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イヴ様が呼んでたよ、とリミテトたちが口々に言う。キサハの部屋のあるアパートメントから出て早々、八人ほどに囲まれてとうに知ったことではあるけれど、この人形たちはなんでもいいからキリスに話しかけたいのだと承知しているから「ありがとう」と礼を言って先を急いだ。
リミテトには自我がなく、記憶もぼろぼろと零して忘れていく。感情と好奇心がほとんどすべての行動の起点となるから、特別なこどもであるキリスへ憬れるままに側に寄り、声を掛けて、同じような問いを繰り返すのだった。純粋で愛しく思うけれどときに厄介なので、たいていのキリスはリミテトと遊ぶつもりがなければ下手に外を歩き回らない。それでも外を行くのなら、見つからないように隠れながら歩くか、走ってしまうくらいがちょうど良かった。
そういうわけで、イヴは別に急ぎでキサハを呼びつけているわけではないだろうと知っていても、急き立てられるようにして走っている。また次の一団が先にいるのを見つけて苦笑した。
ようやく母のいる庭にたどり着いたころには昼中だった。目覚めの遅いキサハにしては昼食をはじめようとしている庭先を目にできたのは上々だけれど、早起きなこどももいるからそういう子たちがキサハを見つけては「遅いよ」と笑う。その中でも代の近いスヴィンとアリーがキサハをつかまえて、イヴのいるコンサバトリーへと引っ張っていく。青鼠の長髪が低く結えられた頭と、赤銅の編まれた髪がふりむきふりむき、新しい子が来たんだと説明してくれた。今日の昼食に集うキリスの数を思えばきっとそうなんだろうとキサハも考えていたけれど。
「髪は短くて癖っ毛で」
「優しいアイボリーだよ」
「同じ黒い瞳だけど、アリーよりかっこいいな」
「ぼくだって格好いい!」
噛み付くように言う少女の横顔に悪戯っぽく笑う少年の姿を留めながら、キサハはひっそりと目を伏せた。
(………夢だと思っていた)
噴水。赤。滴るアイボリー。帰路も記憶が薄くいつのまにか眠っていて、美しい朝日に包まれて目覚めたときには悪い夢を見ただけだったのではと思ったのに。
それでね、とアリーが気遣わしげに続ける。
「今回は右の子だけなんだって。」
背なを覆う白銀が影の中にあってもきらめく様子を見つめる。滝壺に立つ飛沫の雲のような薄い生地が尾を引くみたいに地面に流れ落ちるのを、汚れてしまわないかしらなんて思わないほどに、後ろ姿が絵になる。振り向けばもっと輝かしいことを知っているから、今でもまだ、彼女に会うのはどきどきした。
ふたりがコンサバトリーに駆け寄っていって「キサハが来たよ!」と声を入れると、嫋やかな返事がある。「あら……連れて来てくれたのね。ありがとう」雲の中のサテンが煌めいて、彼女が踵を返したのが分かる。それから側の人影をてのひらでそっと促して、二つきりの階段をゆっくり降りて来た。陽光にあらわれたイヴの微笑みはキサハが知るどんなものより美しく、少し離れた位置にいても睫毛の色さえ切なくなるほどに綺麗だとわかってしまう。彼女が、この世界の神だった。そしてキリスにとっては真の母親でもある。
キサハも歩みを寄せて頭を垂れ、スカートを摘んで無言の挨拶をした。それでようやく「母様、」と声を出したのに、視界に一人のこどもが目に入って一旦言葉を飲み込んでしまう。大人しげな短い癖毛。
「……お呼びかしら」
迷って、とりあえずは少年のことを無視する。その方がいいと判断したわけではなく、単に彼のことが怖い。
イヴは目を細めて優しくキサハを見つめた。そうして同じ慈愛の瞳で、新しいこどもを示す。
「昨日ようやくやって来た、新しい家族よ」
白い手が彼に触れた。少年はそれに押されるようにして、短く名乗る。
「……ロシェ」
ロシェ、と口の中で繰り返してみる。ロミューユ生まれの名前だ。
「此度はこの子だけです。左の子は失われたと」
伏し目がちにそう接いだイヴは悲哀の色を潜めても隠さなかった。キサハは瞬時に、あの噴水の足元に斃れたはずのこどもがどうなったのか考えていた。天上に、足を踏み入れたのに。ここに神様がいるのに。―――死んでしまった。
暖かい風がゆるりと頬を撫でる。ここはいつでも幸福な日のようなのに、慈悲の母のたもとに、なんてそぐわない事実だろう。
それでね、と再び微笑んでみせて彼女は言った。
「キサハもひとりでしょう。寂しいのじゃないかと思っていたのよ」
「それは………はい、」
「だから、ロシェをあげましょうね。これからは他のこどもたちと同じように、二人で生活するの」
キサハは、咄嗟に、何の反応もできなかった。
イヴはキサハの様子に気にする素振りも見せないまま、ロシェの手を取り空いた左手をこちらに差し出した。恐る恐る手を重ねると、優しく二人の手を一緒にして、包む。
「互いによく助けて母を癒して頂戴ね」
それが初めてロシェに触れた瞬間だった。指先は冷たく、僅か身動ぎをするのを確かに感じた。
昼食会を終えてキサハはロシェの手を引き、とぼとぼと石畳を辿っていた。途中何度も人形に出会したけれど、興味津々に新しいキリスに集まる彼らに、ロシェはひとつの言葉も、視線すらも、返さなかった。ただ煩わしそうに身をそらせる。仕方ないのでキサハがリミテトに応えて、疲れているみたいだからまた今度、と言って別れる。悲しいのが嫌いな彼らはロシェを囲んでいやいやをするので、手を掴んで引っ張り出し、逃げるしかなかった。追いすがる彼らの声がやがて啜り泣きに変わるのを背後に聞いてキサハも辛くなる。たまに突き放してしまって泣かせることはあっても、一日にこんなにリミテトたちが泣くのを見るのは初めてだった。ロシェはそんなキサハの様子にも何も言わない。振り向いてみれば景色をあれこれ眺めているらしく、キリスティシアがめずらしいという感覚はあるようだったけれど、それだけでは今のキサハの慰めにはならなかった。
ようやくキサハのアパートメントに帰り、扉を閉めてすぐ、繋いだ手を離す。ロシェも嫌そうにしていたし、キサハも怖くて嫌だった。できるだけ小さくため息を吐いている間に、ロシェはまた興味深そうに屋内を見回す。そして勝手に歩き出してしまうので、キサハはあわてて後ろについた。「あの………そこはダイニング。あ、そっちが、洗濯場で」視線を追って案内するのに相手は振り返りもせずに「見ればわかるよ」とだけ言った。あまりの態度に立ち止まってしまうけれど、ふらりと階段を上がっていくからまたそれを追いかける。
「上は、私の部屋があるのよ」
「僕はどこで寝ればいい」
「三階に……寝台はあるから」
「ああ、そう」
手を上げて彼は二階を過ぎ、さらに上階へ上がっていこうとする。階を留まったキサハはとても迷ったけれど、勇気を振り絞って名前を呼んだ。「ロシェ!」立ち止まってはくれなかったので、折り返す手摺り越しに彼を見上げて続ける。
「ロシェは、ロミューユの生まれよね?」
「そういうお前は、ナンイェだろう」
興味なさげにそう返して行ってしまうかげを目で追う。このときキサハは無愛想に腹を立てるでもなく、また謎の多い不穏に怯えるでもなく、目を丸くして、驚いていた。名前で生まれを当てるのはキサハの特技だった。大抵のキリスは初めに選ぶこの話題でびっくりするのに、あろうことか彼はそれを返してみせたのだ。それはつまり、地域によって好まれる名前の音が違うのにも気づいているということになる。
キサハはそこでようやくときめき始めた。新しいキリスは、キサハと同じく些細なことに疑問を持って調べたり考えたりするのが好きなのかもしれない、という可能性が見えたのだ。もしかしたらキリスティシアの輝く庭園の謎も、一緒に解明してくれるかもしれない。
そうしてやはり、ひとつのシーンが再び脳裏を掠めて心を黒く翳らせる。
(ううん……何かの間違いかもしれない。きっとそう)
不安は拭いきれないままだったが、彼女は新しい生活に、そして夢見た兄弟の存在に、希望を見出していたかったのだろう。そのとき彼女の記憶のうち、いくつかには鍵が掛けられた。