絵画の鑑定
ラルガ教会へと到着したウェイルは、早速鑑定業務に取りかかっていた。
手に持つ神器『氷石鏡』で、ねっとりと舐めるように、それでいて迅速に絵画を観察していく。
今回のウェイルが行っている鑑定は『真贋鑑定』と呼ばれる鑑定方法である。
その名の通り、その作品が本物か贋作を見極める鑑定方法だ。
鑑定には他にも『為替鑑定』、『不動産鑑定』、『年代鑑定』等があるが、芸術を嗜む人の多いこのアレクアテナ大陸でもっとも需要が高いのが、この『真贋鑑定』であるのだ。
「こいつは『セルク・マルセーラ』の作品だな。おそらくは中期の作品だろう」
「セルクですと!? この絵画が!? 本当ですか!?」
「ああ、間違いない。こいつがセルク作品であるという理由は二つある。そもそも絵画とは、紙や板などの支持体と、絵具等の塗料との二つの要素から出来ている。セルクはこの二つの要素に対して強い拘りを持っていたんだ。支持体には木板と布を、塗料は油彩を、な。これが一つ目の理由だ」
「しかしそれは他の画家も使っている物ではないですかな? キャンバスのほとんどは木板ですし、当時は紙を使う絵画は少なかったと記憶しております。それに油彩といっても、大半の画家は油彩を好むもの。特段珍しいとは思えませぬぞ、ウェイル殿」
そうウェイルに訊き返したのは、今回の出張鑑定の依頼人であり、ラルガ教会サスデルセル支部の神父、バルハーである。
「確かにそうだな。当時紙は貴重だったし使用者は少なかった。だがな、セルクの拘りというのは、そんなに単純な理由のせいじゃないんだ。セルクは木や布の材質と製造元に関して狂気的なまでに拘っていたんだ。木板には強度のある良質のオークを量産していた『ハンダウル山』産のオークのみを使用していたし、布は『ペストランス社』製の布しか使用していない。つまり絵画にこの二つが使用されていると、それはセルクの可能性が高いと言うわけだ。もちろん、一般人には見分けが付かないだろうけどな」
『ハンダウル山』産のオークは非常に耐久性があり、少々激しい画法を用いても余裕で耐えるということもあって、過激なタッチの絵画によく使用されている。
しかしながら値が高価で、貧困層の多い画家には手の出せない代物であった。
また『ペストランス社』というのは、現在にはすでに存在しない繊維会社のことであり、紙に近い感触の布を製造していたため、愛用者は多かった。
「油彩だってセルクの手法は特徴的でな。多くの作品を描くために普通の油彩とは違い、『ウェット・オン・ウェット』と呼ばれる方法を用いたり、通常の絵の具より油分の多い絵具を下塗りにしたりしていたんだ。この方法を用いれば、通常よりも短時間で作品が仕上げられる」
「ほぉ、実に奥深いですな……。まさか塗り方一つにまで拘っていたとは……」
ウェイルの淡々とした説明に、バルハーは感心しながら頷きっ放しである。
「しかし、その二つの要素を正確に再現して出来た贋作という可能性はないのですかな?」
「有り得ない事ではないな。当時のオークの入手は難しいが入手しようと思えば出来ないことはない。安い絵画の表面を削れば再利用できるのだからな。布はもっと簡単で、当時かなりの量が製造されたから今でも金さえ出せば手に入る。そこでもう一つの理由が出てくる」
ウェイルは『氷石鏡』をバッグに仕舞い、代わりに手帳を取り出して、説明を続けた。
「セルクは自分の絵に必ず三桁の番号を入れていたんだ。絵画を描いた順番というわけじゃなく、無作為に入れられた番号なんだ。番号が被っている作品はないとされている。これを『セルクナンバー』といい、セルクが亡くなるまでに描いたとされる894枚全てに記されている。その内、現在プロ鑑定士協会が把握しているセルクナンバーは831種ある。この絵画の番号だが、照合してみたところそのどれとも被っていない。この番号情報は非公開だから、そこらの贋作士が適当に番号を振ったところで被ってしまう可能性は高い。これが大きな二つ目の理由だ。他にも、描き方の癖だとか材質の時間劣化、サインや塗料。挙げればキリがない。様々な要素から考えてこいつは本物だと確信したんだよ」
ウェイルはこの絵の番号を手帳に書き入れた。
この番号をプロ鑑定士協会に報告するためだ。
セルク・マルセーラはアレクアテナ大陸の芸術史上、最高の画家だと云われている。
そんなセルクの作品に付けられているセルクナンバーは、プロ鑑定士協会によって厳重に管理されている。
これはこのナンバーが漏出し、贋作が横行するのを防ぐためだ。
「……はぁ、本当に凄い世界ですな。自分はまるでついていけませんよ」
「それが普通だ。そのために俺達のような鑑定士がいるんだから、任せてくれたらいい」
「それが最善ですな。それでこの絵画の価値は如何ほどに?」
「そうだな。セルクのファンは大陸中にいるし、その中でも特に王族や貴族から人気が高い。セルクの絵画ならいくら出してもいいって連中はごまんといるし、俺の知り合いにもいる。保存状態も良好だ。そうなると最低でもこのくらいの金額にはなるだろう」
ウェイルは公式鑑定用紙を取り出し、おもむろにペンを走らせると、金額とサインを施して、バルハーに手渡した。
「おお……っ!? 本当にこの額なのですか!?」
「ああ。最低価格がそのくらいだ。オークションに出品すればもっと高く付く可能性だってある。客層と時間帯が良ければ二倍くらいにはなるかも知れない」
「これの二倍……!?」
予想をはるかに超える値段だったのだろうか。
バルハーは態度こそ平然としていたが、明らかに口元が緩んでいた。
それも無理はない話。
ウェイルがサインしたこの紙は、驚くほど大きい効力を持つ。
プロ鑑定士がサインを施した公式鑑定用紙は、どの都市へ持って行っても信頼され、書かれた額面通りに取引される。
また価値を付けた鑑定士の人気によっては、それ以上の額で取引されることすらある。
それほどまでに、このアレクアテナ大陸においてプロ鑑定士への信頼は絶大だ。
「いやはや、まだまだ私の目も衰えてはいないということですな」
バルハーは見るからに上機嫌になっていた。
セルクの絵画以外にも絵画をコレクションしていたそうで、続けてウェイルに鑑定を依頼してきた。
バルハー曰く――
『――最近絵画を集めるのが楽しくて、気に入った絵ならいくら出してでも買ってしまうのです』
――だそうだ。ずいぶんと景気の良い話だ。
結局彼のコレクションにはいくつか贋作も混じってはいたが、大半は本物であり、それも高価な代物が多かったため、バルハーは相当喜んでいた。
「お疲れ様でした。鑑定依頼は以上となります」
「ああ、そっちもお疲れさん。もしセルクの絵画を売りたくなったら俺に連絡をくれ。信頼のおける取引相手を紹介できる」
「ええ。もし売るようなことがあればよろしくお願いします」
最後の鑑定依頼も終わり、一息ついた時のこと。
バルハーの部屋の奥に、まるで隠すように置かれた一枚の絵画を見つけた。
「神父さん、この絵画は鑑定しなくていいのか?」
埃を被り、乱雑に放置されたその絵を、ウェイルは手に取る。
「ついでだし鑑定しておこうか?」
ウェイルがそう訊ねて、埃を払い、そして絵を一目見たその瞬間だった。
(……――なんだ、この絵画は……!?)
全体的に青一色の、空翔ける龍が描かれていた。
見たことも聞いたことも無いような、氷のように冷たい印象を受ける絵画であった。
だが、何と表現してよいのか判らない、高揚感に近い感覚が、この絵を見ていると沸いてくる。
単純に言えば、その絵画に圧倒されていたのだ。
「…………青い、龍…………」
絶句。
思わず漏れてしまった感嘆の声に、ウェイル本人が一番驚いた。
ただただ美しいと感じ、鳥肌が止まらない。
こんな絵画が実在するのかと、思わず自分の目を疑ってしまったほどだ。
プロ鑑定士になって初めての経験だ。
高名な画家の描いた作品は、見るだけでその迫力に圧倒されてしまうことがある。
セルクの作品はそのいい例だ。
力強く描かれるタッチの一つ一つが、物言わずとも心に響き渡るのだ。
日々鑑定依頼をこなし、絵画なんて見慣れているウェイルでさえ、時として心を奪われることがある。
この絵画は、まさにそれだ。
――それは一瞬だった。僅か一瞬で心惹かれたのだ。
ウェイルはしばらくの間、無意識にこの絵に釘付けとなっていた。
「ウェイル殿? どうかなされましたかな?」
バルハーの問いかけによって、ウェイルはようやく絵画に引き込まれていた自意識を取り戻した。
「……いや、何でもないよ。それよりこの龍の絵は鑑定しなくてもいいのか?」
ウェイルが龍の絵を見せながら尋ねると、バルハーは露骨に怪訝な顔を示した。
「その絵画ですか? それについて鑑定は必要ありませぬ」
「コレクションの一部ではないのか?」
「ご冗談を。それは昔セルクの絵を買った時、画商がオマケに付けてくれた絵なのですよ。何でも作者名が無く、絵の劣化も激しく価値が付かなかったとかで。とりあえず頂いたものの、対処に困っている次第なのです。何せ描かれているものが描かれているものですから」
他の絵が高そうな額縁に入れられ、大切に管理されている中、ただ一枚だけ埃を被り、乱雑に扱われていたこの絵画。
バルハーの嫌悪の眼差しは、話している間ずっとこの絵へ向けられていた。
だがそれも無理もない話。
何故なら、その絵に描かれていたもの。
それが『龍』の絵だからだ。
ラルガ教会において、龍という存在は悪と異端の象徴とされ、彼らの聖書にも唯一神ラルガンの最大の宿敵と記されている。
ラルガ教会は、龍を信仰する異教徒を殲滅する戦争を大陸各地で行っている歴史がある。
いわばラルガ教会において、龍の存在は最大の禁忌だということだ。
――蒼き龍が天空へ翔け舞う様子を描いた絵。
その冷たすぎる色合いは繊細であり、それでいて優雅さも感じられ、そして何よりも――とても脆く見える。
薄い氷のように、触れば即割れてしまいそうな、そんな儚ささえ感じられる。
優雅さと儚さで絶妙なバランスを保っている、そんな絵画。
ウェイルはプロ鑑定士だ。
その自分の目が訴えている。
――これはただの絵ではないと。
そしてどうしてか思ったのだ。
――これは是非とも、いや、なんとしてでも手に入れたいと。
その理由は自分でも判らない。
元来、鑑定士は根っからのコレクターであることが多い。
ウェイルだって気に入った絵画を欲しいと思うことはある。
だがこの絵画からはそういった感情はさっぱり浮かんでこない。
ただ漠然と、絶対に手に入れたいと、そう思っただけなのだ。
そこでウェイルはとある提案をしてみた。
「この絵画、是非俺に譲ってくれないか?」
それを聞いたバルハーはさらに怪訝な顔を浮かべた。
龍の絵画に興味がある、ということも彼らにとっては怪訝な顔をするに十分な理由であるだろうが、もっと大きい理由は、あのプロ鑑定士が欲しがったということである。
芸術品の専門家であるプロ鑑定士が欲しがったということは、つまりその絵画には相当の価値があると考えるのが普通だ。
勿論ウェイルだって、バルハー神父の懸念は十分理解している。
ということで彼の疑念を払うために先手を打った。
「この絵画の価値についてだが、おそらく大した価値にはならない。何せ作者が全く判らないのだからな。作者の不明な作品は値が伸びにくいことは貴方ならよく知っているはずだ」
ウェイルの指摘は、実際正しい。
絵画というものは、絵画本体と、それを描いた作者情報の二つが揃って初めて価値が発生する。
素人の書いた精巧な絵より、セルクのような有名画家の描いた落書きの方が圧倒的に価値は付くのだ。
ブランド、ネームバリューというものは、芸術において馬鹿にはならない。
「でしたら『龍』について興味がお有りで?」
「そういうことでもないな。正直に言うと俺はこの絵画に使われている塗料に興味があってな。今まであまり見たことのない青色をしている。詳しく調べれば未発見の塗料が見つかるかも知れない」
塗料や資材だって絵画を鑑定するうえで非常に重要な項目である。
過去の作品の中には、塗料の材料情報が失われ、現代では精製方法が不明になっている塗料だってある。
また塗料の色合いや材質の劣化具合を調べていくと、絵画の描かれた年代、うまく行けば作者だって判明するかも知れない。
これほどの絵画だ。
調べれば面白い結果が出てくる可能性もある。
「……う、うむ。どうしたものか……」
おそらくバルハーは、内心ではこの絵画を手放したいと思っている。
龍の絵画を、ラルガ教会の神父が持っているなど、他に知られるわけにもいかないからだ。
彼がネックに思っているのは、やはりプロ鑑定士が欲しがっているという点だ。
バルハーの妥協点を、与えてやらねばならない。
「鑑定料の代わりってことでもいいんだが」
ぽつりと呟いたウェイルの言葉の効き目は、彼がこれを手放す理由付けをするには十分だったようだ。
「そうですか。いやはや、私としても処分して頂けるなら助かります。神父の私が龍の絵を持っているなど、信者に知られてはまずいですからな。是非、鑑定料としてお受け取りください」
言うが早いかバルハーは、今まで悩んでいたのが嘘だったかのように、すぐさま棚から譲渡証明書を取り出し、筆を走らせた。
(全く扱いやすい神父様だよ)
バルハーはサインを施した譲渡証明書を丸め、ウェイルに渡してくれた。
何はともあれ、この龍の絵を手に入れることが出来た。
――この絵画との出会いが、これからのウェイルの運命を大きく左右することになる。