第85話 プロゲーマーは否定する
「……あっ……」
濃霧のバルコニーに立つ莉々は、不意に自分の胸を両手で隠した。
「……あんまり、見ないで……。胸、動きやすいように、リアル準拠にしたから……」
「お……おう……」
よく見ると、漆黒のメイド服に包まれた莉々の胸は、確かに見栄の塊のようだったそれではなくなっている。
無表情ながら恥ずかしそうにする莉々が、あまりにもオレの知っている彼女すぎて――オレは一瞬、毒気を抜かれてしまった。
まるで夢が切り替わったときのように、頭が混乱する。
ついさっき、少女を濃霧の向こうに放り捨てた冷酷な女と、自分の体型を気にして恥ずかしがる女の子が、うまく繋がらない。
「何しに来たの? ジンケ」
ことりと小首を傾げ、さらりと銀髪を揺らし。
森果莉々は、まるで普段通りに言う。
「やっとプロになれたばかりなのに――どうしてこんなところにいるの?」
「そっ……それはこっちの台詞だっ!!」
見慣れた恋人の顔が、どんどん得体の知れないものになっていく錯覚を、自分の叫びで振り払った。
「いきなりEPSを辞めて、学校にも来なくなって、家にも寄りつかなくなって! 何してんだよ、お前!? お前の叔母さんがどれだけ心配してたか……!」
「ああ……家、行ったんだ」
ことりと、莉々は反対側に首を傾げる。
「わたしのこと……心配、してくれたんだ。ジンケ、優しい……。好き。大好き」
「あ……ああ……?」
突然の告白に、オレの気持ちはついていかない。
今、そういう空気かよ?
いや、こいつが空気を読まないのはいつものことだ……だったら、だったらなんでだ?
通じ合っていると思っていた。
まだせいぜい半年の、決して長くはない付き合いだけど。
無表情だけど感情豊かで、嫉妬深くて愛情深くて――そんなこいつの心と、常に触れ合えているつもりでいた。
なのに、今。
オレには、莉々の考えていることが少しもわからない――
「心配させて、ごめんね。ネットカフェや《冒険者会館》をハシゴしてるだけだから、危ないことは、何もしてない。家にも帰るようにするから」
「……違う……。違うんだよ……」
「何が? ……あ……そっか。うん。付き合いたてだもんね。もっとしたいよね。それも、呼んでくれたらいつでも行くから」
「違うんだよッ!!」
古ぼけた書斎にビリビリと声が走り、莉々は無表情のままぱちくりと目を瞬く。
その様子に、オレはますます拳を震わせた。
「……なんで、普段通りなんだよ……っ! 普段通りじゃダメだろうが! お前は今! そこで! 女の子をゴミみたいに放り捨てただろうがッ!! そのお前がどうして! 何にも変わらない態度でオレに接するんだよッ……!?」
それじゃあ。
それじゃあ、まるで。
お前という人間を、オレが全然知らなかったみたいじゃねえか……!
家族構成も知らなかった。
出身中学も知らなかった。
どうしてオレのことが好きなのかも――知らなかった。
それでも、お前の性格は知っているつもりだった。
どういうものが好きで、どういうことに怒るのか。その程度のことは知っているつもりだった!
だから……変わってくれなきゃダメだろうがよ……。
オレの知らない面を見せたなら……オレの知らない態度で接してくれなきゃ、ダメだろうがよ……!
じゃないと、『元に戻してやる』って思うことすらできねえじゃねえかよッ!!
「お前、前に言ったよなあ!? 初心者狩りのPKを見て『気に喰わない』って怒ってたよなあ!? そのお前が、今日、この屋敷で何をした!? 何人殺したんだよっ!?
辻褄が合わないだろうが! あのとき憤ったお前と! 今日殺戮を繰り広げたお前と! なのにどうして、何にも変わってないんだよっ!?」
無様な懇願だと、自分でもわかっていた。
何か理由があって、莉々は変わってしまったのだと――そうであってほしいのだと、告白しているも同然だった。
だって、そうだろうよ。
何ヶ月も一緒にいた女の子が。
ようやく結ばれた恋人が。
思っていたのと全然違う奴だったなんて――そんな事実に、耐えられる奴なんかいるのかよ?
身勝手かもしれない。
勝手に幻想を見て、勝手に幻滅をした、身勝手な男の泣き言かもしれない。
それでも、わかってほしいと懇願した。
通じてくれ、と。
察してくれ、と。
オレの痛みを、どうか理解してくれ、と――心の底で祈っていた。
もし、お前がそうしてくれたなら。
きっとオレは、今まで知らなかったお前のことも好きになれるから。
「……ジンケ、勘違いしてる?」
だけど。
森果莉々は、きょとんと首を傾げた。
「あのとき、わたしが気に喰わなかったのは、PKじゃなくて初心者狩り――たかがゲームと侮って、自分を正当化して、自分より弱いものをいたぶることしかできない、目も当てられないほどの弱さ。
あんな弱い人たちの、くだらないお遊びのせいで、強くなれるかもしれなかった人たちが引退してしまったりするのは、本当に不愉快」
無表情のまま、しかし声音には不快感が滲んでいる。
嘘じゃない。
偽りじゃない。
森果莉々の、衒いのない感情。
「だけど、本物のPKは――矜持を持って殺しをする人たちはそうじゃない。この仮想世界で、現代日本からは失われた命のやり取りに取り憑かれた彼らは、プロゲーマーよりもずっと実戦的で、強い」
「……強い……?」
酒場で因縁を吹っかけてきた連中を思い出す。
夜の道で、幼馴染みに拳を振るった自分自身を思い出す。
「強い……だって……? 本気で言ってんのか……? あんな、ただの暴力が……強さだって……!?」
「……暴力……?」
「遊びで他人に力を叩きつけるだけのPK連中が『強い』だと!? ふざけるなよ、てめえ……! そんな台詞、よくもプロゲーマーの前で言えたな……っ!!」
ルールも何もなく、力を他人に叩きつけるのはただの暴力だ。
そんなものは強さじゃない。
そんなものは強さであっちゃならない! 断じて!!
「……ジンケ」
莉々の瞳の温度が、かすかに下がった気がした。
まるで溜め息をつくような、ダウナーな声音が、静かに薄い唇からこぼれる。
「この一帯のPKたちは、こぞって殺したプレイヤーの数や質を競ってる。システマチックなランキング制度さえあるの」
「ざけんな。んな遊びみてえな――」
「何が違うの」
その声が纏う圧力に、オレは喉を潰された。
「日々、他者を傷付けて、踏みつけにして、その結果を周囲に誇り、あまつさえお金をもらうプロゲーマーと――一体、何が違うっていうの?」
とっさに、反論が出てこなかった。
冷え冷えとした眼光に魂を射貫かれて、そのまま、標本にされた蝶のように動けなくなった。
「勘違いしないでほしい。だからダメって言ってるわけじゃない。むしろ、いい。だからこそ、わたしはあなたを強くするための糧を探しに、ここに来た。だからこそ、わたしはジンケに、プロになってほしかった――ジンケをあの夜みたいな……ううん、あの夜以上の『最強』にするためには、そうするのが一番いいと思った」
「――あの、夜――」
「あの夜。真夜中のゲームセンターで。ジンケ――あなたはまさに、あなたの言うところの暴力の化身だった。次々と押し寄せる敵を、弾き返すようにねじ伏せて支配して――あのとき、わたしは初めて、『最強』という言葉の具体的な形を知ったの……」
莉々の声音が、恍惚とした色彩を帯びる……。
その口振りは。
やっぱり――やっぱり、お前が。
「我慢できなかった。ゲームなんてやったこともなかったけど、胸の奥で弾けた感情に、身体が抗えなかった。
この人に、ねじ伏せられたい。
この人に、支配されたい。
圧倒的な最強の力を、余すところなくぶつけられてみたいって――そんな気持ちが、止まらなかった……」
286人目。
あの伝説の夜。オレに挑戦した最後の人間にして、決着がつかなかった唯一の人間。
「1ラウンド目で勝っちゃって、ちょっとがっかりしたけど、2ラウンド目はすごかった……。それまでの285戦が嘘みたいな力強さ……。この人にはまだ先がある。まだ上がある。そう思うと、はぁ……自分でも変だって思うけど、本気でこう思ったの。
この人に殺されたい――って」
かすかに上気した顔で、莉々はうっとりとオレの顔を見た。
否。
彼女が見ているのはオレじゃない。
あの夜限りの狂戦士――《JINK》だ。
「どこの誰かもわからない強盗じゃない……ただの現象でしかない病気でもない……わたしは、わたしはね、ジンケ? 『これなら納得だ』って、そう思えるものに殺されたかったの。あの夜に初めて、そのことに気がついたの……!」
「……お前も。お前もかよ。お前も結局、南羽みたいに《JINK》のことを見てるのかよ……」
「だから、あなたはわたしの人生。あなたこそが、お父さんが最期まで求めた『最強』の答え!」
「《JINK》はただの伝説だ! もうこの世のどこにもいないッ!! ここにいるのはオレだ! オレなんだよッ!!」
「健やかなるときも、病めるときも、富めるときも貧しいときも死が二人を分かつまで――」
「オレを見ろ莉々ッ!! 今ここにいるオレを見ろぉおおッ!!」
「――あなたという最強があるのなら、わたしはきっと生きていける」
だから、と。
森果莉々は、今まで見た中で一番綺麗な微笑を浮かべた。
「あの夜を超えて、ジンケ。いつかわたしを殺すために」
……ああ。
そういうことかよ。
見てほしければ、超えろってことか。
あの夜のことなんか塗り潰してしまえるくらいの、『最強』になれってことか。
ふざけんな。
あんなもんが、強さであるものか。
守りたいと思った幼馴染みをぶん殴っちまうようなものが、強さであってたまるものか。
だから――ああ、お望み通りにしてやるよ。
超えてやる。
忘れさせてやる。
これが本当の強さだと――あの夜を否定してやるよ……!
「莉々」
「ジンケ」
呼び合う声は、まるで恋人同士のそれだった。
まるで、と付けなければならないことが、ひどく胸をかきむしる。
なればこそ、それをすぐにでも消し去るために。
オレは、拳を固く握り締めた。
「―――莉々ィいぃいいいいいいいいぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
咆哮と共に、脳内の箍が外れる。
床を蹴る音は、地響きのように遠く。
オレは初めて、《JINK》を殺すために走り出した。




