逃げる方法を必死に考えなきゃいけない。どうする、いや考えてる暇はない。脚に力を入れて思いっきり走り出すっ!
「逃さないにゃー!!!」
でも間に合わなかった。
頭を思いっきり地面に叩きつけられる。手で頭を押さえつけられているようだ。逃げようと思っても逃げられない。
目を上げようとするが空いた手で叩かれてしまった。
「ヘンタイっ、ここに埋めてやるにゃ!」
「待って、誤解だよ、ボクは別のものを探してたんだ」
「許さないのにゃ、絶対に許さないのにゃ!!!」
何も聞いてくれない、どうやったら弁解できるだろうか。グリグリ地面に押し付けられて、土が口に入りそうだ。そんなボクを哀れな目で猫が見ている。
「エリカお嬢様、こちらにおられたのですね。主様にご心配をおかけしてはいけないのですよ」
「うるさいにゃ、この悪い奴を凝らしめるのにゃ!」
どうやら、どこかの名家のお嬢様だったようだ。これはボクも、村には二度と帰れないのかもしれない。
母さんにも迷惑をかけるくらいなら、もっとアイツらに叩かれてた方が良かったのかな。
「エリカお嬢様、その役目はこのポラリスにお任せくださいまし」
「にゃにゃ、でもポラリスは疲れてるからダメなのにゃ……」
「お嬢様は服を着てください、その間に私が片付けましょう」
手が離れる。不服そうな鳴き声を出しながら、元の沢のほとりに戻っていったようだ。
顔を上げると、声とは真反対のイメージの侍従さんがいた。というより、この人は軍人だ。
「えっと、沢のほとりにいるオオカミを捕まえに
「貧弱な子どもがオオカミを? 寝言は寝てから申し上げてください」
背の高い美人なケットシーに睨まれて、何も言えなくなる。そんなハッキリ言わなくてもいいのに、ひどい……
「エリカお嬢様は、グランドハート陸軍大佐のご令嬢。平民が近づいてはいけない立場のお方です。それに、例えお近づきになろうとしたとしても、貴方のような痩せっぽちで能のないケットシーが、エリカ様の目に留まるなどあり得ませんわ。愚考も甚だしい。自分がどれだけ無能か理解し、反芻し、納得した上でこの場を立ち去りなさい」
ひどい。
言い返すこともできない、自分の無能さを否定することもできない。
背中を向けて、さっき来た道を戻る。
周りのケットシー達に比べて、体も小さいし、喧嘩も強くない。目と耳はいいけど、みんなもいいから別に長所じゃない。
視界が滲む。こんなことで泣いてしまうなんて情けないけど。だってみんなは泣かないから。だって泣くほど弱くないし無能じゃない。
────じゃあどうやったら無能って言われなくなるんだろうか。
よく分からない、無能でいることが悪いんだろうか。
もう、日の沈む時間だ。早く学校に戻って荷物を取らないと母さんが心配してしまう。
学校の前に着いたけど、こんな近かったっけ。もう覚えてないや。
「おーい、ライオネル。ビックリしたぞー?」
親友のオーガスタだ。小さい頃から仲がいい。オーガスタがやったイタズラとか秘密を知ってるけど、向こうもボクの秘密を知ってるからあんまり怒れない。
「ん、ライオネル、おーい?」
「あっ、ごめん、考え事してて……」
「なんだ、なに考えてたの」
「無能って言われない方法」
無能って言われるのはもう嫌だ。知らないケットシーにまで言われてしまう。だったら無能って言われないようにしたい。それはどうすればいいのか分からない。
でも、オーガスタはイタズラしようとしてるのと同じ顔をしている。なんか変なことを思いついたのかな。
ドキドキしながら彼の言葉を待ってみる。瓶のミルクソーダがちょっとぬるくなってしまった。
「そうだ。だったら、陸軍に入隊したらいい。この国では軍人ってだけで偉くなれるんだ。みんな無能って言わないぞ」
オーガスタは、簡単な事だよと言わんばかりの顔で難しい事を言ってきた。見返すから、陸軍に入るっていうのはどうなんだろうか……
ミルクソーダを飲み干して、一晩考えてみる事にした。