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夕食の支度を済ませてロシェを呼びに行こうと階段を登りさしたところで、たんたんと、足音が降りてくるのを聞く。匂いにつられてやってきたのかしら、と思うとちょっとおかしくて、気づいていないふりをしようとまた鍋まで戻って盛り付けを始めることにした。
木の色があたたかい深皿を二つ。二人分のミルクスープ。二人分の!
誰かと一緒に住まうのはこんなに嬉しいことだったろうか。地上にいたころは彼女を守る護士たちと共に暮らしていたが、気の遠くなる程前の話で、どんなだったかあんまり覚えていなかった。キリスたちはみな、天上に来てからは少年の姿で永遠を過ごす。対のなかったキサハはずっとこのアパートメントでひとりきりの生活を送っていたのだ。もう、何年も。幸い興味のあることに打ち込む性格だったから飽くことはなかったけれど、それでも寂しいものは寂しかったのである。少女は頬を薔薇色にして向かい合った席のそれぞれに、皿を置いた。
そこで丁度ロシェが姿を現したので、キサハは微笑む。「夕食にしようか!」
「………」
足を止めてしまった彼に首を傾げる。ミルクスープは嫌いだったろうか、と考えてから、あんなに取りつく島もなかったこの少年がいま、真っ直ぐキサハのことを見つめているのに気づいた。嬉しくなって身を乗り出す。
「なあに、料理をするのが意外? 確かにキリスの中では珍しいのよ。食事は母様のテラスで戴くのが普通で、そのときにパンやお菓子を持ち帰ってもいいから、家ではみんなそれを食べるわ。あ、明日はあなたの好きなお菓子を貰って帰ろうね! 今日は私が持って帰ってきた分があるから、ご飯のあとに食べよう。さあ、お席にどうぞ! おかわりもあるの。早くしないと冷めてしまう。冷めるとスープは味が悪くなるんだって、知っていた?」
話が答えを求める問いかけまでたどり着くと、ぱたりと音が途絶えて部屋がしんとした。けれど波のように喋りまくった少女はその落差を意にも介さず、期待に胸を膨らませて少年の口が開くのを待つ。きっと知っていると答える。いいえもしかしたら、スープのことは興味の対象じゃなくて知らないかもしれない。そしたら、そしたら、わざとおかわりを冷まして二人で食べてみるのだ。なんてすてきな夜だろう!
やがて、心待ちにした声が静寂に生まれた。しかしそれは問いに対する返答の形をしていなかった。
「…………情緒不安定だな、お前」
首を傾げている間にロシェは席につき、早々に食事を始めてしまう。彼の言わんとしていることを汲み取ろうとしたが、キサハは自分が昼にどんなに悲しい顔で帰り道を辿って、どんなに弱々しい声でロシェに語りかけたかを覚えていないので、理解できるはずもなかった。それで諦めて自分も席につく。少年は黙々と食べているので、その姿を眺めながらキサハもスプーンをとった。
話すときはほとんど口を開かないくせに、彼は大口をあけて野菜を頬張る。咀嚼する様子が微笑ましくて思わずにこにこしていると、嫌そうに見返してきた。
「美味しい?」
「ふつう」
なんてことだろう。素直な応答だ。
「好みの味付けは? 次はそれに合わせて作るわ」
「なんでもいいよ別に」
「遠慮しなくていいのに」
態度は冷たいままだが、会話ができることがとてつもなく嬉しくて気にかからない。キサハはその勢いで、他のキリスたちに問いかけるのと同じように、ひとつの質問をした。
「ロシェは何を願ったの?」
少年の動きが一瞬止まる。それから頬の中のものをゆっくり噛み締めて嚥下すると、ため息みたいに一言「戦争の終結」と答えた。
キサハははっとして、表情を曇らせる。スプーンを置いて静かにうなだれた。「やっぱり、また戦争をしていたのね……」
少女の記憶は地上の最後の景色に遡る。
彼女の代にも、キリスティシア直下に位置するバルセッタと、海に浮かぶロミューユが激しく争った。キリスが片翼の代だったために起こった戦争だった。
キリスとは地上に生を受け、人々の願いを聴いて神に届ける役目を負うこどもの呼称である。普通は二人生まれ、それぞれ三つ願いを携えてキリスティシアへ上がる。イヴがその願いを聞き届け、地上へ恵みを与える。そのようにして世界は安寧を保つものだった。
しかし、数年に一度の神に願いを届けられる機会、そのための存在というのは、どうあっても争奪が起こる。叶えられる三つの願いも、一つはキリス自身が願うもので、一つはキリスが叶えてあげたいと思うたった一人の他者の願い、最後の一つが多くの人々の総意といえる願い……というように決まっていた。つまりバルセッタやロミューユのような街規模の勢力からすれば、キリスが届けてくれる願いは一つきりに等しい。そして古くから、二つの街の間には確執がある。願いはキリスを所有する勢力に有利なものに偏ると一部の人々は信じて止まなかったし、実際記録を紐解くとバルセッタ生まれのキリスはバルセッタの繁栄を、ロミューユ生まれのキリスはロミューユの繁栄を願うものが多いのである。キサハの生まれは山間にあるナンイェだったが、知れるが早いか保護の名目でロミューユの者たちに連れ出され、それを拉致と見咎めたバルセッタがロミューユに攻め入り、互いに正義の名の下に戦禍を広げていったのである。
実のところ、キサハに対がなかったのは先代のキリスの祈りによるものだった。彼らは叶う願いがたった三つなら、そしてキリスがたった一人きりなら、人々も慎重になって争わず、手と手を取って同じ未来を祈ってくれるのではないかと考えたのだ。人々はこれを歓迎し、送り出したはずだった。その祈りのもとにあったはずの盟約が最後には破られたことを、キサハは悪夢でも見ていたかのように覚えている。悪意は影も捉えられないほどに疾く巡り、当時十の少女ではすべての理解が後手に回った。止められたかもしれない、と気づくころには常に最悪の結果が目の前にあった。
キリスを迎えるための天紐はその名の通りキリスティシアから垂らされる紐で、キリスを物理的に引き上げるものである。混乱の中、どちらの街の願いも容れないまま天上へ向けて飛び立ったキサハがそこから最後に見下ろした景色は、火に赤い、地獄のような大地だった。
正反対の色を瞳の奥に繰り返していた少女は、それを消すように、一度目蓋を下ろした。潜められた眉の悲痛を少年は静かに見つめている。
「……最近、リミテトがよく喧嘩するのよ。分かる? 私達を見つけると集まってくるこどもたち」
返答はなかったが、促す眼差しが是と言っている。
「彼らは自我がないのだって。自我ってね、こだわり……みたいなものかしら。彼らは彼らだけでも遊ぶけれど、なんにもないときはうまくやってる。楽しくて、みんなで笑えたらそれで満足だから、それが普通のはずなのよ」
けれどどうしてか喧嘩になって怒ったり泣いたりしている様子が見られることもあった。すぐにけろっとしてまた遊んでいるが、この現象はまとまった時期に頻発する。そして、その代のキリスは必ず戦争終結に関わる内容を願っているのだとキサハは気づきはじめていた。
これらの推察を黙って聞いていたロシェは、少女の話が途切れたのを悟ってもまだ何も言わない。何も言わないまま、食事を再開してしまった。この発見を褒めてほしいわけでは絶対になかったが、はるか昔に下界を去った身でもそうして案じていたのだとしらせたつもりだったので、悲しみを巧く分かち合えなかった気がして残念だった。だけど、もしかしたら彼の無愛想な態度は置いてきた故郷を憂えているあらわれではないだろうか。そう考えると思い返すほどに痛々しく、キサハはいてもたってもいられなくなる。
「でも、もう、あなたが平和を願ったんだから。そうよ、地上は絶対に救われるわ」
少し前のめりになって一生懸命にそう伝えると、彼は僅かに視線をくれた。それから今晩の食事に目を落として、一言だけ。
「早く食べろよ。冷めると味が落ちるから。」