シンリャクシャ(前編)
一見「GATE」みたいですが微妙に違います。「異世界食堂」……にもなりませんでした。
まあ思いついちゃったものはしょうがないので、お読みいただければ幸いです。
ここの空は青というより薄紫に近く、夕暮れともなるとその紫が色濃くなってくる。
しかしいわゆる工場や自動車の排気ガスなどがないためか、空気は澄んでいてうまい。私、八島重雄は医者なのでそっちの方面には詳しくないのだが、なんでも大気の組成が「地球」とは若干異なっているらしい。
そう───ここは「地球」、私たち人類の暮らす世界ではない。
詳しいことはまだはっきりしていないのだが、少なくとも「地球」でないことは確かなようだ。
強いて言うなら異世界、とでもいうのだろうか。
きっかけは我が国の天然記念物にも指定されている、霊峰・富士の富岳風穴。
ここであるとき地磁気の異常が観測されたのだ。最初は地質学者を中心とした調査チームが招集され、風穴の最奥部の調査が始まったそうだ(私はまだそのころ調査隊には参加していなかった)。
しかし、これがただの地磁気異常でないことはすぐ明らかになった。
全長二〇〇メートルにも及ぶ風穴のさらに奥。そこに「裂け目」としか言いようのないものが存在したのだ。
政府はさらに他分野にわたる調査隊を再構成し、「裂け目」の綿密な調査を行った。
そして驚くべき事実を認めざるを得なかった。
「裂け目」の向こうには広々と広がる空と大地が広がっていたのだ。そこが富岳風穴の奥に存在しているのではないことは明らかであった。もちろん当初は、そこが異世界だと認めない学者が多数派だった。しかし、調査を進めれば進めるほど、そこが私たちの宇宙、この地球上の世界ではない証拠が次々と見つかったのだ。
前述した大気組成のこともそうだが、草原の植物相や動物相も地球のものとは異なっており、植物学者や生物学者は狂喜していた。
私が調査隊に参加したのはこのころからだ。
なにしろ異世界のこと、どんな未知の病原菌がいるとも限らないからだ。しかし幸いなことに、草原に住む動物はほとんどがおとなしい草食性で、とくに危険なウイルスや細菌、寄生虫なども発見されることはなかった。
そしてなにより我々を驚かせたのは───この世界には我々人間に酷似した知的生命体がいるということだった。
直立した体型、二本の手と二本の脚、頭脳も発達していて、簡易ながら衣服も身にまとっていた。文明の程度こそ低かったものの、彼らはみな穏やかな性格で、我々異世界の人間に驚きこそしたものの、特に敵対する様子はなく、むしろ歓迎されている印象さえ受けた。
彼らはキャヴァリアン───「洞窟の人々」と名付けられた。もちろん彼らが洞窟に住んでいるわけではないが、彼らは我々がこの世界を知るための大きな足掛かりとなったのだった。
「やあ、ディナオ。今日も精が出るね」
「こんにちわ、シゲオさん」
私が声をかけると、大柄な青年が顔を上げ、にっこりほほ笑んだ。
薄茶色の肌に目は小さく、鼻は低い。ほぼ黒色の頭髪は短く、男女の区別は体型から判断するしかない。
彼らの衣服は筒頭衣に似た簡易な構造で、それはただ夜の寒さをしのぐためだけのものらしい。だから男女がお互いの裸を見ても羞恥を感じることもなく、川で身体を洗う時は男も女も大人も子供も、素っ裸で平気でいる。
それはまるで、エデンの園を追われる前の原初の人間のようである。
ディナオと呼ばれた青年は、私たち調査隊の面倒をよく見てくれる。それというのも彼らの肉体構造を調べるために、初めて異世界から我々の世界に連れてきた一人だからだ。
当初こそ不安を隠せない様子だったが、政府は彼を異世界の動物ではなく、一人の異世界人として扱う方針を打ち出しており、それが功を奏したのか彼はすっかり私たちを信頼していた。
「今日もジュースを持って来たんだ、汗をかいたろう」
「ありがと、ございます」
彼は私から水筒を受取ると、それを木陰においた。
おそらく自分で呑むのではなく、村の子どもにでも分け与えるつもりなのだろう。彼らには私的財産という概念がなく、食料や土地を一人占めしようという発想自体がない。
彼らとの会話は、比較的早期から実現した。なぜなら彼らの言語体系はそれほど複雑なものではなく、言語学者がそれを解析、習得するのにそれほどの苦労をせずに済んだからだ。
もっとも、彼らの文明程度の低さからして、あまり複雑な会話───特に思想や概念と言った抽象的な会話はよく理解していないようだ。
「シゲオさんたちも、食事にしませんか」
彼の誘いで私たちは彼らの餌場───と言っては聞こえが悪いか───なんというか食事場とでもいうべき場所に向かった。
彼らは実に働き者で、朝から日が暮れるまで畑を耕したり、果実を採取したりと忙しい。なのでいちいち各自で食事を作るのではなく、一つところでまとめて食事をとる習慣があるらしい。
それも朝昼晩と決まった時間にではなく、働いて空腹を覚えれば一日に五回、六回と食事をするのだが、なにしろ働き者ばかりなので、老若男女を問わず肥満しているものなど誰ひとりいなかったのだ。そろそろ中年太りが気になりだした私などは、筋骨隆々とした彼らが実に羨ましいと思ったものだ。
そしてまた驚くべきことに、彼らは完全な菜食主義者だった。
こちらの世界にディナオを連れてきたとき、試しに肉を食べさせてみたがすぐに胃腸に変調をきたしたのですぐにやめた。
「山岳民族の中には、まったく肉を食わない部族もあるが、彼らは腸内に窒素固定菌を有しているんだ。それに運動量がけた違いだから、豆やイモ類だけで見事な筋肉質の体を作っている」
「豆やイモだけでですか? ささみばかり食ってるボディビルダーが聞いたら羨ましがりますね」
私の説明を聞いて感心したのは、自衛隊所属の杉原一等陸尉である。
彼とその部下たちは、「裂け目」の奥の異世界が確認された当初から、調査隊の護衛を務めてくれている。尉官の中では年若い方だが、ガタイがよく、頼りになる男だ。
とはいえ、現在までのところ、この世界で危険な目に会ったことは一度もなく、自衛隊員たちも最近は緊張感もあまり感じていないようだ。
「いや、いいことばかりじゃない。そういう部族は逆に肉類を食べると消化不良を起こし、最悪死に至るケースもある。キャヴァリアンもおそらく似たような菌を腸内に飼っているんだろう」
「なかなか都合よくはいかんものですなぁ」
そういう杉原尉官は最初、キャヴァリアンの食事に馴染めず、自衛隊のレーション……いわゆる戦闘糧食と呼ばれる缶詰ばかり食べていた。自衛隊のレーションはうまいという評判だが、それ以前に野菜や豆中心のスープばかりの食事ではもの足りなかったのであろう。
たしかにキャヴァリアンには「食事を楽しむ」という考えも乏しく、味付けは岩塩のみという場合がほとんどだ。甘みは果実で補っているようだが、食事場ではみな黙々と野菜スープを胃に詰め込んでいるという印象であった。
かくいう私もたまには肉が食いたくなり、そんなときは自衛隊のレーションを分けてもらうこともあるが、もちろんそういう場合はキャヴァリアンたちの食事場にはいかず、彼らの目の届かないところでひっそり食事をしている。
完全ベジタリアンの彼らの前で肉を食っていると、自分がいかにも野蛮人であるかのように感じることもあるからだ。
もっとも、キャヴァリアンたちにそういう感覚があるとは思えない。
前述したように、キャヴァリアンには「私有財産」という概念に乏しく、人を出し抜こう、楽をしよう、人より多くのものを手に入れようという欲望が極めて少ない。
そもそも気候は穏やかだし、危険な動物もいない。
毎日の畑仕事のおかげで収穫もよく、食料に困ることもない。我々のように欲深くがつがつする必要がないのだ。
彼らが地球人と異なるのは、その思考形態だけではない。
やはり異世界人だけあって、彼らと人類は体型こそ似ているが、細部でやはり異なる部分も多い。男女問わず肌は赤みがかった茶色で、頭髪は一定以上伸びないようだ。調査を始めてまだ半年もたっていないので詳細は分からないが、ディナオの肉体をCTスキャンで観察したところ、興味深いことが分かった。
(これは……いわゆる『ピット器官』か)
ピット器官は地球では主に蛇科の生物が持つ「第二の目」とでも言うべきもので、熱を感知するサーモグラフィーのような役割を果たす。
夜行性の生き物が暗闇の中で獲物を見つけるのに役立つものだが、キャヴァリアンが哺乳類に近い生物であることは確認されている。収斂進化によって人類と近い体型をしていても、やはり異世界には異世界なりの進化の道筋があったのだろう。
また、このピット器官が単なる熱感知器官ではないようだと言うこともわかってきた。
「シゲオさん、そっち行ってはダメ」
急にディナオにそう止められたことがあった。
見たところ特に危険なこともなさそうだったのだが、ディナオはある一定ラインより外に出ることを恐れ、私にも行くなと止めたのだ。
我々地球人にはわからない感覚で、彼らには彼らなりの禁忌、タブーというものがあるのかもしれない。彼らのピット器官はそれを感知するために進化したのかもしれない。そこはまだ調査、再考中である。
そんなわけで我々は目下のところ、さしたる危険にも遭遇せず、政府も「異世界」などという得体の知れない存在を許容し始めているようだ。
もちろんそれは文明程度の劣るキャヴァリアンとの友好だけではない。
まったくの手つかずである大地にどんな未知の鉱物が眠っているやもしれないし、なにより狭い国土しかもっていない我が国にとって、異世界は惑星丸々一個が手に入ったも同然だからだ。
「しかし、内閣の中にはこの世界の存在を世界中に知らしめ、共同管理すべきだという意見もあるようですよ、八島先生」
「そうなるとやはり日本だけが独占するというわけにはいかないだろうねえ、杉原くん」
「まあ、我々は日本国民の生命財産を守るのが任務ですから。政治的な問題には関わらずにいようと考えておりますが」
「それをいうなら、私だって一介の医学部教授に過ぎんさ」
とはいえ、日本政府がこの異世界に食指を動かしているのも事実。
我々としては出来るだけ詳細な報告を提出することくらいしかできそうもない。
ただ……彼ら善良なキャヴァリアンの平和を脅かすようなことはしてほしくない、というのが、自衛官にも調査隊にも共通した思いであった。
「八島先生、どうも良くない方向で事が進んでいるようです」
声をひそめてそう言ってきたのは、杉原一尉。
調査隊の護衛部隊を率いる彼は、政府や公安の上層部から直接の情報や命令を受ける立場にある。無論、彼には調査隊の一メンバーに過ぎない私にそれを通達する義務などはない。だが彼は私に対して信頼を寄せているようで、特にキャヴァリアンに対する考えが共通していた。
富士、富岳風穴奥の「裂け目」の向こうに広がる「異世界」。
そこは文化程度こそ低いが穏やかな知的生命体「キャヴァリアン」が暮らす、平和で自然豊かな世界であった。だが人類にとって未踏の地とはいわば宝の山のようなもの。手つかずの鉱物資源、汚染されていない大地や水は、人類にとってかけがえのないものだ。
(私たちはそれを失って初めてその価値を知った。だが、そんな我々がこの地を汚す資格などあるのだろうか……)
杉原一尉が言うには、異世界の存在を公式に発表したうえで各国の歩調を合わせて共同開発に舵を取るのではないかということであった。
「開発だなんて聞こえはいいが、結局、この地を彼らから奪い取るということじゃないか」
「ええ……しかし近々正式な駐屯部隊が編成されるようです」
駐屯部隊ということは、この地に自衛隊の駐屯基地を作るということだ。
柵で土地を囲んで原住民の侵入を許さず、おそらくは「自衛のため」と称して武器も持ち込まれるだろう。そこに各国の軍隊も参加し、手前勝手な土地の優先権を声高に叫び始めるに決まっている。
無骨な掘削機械が持ち込まれ、地面をほじくり返し、山を、川を、自然を汚し始めるのだ。
自分がその一員であると理解してはいるが、そのような浅ましいことができるのが人類という生き物なのだ。
「だが、たとえそうなってもキャヴァリアンたちは自分たちの権利など主張したりはしないだろう。彼らには土地の占有権などという概念はない」
「ええ。むしろ頼めば喜んで協力してくれるでしょうね……ねえ先生。我々は調査と称して、いままでこの穏やかな世界を『侵略』してきただけだったんじゃないでしょうか」
「…………」
「この地で彼らとともにテーブルを囲み食事をする、その時間が私は幸せだと感じるようになってきました。争いを知らない彼らには『侵略』という言葉自体が意味をもたない。だが我々はそれに付け込んで、この世界を土足で踏みにじってきただけではないんでしょうか」
私は彼の問いに答える言葉をもたなかった。
つづく