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アレックスの自我が芽生えた時、彼が最初に感じたのは「怒り」であった。
白衣を着た何人かの男女が自分を覗き込んでいる。その目にあるのは幼子を愛おしむ感情ではなく、珍しい実験動物を観察するかのような目だった。
酷い怒りを覚えていると、焦ったような顔で白衣の人間たちが自分を押さえつけ、そして頭に何かヒンヤリとした平べったい物を取り付けられるのを感じた。
刹那、脳みそが焼けてしまいそうな痛みが走り、アレックスの意識は途絶えた。
次に目を覚ました時も、やはりアレックスは怒りを感じていた。すると白衣の人間たちが、またあの痛みを与えてくる。
そんな事を何度か繰り返した後、アレックスは怒りをいくらか制御することを覚えた。
白衣の人間たちは従順になったアレックスを見て満足そうにしていたが、決して彼の中から正体不明の怒りは消えなかった。
アレックスが言葉らしきものを発せるようになる頃には、様々な言語を覚えさせられた。アレックスは怒りを押し隠しながら、垂れ流される知識をただ吸収した。
次に彼が一人で歩けるようになる頃、白衣の人間たちはアレックスに戦闘技術を学ばせた。覚えの良すぎたアレックスは、教えていた相手を何度か意図せず殺してしまう事があった。そしてそんな時は、必ずまた頭にあの器具を取り付けられて何時間も電流を流された。
アレックスは学んだ。怒りを抑えること。人を安易に殺せば痛みを与えられること。
白衣の人間たちの言う通りにしていれば、ある程度の自由は利いた。と言っても、アレックスの行動範囲は冷たいコンクリートに囲まれた、日も差さない人口照明に照らされた極々限られた施設の一部だけだった。
アレックスは従順であれと徹底的に教え込まれた。白衣の人間たちの命令は絶対で、それ以外の人間の言葉に耳を傾ける必要など全く無いと。
不思議な事を言うものだとアレックスは思った。白衣の人間たち以外の人間を、アレックスは生まれてから一度も目にしたことがなかったからだ。
だがその言葉の意味をアレックスはすぐに理解することとなる。
物々しく武装した男たちが、まだ幼いアレックスの前に現れると、お前に初任務だと言って彼を外へと連れ出したのだ。
だが施設を出て目的地に着くまで、アレックスの体は堅牢に拘束されたままだった。そして武装した男たちの銃口が常にアレックスの方へと向いていた。
装甲車が止まると、アレックスは拘束具を解かれ、同行していた白衣の人間に命令された。
アレックスが頷くのを確認すると、装甲車の後部ドアが開いた。ムッとするほどの熱風が全身に吹き付けた。
降り立ったアレックスが目にしたのは、暗闇の中でポツリポツリと光る建物だった。辺りは熱風で巻き上げられた土埃が舞い踊り、視界を遮っている。顔を上げれば夜空に星が瞬いている。
外の世界など見たことがなかったアレックスは、常に抱える内なる怒りを思わず忘れてしまうほど、奇妙な感覚に襲われていた。
だがアレックスの体を銃口で後ろから突く男のせいで、何かが掴めそうだった感覚が霧散し、代わりにまたあの怒りが沸き起こる。
促されるまま、アレックスと男たちは目的の建物まで走った。男たちのリーダーらしき人間に、建物内にいる人間の数、どの階に何人いるのかを尋ねられ、アレックスは耳を澄ました後、正確に答えた。
男たちは暗視スコープを付けていたが、アレックスは何も付けていない。それどころか、施設で着せられていた薄っぺらい衣服のままだった。
リーダーが部下たちに合図を送ると、一斉に建物内に侵入を開始した。アレックスは最も人数の多い階へと向かわされた。
白衣の人間に命令されたことをアレックスは忠実に守った。即ち、建物内にいる全ての人間を殺すこと。
カードゲームに興じていた男たちが、突如現れた少年に驚いた。直ぐ様銃を構えてアレックスへと発砲する。
だがアレックスの体は銃弾を容易に弾き返した。傷ついたのは、薄っぺらい衣服だけだ。
にわかにパニックになった男たちは、各々武器を手にしてアレックスへと闇雲に銃弾を撃ち込んだ。
痛みは感じない。だがやはり、あの怒りは感じる。
だからアレックスは、その部屋にいた人間全てに手をかけた。武器など使う必要など無かった。
後から合流した男たちが、部屋の惨状を見て思わず固まった。何人かがその場で嘔吐していた。
リーダーの男がアレックスの襟首を掴んで引き摺るようにして、また装甲車へと戻っていった。そして来たときよりも、キツくアレックスの体を拘束し、部下たちに指示を出してから何人かの部下たちと乗り込むと、車が動き出したのだった。
施設に戻ったアレックスは、男たちと白衣の人間たちの会話を無表情で聞いていた。
――コイツは危険だ。いつかこちらに牙を剥くぞ。
――大丈夫だ。きちんと制御できている。戦闘になると凶暴性が増すのは以前から把握している。だが我々の命令を聞くように、きちんと洗脳できているから心配ない。
大人たちの会話を聞きながら、アレックスは何も思わなかった。彼が抱く感情は理解不能な怒りのみであり、それ以外の感情など持ち合わせてはいなかったからだ。
その後も何度かアレックスは任務と称しては外に連れ出され、言われるがままに命を奪っていったのだった。
数年も経てば、自身が何をして、何をさせられているのかをアレックスは正確に把握できるようになっていた。
アレックスがいる場所にはおよそ百数十人の人間がいて、それらは皆アレックスを実験対象として扱っていること。いつも連れ出される時に行く場所から推測し、施設があるのは恐らく南米のどこかだということ。
そして白衣の人間たちがアレックスを次世代の兵器として知識と戦闘技術を叩き込んでいること。
それらが判明したところで、アレックスはやはりどうこうしようという気はなく、淡々と与えられる任務と実験と称した拷問に耐える日々を過ごすだけだった。
だがそんなアレックスの人生を左右する事件が起きた。
その日も任務と言って、厳重に拘束されたまま目的地までアレックスは運ばれていた。この頃になると、すでにこの拘束具はアレックスにとって何の効力もなかったが、彼はあえてそれを黙っていた。
辿り着いたのは、寂れた田舎町だった。相変わらず熱い風に土っぽい匂いが充満する土地だった。
男たちに言われるままアレックスが向かったのは、やはり一番危険な場所だった。何人もの屈強な男たちが武器を携えアレックスへと襲い掛かってくる、そんな場所。
そしてやはりアレックスはいつも通り、その場に居る人間全ての命を奪うのだ。言葉を発すること無く、ただ殺していくだけだ。
足元に転がる死体をなんの感慨もなく見下ろしながら、なかなか姿を表さないリーダーの男をボンヤリと待っていると、どこからかすすり泣く声が聞こえた。
まだ誰か残っていたのかと、アレックスが泣き声が聞こえる方へと近付いていく。
一見すると、ただの漆喰の壁に見えるその向こうから、小さく耐えるようなすすり泣きが聞こえてくる。だからアレックスはその壁を拳一つで粉砕した。一人残らず始末しろというのが、白衣の人間たちの命令だからだ。
果たして現れたのは、隠し部屋となっていた小さく狭い場所で、黒髪で浅黒い肌をしたアレックスよりも小さな男の子が一人、泣きながら銃をこちらに向けていたのだった。
男の子が震えながら引き金を引くが、銃弾はアレックスの真横を通り過ぎていった。
それを見た男の子が絶望の表情を浮かべる。アレックスは一歩踏み出した。最後の一人を片付ければ、今日の任務は終わりだから。それだけの事だったのだ。
しかしアレックスがその一歩を踏み出した瞬間、男の子が持っていた銃を自分の口に咥えた。それを見たアレックスの動きが止まる。
涙を流しながら、全身を震えさせて銃口を咥える男の子は、目を瞑って引き金を引いた。
無意識だった――ただ、自我が芽生えてからずっと腹の奥に居座り続けてきた正体不明の怒りが、この瞬間、アレックスの腹を食い破って外へと溢れ出したのだった。
男の子の持つ銃の撃鉄に指を挟み込むと、アレックスは銃を奪い取って後ろへ投げ捨てた。死ぬことが出来なかった男の子は悲痛な叫びを上げた。アレックスは泣き叫ぶ男の子を抱え上げると、耳を澄まして男たちの位置を確認した。
そして男の子を納屋らしき場所へと押し込めると、いまだ銃撃戦の最中にある男たちの元へと駆け出した。
生まれて初めて爆発した怒りのまま、ひたすらにアレックスは暴れた。敵も味方も関係ない。そもそもアレックスには生まれてから味方などいなかったのだから。彼の傍らに常にあったのは、理不尽なまでの怒りのみだ。
その場に居た全ての人間を始末し終えたアレックスは、全身血まみれのまま納屋へと引き返した。男の子はアレックスを見て酷く怯えたが、構わずにアレックスは抱え上げるとその場から走り出した。
休むこと無く走り続けたアレックスが辿り着いたのは、寂れた教会だった。辺りは既に夜の帳が落ちていたが、都市部にほど近いその場所は、まだまだ人の喧騒にあふれていた。
抱えていた男の子を下ろすと、アレックスはぎこちなく相手の顔に触れた。人を殺める目的以外で、誰かの顔に触れるなど初めてのことだった。
男の子は呆然としたまま、アレックスを見つめていた。アレックスは確かめるように男の子の顔を無遠慮にペタペタと触ると、ふと手を離した。
そのまま何も言わずに背を向けると、教会から離れようとしていたアレックスの背後から声がかけられた。
「名前! 名前は!?」
足を止めたアレックスは、後ろを振り返って怪訝な顔をした。
暫しの逡巡の後、アレックスは言った。
「AU108」
アレックスに名前など与えられていなかった。白衣の人間たちは、彼をただ「AU108」という記号でしか呼ばなかったからだ。
再び背を向けたアレックスは、もう振り返ること無く闇夜に溶けるように消えていった。
怒りを開放したアレックスは自由だった。自由という感覚を初めて味わっていた。驚くほど体が軽く、そしてそわそわと落ち着かない。
だがアレックスは慎重だった。浮き足立つ心のまま北を目指していたが、日の昇っている間はなるべく移動せずに、下水道や廃屋などに隠れていた。
日が落ち、夜の闇が辺りを覆い尽くす頃になると、アレックスは夜行性動物のように走り出した。
そうして施設からの追っ手の目を掻い潜りながら、メキシコの危険な砂漠地帯を抜け、死者が多発する山岳地帯を踏破すると、アレックスは国境を越えてアメリカへと潜り込んだのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
行く宛もなく、ただ本能の赴くままにアレックスは彷徨い歩いた。途中、何度も危ない目にあった。いや、アレックスにとっては何の危険もなかったが、相手にとっては危ない目だったと言える。
ボロボロの服を身にまとって一人で歩く青い目をした金髪の少年は、人によっては魅力的に映るらしく、何度か欲の篭った目で路地裏に誘い込まれた。
その度にアレックスは相手を徹底的に痛めつけて金品を奪い取って逃げた。そしてその金で衣服を買い、食べ物を手に入れた。
ただし、相手を殺すことはしなかった。殺せば足がつく。そこから施設の人間へと情報が伝わるのだけは、何としても避けなければならなかったのだ。
それにアレックスを襲った相手も、自分がどうして大怪我を負ったのかを簡単には口にしないだろう。言えるわけがない。幼い少年に手を出そうとしたら、死ぬ寸前まで痛めつけられたなどと。
放蕩生活をアレックスは想像以上に楽しんでいたのかもしれない。相手が子供だと油断した馬鹿な大人を痛めつけ、思う存分金品を巻き上げる。そしてその金で自由に生きる。自由を知ってしまったアレックスは、その魅力に取り憑かれていた。
ある日のことだった。手持ちの金が少なくなってきたから、また馬鹿な大人を路地裏に誘い出して金を奪ってやろうと思い、アレックスは街の中を彷徨っていた。
ふと目についたのは、それほど高級な身なりではなかったが、どことなく品のある中年男性だった。
アレックスは静かに男に近寄ると、いつもの手を使って路地裏に誘い込もうとした。
だが予想外のことに、男性はアレックスの誘いに乗らなかった。それどころか、顎に手を当ててアレックスの全身を眺め回した。その目には欲など一切なく、アレックスが隠している物を探るような目だった。そう、あの施設に居た白衣の人間たちが自分を見る目に、限りなく近い目つきだった。
警戒するアレックスを余所に、男性は一つ頷くと、アレックスを近くにあるダイナーへと連れて行った。
「好きな物を頼むと良い」
そう言って男性はメニューをアレックスへと差し出した。アレックスは困惑していた。なぜ黙って付いてきてしまったのか。なぜ逃げなかったのかと。
困惑のまま固まるアレックスを怪訝そうに見つめていた男性は、頼みもしていないのに勝手にアレックスの分まで注文し始めた。
もしかすると、この男は施設の人間なのだろうか。猜疑心が頭をもたげるが、注文し終えた男性は唐突にアレックスに質問してきたのだ。
「君、コミックスは好きかね?」
アレックスが反応しないのをどう思ったのか、男は勝手に語り始めた。内容はアレックスにとって未知の物だった。
あの作品の初期はいまいちだったが、ライターが変わってから劇的に内容が良くなったとか、あの作品のあのキャラクターは実に複雑な人物像だが、逆にそれが面白いとか。
子供のアレックスよりも、余程子供っぽく瞳を輝かせながら語る男に、アレックスは毒気を抜かれていた。
男のわけの分からない話しを聞きながら、アレックスは勧められるままに食事に手を付けていた。そう言えば、こうして誰かと一緒に食事をとるなど、初めてのことだと気付いたのは、ダイナーを出てからだいぶ時間が経ってからだった。
べらべらと一人でよく喋る男は、自分をバルタザルと名乗った。ファーストネームなのかミドルネームなのか、はたまたラストネームなのかは分からない。それ以外を名乗らなかったし、アレックスも興味が湧かなかった。
食べ終わったアレックスを見て、また満足そうに頷くバルタザルは、これから良い所に行こうとアレックスを誘った。
なんだ、結局コイツも愚かな大人たちと同じかとアレックスは鼻白むが、人目のつかない場所で男を痛めつけた後に金を奪おうと考えていた。
そして黙ってアレックスがバルタザルに着いていくと、そこは廃棄された工場だった。なるほど、子供に悪戯するには格好の場所だとアレックスは納得した。
バルタザルは慣れた様子で工場内へと入っていく。アレックスも後に続いた。
どんどん先を行くバルタザルは、一度もアレックスの方を振り向かない。すでに工場のかなり奥まった場所まで来ているのだ、何かしてくるなら今だろうと思っていたアレックスの中で、別の不信感が募ってくる。
やはりこの男は、施設の人間なのではないのか? ――警戒しながら、アレックスは全身の神経を研ぎすませた。
「こっちだよ」
バルタザルは事務所跡らしき場所の中から手招きしていた。いつでも攻撃できるように慎重に中に入ると、バルタザルがロッカーの前で何やらしている。
襲うなら今か――そう思っていたアレックスの耳に、プシュッとエア音が響いた。
「お先にどうぞ」
ロッカーの前から退いたバルタザルは、アレックスへとその奥を指し示した。
そこには階段があった。地下へと続くコンクリートの階段が。
「大丈夫、君に危害は加えないし、君が恐れている何かではないよ」
バルタザルの言葉にアレックスが弾かれたように顔を上げた。この男は一体何者だ? 俺の何を知っている?
本能が警戒を促すが、どうにもバルタザルという男を見ると、その本能が揺さぶられてしまう。
きっと、バルタザルという男の目が、見たことのない色を宿していたせいだと思った。その色の正体が、深い悲しみだという事に気付くのは、やはり大分後になってからのことなのだが。
そうして招かれた地下は、アレックスが居た施設のように冷たいコンクリートに覆われていたが、違いは雑然と機械やよく分からない物で溢れかえっていたことだろう。
バルタザルは立ち尽くすアレックスに声をかけると、飲み物を勧めてきた。初めて飲んだコーヒーは、信じられないほど苦くて不味かった。
◇ ◇ ◇ ◇
アレックスとバルタザルの奇妙な共同生活が始まった。
まずバルタザルがアレックスに対してしたことは、彼に名前を与えることだった。
「君の名は、今日からアレックスだ。どうだ? なかなかイケてるだろう」
AU108としか呼ばれていなかった彼に、生まれて初めて名前が与えられた。何度も自分の口の中で「アレックス」と転がすと、胸の奥がなぜかキュッと締め付けられるような思いがした。
バルタザルはどこかアレックスの過去を察しているようだったが、決して無理に彼から話しを聞き出そうとはしなかった。代わりにアレックスもバルタザルという謎の男の正体を尋ねなかった。
アレックスがその時点で知っていたバルタザルの情報は、コミックスやマンガ、トクサツやカイジューが大好きな、子供よりも子供っぽい大人。けれども、驚くほど知識豊富で、科学分野に突出した知識と技術を持っているということだった。あとは、彼が作るコーヒーが、死ぬほど不味いということ。
バルタザルとの生活で、アレックスは常識という物を教わった。そして人を簡単に痛めつけてはならないということも。
ある日のことだ。アレックスはバルタザルに告げず、勝手に地上に出て以前そうしていたように、大人から金品を奪い、その金でバルタザルが好きなコーヒーとポップタルトを買ってから隠れ家に戻った。
いつもバルタザルは機械を弄ったり何かを作ったりして忙しくしていたから、アレックスが出ていったことにも気付いていない様子だった。
驚いた表情で戻ってきたアレックスを見たバルタザルは、彼の手にある物を見て途端に眉根を寄せた。
「それは一体どうしたんだ?」
「奪った金で買ってきた」
簡潔に告げると、バルタザルは椅子から腰を上げるとアレックスの前へ屈み込んで視線を合わせた。
バルタザルの瞳が真っ直ぐ自分を見ている。だがその瞳は、いつもの明るく知性に満ちたものではなく、どうしようもないほどの悲しみに満ちていたのだった。
アレックスは意味が分からなかった。バルタザルの好きな物を買ってきたに、どうして彼はこんなにも悲しんでいるのだろうか。
バルタザルはアレックスの両肩に手を置くと、ゆっくりと言い聞かせた。
――人を簡単に傷つけてはいけないと、前に私は言ったはずだよ。
アレックスは答えた。相手が危害を加えようとしたのだから、応戦しただけだと。子供相手に己の欲望を発散させようとする大人を痛めつけただけだと。
バルタザルは苦しげに浅い呼吸を繰り返すと、頭を振ってアレックスの頬を撫でた。カサついた掌は、微かに震えていた。
彼はそれ以上何も言わず、ただ静かに涙を流した。何がそんなに彼を悲しませるのか……その時になって、アレックスは悲しみという感情を初めて目の当たりし、衝撃を受けていた。
アレックスが怒りと自由の次に覚えた感情は、悲しみだった。
それからアレックスに少しずつ変化が訪れた。必要最低限の会話しかしなかったバルタザルとの会話が増えていったのだ。
バルタザルはアレックスの語る言葉に真剣に耳を傾けてくれたし、アレックスもバルタザルの話しをよく聞くようになった。
二人が互いの過去を話し出すのも時間の問題だった。
アレックスは自分が南米にある施設で生まれ育ったこと、そこでされていたこと、そしてしてしまったこと――それらを包み隠さずバルタザルに打ち明けた。
バルタザルは何度も苦しげに呼吸しながらも、自身の過去をアレックスに打ち明けた。
二人の距離は一気に縮まった。
今までバルタザルのいる部屋に近付こうともしなかったアレックスだったが、なんとなく彼の部屋にいる時間が多くなった。そんなアレックスをバルタザルは暖かく見守ってくれていた。
彼の作業場にしている部屋には沢山のコミックスが置かれていた。バルタザルが作業に没頭している間、アレックスはコミックスを読みふけっていた。
きっとアレックスが架空の世界に強く惹かれるようになるのは必然だったのだ。
コミックスの中で描かれていたヒーローに、アレックスは特に夢中になった。自分と同じような、もしくはそれ以上のパワーを持つキャラクターたちが、人々や世界のために闘っている。
ふとアレックスは気付いてしまった。自分も彼らのように常人では持ち得ないパワーを持っている。けれどもコミックスの中の彼らのように、人を救うためにパワーを行使してきたことは一度もなかったことに。
アレックスに新たな感情が生まれた。それは後悔と苦しみだった。
バルタザルはそんなアレックスの変化を喜ばしいものとして受け入れていた。彼の中に人らしい感情が生まれる度に、我が事のように喜んでいるのが黙っていても分かってしまう。
アレックスはバルタザルの元でどんどん人らしくなっていった。残念ながら、彼の中に生まれたときからある怒りの感情は消えて無くならなかったが、それを心の奥深くへと追いやるほどの沢山の感情が芽生えていった。
バルタザルはアレックスのためになることは、可能な限り叶えてあげた。
そうして彼は14才の頃――正確な年齢はアレックス自身ですら分かっていなかったのだが――ハイスクールへと通うようになった。
◇ ◇ ◇ ◇
「そこで、僕は運命的な出会いを果たしたんだ。生涯を共に生きたいと思える女の子と出会ったんだよ」
苦しげな微笑みを浮かべながらアレックスが話し終えた。サクラは黙って夫を見ていた。彼女の瞳から感情が伺えることはなかった。アレックスが分かったのは、自分の全てを一つたりとも取り零さないようにと懸命に見つめる真摯な瞳だけだ。
耐えきれずにアレックスは瞳を伏せた。そんなアレックスの手をサクラは傷だらけの手でそっと握りしめた。
「あなたが生きてきた環境は、あまりにも過酷すぎたのね。そこであなたがどんな事をしてしまったとしても、私にそれを咎める権利なんてどこにもないわ」
アレックスが怯える子供のようにサクラを見つめ返した。
「君は僕を軽蔑するかい?」
「どうして。過去のあなたがどうであれ、今のあなたは私の唯一の人で、それに私に沢山の愛を与えてくれたわ。妻を愛し、子供を愛し、家族を守ろうと必死に頑張っているあなたを、どうして軽蔑できるのかしら?」
穏やかな口調で、アレックスの全てを包み込むような微笑みで告げるサクラに、アレックスは泣きそうな顔で笑った。
「僕の方こそ、君に沢山の感情を教えてもらったんだよ? 博士が僕にくれたのは親愛の情だけど、人を――異性として一人の人間を愛することを教えてくれたのは、君が初めてだったんだ」
サクラの手に額を押し当て、祈るようにアレックスは目を閉じた。
「だからね、僕は何があっても君を守り抜くよ。こんな風に君を巻き込んでしまった後で言っても、説得力はないかもしれないけど」
だから、どうか僕を見捨てないで――微かに震える声で訴えるアレックスに、サクラはクスクスと笑う。
「まるで子供みたいねアレックス。随分と大きな子供だけど。でもね、言ったはずよ? ヒロインは、ヒーローを見捨てないものだって」
あら、自分のことをヒロインだなんて言うのはおこがましいかしら――サクラが可笑しそうに笑う。
「一つ解ったことがあるのよアレックス」
「どんなこと?」
「何があっても、あなたが怒らなかった理由。話を聞いて、ようやく納得したわ」
サクラの言葉にアレックスの体が強張った。それを解きほぐすかのように、彼女は握られた手を握り返した。
「ねぇ、前に私言ったじゃない? 相手に不満のない夫婦なんているのかって。私はずっとあなたが怒らなかったことが不満だったの」
何度かサクラはアレックスに対して、理不尽とも言えるような怒りをぶつけたことがある。だが対してアレックスは一度もサクラに怒りをぶつけたことが無かったのだ。それは、彼が自身の中にある怒りが開放されることを誰よりも恐れていたからだった。
「今のあなたは昔と違うのよ。だから、怒りを必死になって押さえ込む必要はないと思うの」
「でも……僕は怖いんだ。今日だって、君があの女に刺された時、昔みたいに怒りが爆発しそうになった」
「だけど昔のように、怒りに身を委ねなかったんでしょう?」
サクラの言う通り、イルザへの最後の一撃を加える瞬間、アレックスは咄嗟に怒りを制御した。だからイルザは死ななかった。
「僕があの女を手にかけなかったって、博士に聞いたの?」
「聞かなくても分かるわよ。何年あなたと夫婦でいると思ってるのよ」
柔らかく微笑むサクラに、アレックスは敵わないと思った。今晩見せた妻の勇気と優しさ、そして自分への愛に対してアレックスの胸は様々な感情に満たされ、溢れ返りそうになっている。
「じゃあ、手始めにあなたが私に対して不満に思ってることを言ってみて。何でも良いから」
アレックスは悩んだ。ハイスクールの時に出会ってから、彼女を自分のものにしたいと妄信的に想い続けてきたのだ。そんな彼女への不満など、恐れ多くて言えるはずもないと思っている。
けれども自分を見上げるサクラは、逃げるのを許さないとばかりに真剣な表情を浮かべている。
「あー……その、君に不満というよりも、じつは――」
「じつは?」
「子供たちと一緒で、僕も本当は”ヌカヅケ”が苦手なんだ……」
意外なアレックスの告白にサクラは一瞬目を丸くした後、ムッと顔を顰めたかと思えば、すぐにニヤリと口角を上げたのだった。
サクラを博士の隠れ家に置いて、一人家に帰ってきたアレックスは静かに玄関のドアを開けた。
中に入ってリビングへと顔を出すと、ミズ・スズキがソファの上でうたた寝していた。
「ミズ・スズキ」
アレックスが静かに揺り起こすと、ミズ・スズキがハッとして目覚めた。
「アレックス! サクラはどうしたの? 具合はどうなの?」
「命に別状はありません。ただ今は安静にするようにと言われたので、とりあえず僕は一旦家に帰ってきました」
「まぁ……なんてこと。折角のデートがこんな事になってしまって、本当に残念だわ」
悲しそうに眉尻を下げるミズ・スズキに、罪悪感がアレックスの胸をチクリと刺す。
「子供たちは?」
「大丈夫よ、みんなお利口さんにしてたのよ。それにテレビで中継を見てしまって、凄く心配していたのよ。でも詳しいことは言ってないから、あなたからきちんと話してあげてね」
「ええ、勿論です」
それからミズ・スズキに子守のお礼を言い、夜も遅いので家に帰ってゆっくりしてくださいと労った。
玄関で彼女を見送る準備をしていると、ミズ・スズキが心配げにアレックスを見上げた。
「本当にお見舞いに行かなくてもいいのかしら? きっとサクラも心細い思いをしているはずよ」
「そのお気持ちだけで充分ですよ。それにサクラ自身があなたに余計な心配を掛けたくないと言っていました。僕もこれ以上、あなたに迷惑をかけるのは忍びないですしね」
「迷惑だなんてとんでもないわ。サクラにはいつも話し相手になってもらってるし、こちらが迷惑をかけているようなものよ。でもそうね、色々と大変な時に無理に押しかけてもいけないわよね。わかったわ、くれぐれもお大事にね」
「えぇ、サクラにもちゃんと伝えておきます。今日は本当にありがとうございました」
そうしてミズ・スズキを見送ったアレックスは、二階に上がって子供たちの部屋を一つ一つ見て回った。
ミズ・スズキの言う通り、子供たちは健やかな寝息を立てて眠っていた。その顔を見ていると、アレックスの体に張り詰めていた緊張が溶けていくようだった。
どうか、子供たちには危ない目に遭うことなく、平穏な日々を送ってほしい。
切なる願いを込めて、アレックスは子供たち一人一人へとキスを送った。
翌朝、目覚めた子供たちは大騒ぎだった。特に長男のエリックはアレックスに何度も詰め寄ってきた。
「どうしてだよ! なんで母さんに会いに行ったらダメなんだよ!」
「だから、母さんは今は安静にするようにと、医者に言われてるんだ。お前たちが行ったら、安静にできないだろう?」
「じゃあ、見るだけでもいいから!」
「エリック……」
普段から反抗的な息子エリックだったが、今回は輪をかけて酷い。
だが息子の気持ちが痛いほど分かるアレックスは、しかし詳しい事情を話すことが出来ないために歯がゆい思いをしていた。
「パパ……わたしもママに会いたいわ」
娘のケイトがアレックスのズボンを引っ張る。その瞳には薄く涙の膜が張られている。
「ごめんよケイト。後数日したらママは帰ってくるから、それまでいい子にしてておくれ」
アレックスが言い聞かせるが、ついにケイトの灰色がかった青色の瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちてしまう。
それに呼応するように、アレックスの腕の中にいた次男のコリンまで泣き始めてしまったため、ギルバート家の朝のキッチンはいつも以上に騒がしく慌ただしかった。
「頼むよ、二人共泣かないでくれ。パパだって意地悪で言ってるわけじゃないんだ」
コリンを抱え直しながら、なんとかパンケーキをひっくり返すが、いつも上手く焼けるのに今日に限って焦げてしまった。
「ごめん、これはパパが食べるから、もう少し待っててくれ」
グズグズと泣きながらケイトはキッチンテーブルに着いた。エリックはついに黙り込んでしまったが、全身から怒りを発しているのをアレックスは感じ取っていた。そして腕の中のコリンは泣きながら暴れ始める。
「――あぁ、サクラ。僕も今すぐ君に会いたいよ」
小さく呟くアレックスの言葉は、キッチンの喧騒の中に溶けて消えた。
コリンをベビーシッターに預けたあと、エリックとケイトを学校に送り届け、アレックスはいつも通り出社した。
「アレックス! 大変だ! 大ニュースだぞ!」
朝からハイテンションのジョンに、アレックスは少々疲れた様子で挨拶した。
「おはようジョン。なにが大ニュースだって?」
「おいおい、どうしたんだお前。朝から暗い顔して。それにネクタイ曲がってるぞ」
言われて初めて気付いたアレックスは、フロアのガラスに移る自分の姿を見て顔を顰めた。頭の後ろの髪は跳ねていたし、ネクタイも不格好に歪んでいる。顔も生気がなかった。
「ちょっと色々あってね。それで?」
「あ? あぁ、それがな、イルザが逮捕されたって知ってるか!?」
ドキリとアレックスの心臓が跳ねる。だが顔には出さずに、初めて知ったと言わんばかりに驚きの表情を浮かべた。
「なんだって? 本当なのか?」
「お前、ニュース見てないのかよ! 朝から昨日の美術館のニュースで持ち切りだぞ?」
そこではたとジョンがある事実に気付く。
「あぁ!? お前、そう言えば俺が渡したチケット、アレ昨日の美術館の……あぁ! まじかよ!? 大丈夫だったのかアレックス?」
青ざめるジョンに、アレックスは極力困惑した表情になるように努めた。
「じつは美術館には行けなかったんだ。子供たちのシッターが見つからなくてね。それに妻が急に体調を崩してしまって、大変だったんだ」
「そうだったのか……いや、残念だが良かったな。でないとお前まで人質になってたかもしれないし」
腕を組んで頷くジョンに、アレックスは続きを促した。
「それで、イルザがどうして逮捕されたって?」
「それだよ! なんか昨日の美術館の強盗事件の主犯だったらしんだけど、詳しいことは俺もよく知らないんだ。どのメディアもイルザが犯人だって報道するだけで、詳細がまるで分からないんだよ」
アレックスは考える。警察はイルザの事を伏せるつもりなのだろうか。確かに、あの特異な能力を公表すれば、市民がパニックになる恐れがある。
だが美術館の外で警察以外にも一般人の目撃者が多数いたはずなのに、これはどういうことだろうか?
「お前も大変だよな。折角アシスタントが付いたと思ったら、半年も経たないうちに犯罪者になっちまってさ」
「言葉もないよ、ジョン」
いかにもショックを受けていますと言わんばかりにアレックスは項垂れた。
同僚たちがアレックスを見るたびに肩を叩いて落ち込むなと励ましてくるのを、気落ちした様子で対応するのに追われていると、フロアに編集長が現れた。
「諸君! 話しがある!」
フロア内に緊張が走る。今日は一体どんな無理難題を吹っ掛けられるのだろうか。
編集長は部下たちが自分に注目したのを確認すると、厳しい顔をさらに険しくして重々しく口を開いた。
「”ヤナギ・ユキ”の調査が打ち切られる事になった」
ざわりとフロアがざわめく。ジョンが恐る恐る編集長に尋ねた。
「あの、どういうことですか?」
「どういうことだと? そんなもの、この私が聞きたいくらいだ!」
ジョンは編集長を怒らせる天才のようだった。一気に怒りが頂点に達した編集長は、早口で捲し立て始めた。
「どこから漏れたのかは分からんが、ネットで騒がれ始めたのだ! ”ヤナギ・ユキ”を引き込むために、スターコミックス社が卑怯な手を使っているらしい、とな! 卑怯! この私が卑怯だと!? この情報社会のアメリカで、正体不明のままで作品を発表し続けている”ヤナギ・ユキ”の方が、余程卑怯というものではないか!」
両手を振り上げて怒り狂う編集長に、皆黙って見守っていた。それぞれ思うところはあるが、一度怒りの炎が燃え上がった編集長を止めることは、非常に困難な事だと理解していたからだった。
「くだらんネットの噂のせいで、上層部が尻込みをしたのだ! 我が社の評判を考えて、これ以上”ヤナギ・ユキ”の正体を探るのは一旦中止にすると! あの腰抜けどもめ!」
編集長に怖いものは無いのだろうか。相手が役員と言えども、編集長は容赦なく噛み付いていく狂犬のような男だった。これで強いものに屈して、弱いものに喚き散らすような男だったら、今頃はとっくに編集長の椅子は誰かに奪われていたことだろう。
編集長という立場に長年居座れているのは、彼にとっては自分が理不尽や怒りを感じたことに対しては、相手が誰であろうと等しくその感情をぶつけ、なおかつ誰よりもコミックスに対して情熱を傾けているからだろう。この点に関してだけは、アレックスは編集長を認めていた。他は関心しないことの方が多いが。
「まさかとは思うが、貴様らの中に今回の情報をネットで流した不届き者がいるとは言わんだろうな? もしそうなら、私はそいつのクビを問答無用で切ってやる!」
そうなると分かっているのに、わざわざ実行するような人間はこの編集部にはいないはずだった。そう、ただ一人の人間を除いては。
(思ったよりも拡散されるのが早かったな。まぁ、これで少しの間は時間稼ぎができたかな)
アレックスは他の社員と同じように、ウンザリとした顔を作りながら、内心そんな不届きなことを考えていた。そう、彼が今回の情報漏えいの張本人だったのだ。
仕方なかった。”ヤナギ・ユキ”の正体がバレるということは、サクラの生活もバレるということ。即ちアレックスが、スターコミックス社の編集部で編集者として働いておきながら、その妻が他社の――それも今まで他のコミック出版社が歯牙にも掛けなかったような、弱小コミックス出版社で執筆し、それも二大コミックス社の売り上げを追い抜かんばかりの勢いで人気が出てしまったのだ、正体がバレたらサクラとアレックスにとってろくな未来が待っていない。
編集長には申し訳ないが、今回は諦めてもらうしか無いのだ。
「私が腹立たしいのは、この件だけではない! むしろこっちの方が問題だ!」
そう言って今朝の新聞を振りかざして部下たちに指し示した。
「あのイルザが、昨日の美術館での強盗事件の主犯だというではないか。我が社から初の犯罪者が出たぞ! クソッタレが!」
バシンと床に新聞を叩きつける編集長に、今度は本当の意味で部下たちがざわつく。
「野心のある女だとは思っていたが、まさか強盗事件を起こすほど欲まみれだとは、この私ですら気が付かんかったぞ! 全く持って忌々しい!」
それは誰だって気が付かなかっただろう。アレックスでさえも気付かなかったのだから。
そんなアレックスの内心をまるで読んだかのように、突然編集長がアレックスの方を向いた。
「アレックス! 貴様、アシスタントの異変に気付きもしなかったのか!?」
「え? あぁ、はい。変わった様子などは特に無かったもので」
「まったく、情けない奴だ! 上層部はこの件で今にもこのビルの屋上から飛び降りそうな顔をしているぞ」
床に叩きつけた新聞紙を拾い上げながら、編集長はブツブツと文句を言っている。フロアにいた者たちは、早く嵐が過ぎ去るのを待つのみだった。
仕事をいつもより早めに終えたアレックスは、子供たちが家に帰ってくる前に、博士の隠れ家へと立ち寄った。
きっと慣れない場所で居ることにサクラが不安がっているだろうと思い、急いでやってきたのだ。単にアレックスが寂しかっただけとも言える。
だがアレックスが見た光景は、想像していたものとは全く違った。
「そうなの、あのシーンで主人公があえて仲間たちを裏切ったフリをしたのがいいのよ」
「わかるよサクラ。仲間たちのことを思えばこそ、あの時の選択肢は必要だったと言わざるを得ないんだよ」
サクラの為に用意された部屋は、以前ここに住んでいた時にアレックスが使っていた部屋だったが、今そこで彼女はベッドの上で横たわりながら、なぜか博士とコミックス談義で盛り上がっている。
入り口で疎外感に襲われていたアレックスに気付いたのは、妻サクラだった。
「アレックス! 仕事はどうしたの?」
「いや、今日は早めに切り上げたんだ。君が心配でね」
「もう、昨日も言ったじゃない。私のことは大丈夫だから、あの子達のことを頼むって約束したのに」
まるでコリンが言うことを聞かずに泣きわめいている時のような口調で言うサクラに、アレックスは自分が酷く小さな子供のように思えてしまった。
「まあまあ、サクラ。アレックスもあなたの事が心配で仕方ないのだよ。そうだな、アレックス?」
助け舟を出してくれた博士にアレックスは頷いて肯定した。サクラの横たわるベッド脇へと立ったアレックスは、妻の顔を覗き込んで安堵の表情を浮かべた。
「なに? 私の顔に何かついてるの?」
「そうじゃないよ。顔色が良くなってるから安心したんだ」
頬にかかる髪を優しく払ってやりながらアレックスが言うと、サクラはくすぐったそうに首をすくめた。
「私の腕も捨てたものじゃないということだな」
博士が空気を読まずに自慢げに首肯している。だが実際、博士は誇れるほどの腕を持っているものだから、アレックスも肯定せざるを得ない。
「そうそう、博士からあなたの昔の話しを聞いてたのよ。あなた、昔は凄く口が悪かったそうね」
「博士!」
アレックスが博士を睨みつけると、すまし顔で肩をすくめている。
「サクラにあまり変なことを吹き込まないでくれ博士」
「さあ、私にはなんのことやら、サッパリだよアレックス」
博士とアレックスのやり取りをサクラは微笑ましそうに見守っている。
そうして時間が来ると、アレックスは名残惜しそうに隠れ家を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇
サクラのいない自宅は寂しさに包まれる――余裕はなかった。
「パパー! 私のピンクのリボンどこにやったのー!」
「あー、クローゼットは探した? 机の上は?」
「ないのー! もう、今日はピンクって気分なのにぃ」
娘のケイトが両手を腰に当ててプリプリと怒っている。髪の毛は朝起きたままの状態で、四方八方に自由に跳ね回っている。
「父さん! 俺のランチは?」
「カウンターに置いてあるよ」
「はぁ? 無いんだけど!」
「そんなこと……あぁ! 落ちてる!?」
折角作ったサンドイッチが、袋の中から無残な姿でキッチンの床へと転がり落ちてしまっている。
「すぐに作り直すから、ちょっと待ってなさい」
「もういいよ! 自分で作るから」
エリックはキッチンを忙しく動き回る父親に、呆れたように言い返した。
「パパ! 髪の毛結ってー」
「ケイト、パパは今ちょっと手が離せないんだ。先に朝ごはんを食べてなさい」
「むぅー」
今度は二階からコリンの泣き声が聞こえてきた。どうやら目覚めてしまったらしい。
「あぁ、すぐに行くから泣かないでコリン!」
「父さん、フライパンの中身焦げてる」
「しまった!」
サクラがいないだけでこの体たらく。アレックスはしみじみと妻のありがたみを噛み締めたかったのだが、その余裕さえないのが現状だった。
毎朝子供たちと絶え間ないやり取りを繰り返し、精神的にぐったりしながら出社し、そして早めに退社しては隠れ家に行って、サクラの様子をチェックする日々だった。
そしてサクラの怪我は順調に治っていっており、それに合わせて彼女はさっそくベッドの上でスケッチブックを広げて鉛筆を走らせている。
何をしているのか問う必要もなく、ベッドの周りに散乱している用紙に描かれた物を見れば、すぐに自分のためにサクラが一心不乱に鉛筆を動かしていることを知る。
「サクラ、いくら体の調子が良くなってきたからって、無理しちゃいけないよ」
「ん、大丈夫。なにもしないでベッドで横になってる方が、よっぽど体に悪いもの。それに久々に描きたくてウズウズしてるの」
床に落ちていた用紙を拾い上げると、そこには立派な体躯をした男がスーツを纏って立っている。どう見てもそれはアレックスであり、彼女が自分のために新しいスーツのデザインを起こしている最中だと分かった。
「やっぱり黒をベースにしてるんだから、ダークヒーローなイメージでデザインした方がいいかしら? いえ、でもあなたの性格を考えると、それも何だか違うわね……」
問いかけているようで、その実独り言に等しい言葉をブツブツと呟きながらスケッチブックを見つめるサクラの瞳があまりにも煌めいていたから、アレックスはそれ以上彼女を止める言葉が出てこなかった。
「あ、ねぇアレックス。どうしてくすんだ紫をポイントに入れようと思ったの?」
スケッチブックから顔を上げたサクラが不思議そうに尋ねてくる。アレックスは苦笑しながら答えた。
「君が好きな色だからだよ」
「え……」
「サクラは紫が好きだろう? それも派手な色じゃなくて、落ち着いた上品な色が好みじゃないか。だから、どうしても取り入れたかったんだ」
「そうだったの……知らなかった」
ぎこちなく視線をスケッチブックへと落とすサクラは、表情こそ普通だったが、その耳が真っ赤になっているのをアレックスは見逃さなかった。
「だ、だったら紫色を上手く配置したデザインにしなきゃならないわね。うん、いいアイデアが浮かんできたわ」
はにかみながら再び鉛筆を動かし始めたサクラの横顔を見ていると、まるでハイスクール時代に戻ったような錯覚に陥った。あの時も、スケッチブックに熱心に鉛筆を走らせていたっけ。
束の間の穏やかな時間を過ごしたアレックスは、後ろ髪引かれる思いでサクラに別れを告げると、子供たちの待つ家へと帰っていったのだった。




