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 アレックスの日常は、概ねいつもと変わりなく進んでいた。

 昼間は善良な一般市民として、夜間は悪を打ち砕くヒーローとして。

 相変わらず、メディアは空を飛ぶ謎のヒーローを面白おかしく批評するだけだったが、アレックスは自分が信じる正義を貫き通す日々だった。

 そんな平凡を装った非凡な生活を送るアレックスは、ある日トラブルに巻き込まれた。

「どういうことだ! ペンシラーに別のライターのデータを渡すとは!」

 編集長がいつも以上にがなり立てるのも仕方ない。締め切りが近付いていたのだが、あるライターがなかなかシナリオを書き上げず、ようやく出来上がったと思えば今度はそのデータを本来受け取るべきペンシラーではない、別のペンシラーへと渡されたのだ。現場は混乱状態に陥っていた。

「すみません。先程データを送り直したところです」

 してはならないミスを犯したのは、アレックスのアシスタントでもあるイルザだった。彼女は元より白い顔を一層白くさせて編集長に謝罪していた。

「当たり前のことを報告するなと言っているだろうが! アレックス! ルイスの着彩データはどうした!」

「さっき受け取ったばかりです。今ケイソンがレタリングに取り掛かってます」

 怒号が飛び交う中、アレックスは冷静に自身のすべき事、そしてこれから起こるであろう事態を頭のなかで分析していた。

「とにかくオリバーの尻を叩いてこい! あの豚のようなデカイケツを四つに引き裂かれたくなければ、すぐに原稿を仕上げろとな!」

 言い終えると、編集長は肩を怒らせて編集長室へと戻っていった。フロアにいた部下たちも、それぞれの仕事へと戻っていく。

「アレックス、本当にごめんなさい。私ったら、とんでもないミスを……」

「謝るのは後だよ。それよりオリバーの所に行こう。彼の自宅はここからそう遠くないから、直接原稿データをチェックして持って帰ったほうが早い」

 謝るイルザを制止し、アレックスは鞄とジャケットを取ってフロアを飛び出した。イルザも慌ててその後に続いた。





「おかしいと思ったんだよ! 急にシナリオが変更されたにしても、キャラの名前も設定も全然違うものになってたんだから。でも他のペンシラーが急病かなにかで描けなくなったから、ぼくの所に回されたのかと思って、途中まで描いちゃったよ」

 ブツブツと文句を言いながらも、両手を猛スピードで動かしながらタブレットを操作し、モニタの中で下書きを仕上げるオリバーに、アレックスは申し訳なかったと謝った。

「言い訳にもならないけど、最近ちょっと編集部も色々と問題が山積みでね。いつも素晴らしい作品を作り上げてくれている君たちには本当に感謝しているんだ」

「問題ってアレだろ? 謎のコミック作家の”ヤナギ・ユキ”のことだろ?」

 ペンシラーとして評判の高いオリバーも、”ヤナギ・ユキ”の存在が気になっていたようだった。

「編集長は本気で彼女(、、)をスターコミックス社に引き抜けると思ってるのか? ES社ですらまだコンタクトを取れてないみたいなのに」

 モニタから視線を外さずにオリバーが言う。二人の遣り取りを黙って聞いていたイルザが、思わず疑問を口にした。

「あの、どうして”ヤナギ・ユキ”が女性だと?」

 そこでオリバーが初めて手を止め、アレックスとイルザを見た。そして今イルザの存在に気がついたと言わんばかりに、小さな丸い目を見開いた。

「アレックス、誰だこの美女は? スターコミックス社はファッション雑誌の部門でも立ち上げたのか?」

「そんなわけないだろうオリバー。彼女はこの前入社したばかりで、今は僕のアシスタントとして付いてもらってる」

「イルザ・ヴィットよ。よろしくミスター・オリバー」

 優美な仕草で差し出された手に、オリバーは反射的に手を差し出しかけたが、既のところでとどまると、急いでハーフパンツで掌を拭うと、改めて彼女の手を握り返した。

「はじめまして、イルザ。君みたいな美女が、オタクの巣窟のコミックス社に来てくれるなんて、誰も思ってなかっただろうさ」

 丸々とした顔に笑みを浮かべると、オリバーはその体格と雰囲気もあって人好きのする朴訥とした青年に見えた。

「あの、さっきの話しだけど、どうして”ヤナギ・ユキ”が女性であると思ったのかしら?」

「なに? どう見ても聞いても女性としか思えないよ」

 確信を持った物言いに、アレックスもさすがに黙っていられずに問いかけた。

「見ても聞いても?」

「そうさ。君たち、彼女の作品を読んだことないのか? 一見大胆な構図と動きのある描き方は男性的に見えるけど、繊細で緻密なペンタッチと色彩は女性的だ。だから女性に決まってる」

 モニタに視線を戻しながらオリバーが断言する。

「それだけで女性と決めつけるのは――」

 アレックスが言いかけると、オリバーは鼻を鳴らして肩をすくめた。

「名前も女性的だからだよ。それもニホン人っぽい名前だ。彼女の描く作品は、随所にマンガ的(、、、、)な表現が散りばめられている。あ、マンガはニホンのコミックスのことだけど、それくらい知ってるだろ?」

 既に決められたページ数の半分を描き終えようとしているオリバーが、当たり前だと言わんばかりに言った。

「マンガってコミックスと違って、すごく独特だよね。なんでもアリだし、絵柄も繊細なものから力強いタッチのものまであるし、何よりジャンルが尋常じゃないほど豊富なんだ。ぼくもよく読むし、刺激を受けてるよ」

 アレックスはしまったと思っていた。自分一人だけならまだしも、今日はイルザも付いてきている。オリバーの話しを彼女が編集長へと報告する未来を想像し、痛むはずもない頭が痛くなる錯覚に襲われた。

「”ヤナギ・ユキ”の作品は、マンガとコミックスのいいとこ取りみたいな感じかな。悪い意味じゃなくてね。うまく融合しているというか、独自の発展を遂げているような感じ」

 画面の中で躍動するヒーローとヴィラン達を見つめながら、アレックスは意外なところから”ヤナギ・ユキ”の正体がバレかけているのに焦っていた。”ヤナギ・ユキ”――サクラのことは、家族と彼女の編集担当以外、その存在はトップシークレットだ。

 だからこんな場所で、しかも自分以外のスターコミックス社の人間がいる状況で、その正体を明かされるのは非常に不味い。

「君の観察眼には脱帽するけれど、時間が差し迫っているということを少しだけ意識してくれると、ありがたいんだけど」

 アレックスはわざとらしく咳払いをした。オリバーは首を振ってうんざりした口調で言った。

「ぼくが悪いわけじゃないだろ。ライターのデータを間違えて送ったのは君たちの方じゃないか」

「……それは、本当に申し訳ないと思ってるわ」

 罪悪感を刺激されたのか、イルザが気不味そうに片腕をもう一方の腕で握りしめた。美しくネイルを施された爪が服に食い込んでいる。

 オリバーはまたもや意外そうな口調で言った。

「君が? 君が間違えた張本人だったのか? それは、なんとも――いや、仕方ないさ。人間ってのは、間違いを犯す生き物さ」

 相手が美女だと、男なら誰だって多少のミスを許したくなるものなのだろう。アレックスはオリバーの現金さと、話題を逸らすことができてホッと内心ため息をついた。

 そしてオリバーが残りのページを全て描き終えると、アレックスはデータの入ったUSBをしっかりと鞄にしまい込み、イルザと共に会社に戻るためにタクシーに乗り込んだ。

 タクシーの中でラップトップからデータをインカーに送信していると、黙って様子を伺っていたイルザが話しかけてきた。

「改めて言うわ。今回のことは本当にごめんなさい。私のせいで、あなたにも凄く迷惑をかけてしまったわ」

 アレックスはラップトップからチラリと視線をイルザに向けると、またモニタへと視線を戻した。

「オリバーも言ってたように、失敗は誰だって犯すものさ。僕だって、新人の頃はいろいろやらかしたしね」

 小さく笑うアレックスに、それでもイルザの声は沈んでいた。

「私は違うわ。前職でのスキルを買われてこの会社に入ったもの。どんなミスでも致命傷になりかねないわ」

「差し支えなければ、前はどんな仕事をしてたか聞いても?」

「ファッション雑誌で副編集長をしてたの」

 初めに会った時に抱いた感想は間違っていなかったのだと、アレックスは微かに笑った。それを目に留めたイルザが、怪訝そうに尋ねてくる。

「なにか変なこと言ったからしら?」

「いいや、なんでもないよ。それより、あまり肩に力を入れ過ぎないでやればいいさ。編集長はあんな人だけど、ちょっとのミスで今すぐどうこうするような人じゃないからね」

 短気で口の悪い編集長だが、許容できる範囲を見極める目は持っている人物だとアレックスは知っている。

「本当に、あなたってどこまでも良い人で優しいのね」

 ふっとイルザは肩の力を抜きながら、吐息のように呟いた。アレックスはそれに聞こえないふりをしたのだった。




◇ ◇ ◇ ◇ 




「アレックス、今日帰りにみんなで飲みに行こうって話してたんだ。イルザの歓迎会を兼ねてさ」

 仕事を終えたジョンがアレックスを誘いにやってきた。アレックスは申し訳なさそうに眉尻を下げ、断りの文句を言おうとしたのだが、それを遮るようにジョンが言葉を被せてきた。

「おっと、理想的なファミリーマンも結構だが、たまには仲間と遊ぶのも大事だと思うぜアレックス」

 ジョンの言うことも最もなのだが、家族のこと、そして夜間のヒーロー活動の事を考えると、素直に頷くこともできない。

 困っているアレックスに、イルザも控え目ながらも誘いをかけてくる。

「今日はあなたに救われたから、私から一杯奢らせてもらえると嬉しいんだけど。だめかしら?」

 期待の篭ったジョンとイルザに見つめられると、さすがにノーと言えるはずもなく、アレックスは苦笑しつつも受け入れた。

「分かった。妻に電話を掛けたら行くよ」

「よし来た! じゃあ、いつものバーで乾杯だ。先に行ってるからな」

 ジョンがイルザと他の同僚たちを引き連れフロアを出ていくのを見送りながら、急いでアレックスは家へと電話を掛けた。

「――あぁ、サクラかい? 僕だよ」

『アレックス。どうしたの?』

「じつは、今日仲間に飲みに行こうって誘われて。帰りが遅くなると思うんだけど、大丈夫かい?」

『まぁ、珍しい。えぇ、大丈夫よ。あなたも最近忙しそうだったし、楽しんできてちょうだい』

「ありがとう、ダーリン。子供たちは悪さしてない?」

 電話の向こうでサクラがクスクスと笑う声が聞こえた。

『あの子達がイイ子(、、、)だった時って、あったかしら?』

「それもそうだ」

 アレックスも思わず笑う。

『家のことは心配しないで。私も仕事が一段落したところだから、今日はあの子達と一緒に映画かドラマでも見ようって言ってたところなのよ』

「なにを観るんだ?」

『ケイトはタングルドが見たいらしんだけど、エリックはウォーキング・デッドが見たいんですって』

「タングルドにしておいて。ウォーキング・デッドは絶対ダメだ」

 低い声音で唸るように言うアレックスに、サクラがカラリと笑う。

『分かってるわよ。大丈夫、さっきエリックにもダメって言っておいたわ。今はしかめっ面でスマホを弄ってるわ』

 目に浮かぶような光景に、アレックスも苦笑する。

「それじゃあ、そろそろ切るよ。あんまり子供たちを夜更かしさせないようにね」

『えぇ、勿論よ。あなたも羽根を伸ばしてきて』

 愛してる、と互いに言葉をかわし、アレックスはスマートフォンの通話を切った。





 バーで酒を飲むのは久しぶりだな、とアレックスは思った。

「イルザ、君みたいな賢くて美しい人が、どうしてウチなんかにやってきたんだい?」

 ジョンや他の同僚の質問攻めに合っているイルザは、それでも嫌な顔ひとつせず、人当たり良く答えている。

 ビールを煽りながらその光景を眺めつつ、夜のノイジーシティに蠢く悪の気配をアレックスは無意識に探っていた。

 小さないざこざはあるようだが、今のところ大事になるような事件は起きていないようだった。アレックスの超人的な聴覚は、危険を察知していなかった。

「アレックス、もっと飲まないの?」

 同僚たちの輪から抜け出したイルザが問いかけてきた。

「あぁ、僕はこれで充分だよ。あまり強くないからね」

 そう言ってアレックスはビール瓶を振った。実際のところ、強くないどころではなく、どんなに強い酒を飲んだところで、アレックスの特殊な体は酔うことなど出来ないのだった。

「そうなの。でも、これくらいなら大丈夫でしょ?」

 イルザがウィンクしながら、バーテンダーに注文する。そして出されたのは、レッドアイだった。

「ありがとう、いただくよ」

 真っ赤な液体で満たされたグラスを傾けるアレックスをイルザは満足げに見つめている。

 なんとなく気不味くて、アレックスは「おいしいよ」などと当たり障りのない言葉を返した。

 そうして暫く飲んでいると、ジョンは他の同僚と大声で会話を交わし、また別の同僚は手当たり次第に女性に声をかけたりと、好き勝手に行動していた。

 イルザを見れば、彼女は随分と早いペースでグラスを空けていて、それも強い酒ばかり注文しているようだった。

「そんなに飲んで大丈夫かい?」

「心配してくれるの?」

 カウンターに肘をつき、わずかに赤く色づいた目元でイルザが問いかけてきた。先程よりも近くなった距離にアレックスは居心地の悪さを感じる。こんな時にスマートに対処する方法をアレックスは知らなかった。

「そうだね、君が明日二日酔いで仕事に来られないなんて事になったら、それこそ僕が編集長に怒鳴られるよ」

 編集長の(いかめ)しい顔付きを真似ながらアレックスが言うと、イルザが可笑しそうに笑った。

「ねぇ、私のことは昼に話したから、あなたの話しを聞かせてよ」

「僕の? 人に話せるほどのたいした経験なんてしてないよ」

「なんでも良いわ。うん――そうね、どうしてスターコミックス社に勤めようと思ったの?」

 バーテンダーから新たにグラスを受け取りながら、イルザが尋ねた。

「あー……コミックスが好きだったから、じゃ平凡すぎるかな?」

「そうね、平凡すぎるかも。でも好きなら自分で描こうって思わなかったの?」

「僕にコミックスを描く才能なんてないよ。それに僕は才能ある作家たちの側で、彼らのサポートをしながら作品を一緒に作り上げていく方が性に合ってるんだ」

 グラスの底に残った氷をかき混ぜながらアレックスは言った。

「凄く情熱的なのね。そう思うような切っ掛けって、あったの?」

 イルザの問いに、アレックスは頭の奥に大切にしまわれている、過去の記憶を刺激された。

「きっかけか……あるけど、話すのは恥ずかしいかも」

「大丈夫、笑ったりしないわ」

 アレックスの腕を軽く叩き促すイルザに、彼は逡巡したあと口を開いた。

「ハイスクールでね、一人の才能あふれる女の子に出会ったんだ」

 今よりも髪が短くて、でも変わらず当時もサラサラと滑らかな黒曜石のように輝く髪が印象的な女の子。

「彼女は物静かで感情を表にあまり出さない子だったんだ。だけど、親しくなっていくうちに、彼女が自分の描いた作品を僕に見せてくれるようになったんだ」

 切れ長の瞳を恥ずかしそうに細めながら、手渡されたスケッチブック。彼女がいつも持ち歩いていた物だった。

「衝撃を受けたんだ。紙の中で描かれている世界なのに、僕が生きていた世界と同等――いや、それ以上に活き活きとした世界でキャラクター達が動き回っていたんだ」

 気弱そうだが仲間思いで芯の強い主人公、彼をさり気なく助けて共に困難に立ち向かう仲間たち。鉛筆で描かれた彼らに色は無かったけれど、たしかに紙の中で彼らは鮮やかに息づいていた。

「僕の中で色んな衝動が生まれた。でも僕は彼女のように何かを生み出す能力なんて無かったんだ。凄く苦しくて、悩んだ僕に彼女はアドヴァイスしてくれたんだ」

 いつもの無表情に近かった彼女が、ほんの少し――けれども柔らかく微笑みながら言った。

「”だったらあなたは作品を生み出す人の手助けをしたらどう?”ってね」

 彼女にすれば本当に些細な言葉だったのだろう。アレックスがその言葉を胸に抱いたまま、カレッジを卒業してスターコミックス社に就職したことを彼女に告げた時の顔を今でも彼は憶えている。

 イルザはグラスの中に入っている琥珀色の液体を揺らしながら、頬杖をついてアレックスを見つめた。

「その彼女が今の奥さんってわけね?」

 反射的にイエスと言い掛け、しかし寸前でノーと言い換えた。

「違うよ。今は何をしているのかも知らない」

 本当は知っている。今頃、家で子供たちと映画を見ながらソファで寛いでいるだろう。

「素敵な話しね――あら、もうこんな時間なのね。そろそろ帰らなくちゃ」

 グラスの中身を飲み干すと、イルザはチップを置いて帰る準備を始めた。

「今日は楽しかったわアレックス。また明日ね」

「あぁ、僕も楽しかったよ。君が元気そうで良かったよ」

 昼間の失敗から立ち直れたようで、アレックスは素直に安堵していた。

「前の職場はもっと大変だったわ。これくらいでクヨクヨしてられないわよ」

 真っ赤なルージュが乗った形の良い唇を釣り上げて、不敵に笑うイルザに憂いは感じられなかった。

 彼女がジョンや他の同僚にも挨拶をして、バーを出ていこうとする姿をアレックスはぼんやりと眺めたいた。

 だがジョンがカウンターに一人でいるアレックスに気付き、急いで近寄ってきた。

「おい、アレックス! なにぼうっとしてるんだ! 彼女を一人で帰らせるとか、何考えてんだよ」

「え? いや、でも僕は――」

「夜の街を彼女一人で歩かせる気か? 紳士なアレックスはどこに行った」

「それなら君が彼女を送ってあげればいいじゃないか」

 アレックスが反論すると、ジョンがぐるりと目玉を回した。

「俺にはエミリーっていうキュートでイケてる彼女がいるの、知ってるだろ? ついでに彼女が女神ヘーラー並に嫉妬深いってこともさ」

 彼女がいることが理由ならば、既婚者である自分はどうなのだと反論したところで、かなり酔っている様子のジョンとまともな議論になるとは思えず、他の同僚の姿を探してみても、彼らも出会ったばかりの未来の恋人になるかもしれない相手に夢中で、誰ひとりとしてアレックスの味方になってくれるようには見えなかった。

 アレックスは溜息をつくと仕方なく頷いた。

「わかった。送っていくよ。送って、僕はそのまま何事もなく家に帰る。これでオーケー?」

「オーケー。ほら、行って来い」

 ジョンがバシンと背中を叩くが、痛みはまったくなく、むしろ叩いたジョンが「イテェ!」と呻いていたが、アレックスは無視してさっさとバーを飛び出したのだった。





 通りに出ると、イルザが夜の闇に溶けるように歩く姿が見えた。アレックスは慌てて彼女に追いついて話しかけた。

「イルザ、一人じゃ危ないから送るよ」

 急に話しかけられて驚いたのか、イルザの肩が大きく跳ねた。

「びっくりさせないでアレックス。変質者でも現れたのかと思ったわ」

「すまない。そうならないためにも、送っていくよ。ここから家は遠いの?」

「二駅乗るだけですぐよ。それよりあなたも帰らなくていいの? 奥さんが心配してるんじゃない?」

 再び歩き出すイルザに合わせて、アレックスも隣を歩く。

「君を駅まで送ったら連絡するよ。それよりいつも地下鉄で会社まで?」

「派手なスポーツカーで無謀な運転をしてそうに見えるんでしょ」

 意地悪く微笑むイルザに、アレックスは慌てて違うと否定した。いや、内心ほんの少しだけ、そんなイメージを持っていたのは否定出来ないのだが。

「本当はバスで通勤したいんだけど、採用されたばかりの私に会社はそこまでの面倒は見てくれないもの。毎日ウンザリしながら、人にもみくちゃにされながらの通勤よ。あなたは?」

「僕は子供を送るときは車だけど、基本は自転車か徒歩だよ」

「朝からそんなエネルギーがあるなんて羨ましいわ。私なんて――」

 その時、辺りに悲鳴が響き渡った。アレックスは咄嗟にイルザを庇うようにして前に立ち、神経を一瞬のうちに張り詰めさせた。

「なに、今の……」

「しっ! 静かに」

 小声でアレックスが言い含める。視線は暗闇の中を油断なく走り、聴覚は少しの物音も聞き逃すまいと研ぎ澄まされている。

 衣擦れの音、何かを引き摺るような鈍く重い音、そして一人分の足音――音の聞こえる方へと視線を向けると、暗闇に包まれた路地の角から人影が躍り出るのを確認した。

 街灯のない中でも、アレックスにははっきりと姿が視認できた。

 飛び出してきた人物は、頭に黒い目出し帽を被り、革のジャケットにストレートパンツを纏っていた。どちらも黒だ。

 体格や動きを見ても、相手は男だろう。怪しさに溢れた男はアレックス達の方をチラリと見た。

 咄嗟に動き出そうとしたアレックスだったが、背後にイルザが居るのを思い出して踏みとどまった。ここで追いかけて彼女を一人にするのも不安だが、それ以上に自分の夜の姿(、、、)を見せるわけにはいかないと判断したからだった。

 男はすぐにその場を去っていった。アレックスは男の足音を辿るために神経を集中させていたが、後ろのイルザがそれを遮るように話しかけてきた。

「だれ? 今だれか向こうの角から出てきたわよね?」

 微かに震える声でイルザが問いかけてくる。

「僕が様子を見てくるから、君はここでじっとしてるんだ」

 イルザが返事をする前に、もうアレックスは動き出していた。

 男が飛び出してきた路地へと辿り着くと、ハッとしたようにアレックスの動きが止まった。しかしすぐに彼の足は路地の奥へと進んでいく。

 建物から漏れ出る明かりさえも届かないその場所は、完璧な闇に支配されていたが、アレックスの瞳はその場所で倒れている人を発見してしまった。

 近づく前に、アレックスは倒れる人物が既に息絶えていることに気付いていた。彼の聴覚は、倒れる人物の鼓動を捉えていなかったのだ。息遣いも、微かな筋肉の擦れ合う音さえもなく、沈黙のまま、その人は地面へと仰向けに横たわっていたのだった。

 そっと死体の側に跪くと、アレックスはその異様な状態に眉をしかめた。そして脳内でしきりに警戒を発するシグナルが行き交うのを感じていた。

 ――死体は干からびていた。まるでミイラのように。

 そして最も目を引くのが、喉元を横断するように切り裂かれた痕。だが血の一滴も見当たらない。完全に乾ききった、まるでドライフードのようにカラカラの皮膚。

 異常な死体を前に思考を巡らせていたアレックスの背後で、女性の叫び声が聞こえてきて慌てて振り返ると、イルザがすぐそこで震えながら青褪めて立っていた。

「それ……それって!」

 アレックスは厄介な事になったと思いながら、ジャケットからスマートフォンを取り出し、911へとダイヤルしたのだった。





 警察からの聞き取りは、思っていたよりも時間がかからなかった。発見された遺体がどう見ても普通ではない殺され方をしており、おまけに発見者であるアレックスとイルザがバーで飲んでいた時間よりも、ずっと前に死亡していたであろうと思われたからだ。

 二人は警察官に事情を説明し、彼らも二人の発言の内容の裏付けを取ると、割とすぐに開放してくれたのだった。

 ただイルザは目に見えて怯えて疲弊しており、そのまま一人で帰すのも忍びなく、アレックスはいつも通りの親切心で彼女のアパートまでわざわざ送り届けてあげた。

 アパートの彼女の部屋の前で別れるつもりが、気付けば部屋の中に入り込んでいたと気付いた時、異性関係に不慣れなアレックスも流石に不味いと思った。

 しかしイルザが青褪めた顔で震えながら行かないで、と胸に飛び込んできて懇願してくるから、彼の中の親切心と正義感、そして罪悪感が反発し合った。

「イルザ、怖いのはよく分かる。僕だって情けないけど、本当はすごく怖いんだ」

 彼女にキッチンで淹れた水を差し出しながらアレックスが説得する。

「僕が部屋を出た後、ドアにしっかりと鍵をかけて、それからホットミルクでも飲んで今日は眠るんだ。朝になったら気分も良くなってるはずだよ」

 今晩見たことは、悪い夢だと思って、今だけは忘れるんだ――そう言いながら、アレックスはそっとイルザの腕を掴んで自分から引き離した。鼻腔に甘さとスパイシーさのある香水の匂いが残った。

「いいかい? 今晩は誰が来ても絶対にドアを開けちゃダメだよ。窓もしっかりと閉めて、カーテンも引くんだ」

 宥めるように肩を叩き、そしてようやくアレックスは立ち上がった。

 だがその時、ソファに屈み込んだままのイルザの胸元が見えてしまい、アレックスは慌てて視線を反らした。彼女の白い胸元に特徴的なタトゥーが刻まれているのが、妙に目に焼き付いたのを気不味く思いながら。

「僕は帰るよ。怖いだろうけれど、朝まで我慢して。何かあったら直ぐに警察に連絡するんだ。あぁ、僕の番号も教えておくよ」

 部屋を見回して洗練された彼女にしては、アンティークなデザインのキャビネットの上に置かれていた紙とペンを借り、そこへ自分のスマートフォンの番号を書いて彼女の手の中へと押し込んだ。

「イルザ、また明日」

 虚ろな瞳で見上げる彼女に心苦しい思いをしながらも、アレックスは直ぐにでもこの部屋を出たくてたまらなかった。何も悪いことはしていないのに、ここにはいないサクラの姿が先程から脳裏をチラチラと過ぎって落ち着かないのだ。

「ごめんなさい、アレックス。我侭を言って引き止めてしまって……また明日」

 無理に微笑むイルザに手を振り、アレックスは彼女のアパートからようやく脱出することができた。

 そのまま人通りのない路まで歩くと、アレックスは辺りを見回してから、地面を蹴り上げると一気に上空へと飛び立った。





「なんだと? また変死体が発見されただと? それも君が発見者とは!」

 博士の隠れ家で、アレックスは先程までの出来事を急いで説明した。博士は険しい顔で話しを聞いていた。

「まさか、僕も死体の発見者になるとは思ってなかったよ。でもどう見ても、博士に見せてもらった資料と同じ死に方だった」

「哀れな被害者が何を盗まれたかは分かったのか?」

「いいや、分からない。現場には不審な男がいただけだったし、そもそも彼が何者で、何を所持していたかなんて、さすがに僕も分からないよ」

「あぁ、それもそうだな。しかし犯人の見当もつかないとは、動きようがないな」

 苛立つように博士がカツカツと指先で机を叩いている。

「博士はあれから新しい情報を見つけられた?」

「残念ながら、たいした成果はないと言わざるをえんな。用心深い犯人らしく、事前に犯行現場にある監視カメラは全て破壊されていたよ。相手が普通の一般人の場合ならまだしも、盗んだ物品の中には高価な品もある。当然警備も厳重だが、そこでも証拠を残さず盗み取り持ち主を殺害している。ただの強盗犯とは思えんな」

 話しを聞きながら、アレックスは顎に手をやり考え込んでいた。今日、自分が死体を発見したのは、果たして偶然だったのだろうか?

「とにかく私は引き続き情報収集に奔走するよ。アレックス、君はこんな時間なのに家にいなくてもいいのか?」

 博士に言われて初めてアレックスは我に返った。時計を見れば、帰る予定の時刻をとっくに過ぎている。

「しまった、サクラに連絡するのを忘れていた!」

 慌てて出ていこうとするアレックスを博士は引き止めた。

「これを持っていくんだ。新しい装置だよ」

 弧を描いて飛んできた物体を難なく受けとめて見てみると、ラテックスのような感触の楕円形の平べったい物体だった。

「これは?」

 問いかけると、博士はニヤリと意味ありげに口角を上げたのだった。





 すでに家族は眠っているのだろう、家の中に入ったアレックスは音を立てないようにリビングへと向かった。

 中を覗き込むと、ソファの上でサクラが肘掛けにもたれ掛かったまま寝入っている。テレビは点けっぱなしのままだったが音はなく、アレックスはリモコンでテレビを消すと、サクラを起こさないように慎重に体を抱き上げてリビングを出た。

 階段を登っている途中、腕の中のサクラが小さく身動いだ。

「ん……アレックス?」

「すまない、起こしちゃったね」

 眠たげにぼんやりと自分を見上げるサクラは、いつものしっかり者の妻ではなく、随分と無防備で幼く見えた。

「随分とお楽しみだったようね。子供たちもとっくに眠ったわよ」

「ごめん、色々と事情があって帰るのが遅くなってしまったんだ」

 不思議そうにするサクラを寝室まで運ぶと、静かにベッドの上に下ろした。

「なにかあったの?」

「今日はもう遅いから、明日話すよダーリン」

 額に優しく口付けてから離れていこうとするアレックスを、何故かサクラは腕を掴んで引き止めた。

「アレックス、あなた――」

「なに?」

 続きを促すが、サクラは視線を僅かに彷徨わせると、ふっと体の力を抜いてベッドに背を預けたのだった。

「なんでもないわ。それより明日も仕事でしょ? あなたも早く寝たほうが良いわ」

「あぁ、シャワーを浴びてきたらすぐにそうするよ」

 サクラの頬を優しく撫でてから、アレックスは寝室を出ていった。

 その時、彼は気付いていなかった。妻が自分の背中を険しい顔で見つめていたことを。





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