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アメリカ西部に位置するノイジーシティ。昼の陽気さは息を潜め、夜の帳が落ち始めると、どこからともなく悪意が目を覚ましだす。
夜でも眠らない街と言えども、一歩光の届かない場所へと足を踏み入れれば、途端に悪意が牙を向いて襲ってくる。
「きゃあああああ!」
悪意ある闇に囚われた哀れな女性の叫び声が、闇夜のノイジーシティに響き渡る。
「うるせぇ! 黙れビッチが!」
肌を故意に露出した服を纏う、夜の仕事を生業とする女性が、一人の巨漢にその体を拘束されていた。
ブルネットの髪を振り乱した彼女の左頬は腫れ上がり、濃い目に施された化粧も涙で剥げ落ちかかっている。
「やめて! お願い、お金なら渡すから殺さないでぇ!」
「金は後からたっぷり貰ってやるよ。テメェをヤリまくって殺りまくった後にな!」
下卑た笑みを浮かべ、男が腕力に物を言わせて女性を路地裏に引き倒す。そのまま覆いかぶさり、ベルトを緩めようとしていたその時だった。
「か弱き女性をそのように乱暴に扱うのは、どうかと僕は思うね」
緊迫したその場の空気にそぐわない、軽快な口調が背後から聞こえてきて、女性に覆いかぶさっていた暴漢は慌てて背後を振り返った。
そこで目にしたのは、黒を基調としつつ所々に紫色のラインが入っているコスチュームを纏った男。肩から紫のマントがたなびき、顔には同色のマスクをしている。
だが暴漢が驚いてたのはそこではない。その奇妙なコスチューム姿の男が、上空に留まりながら、自分を見下ろしていたからだった。
「てっ、テメェ、なんだ!?」
「なんだ、と言われてもね。キミこそ、自分より弱い女性を痛めつけて楽しいかい?」
「はぁ!? ざっけんなよ、このタイツ野郎!」
確かにコスチューム姿の男は異様ではあったが、体格から言えば自分のほうが勝っていると判断した暴漢は、空中からゆっくりと地面へと降り立ったコスチューム姿の男へと飛びかかっていった。
暴漢の体重の乗った重い拳は、コスチューム姿の男の顔面へと、しっかりと叩き込まれた――はずだった。
「はっ! チンケな正義感なんて出したのが運の尽きだったな、このタイツや――っつぅ!?」
衝撃は遅れてやって来た。コスチューム姿の男の顔面に叩き込んだ拳から、振動と激烈な痛みが迸った。
「タイツ野郎とは心外だな。これはスーツだよ、ヒーロースーツ。ヒーローにスーツはつきものだろう?」
自称ヒーローが不満げに肩をすくめる。暴漢は声にならない悲鳴を上げながら、男から慌てて距離を取ろうと後ずさった。その右手は哀れなほど腫れ上がり、恐らく骨という骨が著しく損傷しているのは見て解った。
「おっと、どこに行く気だい?」
パンチを食らったはずの男の顔は、マスク越しに見ても全くダメージを負った様子もなく、急に怯えて逃げの体勢を取った暴漢を見て、ほんの少しの笑いを含んだ声音で距離を詰めた。
「くっ、来るな! ば、化物――ぐぁはッ!」
暴漢が言葉を言い終えるよりも前に、男は常人ではあり得ない速度で近づくと、暴漢の鳩尾へと軽く――見た目には当たっているフリをしているアクション映画さながらに――拳を打ち込んだのだった。
だがその衝撃は凄まじく、男よりも巨躯の暴漢の体が、まるで安いビニール製の人形の如く、薄暗い路地裏の中空を猛烈な勢いで吹き飛んでいった。
男はそれを見届けた後、いまだ事態を把握できずに涙でグシャグシャの顔の女性に、そっとグローブに包まれた右手を差し出した。
「大丈夫かい、お嬢さん? 酷く殴られたようだね。これは病院に行ったほうが良い。あぁ、でもこんな場所で商売をするのは、あまりオススメしないよ。まぁ、出来るならば他の職を探したほうが良いと言いたいけれど、そこは個人の自由だしね」
軽妙な口調で語りかけ、女性を立たせた男は、それじゃあ、と立ち去ろうとしたのだが、慌てて女性が彼を引き止めた。
「まっ、待って! あなた、一体何者なの?」
震える声で、それでもいくらか衝撃から立ち直った女性が男に問いかける。
男は飛び立ちかけたが一度立ち止まり、僅かに首をかしげた後にこう告げた。
「そうだね――ノイジーシティの守護者ってとこかな」
それだけ言うと、男は地面を蹴ると勢い良く夜空へと飛び立っていったのだった。
夜というのに眠る気配のないノイジーシティを男は上空から見下ろしながら、そっと聴覚を研ぎすませた。
聞こえてくる音や声を意図的に選り分け、誰かの悲鳴であったり助けを求める声などに意識を集中させる。
しかし、ふとその中に聞き慣れた泣き声をキャッチした。
「あぁ、しまった! また起きちゃったのか」
男は上空で身を翻し、慌ててノイジーシティの中心部から郊外へと猛スピードで駆け抜けた。
そしてたどり着いた場所は閑静な住宅街で、その中の落ち着いたベージュの外壁にくすんだ紫色の屋根の家へと近付いていく。
男は音を立てずに二階の窓から室内へと入り込むと、ベビーベッドで大泣きする赤ん坊へと近寄り、そっと抱き上げた。
「よしよし、いい子だから泣かないでくれ、コリン」
コリンと呼ばれた赤子は、自分を見下ろすマスク姿の男を見上げると、徐々に泣き止んでいった。
不思議そうに見つめてくる赤ん坊が泣き止んだことにホッとした男は、また赤ん坊をベビーベッドへと戻そうとしたのだが、彼が手を離した途端、再び火が着いたように泣き出そうとする。
マスクの中で困り顔の男だったが、少しの思案の後、抱っこひもを装着し、赤ん坊をその中へと入れて、再度窓辺から夜空へと飛び立ったのだった。
その夜、ノイジーシティに蔓延る悪党たちは、静かに、だが速やかに沈黙させられていった。
警察に逮捕された彼らは、皆一様にこう証言していた。
――赤ん坊を抱いた、マスク姿にマントを纏った、全身タイツ男が自分たちを倒していった、と。
◇ ◇ ◇ ◇
「母さん! 起きて、朝だよ!」
「うあぁい……」
仕事机に突っ伏したまま、ゾンビのような呻き声を上げるのは、艶やかな黒髪が特徴的なアジア系の女性。そんな女性を呆れたように見つめる少年は、女性と似た黒髪だったが、瞳はよく晴れた青空のような色をしている。
呻くだけで起き上がる気配のない母親に少年は溜息をつくと、ぐるりと目玉を回した。
「母さん! 起きて!」
「はい! 起きた! いま起きたから!」
息子の大声に、母親は伏していた上半身を慌てて起こして両手を上げた。それを見届けた少年は、呆れたように肩をすくめて部屋から離れていった。
母親は気怠げに椅子から立ち上がると、それこそゾンビのごとくフラフラと覚束ない足取りでキッチンを目指した。
キッチンに辿り着くと、そこには既に朝食を摂っている二人の子供たちがいた。
「おはよう、ママ」
「おはよう、ケイト」
寝ぼけ眼のまま、見事な金色の巻き毛を持つ幼女の額に口付ける母親に、娘――ケイトはくすぐったそうに身を捩った。
そのまま母親は自分を起こしに来てくれた息子――エリックにも、おはようの挨拶と共に同様に額に口付けようとしたが、年頃の少年はそれを嫌そうに避けたのだった。
母親はふらりとキッチンカウンターへと寄りかかると、その向こうでパンケーキを焼いていた夫へと声を掛けた。
「おはよう、アレックス。ごめんなさい、寝坊しちゃったわ」
アレックスと呼ばれた夫は、器用にパンケーキをひっくり返すと振り返った。
「おはよう、サクラ。良いんだよ、君も仕事が大変そうだしね」
短く刈り上げた金髪に、野暮ったいグレイのスーツの上からエプロンをかけた夫の言葉に、妻であるサクラは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
アレックスは焼きあがったパンケーキを皿に移し替えながら、小鍋から作りたてのスープをカップへとよそうと、疲れ切っている妻の前へと差し出した。
鼻孔をくすぐる独特の香りに、思わずサクラは顔を緩めた。
「あぁ、ミソスープ! わざわざ私のために作ってくれたの、ハニー?」
キラキラと瞳を輝かせて香りを楽しむ妻に、夫であるアレックスは爽やかに笑った。
「そうだよ、ダーリン。僕は君の忠実な下僕だからね」
悪戯っ子のようにウィンクをして、サクラの目元へと指先を滑らすと、アレックスは途端に心配そうな面持ちになった。
「大丈夫かい? 顔色があまりよくないよサクラ。また朝まで描いてたみたいだけど、無理はしないで」
「無理をしてるつもりは無いんだけど、ついつい筆が乗っちゃって、思いの外作業が長引いちゃったのよ」
目の下の隈を優しく撫でられ、サクラはバツが悪そうに肩をすくめた。
そんな彼女の職業は、コミック作家である。それも今、アメリカンコミックス業界で最も注目を集めていると言っても過言ではないほどの、売れっ子作家である。
サクラは基本、コミックが仕上がるまでの全ての工程を一人で仕上げる。それは分業制が当たり前のアメリカンコミックス業界においては異端であったが、彼女には彼女のこだわりがあり、その姿勢をデビュー当時から貫いてきているのである。
「君の才能は僕が一番愛してるんだ。でも無理をして作品を描けなくなったら、元も子もないだろ?」
「そうね……えぇ、ありがとうアレックス」
そう言って情熱的なキスを交わす両親を見たエリックは、「おえっ」と吐くような仕草をした。
朝から盛り上がる両親にうんざりしている二人の子供をよそに、突然キッチンにガシャン、と派手な音が響き渡る。
驚いてアレックスとサクラが振り返ると、末っ子のコリンが涎まみれでスプーンを振り回している。その下の床には、派手に割れた皿が散らばっていた。
「あーう!」
何が楽しいのか、ケタケタと笑いながら、コリンはスプーンをカツンカツンと机に叩きつけている。
「あぁ、もうコリンったら……」
サクラは溜息をつきつつ、手早く割れた皿を掃除し始めた。
アレックスはコリンを抱き上げると、涎と食べかすでベトベトの口元を拭ってやる。
「コリン、今日は随分とご機嫌じゃないか。なにかイイコトでもあったのかい?」
父からの問いに、言葉を発する代わりに赤ん坊は一層楽しそうに全身をバタつかせる。
「ねぇ、母さん。前にも言ったけどさ――」
「ママ! あのね、エリックってば、きのう遅くまでゲームしてたのよ」
「おい!」
話しを遮られたうえに、妹の突然の告げ口に、兄エリックは隣に座る妹の頭を小突いた。
「いたい! ママー! エリックがわたしの頭をぶったわ!」
大げさに痛がる妹に、エリックはうんざりとした様子で、父アレックスが焼いたパンケーキにフォークを突き刺した。
兄妹喧嘩が勃発し始める前に、アレックスが二人の間に介入した。
「エリック、いつも言ってるだろう? 女の子に手を挙げるなんて、絶対にしちゃダメだって。それにケイトも、どうしてお兄ちゃんが遅くまでゲームをしてたって知ってるのかな?」
父の言葉に二人の子供は顰め面で黙り込む。皿を片付け終えたサクラは、息子と娘を見下ろして怖い顔をしてみせた。
「エリック、パパの言う通りよ。女の子に手を出しちゃダメよ。それと新しいスマホは買わない。まだ今ので充分でしょ?」
無碍な母の言葉に息子は眉間の皺を深くする。隣で妹が兄を馬鹿にするような仕草を見せた。
「ケイト、止めなさい。それに遅くまで起きてちゃダメでしょ。……って、ヤダ、もうこんな時間!」
視界に入った時計を見たサクラは、慌てて子供たちを急かした。自身も急いで身支度を始める妻を見たアレックスは、その腕を取って彼女を落ち着かせた。
「今日は僕が子供たちを送っていくよ。君は徹夜で仕事をしてたんだから、今日はゆっくりしていて」
「だめよ! あなただって昨日の夜はコリンが夜泣きして大変だったでしょ? 私の仕事部屋にまで泣き声が聞こえてたもの」
アレックスは自分の腕の中にいる、妻とよく似た瞳を持つ息子コリンの頬をくすぐりながら言った。
「心配しないで。僕はとっても頑丈にできてるからね。ちょっとやそっとで体調なんか崩さないさ。ね、僕の言うことを聞いてサクラ」
今時どこで売っているのかと疑問に思うほどの、分厚い茶色のフレームが付いた眼鏡の奥の澄んだ蒼穹のような瞳が労るように眇められる。
「あなた、そう言って昨日も私を甘やかしたじゃないの。よくないわ、今日こそ私が子供たちを送っていく」
一見すると、物静かな印象を受けるサクラだが、その実、自分で決めたことにはとことん頑固になる性質を持っている。
ハイスクールからの付き合いであるアレックスは、そんな妻を熟知していた。
「寝不足の君が車を運転するの? それは良い案だとは言えないね」
指摘されてサクラはうっ、と言葉に詰まる。それを見逃さなかったアレックスは、畳み掛けるように言った。
「君や子供たちにもしもの事があったら、僕はどうして生きていけばいい? 頼むから言うことを聞いておくれダーリン」
そこまで言われて拒否できるはずもなく、サクラは降参のポーズをした。
「ごめんなさい、あなた。明日は必ず私が送っていくから」
「そうだね。そのためにも、今日は無理せずに、仕事もセーブするように」
そう言ってサクラの額に優しく口付けるアレックスは、まさに理想の夫であり、父であった――表面上は。
子供たちを乗せた車の側に立ち、コリンを腕に抱いたサクラが言い含める。
「エリック、先生の言うことをよく聞くのよ。ケイト、お友だちとケンカしちゃだめよ?」
しかし近頃反抗的な息子エリックは、嫌そうに顔をしかめるだけで返事もしない。ケイトはそんな兄を「子供っぽいんだから」などと、おませな事を言って肩をすくめている。
「それじゃあ、行ってくるよダーリン。コリン、ママを困らせちゃだめだよ?」
「いってらっしゃい、ハニー。お仕事頑張って」
走り去る車が見えなくなるまでサクラは手を振っていた。すると突然、背後から話しかけられた。
「おはよう、サクラ。今日もいいお天気ね」
「あら、おはようございます、ミズ・スズキ。いつも騒がしくしちゃって、申し訳ないわ」
サクラが振り返った先には、隣家のミズ・スズキが生け垣の向こうで、朗らかな笑みを浮かべて立っていた。
彼女は四十代後半くらいの、少しふっくらとした体型の上品な女性だった。
サクラとアレックスがこの家を購入した二ヶ月後くらいに、隣に越してきた日系アメリカ人だった。
五人家族で騒がしく暮らす自分たちと違い、ミズ・スズキは独身のようで、一人の生活を気ままに暮らしているようであった。
「そんな遠慮なんてしなくても良いって、いつも言ってるじゃないの。むしろ元気な子供たちの声を聞いてると、こっちまで元気になるくらいよ、本当に」
ミズ・スズキはいつも笑顔である。曖昧な笑顔ではなく、こちらまで楽しくなるような、そんな素敵な笑顔だった。
彼女の存在は、引っ越してきてこの土地に慣れるために四苦八苦していたサクラにとって、思いの外大きかった。同じ日系人というのもあっただろう。だがそれ以上に、ミズ・スズキの全てを包み込むようなおおらかさに、サクラは何度も救われていた。
「あぁ、そうだった。貴女にあげようと思ってたのよアレ。ちょっと待っててね」
そう言うと、ミズ・スズキは急いで自宅に引き返した。サクラは腕の中の息子に話しかけながら、彼女を待っていると、直ぐにミズ・スズキは家から出てきた。
「これよ、これ。ちょうどいい具合に漬かったから、貴女におすそ分けしようと思ってね」
嬉々として差し出されたパックの中には、サクラにとっては見慣れた物体が入っていた。
「うわぁ! 大根のぬか漬け! あ、ナスもあるわ」
「そうよ、貴女は好きだけど、お子さんたちが好きじゃないから作れないって言ってたでしょ? だから私が代わりに作ってみたの」
サクラは片手でコリンを抱き、空いた手で大事そうに漬物の入ったパックを受け取った。
「あぁ、もう本当にありがとうございます、ミズ・スズキ。貴女を今すぐ抱きしめたいんだけど、これで許してね」
そう言って頬を寄せるサクラに、ミズ・スズキは代わりに愛情たっぷりのハグを返してくれたのだった。