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どうやって家まで帰ってきたのか記憶に無いまま、気付けば玄関ポーチにサクラは立ちすくんでいた。
すると見計らったように、目の前のドアが開いた。
「サクラさん! おかえりなさい。本当に待ってたのよ」
そう言うと、ベビーシッターの女の子が疲れきった顔でサクラにコリンを押し付けてきた。
「言っとくけど、リビングのあの変な人形はあたしが壊したんじゃないから。コリンのオムツの替えを持ってこようと、ちょっと目を離した隙に、このイタズラ坊やがおもちゃを投げ飛ばして落としちゃったの」
腕の中のコリンを見下ろすと、何食わぬ顔でおもちゃの頭に齧りついていた。
「今日はありがとう。また頼むわね」
「もちろん! コリンのお世話は大変だけど、サクラさんは親切だし時給も弾んでくれるから、あたし大好きよ」
サクラがこのベビーシッターを選んだのは、この素直さと見かけによらず親身に子供たちの面倒を見てくれるからだった。まぁ、少々素直過ぎるのは仕方ない。
彼女を見送った後も、サクラはコリンを抱いたまま暫くの間、玄関ポーチでぼうっと立っていた。錘が付いたように体が重く感じられるのは、決してコリンを抱いているせいだけではないだろう。
「サクラ! どうしたの?」
心配そうな声音で話しかけられ、サクラはぼんやりとしたまま隣家を見た。生け垣の向こうから、ミズ・スズキがこちらを心配そうに伺っていた。
フラフラと誘蛾灯に誘われる蛾のように、サクラはミズ・スズキの元へと近づいていった。
「あなた、大丈夫? 顔が真っ青よ」
ミズ・スズキが驚いた顔で自分を見つめてくるので、よほど今の自分の顔は酷いのだろうと、サクラは他人事のように思っていた。
「……ちょっと、色々なことがあって、少し混乱してるの」
力なくサクラが告げると、ミズ・スズキは「じゃあ、温かいお茶でも飲んで、心を落ち着けましょう」と言って、家へと招き入れてくれた。
ミズ・スズキの家は温かみのある色合いで統一されていた。別段ニホン的でもないのに、妙にサクラを懐かしい気持ちにさせる雰囲気があった。
「はい、緑茶よ。コーヒーも良いけれど、緑茶の香りも気持ちを落ち着かせるのに良いのよ」
サクラがお茶を飲めるようにと、コリンをわざわざ受け取ってくれたので、素直に出された緑茶に口を付けた。
ふわりと鼻腔を擽るのは、実家でよく飲んでいた香りと一緒で、思わずサクラは目の奥がジワリと熱くなるのを感じた。
半分ほど飲み終えた頃、サクラはようやく気持ちに余裕が出来てきた。
「無理に聞かないけれど、なにか悩み事でもあるのかしら?」
ミズ・スズキが低く穏やかな声で尋ねてくる。気付けばサクラはポツリポツリと、一人で抱えていた不安と問題を話し始めていた。
そうして全てを話し終えたサクラは、少し温くなった緑茶を再び口に含んだ。
「あのアレックスが浮気なんてするかしら? シングルの私が言っても説得力が無いかもしれないけれど、彼がそんな不誠実な人とは思えないわ」
ミズ・スズキがコリンをあやしながらサクラに言った。
「でも、たしかにカフェで言われたの。それに、思い出したのよ。彼女が付けていた香水、前にアレックスが仲間と飲みに行って帰ってきた時に、彼から香ってきたものと同じだったのよ」
微かに震える指先をギュッと握りしめながらサクラは訴えた。
「偶然とは考えられないかしら? アシスタントなら、彼の近くにいるのも頷けるし、香りが移ることもよくあるわ」
「だったら、どうして彼女はあんな事を私に言ったの? それにアレックスも、夜中にベッドを抜け出していなくなるなんて不自然じゃない!」
珍しく声を荒げるサクラに、ミズ・スズキは困ったように眉尻を下げた。サクラはハッとして、慌てて謝った。
「ごめんなさい、大声を出してしまって」
ミズ・スズキは俯くサクラの片手を握りしめた。彼女の手は年相応にカサついていて、だがとても温かくて安心する手だった。
「謝らなくてもいいのよサクラ。あなたはいつも大人しすぎるくらいなんだから、少しぐらい大声を張り上げたって、足りないくらいだわ」
手の甲を優しく撫でられて、サクラは不意に泣きたくなった。
「私からあなたに言えることは、きちんとアレックスと向き合って話し合ったほうが良いってこと。そうすればきっと、あなたの抱える不安や問題は無くなるはずよ」
「でも……もし、アレックスが本当に浮気をしていたら、私どうしたらいいの?」
「その時は私に言いなさい。私があなたの代わりに、アレックスを懲らしめてあげるから」
茶目っ気たっぷりにウィンクするミズ・スズキに、サクラは声を上げて笑ってしまう。
「さぁ、もうそろそろ帰ったほうが良いわ。エリックもケイトも帰ってくる時間でしょ?」
「あぁ、本当だわ。ありがとう、ミズ・スズキ。あなたのお陰で勇気が持てたわ」
ミズ・スズキの腕からコリンを受け取りながらサクラは礼を言った。
「どういたしまして。私の方こそ、独り身の寂しい中年女の相手を、いつも快くしてくれているサクラに礼を言わなくちゃね」
ミズ・スズキの気遣いに感謝しながら、サクラは来たときよりも幾分軽くなった足取りで家へと帰っていった。
◇ ◇ ◇ ◇
家に帰ってきたアレックスは、鞄の中に大事にしまいこんでいた二枚のチケットを取り出すと、それを後ろ手に隠して家の中へと入っていった。
愛しい妻の姿をキッチンで見つけた時、アレックスは朝の出来事を思い出してにわかに緊張したが、すぐに気を取り直してネクタイを締め直して髪を撫で付けた。
「パパ、おかえりなさい!」
妻よりも先に自分を見つけたケイトがハグしてくる。それに気付いてサクラがアレックスを振り返った。
「おかえりなさい、アレックス」
あぁ、良かった。朝のときと違って、表情も強張ってないし、心音もいつも通りだ。
アレックスは微笑みながら「ただいま」と言ってサクラに近付いていった。
「サクラ、前にラウロ・ガローニの作品が好きだって言ってたよね?」
「えぇ、そうだけど。突然なに?」
怪訝そうに首を傾げるサクラの前に、アレックスは隠し持っていたチケットを差し出した。
「今度の土曜日に、ノイジー美術館で彼の展示会を兼ねたパーティーがあるんだ。どう? 僕と一緒にデートしない?」
チケットを受け取ったサクラは、それとアレックスの顔を交互に見ながら目を丸くした。
「これ、なかなか手に入らないはずよ。どうしたの?」
「それは秘密――と言いたいところだけど、じつはジョンが僕に譲ってくれたんだ」
「そうなの……でも、急に言われても、子供たちを見てくれるシッターが見つかるかどうか」
口では渋っていても、サクラの頬がほんのりと上気しているところを見れば、彼女が本心では行きたがっているとアレックスには分かっていた。
「それなら、ミズ・スズキにお願いしたらどうだい? 彼女は親切だし、きっと僕たちが困ってると知ったら助けてくれるはずだよ」
ミズ・スズキの名を出した途端、サクラの体が一瞬だけ強張ったが、すぐに元の状態に戻った。
「急にお願いしても迷惑じゃない? 彼女の都合もあるだろうし」
「彼女には僕からお願いしてくるよ。前に家の修理で困ってるって言ってたし、それを僕が代わりに引き受けるって言ったら、きっと喜んで子供たちを見てくれるはずだ」
「そうね、あなたって意外と手先が器用だものね」
小さく笑うサクラに、ようやく彼女の笑顔が見れてアレックスの心も浮き立った。
「ねぇ、パーティーにはあの紫のドレスを着てくれないか? それで、帰りは素敵なレストランでディナーを楽しもう」
今から想像するだけでアレックスの胸は高揚感でいっぱいになってくる。
「サクラ、返事を聞かせて?」
妻の滑らかな手の甲に口付けながらお伺いを立てるアレックスに、サクラは綻ぶように微笑み返してくれた。
「わたしでよければ、アレックス」
◇ ◇ ◇ ◇
「素敵よパパ。でも眼鏡はイケてない」
髪を整えながらリビングに顔を出すと、娘のケイトが腰に手を当てて父親の品評を始めだした。
「眼鏡がないとパパは物が見えなくなるから仕方ないんだよケイト。それより、今日はミズ・スズキの言うことをよく聞くんだよ?」
「もう子供扱いしないでパパ」
一端のレディのつもりの娘を抱き上げて「それは悪かった」と言って頬を寄せれば、嫌がるフリをしながらも嬉しそうに両腕を首に回してくる。
「あら、随分と仲良しなのね。妬けちゃうわ」
ケイトを抱き上げたまま振り返ると、そこには上品な紫色のドレスを身にまとったサクラが立っていた。
普段は体のラインを隠すような服ばかりを好むサクラだったが、アレックスは常々それを勿体無いことだと感じていた。
なぜなら彼女の豊かな胸と肉付きの良いヒップラインはアレックスの大のお気に入りだったからだ。
「凄く、綺麗だよサクラ」
感嘆の吐息とともに、素直な気持ちでアレックスは妻を賞賛した。それを受けたサクラは僅かに視線を下げると、羽織っていたショールを掻き抱いて恥ずかしそうにした。
「あなたも素敵よアレックス」
艶やかな黒髪を結い上げたサクラは、彼女の普段見えない場所までつまびらかにし、象牙色の滑らかな首筋や胸元を惜しげもなく披露している。
「パパったら、今にも目がハートになっちゃいそうよ?」
ケイトの指摘にアレックスは思わず苦笑する。娘を下ろして改めてサクラの前に立った。
「このままずっと君を見ていたいくらいだよ。いったい何度僕を惚れさせれば気が済むんだい?」
「もう、大げさね。そんなに褒めても何もないわよ?」
夫の冗談にサクラは笑うが、冗談ではなく本気でアレックスは妻に惚れ直していたのだ。
この気持をどうすれば妻に理解してもらえるのだろうかと、真剣に考え込みそうになっていたアレックスだったが、彼の思考を遮るようにチャイムが鳴った。
「あぁ、ミズ・スズキだわ、きっと」
サクラが玄関へ向かうのを呆然と見送るアレックスのズボンをケイトが引っ張った。下を見ればケイトが手招きをしているので、アレックスは彼女の視線に合わせるように屈んだ。
「ママを困らせちゃだめよパパ。今日のママはパパだけのプリンセスなんだから」
内緒話を打ち明けるように、自分の耳元で小声で訴えてくる娘にアレックスは眉尻を下げる。
「分かってるよリトルプリンセス。君は本当に賢い女の子だね」
額に口付けると、ケイトは肩をすくめてウィンクを返してきた。それを見たアレックスは、堪え切れずに笑ってしまったのだった。
「エリック、ちゃんと宿題を終わらせてから寝るのよ。ケイト、お兄ちゃんとケンカしないこと。コリン、いい子にしてるのよ」
心配そうに何度も同じことを繰り返す母親を、子供たちはウンザリとした表情で見返した。
「ミズ・スズキ、今日は本当にありがとう。急なお願いだったのに快く引き受けてくれて、感謝してもしきれないわ」
「いいのよ。それより二人共楽しんでいらっしゃい。この子達は私がしっかり見ておくから心配しないで」
コリンを腕に抱きかかえたまま、ミズ・スズキはサクラに優しく微笑んだ。
「このお礼は必ずするよミズ・スズキ。いくらでも僕をこき使ってくれていいからね」
「それは楽しみだわアレックス」
玄関ポーチを出てもなお、振り返ってはサクラは子供たちに「夜更かしはしないのよ!」と言って聞かせた。
アレックスは心配性のサクラを家の前に呼んであったタクシーへと招き入れると、子供たちに行ってくると告げてから自分もタクシーの中へと乗り込んだのだった。
ノイジー美術館へと着くと、すでに多数の招待客で賑わっていた。
「チケットを見せていただけますか?」
入り口に立っているドレスアップした係員に言われ、アレックスは胸元からチケットを取り出して差し出した。それを確認した係員は、二人に「どうぞ、ごゆっくりとお楽しみください」と言って中へと招き入れてくれた。
普段の静かな美術館とは違い、そこは大勢の人で溢れかえっていた。女性は皆美しく着飾り、エスコートする男性は相手を引き立たせるようにタキシードに身を包んでいた。
「なんだか緊張しちゃうわ。こういう場所に来るなんて久しぶりだから。私変じゃない? 大丈夫かしら」
胸元に手を当てて、自分を見上げてくるサクラにアレックスは微笑み返した。
「今の君が変だったら、ここにいる人たちはハロウィンの仮装と同じだよ」
アレックスの言葉にサクラの緊張も解れたようで、可笑しそうにクスクスと小さく笑っていた。
妻の腰を抱いて館内を回ってみる。ラウロ・ガローニはバロック様式が盛んであった時代において、華美な色彩や芝居的な構図を用いずに、独自の作品を生み出してきた作家だという。油絵でありながらも、澄んだ透明感のある色味を持ち味とし、その時代に生きた市井の人々を描くのを好んだらしい。
「……まるで絵の中で人々が本当に生活を営んでいるみたいね」
ほうっと感嘆のため息をつきながらサクラが囁くように言った。彼女の視線の先には田園風景の中で元気に走り回る子供たちや、麦畑で喧嘩をしている夫婦、のんびりと草を食む羊たちとそれを率いる羊飼いが夫婦を指差して笑っていた。
アレックスは周りを見回すが、純粋にサクラのように作品を鑑賞している人は極一部で、ほとんどの人はこの場に来られるだけの人物とのコネクションを得ようと、笑顔の奥に欲望を押し隠しながら会話を楽しんでいた。
妻の純粋さと芸術に対する真摯な向き合い方をアレックスは誇らしく思った。
暫く二人でゆっくりと作品を見て回っていると、会場の奥に設置されている壇上に壮年の男性が立ってスピーチを始めた。
「皆様、今宵は当美術館へとお越しいただき、誠にありがとうございます。わたくし、当館の館長のバリー・ゴードンと申します。ラウロ・ガローニ作品披露パーティーを開催できたことを心より嬉しく思っております」
整えられた立派な口髭が特徴的なゴードン館長は、いささか芝居がかった仕草で招待客たちへの感謝とこの美術館の素晴らしさ、そしてそんな素晴らしい場所で貴重な作品を展示できるに至ったことを情感たっぷりに話し始める。
だがゴードン館長のスピーチの途中で、胸元でスマートフォンが振動するのにアレックスは気付き、サクラに席を外す旨を伝えてから慌ててホールを出たのだった。
作品を引き立たせるように設置されているダウンライトがポツリと浮かび上がる廊下に出ると、アレックスはスマートフォンを取り出して画面をタップすると耳元に近づけた。
『アレックス! 大変なことが分かったぞ!』
興奮気味に電話の向こうで話しかけてくるのは博士だった。アレックスは何事かと思いつつ、とりあえず彼を落ち着かせないと話しが進まないと思った。
「博士、ひとまず落ち着いて。そんなに興奮してたらまた倒れるよ」
『倒れてなどおらん! あれは寝不足で意識を失っただけだ!』
ここで否定したところで、余計に興奮するだけだと思ってアレックスは黙り込んだ。
『そんなことはどうでも良い! それよりも私は見つけたぞアレックス』
「なにを?」
『監視カメラの映像をだよ! いや、正確には監視カメラではなく、その……普通の隠しカメラだったのだが、とにかく奴らはそのカメラの存在に気づかずに犯行に及んでしまったのだよ』
もしやと思い、アレックスは声を潜めて博士に問い質した。
「あの強盗殺人犯の正体が分かったの?」
『いや、残念ながら顔は見えなかったが、非常に有力な手がかりを残していったぞ奴は。今すぐ映像を君のスマートフォンに送るから、見てみろ』
一旦通話を切ると、すぐにアレックスのスマートフォンに博士から動画が送られてきた。それを再生すると、寝室と思われる場所が最初に映し出されていた。
初めは無人だったそこに、一人の中年男性が入ってきた。男性はカメラに近づくと、何度か角度を調整すると、満足げな笑みを浮かべて両手をこすり合わせた。
そしてまた画面から男性の姿が消える。時間を進めると、再び男性が画面に映り込んだ。男性は下着姿の半裸状態だったが、今度は一人ではなく、誰かと一緒のようだった。
その誰かに向かって、男性は嬉しそうな顔で熱心に何かを話しかけている。音は無いが、酷く興奮状態にあるのは上気した顔で分かった。
男性はベッドの上に座ると、誰かを手招きした。そこでようやくカメラにもう一人の人物が映し出された。どうやら女性のようだった。
女性は普通の格好ではなかった。どう見ても特殊な趣味を持つ人向けの格好をしていた。テラテラと光る黒い素材のそれは尻から胸へと編み上げるようなデザインになっており、太腿あたりまでくるロングブーツの踵は、どうやって立って歩けるのか不思議に思うほど鋭く高く尖っていた。
おまけに手にはあからさまな鞭と思しき物を持っている。なるほど、男性はその手の趣味があり、なおかつそれを隠しカメラに収めて楽しむタイプの人間なのだろう。
女が意味ありげに鞭を回しながら男性へと近づくと、待ちきれないとばかりに男性はベッドの上で四つん這いになった。アレックスは思わず額に手を当てた。人の趣味趣向をとやかく言うつもりはないが、かと言って覗き見る趣味など持っていない。
忍耐強くアレックスは画面を見続けていると、自分に背を向けたままの男性をそのままに、女が鞭を床へと放り投げると、右手の指先を何やら擦り合わせるような仕草をしているのに気付いた。
何だ、と思いながら見ていると、女の指先から血のような濃い赤色をした突起物が出現した。
アレックスが唖然とそれを見ていると、突起物はもはや鋭利なナイフのような形状となり、女の手の中に収まっていた。男性は背後からナイフを手に近づく女に全く気付いていない。
それは一瞬の出来事だった。ベッドの上で蹲ったままの男性の背後から女が覆いかぶさるようにして伸し掛かると、右手のナイフを左右に動かすのが見えた。後ろからのアングルだったが、女の体の隙間から見える男性の体がビクリと痙攣するのが映っていた。
女は男から身を離すと、ベッドの上の惨状が明らかになった。男性はうつ伏せのまま事切れているのが分かる。なぜならシーツに夥しい量の血が染み渡って広がっていたからだった。
「くそっ……」
スマートフォンを握るアレックスの手に力が篭もり、ミシッと嫌な音がして慌てて手の力を緩めた。
画面の中では女はベッドヘッドに飾られていた、くすんだ黄金色をした馬の置物を手に取って物色している。
女は置物を一旦置き直すと、ナイフを持ったままの右手をなぜか男性の上へと翳した。
何をするつもりなのかと見入っていると、シーツに染み込んでいた血や男性の上体を濡らしていた血が、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、翳した女の掌へと吸い込まれていく。
まるで男性が普通に横になっているだけの状態になっても、女は手を降ろさなかった。男性の首元からは、どんどん血液が吸い取られていき、それと共に出来損ないのミイラのように体が干乾びていく。
異常な光景だった。自分自身も異常な能力を有していると自覚しているアレックスだったが、画面の向こうにいる女の能力は、また違った異常さだった。
完全に血液を吸い取ったのだろう、女はようやく右手を下ろすと、また馬の置物を手にとってベッドから離れた。
その時だった。顔は相変わらず見えないが、女の大胆な衣装の胸元がチラリと見えたのだ。そして、その見えた物にアレックスは息を呑んだ。
「これは……」
動画を見終わるのを監視していたかのように、画面が切り替わった。アレックスは画面をタップして耳に当てた。
『どうだ、見たか? 女だよアレックス。しかも特殊な能力を持った、恐るべき女だ!』
「見たよ。だけど、今まで姿を見せるようなヘマをしなかったのに、どうして……」
『その映像に映っている哀れな被害者だがね、特段大金持ちというわけでも何かで成功している人物というわけでもないようで、彼を知る人による証言によれば極普通の真面目な男だったらしい』
だが真面目な男には裏の顔があり、それは誰の迷惑になる趣味ではなかったが、皮肉にも彼自身の命が絶たれる原因となってしまった。
『現場写真に載っていた家の様子を見ても、大層な監視カメラを設置するような感じではなく、少し年季の入った何処にでもあるような普通の家だったよ。だが、それが犯人の油断を招いたのかもしれん』
平凡で真面目な男の特殊な趣味の中の一つに、隠しカメラで最中の映像を残すというものがあるとは、犯人も気づかなかったのだろうと博士は言いたいようだった。
だが今はそんなことよりも、この映像によって明らかになった事がアレックスには気がかりだった。まさか、そんな――疑惑と確たる証拠の間で揺れ動くアレックスの耳が、複数の足音を捕らえた。
『アレックス、この映像で最も注目すべき点は、この女の特殊な力だけではない。なにより、女の胸元にある――』
「博士、待ってくれ」
アレックスは声を潜めて耳をすませた。重い足音は、普通の靴の音ではない。硬い、頑丈な素材で出来た靴底がコンクリートを踏みしめる時の音だ。そして歩幅の感覚は男、重いと感じたのは何らかの負荷が掛かっているから重い足音だと判断したのだ。
アレックスの体に緊張がみなぎる。もう足音は美術館の入り口付近にまで近付いている。
そのすぐ後だった。二人分の人間が地面へと倒れ込む鈍い音。特有の金属と衣擦れの音が混ざり合いながら入り口から聞こえてきた時、アレックスは咄嗟に体を柱の陰に潜ませた。
『アレックス?』
博士の声が聞こえてくるが、答えを返すことはできなかった。柱の影から様子を伺うと、武装した集団が美術館の玄関ホールに現れたのだった。
「博士、僕はとんでもない間違いを犯していたようだ」
それだけ言うと、アレックスは通話を切ってスマートフォンの電源を落とした。
武装集団の先頭には女がいた。率いる男たちと違い、女だけは顔に錆色の仮面をしたままで、胸元が広く開いたライダースーツという軽装だった。それが余計に異様さを際立たせていた。
なによりも特徴的だったのは、女の胸元に刻まれていたタトゥーだった。
王冠を被ったカエルが王錫を左手に、右手には髑髏を持って不気味な笑顔を浮かべているデザインだった。
アレックスにはそのデザインに見覚えがあった。奇妙なデザインだと見た時に思ったから、はっきりと記憶に残っていたのだ。
「どうして……」
アレックスの呟きを掻き消すように、女は招待客たちが集うホールへと堂々と踏み入ると同時に、乾いた発砲音が館内に響き渡った。
一斉に悲鳴が沸き起こった。アレックスはホールの中にいる自分の妻の存在を気にかけつつ、ホールの入り口を守るようにして立つ二人の武装した男を確認した。
耳をすまさなくても、ホールから聞き慣れた低めの女の声が聞こえてきた。
「これはこれは皆さん。ごきげんよう、そしてお静かに。騒がしいのは私好きじゃないの。少しでも私がうるさいと感じたら、ここにいるあなた方を一人ずつ殺していくから、静かにしててね?」
◇ ◇ ◇ ◇
夫がホールを出ていった後、サクラは館長の素晴らしいとは言えないスピーチを黙って聞いていた。そして終盤に差し掛かった頃、彼は自分の背後にあるケースで覆われている絵画を指し示すと、会場から賞賛のざわめきが起こった。
ケースの中で厳重に守られているのは、ラウロ・ガローニの作品の中でも近年発見されたばかりのもので、今まで彼が描いてきた作風とは異なる手法で描かれていた。だからこそ、なかなか彼の作品であると断定できなかったのだが、様々な解析と専門家たちの鑑定により、彼が晩年になって描いた物だと判明したのだった。
「じつに素晴らしいことに、この作品をイタリアから当美術館へと展示される運びとなり、私はかの作品が少しでも多くの人の目に触れる機会を作れたことに心より感謝しています。もちろん、この作品のみならず、彼の作品の数々はこのホールにも多数、展示しております。どうぞ、心ゆくまで鑑賞していただければ――」
大仰な仕草で両手を広げた館長の言葉を遮るように、サクラの背後――ホール入り口からパンッと乾いた音が響き渡った。
ハッとしてホールの中の人々が全員背後を振り返ると、入り口に物騒な格好をした集団と、それを率いるように立つ仮面をした赤毛の女が立っていたのだった。
「これはこれは皆さん。ごきげんよう、そしてお静かに。騒がしいのは私好きじゃないの。少しでも私がうるさいと感じたら、ここにいるあなた方を一人ずつ殺していくから、静かにしててね?」
大きく胸元が開いた格好をした女は、館長以上に芝居がかった口調で宣言した。だが咄嗟に現状を把握できなかった幾人かの人々は、パニックに陥りながら喚き散らし始めた。
「な、何だこれは! いったい何事かね!」
太った中年男性が顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。女はチラリと男性の方を見ると顎で背後に控えていた者に指示を送った。
一瞬の出来事だった。武装集団のうちの一人が一歩前へと進み出ると、こちらが身構える暇もなくライフルの引き金を容赦なく引いたのだ。
再び乾いた破裂音が響く。と、同時に喚き散らしていた中年男性が空気の抜けたビニール人形のようにグニャリと床に崩れ落ちた。
「私が言ってたこと、聞いてなかったのかしら? うるさくしないでって言ったのに、仕方ない人ね」
ねぇ、と背後にいる男たちへと女は同意を求めるが、誰も微動だにせず沈黙したままだった。
女はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、踵の高いヒールを優雅にカツカツと鳴らしながらホールの中心へと歩み出た。招待客たちは強力な致死性を持つウィルスに触れるのを恐れるかのごとく、弾かれたように女から距離を取ろうと壁際へと退いていく。皆青褪めた顔で、だが声を発することすら憚れる状態のまま、恐慌状態に陥っていた。
サクラも静かに壁際へと後退った。そしてこの場に居ない夫のことを思い、不安と恐怖で押し潰されそうになっていた。
仮面の女は壇上から逃げようとしていた館長を呼び止めた。
「あなたはそこに居なさい。そうよ、動かないで。私の言ってる意味、分かるでしょう?」
館長にホール内の視線が集まる。女がゆったりとした動作で壇上に上がると、恐怖で震える館長の顎を人差し指で押し上げた。その鋭く尖った爪には深紅のネイルが施されていた。
「この馬鹿げたほど厳重に守られてる絵画を私によこしなさい。あなたなら出来るでしょう?」
「む、むりだ! そんなこと、私にはできない!」
悲鳴に近い声で館長が答える。だが女はその答えが気に入らなかったようだった。
パシンっと館長の頬を打つと、女は今度は強引に顎を掴み上げた。
「私に反抗するのは賢明とは言えないわよ。その素敵な髭が特徴的な口が、二度と利けないようにすることも出来るのよ」
それでも館長は首を振って拒否した。サクラは絵画を盗むのが目的なら、なぜさっさとケースを破壊して奪っていかないのかと疑問に思った。
女は館長の顎を掴んでいた手を離すと、指先を擦り合わせるような仕草をした。なにをしているのかと凝視していると、なにも持っていなかった女の手の中に、突然血の色をした暗褐色のナイフのような物が出現したのだった。
ホールにいた人々があっと思わず小さく悲鳴をあげると同時に、女が館長の左肩を持っていたナイフで突き刺した。
「手間を取らせないでちょうだい。面倒なことは嫌いなのよ私」
「ああぁぁっ!」
ナイフを肩に突き刺された館長は、苦痛の悲鳴を上げながら蹲った。女は苛立ったように館長の肩を乱暴に蹴った。その拍子に、館長の体が後ろへと勢い良く倒れていった。
「や、やめろ!」
ホールの入り口から震える声で誰かが叫んだ。なんて無謀なことをする人がいるの――そう思ってサクラや他の招待客たちが振り返ると、一人の男が立っていた。サクラは思わず悲鳴を上げそうになったが、既の所で押しとどまった。
真っ青な顔でホールの入り口に立っていたのはアレックスだった。撫で付けられていた髪は乱れており、いつもの野暮ったい眼鏡も少し傾いている。
「アレックス……」
夫の無謀な行動に、サクラはどう反応していいのか咄嗟には分からなかった。だがサクラの心配を無視するかのように、アレックスはまるで自分は恐れを知らない戦士だと言わんばかりに、こちらへと近付いてくる。
「おまえ、どうやって――」
武装した男たちがざわめき一斉に武器を構えた。アレックスはそれに構う様子もなく、一直線にこちらへと向かってくる。
止まって、今すぐ止まってアレックス! ――サクラは心の中で叫び続けていた。だが夫の歩みは止まらない。
「ふふっ、随分勇ましいこと。でも今は邪魔しないでもらえるかしら?」
壇上の女が首を傾げると同時に、アレックスの体がビクリと跳ねた。
一瞬、なにが起こっているのかサクラは理解できなかった。いや、したくなかったと言う方が正しかった。
アレックスの胸元に、真っ赤なシミが広がっていく。今日のために新調したと嬉しそうに言っていたタキシードが、どんどん真っ赤に染まっていく。
「アレックス!」
思わずサクラは駆け出していた。自分も同じ目に遭うなどと思う余裕すら無く、目の前で傾いでいく夫の姿を見ながらただ走ったのだ。
「アレックス、アレックス!」
夫が床に倒れ込む寸前に体を滑るこませるようにして、サクラはアレックスの上体を支えた。彼の背後から少し離れた場所では、武器を構えたままの男が無言で立っている。その銃が、夫の胸に撃ち込まれたのだとサクラが理解するのはすぐだった。
「嘘……嘘、嘘、嘘! どうして、いやよ、アレックス……」
サクラの声が恐怖で震えている。撃たれた拍子で外れた眼鏡はどこかへ飛んでいき、アレックスの青空のような瞳が今は虚ろにサクラを見上げた。
「サクラ……動いちゃダメじゃ、ないか」
途切れ途切れに苦しげに言うアレックスに、サクラの瞳に涙が浮かぶ。
「なに言ってるのよ! あなたこそ、どうしてこんなこと……早く、早く病院に行かなきゃ!」
周りを見回して助けを求めても、誰も目を合わせてくれない。当たり前だ、次の犠牲者になるのを恐れているのだ。
「お願い、アレックス目を閉じないで……誰か、誰か助けて!」
今にも目蓋を下ろしそうなアレックスの頬を撫でながらサクラは叫び続けた。そのせいで背後に仮面の女が近付いていたことに気付かなかった。
「アレックス、あぁ可愛そうなアレックス! はっ、下手な芝居を見てる気分よ」
サクラが驚いて振り返ると、すぐ側に女が立っていた。
「なぜこんな事をするの!? 彼はなにもしていないでしょう!」
「なにも? そうね、今のところは。それより叫ばないでくれる? 耳がおかしくなりそう」
グルリと首を回してウンザリした様子で女が言う。サクラはそれを見て腹の底から爆発するような怒りのうねりを感じ、女に向かって行こうと立ち上がりかけた。
だがそれよりも早く、女はサクラの腹を蹴り上げた。
「夫が馬鹿なら、妻も馬鹿ってわけね。アンタ達、二人をここから運び出しなさい」
痛みで動けないサクラを男たちが乱暴に腕を掴んで引き摺るようにして立たせた。アレックスも同様だった。
「やめ、て! 触らないで! アレックスに触らないで!」
だらりと力の抜けたアレックスが、乱雑にホールから引き摺り出されていく。サクラは必死に自分を掴む腕を振り払おうとしたが、すぐに別の男が彼女に向かって銃を構えたため、結局大人しくする他無かった。