プロローグ・アップライト
『――そして、君は死ぬだろう。だけど、安心したほうがいい。私は君の意識下に居続けて、君を忘れることなんてない。君は必要のない人間なんかじゃない。やがれ、誰かの役に立つ。そうじゃなきゃ、ニンゲン、生まれた意味が解らないだろう?だから、どうか、死なないで』
少年は目覚めた。それまで詰まっていた息を吐きだし、海のど真ん中へ放出する。浮かんでいた体の感覚をしっかりと確かめ、太陽光を浴びていた。ただ、それだけの行為が彼の心を無惨に引き裂いていた。
――彼には確かに死んだ記憶があった。
暗く沈んだ家の中で一筋の希望の様な光。それはナイフか包丁だった。彼は目を細め、息を殺す。指先からゆっくりと持ち主を見つめていく。細い指、細い腕、長い髪。そして、迫りくる足音。震える指先を床に押し付け、唇と顔を硬直させながら、彼は絶望していた――ああ、死ぬんだ。齢20にも満たないこの身体が、きっと20秒後にはあっという間に引き裂かれる。誰にも気づかれることのなく、肉を斬る金属の交叉音を耳に残して。
だが彼は生きていた。生命の海で、静かに遊泳しているだけだ。反発した波と波が身体を確かなものだと証明した。やがて彼は波打ち際へたどり着いた。
少年は濡れた服の裾を引きずりながら、体のあちこちを触り、傷跡の有無を確かめていた。だが痕跡は何一つ見つからずに、太陽光の示すままその場に立ち伏せた。墜ちた髪を上げ、指を少し舐めてみる。やはりそれは塩水で、独特の青臭さを含んでいた。つまり、本当に海だったのだ。
足音が彼の耳に渡る。砂を滑らかに、そして形を残す音。彼は砂浜を踏み、同じ音だということを確認する。そのまま前を見据え、瞬きをすれば、そこには少女が立っていた。それから数秒後、柔らかな風と共に甘い香りが鼻をくすぐる。少女の青い髪が揺れる。白い肌を覆う可憐なドレス。少年は今まさにため息をもらし、溺れてしまいそうなほどに美しさを感じていた。
『良い匂いですよね、これ。アルストロメリアと呼びます』
まだ意識がぼんやりと揺らぎ、少年にはその光景が異様なものだと感じられた。世界と画一していなかった。だがそれは目の錯覚だったのかもしれないとも思う。まさか、四角い枠と共に文字が、宙に浮かび上がってるなんて。
『私の名前はメイと申します。
この度は御足労のほど、お疲れ様でした。
こちらへ』
メイの後を追うように、少年は身体を進ませる。長時間日光を浴びていたせいか、彼の胸がひりひりと痛みを感じていた。やがて岸壁に背を着け、メイは誘惑するような瞳で彼を見つめていた。少年はほぼ無意識に口を開き、そして言葉を発そうとする。だが、一言すら空気を振動することは無く、やがて諦めてその場で打ちひしがれる。
『ウフフ……しゃべられないのは辛いですか?』
彼女は少年を軸に、砂浜を歩き始める。円を描きながら、小さな足を砂に埋めていった。彼は目で追い、少女は楽しそうに笑う。そして艶やかな唇は、この不可解な状況の説明を始めた。
『この世界の説明をさせて頂きます。この世界には明確な名称はありません。ですが、人によって「不可思議な場所」にも「自分が本当にいたい場所」にもなりうるのです』
少年には何もわからなかった。たった一つの記憶が、忌々しいナイフと少々の血のみだけだったからだ。だが彼女はそれすらも包括したかのように、不気味に笑う。
『貴方は、死んでしまったんです。
この世界に来るにはある条件があります。
例えばいじめられっ子、社会的地位の低い者。逆に言えば、天才、成績優秀者、国を操る支配者まで。範囲は問わず、とにかく〈あの世から逃れたい〉と思い死亡した瞬間貴方は、この世界の身体に、記憶だけ乗り移ります』
だが少年は疑問を抱く。何故自分は死んだのだ。死ぬつもりなんて一瞬も考えたことが無かったはずなのに、欲求と真逆の行動が行われた。不思議でたまらなかった。体の感覚の違和感だけが、その証明だった。まるで、人間ではないと言いつけられた機械のような感覚。不安定な存在の確立。
『大丈夫』
少女は少年を抱いた。甘すぎる花の香り。自然と零れる涙を、彼女が拭う。
『私も一見少女のように見えるかもしれませんが、人間ではありません。この事実を伝えるための存在。貴方と同じです』
夢の中にいる様な気分を、彼は感じていた。たとえどんなメカトロニクスでもケミストリーでも、私達の存在は数式的に置き換えることはできないと、少年は確信できた。涙を呑んで、彼女を強く抱きとめる。ありきたりな生命を、不完全な生き様を。
そうして少年が喉を振らわせようとしたその時、やはり声は出なかった。一時的なものかと考えたが、声量が無いということを完全に自覚した。それよりも、彼女に声をかけてあげられない苦しみだけが、ただ積み重なっていく。ああ、不完全。
『……ですが。やはり相違点はあるみたいですね。人間には、必ずあります。
私には声があります。文字を表すためのウィンドウが、そして〈メイ〉という存在であるというステータスが。
貴方にはあるのでしょうか……血肉の通った命、それだけ? 声は? 名前は? やはり、私達は交わることのない存在。もしそれが、今思い返すことができないということだけだとしても』
少年は喘ぎ声を上げることもなく、腹部の痛みを素直に受け入れた。彼女の開かれた眼光に、少年は畏怖する。こみ上げた息が、音もなく空気を切る。柔らかい匂いを、一瞬で破壊する。やがて左手を染める赤い血を静かに眺める。延長線上には銀色のナイフが映っていた。
『もう一度死ねば、きっと、ましな存在になれる。名案だと思います。少年A。もう一度、この海岸で逢いましょう』
意識が、血液と共に流れて行く。幸せの様な、地獄の様な心地を少年は味わっている。だが、きっとこれが正解なのだと願ってしまえば、狂おしいほどに幸せだった。光り輝く存在であれるなら――親愛なる彼女ならそう望むだろうと、特別な存在になるべきだと。こんな悲しみを背負う人類が生まれるなんて、彼は生きた心地がしなかった。紅く、それでいても輝けるようなヒトになれるなら。一瞬も後ろめたさを感じることなんてないのなら。幻の一生を彼女の手で抹消され、不自由な声を取り戻した完全体に成れるなら。彼女の存在が少年を確立させる。彼女のいない場所でも、明るみに出られるなら――瞳を閉じる。まぶたの裏には、彼女の姿が映し出されていた。
そうして彼は眠りについた。失われた自分を取り戻すことなく、少女にみとられた。