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子供たちを無事学校まで送り届けたあと、アレックスは勤めるコミック出版社へと向かった。
駐車場に車を止め、ロビーまで上がって受付の前を通り抜けると、そのままエレベーターへと乗り込んだ。
「よう、アレックス。なんだ、今日も車で来たのか?」
人でひしめき合うエレベーターの中で、隣から話しかけてきたのは同僚のジョンである。
「おはよう、ジョン。そうなんだ。今日は妻の体調がちょっと心配でね、僕が代わりに子供を送ってきたんだ」
「それ、昨日も言ってただろ。お前の奥さん、そんなに体の弱い人なのか?」
「いいや、そういうわけじゃないんだけどね。あぁ、それより昨日のデートはどうったんだい?」
話題を振られたジョンは、途端に相好を崩した。
「聞きたい? 仕方ないなぁ、俺の大切なダチだもんな、お前は。そりゃあ、昨日はさ――」
そうして自分の話しから上手く話題転換できたことをホッとしつつ、目的のフロアに着くまで同僚ジョンの惚気話を延々と聞く羽目になったのだった。
編集部のフロアに入ると、皆が忙しそうに動き回っている。これもいつもの光景だった。
ただ今朝はアレックスがフロアに足を踏み入れて数分も経たないうちに、様子が変わった。
「みんな、ちょっと集まってくれ!」
耳触りなだみ声で大声を張り上げたのは、このフロアのボスでもある編集長であった。
「あー、また編集長のスピーチが始まるぜアレックス」
ジョンが小声でうんざりとした様子で耳打ちしてくる。
編集長は皆の視線が集まったのを確認すると、右手に持っていた雑誌を高々と掲げた。
「これが何か、貴様らは分かるか!」
まるで軍隊の上官のような話し方をするのは、編集長の癖だった。彼いわく、その昔軍で兵士として戦っていたらしいのだが、実際のところどこまで本当の話しなのかは、このフロアにいる者誰ひとりとして知り得なかった。
「よく見ろ! マーカス! これは何だ!」
突然答えを求められた哀れなマーカスは、狼狽えながらも答えを返した。
「リバーサルコミックス社のコミックスです編集長」
「そうだ! あの、リバーサルコミックス社の、今月発刊されたものだ! 問題はそこじゃない。この表紙にも描かれている、コミックスのことだ!」
今にも雑誌を投げつけようかという勢いで、編集長は腕を振り回している。手の中にある雑誌の表紙には、躍動感溢れるコミックヒーローが緻密で繊細ながらも、大胆な構図と鮮やかな色彩で描かれている。
「我々は、一体なんだ! 答えろエマ!」
次の生贄は入社して一年のエマだった。彼女はおずおずと編集長が求めているであろう答えを必死に考えて口にした。
「スターコミックス社です。あー……アメリカでも歴史ある、コミックス出版社です編集長」
「そうだ! 我々は国内でも一二を争う大手コミック出版社だ。翻って、この私の手にある雑誌を発行している出版社はなんだ! リバーサルコミック社だと? 私の知る限り、小さなヒットをいくつか飛ばしただけの、吹けば飛ぶような弱小出版社だったはずだ」
そこでひと呼吸置くと、意味ありげに部下たちを見回すと、編集長はいつも以上の顰め面を披露しながら怒声を上げた。
「だが今はどうだ! こんな我々の足元にも及ばん弱小出版社に連載されているコミックスが、そうだ、たった一つの――一つだぞ貴様ら!? 一つの作品で、ついに先月、我々の発行部数を越えたんだ!」
バシン、と怒りのままに床に雑誌を叩きつけると、編集長は忌々しげにそれを睨めつけた。
「私は何度もこのコミックを呼んだ。オーガマンという、作品を。あぁ、何度読んでも忌々しいほどにクソ面白い、この作品をだ!」
床に叩きつけた雑誌を拾い上げると、編集長は憎悪と別の何かが混じった表情で表紙を見つめている。
「だがしかし! オーガマンの生みの親でもある”ヤナギ・ユキ”の情報は、いつまで経っても私の耳に届くところが掠りもせん! 私は言ったはずだ。あぁ、言ったぞ。どんな手を使ってでも、この謎のコミック作家、”ヤナギ・ユキ”の情報を持って来いと! だがどうだ? 貴様らが私にもたらす情報は、毎日クソのような仕事の話しばかりだ。誰がそんな情報にもならん物を聞かせろと言った? 貴様らの頭の横に付いてる物はなんだ? 愉快なクリスマスツリーの飾りか!?」
今度は雑誌を手近にあった机にバシバシと叩きつける編集長に、フロアに居た部下たちは皆黙って様子を見届けるだけだった。
編集長が癇癪を起こすのは今に始まったことではない。些細な事でよく怒り、部下をやたらと叱責する。
だがそんな彼はここ数ヶ月、特に酷い癇癪を頻繁に起こすようになった。それはひとえに、件の謎のコミック作家の件によって、引き起こされるのだった。
「貴様らのあるかないか分からん脳みそで考えてみろ! この”ヤナギ・ユキ”を我が社に引き抜き、新たに看板作品を描かせる未来を思い描いてみろ! 今よりもっと我々スターコミックス社は有名になり、そしてあの憎っくきESコミックス社を叩きのめすことが出来るんだぞ貴様ら!」
ESコミックス社は、スターコミックス社と長年ライバル関係にある。だがその均衡を崩すように突如として現れたのが、謎のコミック作家を抱えるリバーサルコミックス社である。編集長のみならず、上層部もこの出来事には並々ならぬ関心と警戒心を抱いているのが現状だった。
「このネットワークが発達した現代で、どうして誰も”ヤナギ・ユキ”の正体をつかむことができんのだ! そもそも何だこの奇妙な名前は!? アジア系作家というのは分かっている。うむ……あぁ、そうだ。この作家はチャイナ系に決まっている。もしくはベトナム系だ。昔ベトナムで戦った私には分かるぞ」
「……”ヤナギ・ユキ”って、どう聞いてもチャイナ系じゃないよな? もちろんベトナム系でも。 な、アレックス」
編集長のスピーチと言う名の愚痴大会を尻目に、ジョンが小声でアレックスに話しかける。
「そうだね。きっと編集長にはアジア系はみんな一纏めに、同じ様に感じるんだろうね」
アレックスが小さく肩をすくめる。
「ていうかさ、そもそも編集長がベトナムで戦ったって話しも本当か疑わしいぜ。この前なんて、日本兵と戦ったことがあるって豪語してたし。このまま行くと、いつか南北戦争を戦い抜いたとか言いかねないぞ」
ジョンが呆れたように目玉をぐるりと回す。アレックスは笑いをこらえた。
「とにかく情報だ! 何が何でもこの”ヤナギ・ユキ”の情報を持って来い! 有益な情報を私にもたらした者には、特別報奨をくれてやる!」
辟易と編集長の言葉を聞いていた部下たちが、途端に色めきだった。編集長はその反応に満足そうに頷くと、ふとアレックスと視線を合わせた。
今度の生贄は自分かと警戒していると、編集長は幾分落ち着いた調子でアレックスを呼びつけた。
「アレックス! 貴様に用がある。来い!」
ジョンや他の同僚たちの哀れみの篭った視線に晒されながら、アレックスは言われたとおりに編集長室へと向かった。
中に入ると、椅子にふんぞり返るようにして座る編集長の横に、一人の女性が立っていた。
「自己紹介しろ、イルザ」
簡潔に命令すると、イルザと呼ばれた女性が前に進み出て自己紹介を始めた。
「こんにちは。今日から一緒に働くことになったイルザ・ヴィットよ。よろしくね」
編集長と同様に簡潔な自己紹介を終えたイルザは、アレックスへと手を差し出した。
「こんにちは、ミズ・ヴィット。僕はアレックス・ギルバートだ。こちらこそ、よろしく」
握手を返すと、イルザは小さく笑った。その拍子に、艶やかな赤毛の巻き毛がふわりと揺れた。
客観的に見ても彼女は非常に魅力的な女性だった。品の良いスーツは豊かな体の曲線を見事に描き出していたし、スカートから伸びるタイツに包まれた足も美しく引き締まっていた。
「ミズ・ヴィットなんて堅苦しいのはやめて。私のことはイルザと呼んでちょうだい、アレックス」
クスクスと笑うイルザは、妙な色香を感じさせる女だった。アレックスは些か緊張した面持ちで、「それじゃあ、イルザと呼ばせてもらうよ」と律儀に答えた。
「よし、感動的で無駄な自己紹介は終わったようだな。では要件を言うぞ。アレックス、今日からイルザはお前のアシスタントだ。彼女がとっとと一人で仕事をこなせるようにお前が教育しろ」
編集長の言葉にアレックスが目を丸くする。
「僕がですか? あの、こう言ってはなんですが、僕以外にも適切な人材がいると思うのですが」
「ここのボスはこの私だ。適切か適切ではないか、判断するのは貴様ではない。話しは以上だ。とっとと行け!」
短気な編集長は、二人をまるで犬でも追いやるようにして手を振って追い出した。
編集長室から出た二人は、少しの間無言になったが、アレックスは気を取り直してイルザに向き直った。
「えーっと、あぁ……それじゃあ、僕が仕事の流れを説明するから、君はそれを見て覚えていってくれるかな?」
「えぇ、わかったわ、ボス」
イルザが悪戯っぽく口元に笑みを浮かべると、アレックスは苦笑する。
「ボスはやめてくれ。君に仕事のやり方を教えるだけで、立場は一緒なんだからね」
「わかったわ、アレックス。あなたって、とっても真面目で優しい人みたいね」
意味ありげな視線で見つめられたアレックスは、女性との接し方に慣れていないがために、些か窮屈な思いをするのだった。
一通りの仕事の流れを説明しつつ、通常業務もこなしていると、時間はあっという間に流れて昼時になっていた。
「イルザ、僕は昼食はカフェで摂ろうと思ってるんだけど、君はどうするんだい?」
「そうね、私もご一緒させてもらおうかしら」
書類の束をまとめ上げてクリップを挟んで机に置いたイルザは、自分のデスクからポーチを掴んでアレックスへと近付いた。
「わかった。あぁ、でもそんな大したものは期待しないほうがいいよ。その店、コーヒーとタコスは美味しいんだけど、他はちょっとオススメできない味だからね」
イルザと共にフロアを出ながらアレックスが脅すように言う。
「そうなの? でも安心して。私タコス大好きだから」
「それは良かった。おっと、お先にどうぞ」
エレベーターでドアを抑えつつ、イルザを先に促すと、優雅に彼女は中へと足を踏み入れた。
一階のボタンを押し終えたアレックスに、イルザはふふっと小さく笑う。
「あなたって、いまどき珍しいくらいに紳士なのね。もしかしてイギリス人なの?」
「僕が? 違うよ、普通のアメリカ人さ。君こそアメリカ人っぽくないよね。名前も――ドイツ系かな?」
イルザは意外そうに片眉を上げた。
「あら、私がドイツ系だって直ぐに言い当てたの、あなたが初めてだわ」
「そう? なんとなく名前の響きとかが、ドイツ系っぽいなって思っただけなんだけど。あぁ、でも気に障ったならすまない」
「いいえ、大丈夫よ。別に私は自分が何処の血を引いているかに、さほど拘るタイプじゃないもの」
イルザが言い終えてから数秒後、一階へとたどり着いたエレベーターのドアが開いた。
二人はそのままロビーを通り抜けて外に出た。昼時のノイジーシティは人でごった返している。屋台でホットドッグを買って齧り付いている人、疲れたようにバスのベンチでコーヒーを飲んでいる人、異常がないか巡回している警官たちなどで溢れかえっていた。
そんな中をアレックスとイルザは歩いていた。
「君はどうしてうちの会社で働こうと思ったんだい?」
気になっていたことをアレックスが尋ねた。
「私、前は全く別の職種だったんだけど、なんだか嫌気が差しちゃって。どうせなら、自分がやりたいって思える仕事を選ぼうと思ったのよ」
「じゃあ、君もコミックスが好きなの?」
それこそ意外だとばかりにアレックスが目を瞠る。イルザという女性は、どちらかと言えばファッション業界などで華やかに働いているイメージがある。もちろん、普段読む雑誌もコミックス雑誌ではなく、ヴォーグ誌などを読んでいそうなイメージだ。
「あら、私がランドマンやスーパーグリットを知ってちゃ意外かしら?」
コミックマニアでも、さらにディープな作品として評価を受けている作品を真っ先に上げられ、思わずアレックスのテンションが上った。
「その作品を真っ先に上げる人に僕はほとんど出会ったことがないよ。いいよね、スーパーグリットなんて何度読んでもワクワクしちゃうよ」
少年のようにコミックスへの熱意を発露するアレックスを嫌がるわけでもなく、時々作品への自分なりの解釈を披露するイルザに、アレックスはますます会話に熱が入るのだった。
案内したカフェでウェイターにメニューを注文し終えた頃に、ようやくアレックスは落ち着きを取り戻したのだった。
「ごめん。僕、ご覧の通り凄くオタクなんだ。まぁ、そうじゃなきゃあコミックス社で働こうなんて思わないよね」
「明確な目的意識と熱意を同時に抱きながら働ける人は、そうそういないわ。私もあなたを見習わなきゃね」
色っぽくウィンクするイルザに、アレックスは体をぎこちなく揺らした。
気まずくなり、ふと視線をカフェに設置されているテレビへと向けると、そこには昨夜起こった事件の詳細と、そこに現れた謎の人物のことが話題になっていた。
『貴女を助けた人物についてですが、どのような格好をしていたのですが?』
リポーターからマイクを向けられた濃い化粧を施した、ブルネットの女性が緊張した面持ちで答えている。
『あの、なんていうか……凄く独特な感じの人だったの』
『独特とは、どういう意味で?』
『なんて言ったらいいのか……黒と紫の全身タイツ姿で、えっと、あっ、紫のマントにマスクもしてたわ』
『それは、なんとも――えぇ、独特ですね』
リポーターもどう答えを返したものかと困惑している様子だった。
『でも、格好は変だったけど、その人は私を助けてくれたんです。殴られて、殺されるかもって思ってる時に現れて、名乗らずに飛び去って行っちゃって……。あの、見てるか分からないけど、昨日助けてくれて、本当にありがとう』
カメラに向かって感謝を述べるブルネットの女性は、昨晩の名残で左頬に痛々しくガーゼで覆われている。だがマスカラで縁取られているその瞳の奥には、たしかに真摯な思いが見て取れた。
『あの、飛び去ったというのは、言葉通りに飛んだと言う意味で?』
にわかに信じがたいという声音でリポーターが聞き返した。
『そうよ。飛んだの。夜空にそのままひとっ飛びよ』
画面が切り替わり、スタジオ内にいるキャスターが呆れたような馬鹿にしたような表情で、もう一人のキャスターに話しかけている。
『全身タイツ姿で人助けをするなんて、なにか精神的な異常を抱えているのかもしれませんね』
『えぇ、自分をヒーローか何かだと思い込んでいるのかも。それに人は空を飛んだりしませんしね』
いつの間にか食い入るようにニュースを見ていたアレックスに、イルザが声を掛けてきた。
「まるでコミックスのヒーローみたいな人ね」
ハッとして思わず自分のことを言われたのかと、アレックスは錯覚した。だが直ぐにニュースのことを言っているのだと気付く。
「そう、そう――だね。あのキャスターはまるで精神異常者みたいな言い方してたけど、謎の人物は少なくとも立派に人助けしたのは事実だ」
熱が入らないように、気をつけながらアレックスは言葉を選んだ。
イルザは馬鹿にするでもなく、同意するように頷き返した。
「えぇ、そうよ。格好なんてどうでもいいのよ。一人の女性の命を助けたって事実の方が大事だと思うわ。あのキャスター、凄く嫌味な人だわ」
顔を顰めて嫌悪感を表すイルザに、アレックスは少しだけ救われたような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇
今日の分の仕事をあらかた片付け終えたアレックスは、アシスタントのイルザに帰宅の旨を伝えると、彼女はパソコンから顔を上げて言った。
「これを仕上げたら、一緒に夕食を食べに行かない? そんなに待たせないから」
パソコンの画面を指差しながらイルザがアレックスを誘ってくる。
だがアレックスは誘いを丁重に断ることにした。
「誘ってくれてありがとう。だけど家で妻が食事を作って待っていてくれてるんだ。また、今度――」
そこまで言って、アレックスは自分の失敗に気がついた。だから慌てて付け加えた。
「あー……今度、ジョンたちを誘って、一緒に行こう」
これで良いはずだ、とアレックスは内心の動揺を押し隠しながら微笑んだ。
イルザも納得したように笑みを返した。
「そうね、その方がきっと楽しいはずだわ」
どうやら自分の答えは間違っていなかったようだ。アレックスはそれじゃあ、と鞄を持ってフロアを後にしたのだった。
地下の駐車場へと降り、車に乗ったアレックスはそのまま滑るように会社を出た。
夜の帳が下り始めたノイジーシティは、昼間の陽気な喧騒とは違い、誘惑と悪意と欲望の色に包まれ始めている。
アレックスはカーステレオのボタンを押した。すると、直ぐに陽気な歌声が聞こえてくる。息子や娘にはさんざん「ジジ臭い」だの何だのと言われる選曲だが、アレックスは昔の曲が好きだった。
チャビー・チェッカーの歌声とともに、今にもツイストしたくなるような気分で運転していると、アレックスの耳に恐怖に引き連れた複数人の叫び声が聞こえた。遅れて銃声も三発聞こえた。
アレックスは急いでハンドルを切ると、人気のない路地へと車を突っ込み、そのまま鞄の中からマスクを取り出すと、息子と娘曰く「イケてない」眼鏡を取り外してから頭に被り、着ていた野暮ったいグレイのスーツを脱ぎ始めた。
中から現れたのは、アレックスの立派な体を包み込む黒と紫のスーツ。腕時計にあるボタンを押すと、小さなカプセル型のプラスチックケースが飛び出す。
ケースに力を加えると、バシュッという破裂音と共に紫色のマントが飛び出した。
マントを肩に装着し終えると、アレックスは急いで車から飛び出したのだった。
「静かにしろ! 少しでも騒いだら、一人ずつぶち殺してやる!」
銀行で銃を振り回しながら、興奮した様子の銀行強盗犯が喚いている。警察は既に到着し、いつでも突入できるようにと、SWATも待機している。
銀行内には数人の人質がおり、中には子供も一人混じっていた。
緊迫した状況を上空から見下ろしていたのは、謎のタイツ姿の男――ではなく、アレックスである。
普段は些か冴えない編集者だが、夜にはその姿を変え、ノイジーシティの悪を打ち砕き、弱き者を助けるヒーローでもあるのだ。
アレックスは上空から静かに銀行の前へと降り立った。突然空から降ってきた謎のタイツ姿の男に、警察関係者のみならず、入口付近で喚いていた犯人でさえも唖然として硬直している。
しかしいち早く正気を取り戻した警察側の指揮官が、アレックスに向かって怒号を飛ばす。
「誰だお前は! 今すぐそこから退くんだ!」
その言葉に、犯人も我に返ってアレックスを睨みつけながら、腕の中に拘束している人質の女性の頭へと銃口を突きつけた。
「なんだテメェは! ゲイみてぇな格好しやがって! 近づくんじゃねぇよ!!」
犯人の言葉に、不謹慎にも警官たちから小さな笑い声が起こる。
アレックスはマスクの下で、盛大に顔を顰めていた。
どうしてみんな、このスーツをタイツだゲイだと笑ってくる? ヒーローにスーツは付き物じゃないか。まぁ、たしかにデザインはちょっと古いかもしれないけれど、それは僕のせいじゃないし。
不服そうにアレックスは腰に手を当て、犯人をマスク越しに睨みつけた。そして躊躇うこと無く、犯人へと近付いていく。
「て、テメェ! 聞こえてねぇのかよ! 来るんじゃねぇって言っただろ!」
動揺する犯人とは対象的に、アレックスはごく普通の足取りで犯人に近付いていく。犯人にすれば恐怖だろう。全身を奇妙なコスチュームで覆った立派な体格の男に、無言で近付いて来られるのだから。
パニックに陥った犯人は、咄嗟に銃口を人質の女性からアレックスへと突きつけた。銀行内の人質も、包囲している警官たちも、一斉に緊張が走った。
「くるんじゃねぇえええ!」
それは一瞬の出来事だった。アレックス以外の人にとっては。
唾を飛ばしながら、激昂した犯人が銃の引き金を引く。乾いた音と共に、銃弾はしっかりとアレックス目掛けて飛んでくる。
だがアレックスの目には、その銃弾の動きが酷く緩慢に映っていた。鈍く光る銃弾が自分の左胸辺りへと到達するのを、彼は冷静に見守っていた。
ようやくアレックスが身にまとうスーツに着弾した銃弾は、しかし貫通することなく一瞬のうちに弾き飛ばされたのだった。
「……はっ?」
アレックスに銃を向けたまま、犯人が呆ける。その瞬間を見逃さなかったアレックスは、一気に犯人との距離を詰めると、犯人の腕の中に囚われていた人質の女性を引き剥がして背後に放り投げ、勢いのまま犯人を殴り飛ばしていた。
「おっと、しまった」
力加減を誤ってしまったようで、軽くパンチをしただけだったつもりが、犯人の体が銀行の一番奥の壁まで吹き飛ばされてしまった。
「テメェ!」
強盗犯は複数人のようで、突如現れた謎のタイツ男の行動に完全に正気を失っていた。
犯人のうちの一人が、マシンガンをアレックスに向けて容赦なく乱射するが、身にまとうスーツが少し焦げるだけで、肝心の本人に傷一つ付かなかった。
「他人の金を盗むだけでも関心しないが、躊躇いもなく人の体にマシンガンをぶっ放すのも関心しないね」
皮肉げに言うと、アレックスは足元に転がっていた、パーテーション用のポールを素早く拾い上げると、犯人に向かって投げつけた。
「がっ!」
重さもそこそこあるが、それ以上に異常な怪力で放たれたポールを腹部にまともに受けた犯人は、そのまま息を詰めて昏倒した。
「さて、と。最後はキミかな?」
呆然とことの成り行きを見つめるしかなかった残りの犯人が、怯えながら銃を構えてアレックスを見返した。
「来るな来るな来るな! なんだよお前、化物かよ!?」
アレックスはその言葉にマスクの下で皮肉げに口元を歪めた。愛する妻や子供、そして気の合う同僚たちにも見せたことなど一度もない、歪で自虐的な笑みだった。
「他人を傷つけることを厭わず、こんなバカげた真似をしている君たちも、ある意味化物と言えるんじゃないのかな?」
外で包囲していた警官たちは、中で起こっている出来事を把握できずに、ただ聞こえてくる音を頼りにもどかしい思いをさせられていた。
「隊長! 今すぐ突入命令を!」
「待て。中の様子がはっきりするまで動くな」
無線機で部下たちに指示を出していた現場の指揮官も、焦りと困惑を感じていた。
突然現れた闖入者が、銃弾をものともせずに銀行内に勝手に突入したかと思えば、中でどうやら犯人たちとやり合っている様なのだ。直ぐにでも突入して犯人も、奇妙なタイツ男も確保したいところだが、人質のことを考えると迂闊に動くこともできない。
歯ぎしりしながら持っていた無線機をキツく握りしめていると、銀行のドアが派手な音を立てて吹き飛ばされた。
「な、なんだ!?」
警官たちが一斉に銃を構える。吹き飛ばされたドアと共に現れたのは、顔面血だらけの犯人の一人だった。意識は既になく、周りにいた警官たちが慌てて犯人を取り押さえにかかった。
無残に破壊されたドアの向こうの粉塵と埃の奥から現れたのは、例のタイツ男であった。そしてその両手には犯人たちが所持していた銃器が握られていた。
「貴様! そこで止まれ!」
指揮官が拡声器で命令する。タイツ男は一度立ち止まると、持っていた武器をその場に乱雑に放り投げた。そしてすぐに動き出すと、警戒して銃を構える無数の警官たちの前へと悠然と立った。
「いったい何をした? 何者だお前は!」
その問いに、男は少しの間の後、昨晩と同じ答えを返すのだった。
「僕はノイジーシティの守護者だよ」
言い終えると、静止する間もなく、男は上空へと飛び立っていった。その光景を見ていた警官の一人が、ポツリと零した。
「人が空飛んでやがる……やべぇ、カウンセラーに予約入れなきゃ」
◇ ◇ ◇ ◇
「ただいま、ダーリン」
住み慣れた我が家に帰宅すると、アレックスは出迎えてくれた妻サクラを抱きしめた後キスをした。
「おかえりなさい、ハニー。今日は大変だったみたいね」
一瞬、銀行での件を言われたのかとドキリとしたアレックスだったが、サクラが視線で時計を指し示すのに気付き、肩の力を抜いた。
「あぁ、そうなんだ。今日は編集長がいつも以上に張り切っていてね。それに転職してきたばかりのアシスタントにも仕事を教えなくちゃいけなかったんだ」
「あら、あなたにもついにアシスタントが付いたの? 凄いじゃない」
キッチンへと向かいながら、サクラが笑う。アレックスはネクタイを緩めながら片眉を上げた。
「そんな良いものじゃないって、君もわかってるくせに」
サクラは編集長のことを知っている。一度だけ会ったことがあるのだが、その一回だけでも随分と強烈な人物だったのは、今でも記憶に鮮明に残っている。そしてそんな彼に、部下たちが振り回されているのも、いつも聞かされるアレックスの話しからも容易に推測できた。
キッチンに顔を出すと、既に子供たちが食卓に並ぶ食事を前に、それぞれ好き勝手なことをして時間を潰していた。
「ただいま、みんな。いい子にしてたかい?」
ベビーチェアに座るコリンの頭にキスすれば、キャッキャッと楽しげに両手をバタつかせた。
長男のエリックは、いつもの様にスマホで友達とSNSで会話を楽しんでいるようで、スマホから顔も上げずに、「おかえり、父さん」とだけしか言わない。
長女のケイトは、食い入るようにカートゥーンチャンネルに魅入っている。
「ケイト、ただいま」
父の帰宅にも気がそぞろな娘に苦笑していると、無情にも母によってチャンネルがニュース番組へと変えられた。
「ママなにするの! わたし見てたのに!」
「そうね、少なくとも一時間以上は見てたわ。だからもうお終いよ」
非情な母の宣告に、ケイトは一気に不機嫌になった。その遣り取りにアレックスは苦笑しつつ、自分の席へと着いた。
なんとはなしに流れるニュース番組を見ていると、見慣れた風景がカメラに映り込んだ。
「やだ、この銀行、あなたの会社の近くにある銀行じゃない?」
フライパンから大皿に料理をよそいながら、眉を顰めながらサクラが言った。
テレビの中では、夕方頃に起こった銀行強盗事件について報道されていた。
「そうみたいだね。どうりで車が渋滞してたはずだよ」
さらりと嘘をつきつつ、アレックスは画面の向こうで興奮気味にインタビューに答える元人質たちを見つめた。
『凄く妙な男だったんだ。全身黒と紫のタイツ姿でね、あとマスクにマントもしてたよ。でもまるで彼は本物のヒーローみたいに、次々と犯人たちを伸していったんだよ!』
興奮した様子で答えるのは、恰幅のいい壮年の男性だった。リポーターは人質に取られていた他の人たちにもインタビューするのだが、皆一致する意見は、「黒と紫の全身タイツ姿の男で、空を飛んだ」ということだった。
「……ダッサ」
エリックがいつの間にかスマホから顔を上げ、蔑むように言い放った。彼の隣に座る妹のケイトも、同意するように頷いている。
アレックスは一縷の望みをかけて、愛する妻を見遣るが、彼女はなんとも難しい表情をしていた。
「サクラ、君はどう思う?」
問わずにはおられなかったアレックスだったが、返った来たのは情け容赦ない一言だった。
「センスが三十年代で止まってるわね」
妻の言葉に落ち込んだアレックスは、その日の夕食のとき、いつものような明るさはなかった。
シャワー上がりの妻が、アレックスに心配そうに話しかけてきた。
「アレックス、なにかあったの? なんだか凄く辛そうよ、あなた」
ベッドの上で昔、大ヒットしたコミックスを読んでいたアレックスは、サクラの言葉に顔を上げた。
「どうしてそう思うの?」
「だって……夕食の時、いつもより元気がなかったもの。それにほら、今も難しい顔してるわ」
アレックスの頬を撫でながら、心配そうに瞳を覗き込むサクラに、彼は無理に笑顔を見せる。
「ちょっと疲れただけだよ。別に大層な悩みなんて、今の僕にはないから大丈夫さ」
分厚い眼鏡の奥の蒼穹のような瞳を細めると、サクラはまるで探偵のように隠された真実はないかと、アレックスの瞳を検分し始める。
アレックスは、磨き抜かれたマホガニーのような美しいサクラの瞳を見ていると、自分の悩みが酷く馬鹿げたものに思えてきた。
現金なアレックスは、手にしていたコミックスと眼鏡を外してサイドテーブルへと置き、自分の頬に触れたままの妻の手を握りしめた。
「アレックス?」
不思議そうに首を傾げる仕草に、アレックスの鼓動も早くなる。
「君が僕の疲れを癒やす手伝いをしてくれたら、すごく嬉しいんだけど、どうかな?」
意味ありげに首筋を撫でられたサクラは、動揺を押し隠しているのが丸わかりだった。
何故なら彼女の両耳は、今すぐ食べてしまいたいほどに、真っ赤に熟れていたからだった。
「本当に、なにも無いのね?」
必死にこの空気を変えようと、無駄な抵抗を試みるサクラに、アレックスは男らしく笑う。野暮ったい眼鏡もなく、セットされていない金の髪が無造作に額に掛かっている今の彼は、誰が見ても魅力的でセクシーだった。
そしてアレックスの隠された美しさと野性的な魅力を知っているのが、この世界で自分だけだとサクラは知っている。
「僕がなにか隠しているかどうか、君が調べればすぐに分かるかもしれないよ」
サクラの艷やかで滑らかな黒髪を一束すくい上げ、そっと口付ける。彼女の瞳がアレックスに感化され始め、怪しく揺らめく。
アレックスは知っている。サクラが情熱に溶かされると、その瞳がチョコレートが溶けるように潤むことを。
だから彼は普段見せない不敵な笑みを湛えながら、妻の体をベッドへと押し倒したのだった。
深夜、家族全員が寝静まった頃。アレックスは静かに起き上がると、隣で眠る妻の華奢な肩をブランケットでそっと覆ってあげた。
ベッドから降りると、椅子にかけてあったパーカーとジーンズを身につけ、音も立てずにアレックスは滑るように――実際、微妙に空中に浮かびんでいた――階下に降りていき、慎重に裏口のドアを開けると素早く周囲を確認した後、夜空に吸い込まれるようにして飛び立っていった。
◇ ◇ ◇ ◇
その場所は、打ち捨てられた廃工場跡だった。壁にはあちらこちらに落書きがされており、中には卑猥な単語が書き殴られていたり、下品なイラストなども描かれていた。
アレックスは廃工場へと降り立つと、迷いなく中へと入っていった。
中は外よりも更に荒らされており、ホームレスでさえ住み着かないほど汚れと廃棄物で溢れかえっていた。
アレックスは淀み無く目的の場所――そこは工場の奥まった場所にあり、事務所として使われていたであろう場所だ――へと到着すると、中へと踏み入った。
事務所内にもゴミやガラクタが散乱しており、たまに虫が這いずり回っている。それらを無視し、アレックスは事務所に放置されたままのロッカーのうちの一つに手をかけた。
錆びた蝶番が嫌な音を立てるのを聞きながらロッカーを開けると、中には当時この工場で働いていた人たちが着ていたのだろう作業服やヘルメット、その他諸々が雑多に押し込まれていた。
アレックスはそれらを横へとどけると、ロッカーの奥に掌を押し付けた。すると、エア音と共に、ロッカーの奥が上へとスライドして開いていく。
そうしてロッカーの奥から現れたのは、コンクリートで周囲を固められた地下への階段だった。階段を降りていくと、背後で自動的にロッカーの隠し扉が閉鎖された。
階段を降りきると、そこには特殊合金の分厚い扉があった。扉には生体認証システムとコード入力の為のパネルがあり、アレックスはまず顔を近づける。
「アレックス・ギルバート」
青白い光が顔面を縦断していくなか、アレックスが声紋スキャンのために名乗る。そして最後に指紋認証を兼ねたコード入力を終えると、その堅牢過ぎる分厚い扉がようやく開いたのだった。
中へ足を踏み入れれば、そこは地下にあるとは思えないほど明るく、そして堅固な金属で壁や天井が覆われていた。
様々な機械や装置が所狭しと置かれており、アレックスはそれらに触れないように縫うようにして部屋の奥を目指していく。
すると調子の外れた歌声が聞こえてきた。それがこの歌声の主が大好きなカイジュウ映画のテーマソングだということをアレックスは知っている。
部屋の奥にあるガラス張りの一室を見れば、中に小太りの壮年の男性が歌声と共に何やら作業に没頭している。
男性の周りには沢山の機械とパソコンのモニタ、そしてコミックヒーローやカイジュウのフィギュアがびっしりと置かれており、おまけに壁の材質が見えないほど、沢山のトクサツ映画のポスターで埋まっていた。
「博士、こんばんは」
そっとアレックスが声をかけると、博士と呼ばれた男性が椅子から比喩ではなく飛び上がった。
「なんだね! また音もなく近付いてきて! あれほど注意したではないかアレックス!」
口調は怒っているが、長い付き合いのアレックスは、博士がそれほど怒っていないと表情の変化と心拍数の音で判断した。
博士に近付いて手元を覗き込むと、シリコン製と思しき楕円の装置が見えた。
「また新しい発明品?」
問いかけると、博士は得意気に髭に覆われたその顔を緩めた。
「あぁ、そうだ。だがまだどんな装置かは秘密だよ。それより、仕事はどうしたアレックス。やっぱり合わなくてやめたのか?」
「博士、仕事は止めてないし、今は午後二時じゃなくて、午前二時だよ」
壁に掛けられている時計を指差しながらアレックスが言うと、博士は顔を顰めた。
「む、そうか。どうにもこの場所で生活していると、時間の感覚があやふやになっていかん」
頭を振り椅子から立ち上がると、博士は使い古してボロボロのコーヒーメーカーからコーヒーを出しっぱなしで洗いもしていないカップへと注いだ。それをアレックスへと差し出すが、彼は丁重にお断りした。
「それで? 私になんの用事があって訪ねてきたのだ」
一口コーヒーを口に含んだ博士は、とびきり不味そうに顔を顰めながら尋ねた。だがまたカップへと口を寄せるのだった。
「スーツが破損してしまったか? 強化シリコンと特殊な金属網で作ったんだが、君の体の頑丈さにはまだ追いついておらんからな」
「いいや、スーツは大丈夫だよ。いや、大丈夫じゃないかも」
要領を得ない物言いに、博士はコーヒーの不味さから来るものではない、渋い顔をした。
「では何が問題だと言うんだ。回りくどい言い方は面倒だから止めてくれ」
「あー……なんというか、とても繊細な問題なんだ博士」
言いにくそうに視線を彷徨わせるアレックスだったが、黙って続きを待つ博士に根負けし、要件を口にした。
「スーツの改良ってできるかな?」
「やはり耐久性に問題があるんだな? そうだな、今開発中の新素材なんだが――」
「違う、そうじゃないよ博士。問題はスーツのデザインなんだ」
「デザイン?」
怪訝そうに聞き返す博士に、アレックスは疲れたように肩をすくめた。
「僕がテレビや市民から、どう言われているか知ってる?」
「あぁ、立派にヒーローをやってるじゃないか。まさにヒーローの中のヒーローだ」
「ありがとう。でもそれ以外にも言われてるよね?」
ふむ、と博士は自身のモジャモジャの髭を指で弄った。
「黒と紫のカラーリングについてか? それに関しては君の意見を反映した結果ではないか」
「そこじゃなくて――あぁ、要するに、皆が僕のあの姿をタイツ男だなんだと言ってるんだよ」
両手を広げて博士に訴えるアレックスに、博士はコーヒーの入ったカップを左右に揺らして否定した。
「タイツじゃなくてスーツだ。彼らはそんな違いも分からんのか」
「少なくとも、今のデザインじゃあ彼らの意見を翻すことはできないよ博士」
珍しく苛立っているアレックスに博士は目を瞠った。
「――僕も最初はあのスーツを着た時、イケてるって思ったんだ。でも僕や博士の感覚は、どうやら一般的じゃないらしい」
「というと?」
アレックスは近くにあった机に腰掛けると、肩を落とした。
「ダサいって言われる」
数秒間、沈黙が降り立った。だが博士は髭を弄りながら天井を仰ぎ見たまま思案に暮れているようなので、アレックスは再び口を開いた。
「他人がどう言おうと、僕は気にしない――嘘、ごめん。本当はちょっと気になってた。だけどそれ以上に僕が傷ついたのは、子供たちやサクラにまでダサいって言われたことだよ」
夕食の時の苦い記憶が蘇り、アレックスの精悍な顔が歪んだ。
「少なくとも、サクラの目は肥えてる。彼女のあの繊細な指先が生み出す傑作の数々のヒーローたちは、僕みたいにダサくない」
コミックスの中で生き生きと動き回るヒーローは、あくまで架空のものだ。実際に現実世界の悪人たちを打ちのめすことも、困っている人を助けることもできない。それができるのは、現実で生きているアレックスの役目だった。
「だったら、君の奥さんにデザインを頼めばいい。なにせあの”ヤナギ・ユキ”なんだ。最高のデザインのヒーロースーツが出来上がるに決まっている!」
興奮しながら博士はアレックスに訴える。
謎の覆面作家”ヤナギ・ユキ”。アレックスが勤めるスターコミックス社もライバルのES社も、”ヤナギ・ユキ”を自社に引き込もうと躍起になって探し回っている、謎の人物だ。
それはいつもアレックスの側にいてくれる、他でもない妻、サクラのペンネームであった。
「それは駄目だよ博士。そんなことをしたら、僕の正体がバレてしまう」
「うまく奥さんに頼み込めば可能なんじゃないのか?」
ディープなオタクである博士は、”ヤナギ・ユキ”の大ファンでもあったから、ここぞとばかりに食い下がる。
しかしアレックスは頑として首を振らなかった。
「なら仕方ないな。今の状態で我慢するしか無いだろう」
分かっていたのだが、訴えずにはおられなかったために、わざわざ夜中にベッドを抜け出してここまでやってきたのに、結果は全く持って芳しくなかった。
「そうだった、最近妙な事件が起こっていることを君に伝えようと思ってたんだ」
博士はパソコンのモニタの前に再び陣取ると、画面を切り替えてアレックスに見せた。
警察のデーターベースに侵入して得た情報のようだったが、博士が様々な機関のシステムに入り込むのは今に始まったことではないので、黙ってアレックスは示された情報を目で追っていった。
「強盗殺人事件?」
「あぁ。だがただの強盗殺人事件じゃないぞ。殺された被害者は、皆全身の血を抜き取られたうえに、首筋を鋭利な物で切り裂かれた痕がある」
事件現場で干からびたミイラのような状態で横たわる被害者の写真に、アレックスの眉根が自然と寄っていく。
「しかも、だ。盗まれた物は価値のあるものから、ガラクタ同然の物まで様々だ。例えば一本の万年筆であったり、呪いの人形だとか言われている物だったり、かと思えば銀食器一式だぞ。なんの意味があると言うのだね」
資料を読み終えたアレックは、顎に手をやり考え込む。
「価値のあるものだったら、中世の陶磁器とか彫刻とか――どれも古い物ばかりだ」
「そうだ! そうなんだ! 物の価値はバラバラだが、共通するのは全てアンティークな品ばかりということだよアレックス」
興奮する博士に、アレックスは逆に冷静だった。
「でも盗まれた物があった場所にはバラつきがあるね。この強盗殺人事件が起きたのがいつ頃なのか分かる?」
「あぁ、一応今FBIのデータにも潜り込んでいるところだ。だが変死体のない強盗殺人事件もあるから、絞り込むのに時間がかかっている」
前半の内容を聞かなかったことにして、アレックスはモニタから離れた。
「なにか分かったら知らせて。僕は僕の、やるべきことをやるよ」
「スーツの件を奥さんに頼み込むとかな」
背を向けたままモニタに集中し始めた博士に、アレックスは聞こえるように溜息をついた。
その時ふと、彼の尋常ならざる聴覚が聞き覚えのある泣き声をキャッチした。
「あぁ、僕はもう帰るよ。コリンがまた夜泣きしてるみたいだ」
「本当に君の聴覚はどうなってるんだ? ここは数十トンの爆撃にも耐えうる作りになってるうえに、君の自宅から一体何マイルあると思ってるんだ。まるでペンギンみたいだな」
呆れとも驚愕とも取れない表情で、博士が両手を広げた。背後でアレックスが意味を測りかねているのを感じたのだろう、博士は説明した。
「ペンギンは自分の番や子供を鳴き声で聞き分ける能力を持っているのだよ。まぁ、君の聴覚ほど優れてはいないだろうがね」
肩をすくめてまた作業へと戻る博士を見届けると、アレックスは近代化が進みすぎたモグラの穴蔵のような地下を抜け出したのだった。




