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アレックスの毎日は仕事と夜のヒーロー活動とで忙殺されていった。
相変わらず編集部は皆が必死に新刊のために働いていたし、編集長も”ヤナギ・ユキ”の正体探しに躍起になっていた。
そして夜のノイジーシティは、悪党たちが喜々として悪事を働いて回っていく。
アレックスにとって二重生活は、すでに慣れ親しんだものだったが、それでも彼の心に引っかかり続けるのは、あの変死体のことだった。
ノイジーシティで起こる犯罪は、今までは分かりやすいものが多かった。強盗、暴行、殺傷事件。
それらをアレックスが未然に防いできた。自らの体を武器として。
なのに謎の変死体事件は、あの博士でさえ未だに大した情報を掴みきれずにいた。
アレックスは自分の足元を見えない冷たい手が撫でていくような、そんな奇妙な錯覚に囚われていた。昔のように全てを曝け出し、問答無用で元凶を引きずり出して、叩きのめしたい――そんな危険な欲求が沸き起こった瞬間、アレックスは自分自身に戦慄した。
「もう我慢ならん! 諸君、私は探偵を使って”ヤナギ・ユキ”の正体を暴き出すことにした!」
ミーティングの最中に、編集長がいきなり大声で宣言し、その場にいた者たちは一瞬呆気にとられた。
「あの……そこまでする必要が?」
ミーティングに参加していたジョンが恐る恐る問いかけると、編集長の瞳がカッと見開かれた。
「必要だと? では貴様は”ヤナギ・ユキ”がこのままリバーサルコミックス社で作品を発表し続けたら、我が社がどうなるかの予想も付かんと言うのか? その貧困な発想力では分からんとでも言うのか!」
ジョンはしまったと思って黙り込んだ。火に油を注ぐだけの行為だったと気付いたのだ。
「しかし編集長、いくらなんでもやり過ぎでは? 仮に見つけ出せたとしても、”ヤナギ・ユキ”が我が社と契約してくれるとは思えません」
アレックスは思わず発言していた。編集長の眉間の皺がこれ以上無いというくらいに深くなる。
「理由を言ってみろアレックス」
「あー……理由はと言われると、なんというか……勘です」
「勘!? 貴様の当てにもならん勘を信じろとでも? バカを言うな!」
拳を机に叩きつけて更に怒りを爆発させる編集長に、アレックスは額を抑えて頭を振った。咄嗟に出た言葉だったが、恐らくそれは真実なのだ。
妻サクラ――いや、”ヤナギ・ユキ”は、リバーサルコミックス社で作品を発表することに固執しているのをアレックスは知っている。様々な事情があったからなのだが、それを言えるはずもなく、アレックスは黙する他なかった。救いは、このミーティングにイルザが参加していないことだけだった。
彼女は先日のオリバーが話したことを覚えているはずだった。あの後、うやむやになったが、編集長の異常なまでの”ヤナギ・ユキ”への執着心を前にすれば、あの会話の内容を編集長に話すかもしれない。いや、恐らく話すだろう。彼女は人当たり良く皆に接しているが、あの時のデータ送信ミスの件を挽回するチャンスが有れば、自分から編集長に進言するはずだ。前職とは言え野心のない人間が、副編集長まで上り詰められるはずなどないからだ。
「これは決定事項だ。貴様らが一向に私に有益な情報をもたらさんから、この私が動くことにしただけの話だ、わかったか!」
イエッサーとでも返せば満足するだろうか。アレックスは珍しく皮肉な気分になったのだった。
「ママはどこだ?」
久しぶりに定時で帰宅できたアレックスがリビングを覗くと、そこには長男のエリックがビデオゲームに興じていた。キッチンテーブルにはケイトとコリンが座っており、ケイトはまだ赤ん坊のコリン相手におままごとに熱中しているようだった。
「裏庭。シナイ振り回して、サムライガールになってるよ」
ゲーム画面から視線を外さずにエリックが答えた。ケイトにエリックがいつからゲームをしているのか尋ねれば、「一時間以上そこにいるわパパ」と告げ口をしてくれた。
「今すぐゲームを止めなさいエリック。一時間という約束だろう」
アレックスが咎めれば、エリックが振り返って妹に向かって「このおしゃべり!」と悪態をついている。ケイトはコリン相手におままごとに集中しているフリをして、兄の罵倒を無視した。
裏庭へと通じる扉を開けると、沈む太陽の逆光で影のように動き回る妻の姿が見えた。
背筋を伸ばし、独特の動作でシナイを振るうサクラは夕日を背景にしているせいか、いつもよりも一層美しく見えた。そしてアレックスの懐かしい記憶を揺さぶってくる光景でもあった。
あの時、サクラは木の下で静かに佇んでいたんだっけ。そうだ、大勢の野次馬に囲まれていて、それでも眉一つ動かさず佇んでいた彼女。折れた変哲もない枝を一本持っていただけ。だけど彼女の足元には数人の女子生徒たちが苦しげな呻き声を上げながら転がっていたんだ。
落ち葉が舞い散る中で、彼女の象牙のような肌と黒曜石のような艶やかな黒髪が鮮烈なインパクトを自分に与えたのだと、アレックスは過去の想い出に浸っていた。
アレックスが見ているのに気づかずに、サクラはシナイを特徴的な握り方をして重心を低くして構えた。彼女が言うには、父親が昔からケンドーを嗜んでいたから、護身にも役立つからと幼いころから叩き込まれてきたらしい。
だがアレックスはそれが異常なことだと知っていた。なぜなら彼女が見せる動きと、アレックスが知るケンドーの動きが、あまりにも違いすぎているからだった。
アレックスはそのことをサクラには伝えていない。彼女の父親が言わないのに自分が言うのも要らぬ軋轢を生むかもしれないし、そもそもアレックスが違いを分かること事態が異常なのだから。
それにしても、珍しいことだとアレックスは思った。サクラがシナイを手に一心不乱に打ち込む時、彼女が何らかのストレスを抱いている時がほとんどだったからだ。
「……サクラ、ただいま」
ドアにもたれ掛かりながら話しかけると、サクラは横へと薙ぎ払ったシナイをピタリと静止させて顔を上げた。
「おかえりなさい、あなた。いつからそこにいたの?」
「ついさっきだよ」
サクラに近付いて彼女の額にかかる前髪を払ってやる。どれくらいの時間シナイを振り回していたのだろう、艶やかな黒髪がしっとりと濡れているのにアレックスは気付いた。
「なにか問題でもあった? 君がシナイを手にしてるのを久しぶりに見たよ」
アレックスの問いに、サクラは僅かに弾む息を整えた後、喉元の汗を拭って見つめ返してきた。
「原稿が仕上がったから、鈍ってた体を動かそうと思っただけよ」
冷静に答えるサクラをアレックスはジッと見下ろしていた。
目の前で何事もないように振る舞う妻だが、アレックスの聴覚は彼女の鼓動の音がいつもより早いことに気付いていた。シナイを振り回して動いていたにしては、僅かに不規則だ。それにさっきから視線をなかなか合わせようとしてこない。
「サクラ、僕と君は夫婦だろ? 君がなにか問題を抱えているなら、僕はそれを助ける手伝いをしたい」
アレックスとしては、心からの言葉だった。だがサクラの反応は意外なものだった。
「夫婦……えぇ、そうね。私たちは夫婦よ。でもだからって、全てを曝け出さなければならないものなの?」
思わず言葉に詰まるアレックスをどう捉えたのか、サクラはシナイを握り直して姿勢を正し、見事な所作で礼をすると家へと入ろうとした。
「サクラ、いったいどうしたんだ? いつもの君らしくない」
咄嗟に腕を掴んだアレックスの手をサクラは乱暴に振り払った。
「私らしくない? あなたの中の私はいったいどういう人物なのかしら。物静かで滅多に大声を張り上げず、あなたの良き妻であろうとする女性?」
明らかに苛立っているサクラにアレックスは困惑するしかなかった。
「僕の妻であることに不満があったのか?」
「不満? この世の中で、相手に不満を持たない夫婦が存在するのかしら? そういうあなたこそ、私に不満があるんでしょう?」
「僕が君に不満なんて……」
「あなたはいつもそう。私がなにを言っても怒らない。まるで怒ることを恐れるみたいに、最後はいつも引き下がるの。今こうして一人で喚いてる私がバカみたい!」
泣きそうな顔で家の中へと入っていくサクラをアレックスは咄嗟に追いかけられなかった。サクラの言葉に、想像以上にダメージを受けている自分に気付いたからだ。
まるで怒ることを恐れるみたいに――サクラは気付いていたのだ。自分の本性を決して表に出さず、良き夫、良き父であろうと、常に穏やかに生きてきたアレックスの隠されている何かに。
夜の帳が下り始めている。昼の陽気な喧騒は息を潜め、人々の悪意を刺激する闇夜がアレックスの身にも襲いかかろうとしているようだった。
◇ ◇ ◇ ◇
ベッドの上でサクラは息を潜めるようにして目を瞑っていた。
隣で眠るアレックスの気配を感じながらも、彼女は決して彼の方を見ようとはしなかった。
夕方の遣り取りを思い出すと、サクラは鳩尾がギュッと痛むような感覚がした。
なんてらしくない事をしたんだろう――サクラは己の言動を振り返っては胸がチクチクと傷んだ。
あんな風に怒鳴り散らすつもりなんてなかった。だけど穏やかでいつも通りのアレックスの姿を見ていると、サクラの中にある感情のスイッチが派手な音を立てて壊れてしまったのだ。
数日前の出来事をサクラは思い出した。
アレックスが珍しく同僚たちと飲みに行くと言っていた、あの日のことだ。
いつも真面目で家族思いの彼の事を思えば、むしろ喜んでサクラは快諾した。たまには気の合う仲間たちと酒でも飲んで、気晴らしでもすればいいと思った。
だからサクラは子供たちとリビングでソファに身を預けながら、ちょっとだけ気を緩めてアイスなんて頬張りながら映画を見ていたのだ。
きっとアレックスのことだから、直ぐに帰ってきてしまうだろうとサクラは思っていた。
だが予想していた時間になっても帰ってこないアレックスに、珍しいこともあるのだと思いつつ、子供たちを寝かしつけたあと、一人リビングでテレビの音を消して画面をぼんやりと見つめていたのだった。
気付けば寝入っていたようで、浮遊感と嗅ぎ慣れない匂いで目が覚めた。
ぼやける視界を瞬きでクリアにし、顔を上げれば見慣れた夫の顔があった。いつもきっちり剃られている髭が、少しだけ生えてきているのが何だかおかしかった。分厚く野暮ったい眼鏡もいつも通り、でも髪は少しだけ乱れている。
この違和感はなんだろうと思いながら、目覚めた自分を気遣いながらベッドへと優しく下ろしてくれた夫を見つめ続けていた。
アレックスが額にキスをしてきた時、違和感の正体が分かった。
甘くてスパイシーな香水の匂い――アレックスが身につけているコロンとは違う匂いの存在に、サクラは気付いてしまった。
一気に思考が覚醒して思わず夫の腕を掴んで引き止めてしまったが、何を言えば良いのかも分からず、結局手を離してしまった。
混乱しながらも、きっとバーで他の女性客の香りでも移ってしまったのだと思いこむようにして、サクラは再び眠りに落ちたのだった。
朝になり、子供たちに聞こえないようにキッチンから別室へと呼び出されたサクラは、昨晩とは別の意味で心臓が跳ね上がった。
「死体? あなた、死体を見つけたっていうの?」
思わず大声を出しかけたサクラを慌ててアレックスは宥めた。
「偶然だったんだ。一緒に飲みに行っていたアシスタントを駅まで送ろうとしていた時だったんだ」
その言葉に、またサクラの胸がギュッと引き絞られる。
「ねぇ、あなたのアシスタントって女の人?」
「そうだけど、その彼女を一人で帰すのは危ないからってジョンに言われて。それで駅まで送ろうと思ってた矢先に、悲鳴が聞こえて駆けつけてみたら、死体を見つけちゃったんだよ」
いったいどこに驚けば良いのだろうか。夫が死体の発見者になったことか、それともお人好しにも独身女性を送り届けようとしたことにか。
ひとまずサクラは小さく息を吸い込んでから言った。
「どうして悲鳴が聞こえた時に逃げなかったの。一歩間違えれば、あなたが被害者になっていたかもしれないのよ?」
アレックスはこの発言に目を丸くした。
「人が危ない目に合っているかもしれないのに、逃げ出せっていうのかい?」
「そうよ。あなたが駆けつけたところで、何が出来るというの? 昔からロクにケンカもできなかったくせに、人を殺すような悪人相手に立ち向かうほうがおかしいわ」
「でもサクラ、僕は――」
「亡くなった人には、本当に気の毒だと思うわ。だけど、私はあなたに危険な目にあって欲しくないの。あなたに何かあったらなんて想像しただけで……」
思わず体に震えが走り、自分で自分を抱きしめるようにして両腕をキツく体に巻きつけた。
「――すまない。君を不安にさせるつもりはなかったんだ」
自分の体をその大きな体で包み込むように抱きしめる夫に、サクラは震える吐息をついた。
正義感はあるけれど、自分と違って昔から誰かと揉めているところなど見たこともない夫が、無謀な行動で命を落とすなんて考えたくもない。
でも同じように考えたくないのは、聞きそびれたアシスタントの女性の存在のことだった。
不安を覚えながらも、サクラ自身も仕事で手一杯だったせいで、頭からアレックスへの小さな疑惑を追いやることに成功していた。
だがある夜の出来事で、彼女の中に再び不安と疑惑の芽が息を吹き返してしまったのだった。
それは少しだけ寝苦しい日の夜のことだった。仕事柄、忙しくなると、神経が冴えすぎて眠りが浅くなる時があった。その日も深夜に目が覚めてしまい、喉も乾いていたので階下に降りて水でも飲もうと思って身を起こした時だった。
「……アレックス?」
いつも隣で眠っているはずの夫の姿がなかった。シーツに手を滑らせれば、ひんやりと冷たい。ベッドから抜け出したのはだいぶ前のようだった。
不思議に思いつつ、寝室を出てアレックスが書斎として使っている部屋へと向かった。ドアを小さくノックして、返事がないことを不審に思いつつもドアを開けると、そこは真っ暗だった。
一体、夫はどこに居るのだろうかと思っていると、机の上でブーンと低い振動音と共に、青白く光る物を目にした。
近づけばアレックスのスマートフォンが着信を知らせているのが分かった。迷いつつも手に取ると、画面をタッチして耳に当てた。
「――もしもし?」
いつもよりも低めの声で尋ねると、わずかの間の後、妙に色気のある女性の声が聞こえてきた。
『あなた誰? アレックスの番号にかけた筈なんだけど』
どことなく棘のある言葉に、思わず言葉に詰まる。
『まぁ、いいわ。それよりもアレックスに伝えておいて。素敵な夜をありがとうって』
それじゃあ、と言って通話が切れた。サクラは強張る手で耳元からスマートフォンを引き離すと、ぼんやりと手の中にあるそれを見た。
アレックスのスマートフォンに、女性が掛けてくる。それだけなら別に普通のことだ。
じゃあ普通ではないのは、掛けてきた相手が棘のある声音で素敵な夜をありがとうと、意味ありげに告げたことだろうか。
スマートフォンを元の場所へと置き、サクラはふらりと書斎を出た。だがいきなり背後から話しかけられて、飛び上がりそうになった。
「ママぁ……おしっこ」
振り返ると、ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、眠そうに目をこすって欠伸をしているケイトが立っていた。
「あ、あぁ、そう。じゃあ、ママがトイレまで付いていってあげるから、後は一人でできるわよね?」
動揺を押し隠しながら、サクラは娘の背中をそっと押してバスルームへと促した。そして娘が何度も自分を不安げに見上げてくるのを微笑み返して安心させると、ようやく彼女はバスルームの扉を閉めた。
壁に凭れて先程の出来事を思い出していた。どうして、あの時自分はアレックスの妻だと言えなかったのだろう。そうすれば、こんなわけの分からない混乱状態に陥らずに済んだのに。
額に手を当ててサクラは項垂れた。そもそもアレックスは今どこにいるの。
トイレを終えた娘を部屋まで送り届けると、サクラは子供たちを起こさないようにと、足音を立てないように注意しながら家中を探し回った。けれどもアレックスの姿はどこにもなかった。
仕方なく寝室へと戻ると、ベッドに潜り込んでブランケットを頭まで被って目を瞑った。連絡を取ろうにも、肝心のスマートフォンは書斎に置きっぱなしなのだ。いや、そもそもの原因が、あのスマートフォンのせいなのだ。
息苦しくなるほどキツくブランケットに包まっていると、いつの間にか眠ってしまったのだろう。背後から自分よりも温かい体温に包まれる感覚で目が覚めた。
今すぐ後ろを振り返って、アレックスに問い質すべきだろうか。きっとそれが正しいはずだ。
けれども、もし電話の内容を肯定されたら、自分はどうすればいい?
グルグルと頭のなかで悩むうちに、原因の一端である夫の穏やかな寝息が聞こえてきて、サクラは強張っていた体からフッと力を抜いた。
夫を起こさないように慎重に体を反転させ、逞しい胸へと額を埋めて匂いを嗅ぐ。慣れ親しんだアレックスの匂いに、この前嗅いだ香水の匂いはない。ただ、少しだけ埃っぽい匂いがするのはなぜだろう。
考えすぎて頭が痛くなってくる。サクラは不安を振り切るように、アレックスの体へと自身の体を摺り寄せた。
あのアレックスが浮気などするだろうか。
誰よりも優しく、自分や家族のことを考え行動してくれる、理想を具現化したような夫が浮気?
サクラの中で芽生えた疑惑は日に日に大きくなっていく。
例えばアレックスの帰宅が遅れた時、ただいまのキスを受けながらさり気なく匂いを嗅げば、大抵あの甘くてスパイシーな香りがしてくる。
例えば眠ったフリをして――実際何時間もそうしていると、何回か本当に寝入ってしまったこともあるが――様子を伺っていると、アレックスは音も立てずにベッドを抜け出し階下に降りていくと、ドアを開けて出かけているようだった。ようだった、というのは、まるで幽霊のように彼は物音を立てずに行動するからだった。
そして帰ってくるのが一、二時間後の日もあれば、明け方まで戻ってこない日もあった。そんな日は眠っているのを装って、アレックスの胸元へと甘えるように鼻先を擦りつけて匂いを確認する。
あの香水の匂いはしない。だが不思議なことに、埃っぽかったり何かが焦げたような匂いがしたりするものだから、サクラは余計に混乱した。
一体あなたは何をしに、夜中に一人で物音も立てずに外出しているの? ――そう尋ねることがなかなか出来ないまま、サクラは自身の仕事にも追われながら日々を過ごしていた。
結局、原稿が仕上がり仕事が一段落すると、鬱屈していた思いが今にも爆発しそうで、サクラは夕飯の用意を手短に済ませると、急き立てられるようにしてシナイを持って裏庭へと飛び出した。
シナイを握っていると、心が落ち着く。ケンドーは精神をそれだけに集中させるものだと、父から教えられていた。
その父から教わった様々な型を丁寧に復習しているうちに、爆発しそうだった精神が安定し始めてくる。
夢中になってシナイを振っていると、突然アレックスに話しかけられて驚いた。
そして、よせばいいのにサクラは言わなくてもいい事をアレックスに言い放ってしまった。
素直に尋ねることができず、折角の稽古で霧散していた黒い澱のような物が、再び自分の中に蓄積されていくのをサクラは感じていた。
今日もアレックスは音も立てずに、どこかへと行くのだろうか。あの挑発的な色っぽい声の持ち主の元へと。
こんなに胸が苦しくなるなら、結婚なんてしなければ良かったと思ってしまった。小さい頃から一人で居るのに慣れていたから、そのまま死ぬまで一人で作品を描き続けながら、好きに生きていれば良かったのだ。
サクラはそこまで考えて、フッと自嘲気味に笑んだ。
無理に決まっている。今更孤独な人生に戻れるはずなど無い。アレックスの不思議な温かさに触れ、そして愛しい子供たちがいるのに、どうして独りになれるのだろうか。
痛む胸を庇うようにして、サクラはアレックスに背を向けたまま、その夜眠りについた。
◇ ◇ ◇ ◇
今までサクラと喧嘩らしい喧嘩をしたことがあっただろうか。アレックスは髭を剃りながらボンヤリと考えていた。
目覚めた時に、隣にサクラはいなかった。自分より先に起きることはままあるが、大抵控え目ながらも優しい目覚めのキスを施してから寝室を出ていくのが常だったのに、今朝はそんな気配すら感じなかった。
顔を洗ってキッチンに顔を出せば、子供たちは相変わらず好き勝手にしているし、サクラは忙しく動き回っている。
「ママー! わたしこの服じゃなくて、あのフリルが付いたワンピースがいいの!」
「ケイト、今日はそれで我慢してちょうだい。時間がないのよ」
ガシャンとスプーンを勢い良く皿に突き刺そうとしたせいで、リックのベビーチェアからカップが落ちそうになるのを咄嗟にキャッチし、テーブルへと移動させたアレックスは皆に朝の挨拶をした。
「おはよう、みんな。今日も元気いっぱいだな」
リックのつむじにキスをし、そしてこの服じゃないと駄々をこねるケイトの額にキスをし、いつも通り朝食を摂りながら行儀悪くスマートフォンをタップするエリックにもキスをする。寸前で避けられたが。
そして最後に冷蔵庫からオレンジジュースを取り出そうとしているサクラにも口付ける。だが唇に触れた瞬間、微かにだが妻の体が強張るのをアレックスは感知した。
「おはよう、サクラ。よく眠れた?」
「……えぇ。あなたは?」
「もちろん、僕もだよ」
本当は違うだろう、と指摘したかった。サクラが眠りについたのは、ほとんど夜明けだった。彼女の息遣いと心音、そして筋肉が擦れ合う音で、サクラがずっと緊張状態にいたことをアレックスは知っていたのだ。
昨日の出来事が原因だろうとは分かっていたが、それじゃあなぜ妻がそこまで自分に対して頑なな態度をとるのかが、まるで分からなかった。
いつもなら軽口を叩き合う朝の風景も、今日はどことなくぎこちない。
子供たちにも気付かれたのだろうか、今日はアレックスが彼らを学校へと送り届ける番だったのだが、車に乗り込んで家が見えなくなった頃、長男のエリックがおもむろに口を開いた。
「……母さんとケンカでもしてんの」
スマートフォンから視線を上げずに訪ねてくる息子に、アレックスは咄嗟に返事ができなかった。
「……どうしてそう思ったんだ?」
「だって、なんか母さんがピリピリしてるし」
そこでようやく視線を上げて自分を見てくるエリックに、どう返したものかとアレックスは迷ってしまった。
父と兄の間の微妙な空気を感じ取ったのか、それとも自分の主張をしたいだけなのかは分からないが、ケイトが怒ったような口調で口を挟んできた。
「ママすごく変だったわ。わたし昨日寝る前に、あのフリルいっぱいのワンピースを着ていきたいって言ったのよ。なのにママったら、全然違う服をわたしに着せるんだもの」
ぷぅ、と愛らしく頬を膨らませる娘にアレックスは目元を緩めた。だが息子の追及の手は緩まなかった。
「母さんと離婚したら、おれ母さんと暮らすから」
「おい、やめなさいエリック。離婚なんてするわけないだろう? 心配しなくてもいい。今母さんと父さんは、ちょっとお互いすれ違ってるだけだ。すぐに元の母さんと父さんに戻るから」
自分を選ばずあっさり母親を選ぶことにもショックを受けたが、離婚すると決めつけていることはさらにショックだった。
サクラと離婚だって? あれだけ苦労して結婚した彼女と、どうして離婚しなきゃならない!
アレックスはぶつけようのない苛立ちに見舞われたのだった。
「俺のために黙ってこのチケットを受け取ってくれ、アレックス」
そう言って項垂れながら二枚のチケットを手の中に捩じ込まれたアレックスは、出社してすぐの出来事に唖然としていた。無理やり渡されたチケットを見ると、”ラウロ・ガローニ作品展・記念パーティー”と印字されていた。その名前に今朝のサクラの様子が脳裏をよぎる。たしか、彼女はこの作家の作品が好きだと言っていたはずだった。
「朝の挨拶もなしに、いきなりどうしたんだジョン」
机に鞄を置いてジョンに改めて向き直ると、彼は悲しげな顔で見上げてきた。
「彼女のためにさ、俺は少しばかり素敵なデートを計画したんだ。なんかその作家の珍しい作品がアメリカにやってきたって、ちょっと前にライターに聞いてさ。しかもノイジー美術館でも展示会を兼ねてパーティーも開かれるって言うから、俺ちょっと張り切ったんだよ」
それなのにと、がっくりと肩を落とすジョンに、なんとなく先が読めてきた。
「彼女に一緒に美術館へ行こうって、そりゃあスマートに誘ったんだ。なのに、彼女ときたらなんて言ったと思う?」
アレックスの返事を聞く気はないのだろう、すぐにジョンは言葉を続けた。
「”ノイジープレデターズのチケットの方が、何倍も嬉しい”ってさ!」
ヘーラーのようなジョンの彼女は、美術館でのパーティーよりもスタジアムでホットドックとビールを手に、野球選手たちを応援するほうが好きなのだろう。
「でも貴重なチケットなんだろう? もらえないよ」
ジョンにチケットを返そうとするが、彼は頑として受け取らなかった。
「良いんだよ、俺は。それにここだけの話し、このチケット買うのもちょっとしたコネを使ったからな。俺は言うほど苦労してないんだ」
ジョンはなぜコミック出版社で働いているのかと疑問に思うほど、実家が不動産業界でも名高い一族の末っ子らしいのだ。恐らくそのコネとやらは、それに関係しているのだろう。
「お前には色々フォローしてもらってるしな。普段の礼だと思って、受け取ってくれ」
先程の落ち込み様はどうしたのか、いつもの悪戯っ子のような笑顔を見せるジョンに、アレックスはありがたくチケットを譲り受けることにした。
「ま、どうしても礼がしたいっていうなら、また飲みに行こうぜ。そんで、俺にビールを奢ってくれりゃあいい」
「それならお安い御用さ」
ジョンに礼を言い、アレックスはチケットを鞄へとしまいこんだ。朝の憂鬱な気分は吹き飛び、今は子供のようにワクワクしていた。このチケットで、妻との関係が修復できるかもしれないと、胸が踊るのを抑えきれなかった。
気合を入れ直し、仕事に取り掛かろうとしたアレックスは、アシスタントのイルザの姿が見えないことに気付いた。
「ハイ、ビル。イルザを知らないか?」
近くを通りがかった同僚のビルを捕まえて尋ねると、彼は少しの間考え込んだ後、あぁ、と頷いた。
「たしか、ライターのライアンと打ち合わせに行くって言ってたよ。聞いてないのか?」
「あぁ、そうだったのか。ありがとう」
ビルに礼を言ってパソコンを起動させた。たしかに昨日、イルザにそろそろライアンと打ち合わせをした方が良いと言っていたのだが、まさか自分を置いて一人で行くとは思っていなかった。
だが悪いことではないだろう。彼女は驚くほど仕事のやり方について飲み込みが早かったし、このままだと自分のアシスタントもすぐに卒業して独り立ちできるだろうと、アレックスは素直に喜ばしく思っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
サクラは次回作の打ち合わせについて、編集担当のドナとカフェにいた。
「本当に、あなたの作品のお陰で、うちの売上がどんどん上がっていってるのよ。どんなに感謝の言葉を尽くしても、足りないくらいだわサクラ」
「そんな、大げさよドナ。私こそ自分の作品を自由に描かせてもらって感謝してるのよ」
サクラはエスプレッソにたっぷりのクリームとチョコシロップが掛かっているモカを口に運んだ。いつもは低脂肪のラテを頼むのだが、仕事が一区切りした時などに飲む、自分へのちょっとした褒美だった。
「あなたは宝箱みたいな人ね。最初はちょっと取っ付きにくい印象なんだけど、でもその中には沢山の光る宝石が秘められているのよ」
両手を派手に動かして説明するドナにサクラは苦笑する。たしかに、今では初対面の人が相手でもカジュアルに応対できるが、昔は野良猫のようにツンとしていたと自覚している。
「ところで、次のプロットも読ませてもらったわ。主人公に新たなサイドキックが登場するのは、なかなか良いアイデアだと思うわ。一人で困難に立ち向かうのもクールで良いんだけど、読者がより一層世界観に没入するためには、サイドキックの存在は欠かせないと私も思うわ」
「読者に受け入れてもらえると良いんだけど」
「大丈夫よ。この私が面白いって思ってるんだから、間違いないわ」
自信に満ち溢れたドナの発言に、サクラは目を細める。彼女のこういう確固たる信念の持った態度がサクラは好きだった。それにドナの見る目は確かなのだと、何度もサクラ自身が体験しているからだった。
「それじゃあ、下書きが出来上がったらもう一度打ち合わせしましょう。今度も期待してるわ、サクラ」
「えぇ、あなたを夢中にさせるくらいの物を作るように頑張るわ」
「それでこそサクラね」
ドナは立ち上がると、コーヒーの残りが入ったカップを手にカフェを出ていった。
サクラは暫く窓の外を行き交う人々を見つめながら、頭のなかで動き回る自身の作品のキャラクター達の様子を伺っていた。
その時ふと、サクラは横に気配を感じて視線を店内へと戻すと、一人の女性が立っていた。
「相席してもいいかしら?」
「えぇ、どうぞ」
サクラが頷くと、女性はゆったりとした動作で前の席に座った。
背が高く、モデルか女優のようにスラリとした見事な肢体の女性は、意志の強そうな濃い緑の瞳をしていた。
「いつもここに来るの?」
女性は綺麗に巻かれた赤毛を撫でると、コーヒーに何もいれずに口に含んだ。
「いつもという程ではないけど、ここのコーヒーが好きで人と会うときはよく利用するわ。あなたは?」
「私は今日が初めて。たしかにコーヒーは美味しいわね」
血の色のような暗くて濃いネイルを施した指先で、カップの縁を撫でる女性をサクラは見つめていた。
「あぁ、折角こうして一緒の席に座ってるんだし、自己紹介しましょう。私はイルザ。あなたは?」
「私はサクラよ」
イルザの自分を見つめる視線が妙に刺々しい気がして、サクラは落ち着かない気分になった。
「そう、あなたサクラって言うのね。チェリーブロッサム――ニホン的な名前なのね」
「よく言われるわ。あなたも素敵な名前ね」
「ありがとう、サクラ」
優美に微笑む顔は、美しさに華やかさを彩るものだった。ただどうしてか、その笑顔の奥に冷ややかなものを感じるのは気のせいだろうか。
「ところで、あなたにはお礼を言わなきゃいけないの」
イルザが自身の胸に手を当てて、大げさに首を振った。
「あなたが私に? 申し訳ないけど、どこかで会ったことが?」
疑問に思って尋ねるサクラを見返し、イルザはネイルと同じ色のルージュが引かれた唇を吊り上げた。
「あなたのアレックスを借してもらって、ありがとう」
心臓が止まるかとサクラは思った。目の前の妖艶な女性は、サクラの反応を楽しむように言葉を続けた。
「誤解しないでね。別にあなたとアレックスに分かれて欲しい、なんて言うつもりはないの。ただ彼と私はお互いに楽しんでいるだけだから。この意味、分かるでしょう?」
さっきから感じていた刺々しさや冷たさの原因をサクラはようやく理解した。今目の前で自信たっぷりに微笑む赤毛の女性が、あの電話の相手だと気付いたのだ。
「彼って、見た目によらず凄く情熱的よね。明け方まで離してくれない時があるの。困っちゃうわ」
はぁ、とわざとらしく溜息をつくイルザを見るサクラの表情は、どんどん抜け落ちていっている。
いまや完全に無表情になってしまったサクラを見たイルザは、片眉を意味ありげに吊り上げると、フッと小さく笑った。
「それじゃあ、私は失礼するわ。邪魔してしまって、ごめんなさいね」
座ったときと同じようにゆったりと立ち上がると、イルザは飲みかけのコーヒーをそのままにカフェを出ていった。
残されたサクラは血のような色のルージュの痕が付いたカップを睨みつけていた。そして自身の手の中にあったカフェモカをグルリと乱暴にかき混ぜると、一気に飲み干した。