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ロシェの様子はその後も大きく変わることはなかった。話題を振っても素っ気ないし表情もあまり動かない。笑うことなんてあり得ないくらいで、リミテトにはやはり優しくしてくれない。二日目は一緒にイヴの昼食会に行ったが、三日目キサハが目覚めたとき寝台はもぬけの空で、行ってみれば先に到着しており「道は覚えたから連れ立って行く必要なんかないだろ」なんて言うし、五日目に至っては「義務じゃないんだったら行かない」と言い出して、あとはキサハの知る限りほとんど自室に篭りきりだった。何度か遊びに行こうと誘ったけれど結果は言うまでもない。それでも、食事の準備をすると必ず降りてきてある程度の会話をしてくれることがキサハには嬉しかったし、その中でさりげなくキサハと知識を並べてみせるのでわくわくする。
やっぱりいつか、一緒に庭園を散策したい―――その思いで日々胸を膨らませていた。そしてそれは、彼女の想定よりもうんと早く叶う夢だった。
十日目の早朝、人の気配を感じて目を覚ますと寝台の側にロシェが立っていた。キサハは驚いたが、その静謐な表情に一度言葉を失って、できるだけ優しく、「あんまり眠れなかった?」と問いかける。目線を近づける為にうつ伏せて身体を持ち上げた彼女に真っ直ぐ返される瞳。黒くても朝日に輝くのを――不思議と悲しく思う。
「この時間、あの小うるさいのがいない。知ってたか?」
首を傾げると指し示すような視線が窓の外に向いた。街道を見下ろしているように思って、そしたらそれはリミテトを指しているんだろうとキサハ
は考えた。「知らない、私、お寝坊さんだから…………」まだ眠気の纏う頭。明らみ始めたばかりのうすい空の色をぽうっと眺めていると、ロシェが踵を返す気配がする。と、同時に声が降ってきた。
「出掛けたい。案内してくれ」
急速に起き抜けの靄が晴れていく。
ロシェの姿を追いかけて振り返るが、丁度扉の閉まるところだった。黄緑の色扉をそのまま見つめて考える。本当に――出掛けると言ったんだろうか、彼は。しかも、「案内してくれ」というからにはキサハと一緒のつもりなのだ。
そこまで思い至ると、いつもこの時間は絶対にしがみついて離さないふわふわの羽布団を同じ手で放り投げた。そして大急ぎでクローゼットから外着のドレスを引っ張り出すとネグリジェも脱ぎ捨てて、出掛ける準備を整える。部屋を飛び出して駆け足で下階へ降りたらそこには既にロシェが待っていた。
まだ信じがたい思いで頬を上気させながら、そわそわと相手を窺う。余計な質問をしたら「やっぱり行かない」と取り止めてしまうのではないかと心配したのだが、ロシェはキサハが追いついたのを見とめて迷うことなく玄関を開けた。
朝の閑けさがまるで眠るように街に横たわっている。階段を降りた少年がこちらを見るので、追いかけながらどこへ行きたいのかを問い、すぐ、久しぶりに石畳の上に二人の足が揃ったのを思い出して落ち着かない気持ちになった。キサハが急に俯いたのをロシェは不思議そうにしたが、思いついたようにその左足の爪先を上げて、下ろした。たん、と小さな音が鳴るので少女が瞬きをする。
「――下界が見える場所を探したい」
彼女は、はっとした。そういった場所がないかという話を、数日前に食卓でも彼はしていたのだ。
キサハの知る限りでは地上を臨める場所はない。キリスティシアの果てらしきところは……イヴのいる庭園の端がそうと思われるけれど、誰かが近づいているところを見掛けたことはなかったし、キサハ自身もそうしてみたことはなかった。初日にイヴとともにロシェが待っていたコンサバトリーはまさにその端にあったが、彼曰くあそこからはオライグという、ミロランディアの大陸から切り離された小さな聖域の島しか見えないらしい。その先は雲峡が煙立っているから、繰り返しているはずの大地のかげもない。――というのも、この世界は青い無限の空の中で、端と端は合わせ鏡のように、上下は水平に逆になって、永遠に繰り返しているのである。その為キリスティシアは下界の者にとって確かに天界だったが、下界のミロランディア自体も天空の浮遊大陸なのだった。
最後に見た大地はどんなだった、と道すがらロシェが問う。彼はこれまでキリスティシアでの生活に関わる質問しかしてこなかったから、キサハはいっそまだ夢の中にいるのではないかと疑ってしまう。
「ロミューユとバルセッタが争っていて………真っ赤だったわ」
「僕の時もそうだ。それしか見てない。でも、平和になったならどんな景色だと思う?」
少女はさらに驚いた。想像をしたことがなかったのだ。
かつてバルセッタに移った頃にはもう交戦が始まっていて、キサハはあの海岸線が青くも血なまぐさい景色しか知らない。よくてそれで、あとは先の追想通りだ。
平和になったなら―――。それは、ロシェが戦争の終結を願い、イヴが叶えた現在の景色のはずだった。少なくとも今なお戦火が上がっていることは絶対にない。それを確かめたかったのだ、この少年は……。
いつのまにか歩みが落ちている。その背中に引っ張られるようにしてまた隣へ並びながら、考えたこともなかった、と食い入るように彼の横顔を覗いた。神様が叶えたからそれでめでたし、と、なんとなくそう思っていたのだ。キサハだけではない、他のキリスたちだって。
(だけどこの子は違うのね。……不思議)
不思議だ。神様に願いを届けるという自分の天命を信じ切っていないようなその発想も、天上で神様に微笑まれて安心しきっていた自身の盲目も。
しっかりとした足取りで進んでゆく彼の隣でキサハは石畳の目を数えるようだった。どうしてかはわからないけれど、どうやら気持ちが落ち込んでしまったのだ、と気づいたのは、彼が二つの広場を下って庭園の中へ入っていくころ。庭木に紛れていく後ろ姿の勇敢が、なんだか彼女には恐ろしいもののように思えてしまう。
その日から二人は毎朝早くに庭園へ出掛けるようになった。案内してほしいと言った割にロシェは先導して、何故か庭の奥まったところを目指しているようだった。聞けば天紐で上がってくるとき、仰ぎ見るとキリスティシアの中心部はガラスのような透明な素材で底を形成していたらしい。キサハは全く見ていなかったのでどんなだかわからなかったが、それなら窓のように下界を見下ろせる場所があるかもしれない。
完全に中央では真下のバルセッタしか見えないだろうから、イヴのコンサバトリーとは逆の方角へ少し進んだあたりを探すべきだろう、と言ったのを聞いてようやく、だからいつもキリスの街の坂道を十分に降った最後の広場から庭に下りるのだと納得する。この坂道は外周にキリスたちのアパートメントを連ね、内にいくつかの広場を包むようにして、イヴのいる庭へと登っていくものだ。広場は階段を降りていくとどこも庭園に辿り着いたが、キサハたちのアパートに手近な広場から降りるのでは万一ガラス質の床を見つけても最適な位置ではないだろう。
歩くための道はすべて石畳で整えられていたから、二人は植木の根本や水路の中、覗いてみたことのない窪みを中心に探った。土の盛られているところは底が遠いだろうから今は触れなかったけれど、全く収穫がなければ掘りあけてみることも考えた方がいい、という話になったところで自分に呆れてしまった。提案したのはキサハである。かつては綺麗で美しい庭園の謎を解き明かそうと毎日ここへ通ったはずなのに、そんなことがどうでもよかったかのような乱暴さだ。
だけど黙々と、手を黒くして草葉や土を掻き分けるロシェの姿を見ていたら少しの可能性にも縋りたくなる。そうして彼女は、私はこんなに誠実ではなかった、と思うのだ。
(私と比べて誠実だから、自分がキリスでも、願いの結果を確かめたがるんだわ)
だからきっと、彼は笑わないのだ。本当に世界が平和になったと確かめるまで、きっと彼は笑わない。
庭園の中にも、大きくはないが円形の広場が点在している。噴水があったりフラワーアーチがあったり、あるいは何もなかったりするその場所は周囲の景色も似たり寄ったりでキサハでもどの道を辿って何処へ出るのかよく覚えていなかった。
昨日もここに来た、とため息を吐くロシェに感心してしまう。噴水があり、薔薇のような花を抱いた植木があり、足元の石畳は星石が散っていて水路はない。アーチは今入ってきた道とは別のところに門のようにして立っているタイプ、それから近くに温室のような古びた建物がある。入り方がわからないのでこちらもこれまで触れていないが、ロシェの見たガラス質というのはこの建物の外装に近いらしく出会うたびに未練がましくその曇ったまどを這う蔦をなぞった。とはいえ、昨日来たばかりだからか今日は近寄りもしない。代わりにキサハがその辺りを調べてみる。
「お前、前からこの庭をよく調べてたんだろ。止めろよ」
「自慢じゃないけど…………私、庭では毎日迷子なのよ。もともと」
「本当に全然自慢にならないな」
なんとなくどちらが街へ行く道か分かる程度の土地勘しか養われていない。キサハにとってはそれでも満足だったのだから仕方がない。
蔦の太くなっていく道筋を辿って根本までやってくると、彼女はそのあたりの草の間を掻き分ける。場所のことは覚えてないが、昨日そんなふうにしてロシェが探っていたのなら覚えていた。つまりは当然、そこに収穫はない。柔らかい土が潤って、植物たちを豊かに生かしていることだけは感じられる。
蹲み込んだままながら諦めて振り返ると、ロシェは噴水の側で地面を蹴っていた。間近に散々調べたところだから飽きているのか、それとも苛立っているのだろうか。同じところをずっと、ブーツの爪先のほうで一定のリズムで擦り続けている。
一瞬、もしかしてそこになにか見つけたのではないかとキサハは考えた。そして、それと同時に急に思い出すことがあった。
あの日見ていた花はなんだった?
少年の位置、すぐそばの噴水、その向こう側。立ち上がって見ると今自分たちが入ってきた、近道みたいな植木の切れ目がある。もう一度ロシェの足元に視線を戻す。あそこから、その地面は、きっと見えない。
「………ロシェ」
「なに」
「何があるの、そこに」
健康的な血色の頬が上向く。真黒い瞳がキサハを見た。それが赤いように感じられたのは、
どうしてだっけ。
彼は暫くキサハの意図を探るように黙っていたが、また俯いて、最後にそこの塵を払うみたいに靴裏を右に薙いだ。「いや」ざり、という音がする。
「何にも無いんだな、と思っただけだ」
そのままこの広場を捨て置くようにロシェが歩き出す。左のアーチへ向かって―――つまり、あの植木の位置からは彼の右耳が見える方向へ。
キサハは少年を見送りながら意識が遠のいてしまうように感じた。ロシェのことは勿論、まだ知らないことが沢山あるけれど、一番初めの大変な謎のことをすっかり忘れていたのだ。少年の今の言葉には「ある筈だったものが」という意味が込められているとはっきり感じられてしまった。そこにあるはずだったもの。
彼の本当の対のこども。
その死体。
(………きっと、何かの間違い)
キサハは胸の内で繰り返す。知らないことは沢山あるけれど、知ったことだって沢山ある。食事の匂いでダイニングへ降りてくる可愛らしいところとか、案外彼女の知恵比べに応えてくれるところとか、キサハより早起きが得意だとか。こうして自分の願いに誠実で、それから、戦争の終結を祈った。そうだ、それなのにどうして疑うことがあるだろう。
ロシェは味方だ。
思考がそこまで辿ると、少女の中に重たい倦怠感が生まれる。かつてよく抱いた感情だと気付くのに少しを要して、やっと地上にいたころの疑心暗鬼を思い出してしまうと頭を振って忘れようとした。漏れ出たため息が泣くようだ。
(キリスティシアで)
どうして、天界でこんな思いを抱いているのだろう。幾年も経ったのに、今になってまた。もう解放された苦しみだったのに。
そうしてもう一つ、彼女を苛む思いつきがあった。
――これではまるで自分が、下界から逃げ果せたひとみたいだ、と。