アノエの過去
――アノエは孤児だった。
かの教会戦争で、家族親戚全てを失った若干14歳の少女は、呆然とした意識の中、行く当てもないまま彷徨っていた。
そんなアノエが行き着いた先は『非干渉都市ルーテルストン』であった。
ルーテルストンとは、他都市からの干渉を一切受けない無法者の集う都市。
力が全てを支配している危険地域だ。
孤児であるアノエは、食料を得るためにまず身体を売った。
見たことも話したこともない男――ある時は女に抱かれ、稼いだ僅かばかりのお金で、何とか命を繋ぎ止めていた。
ある時、客に暴力を振るう男がいた。
アノエは丸腰ながらも男の暴力を躱し、逆に近くに置いていたナイフで男の身体を八つ裂きにした。
その時初めて、人の血は暖かいものだと知った。
これまで何人に抱かれても、感じていた寒さを緩和することは出来なかったのに、血の温もりだけは、なんだか無性に暖かく、心をホッとさせた。
それからしばらく、身体を売ることを餌にして、釣られた客をナイフで切り刻んでいった。
アノエによる被害者が両手では数えられなくなったある日、妙な男から話を持ち掛けられた。
男は屈強な筋肉で全身を覆い、色は黒く、身体から汗くさい異臭が漂っていた。
もう何日も身体を洗っていないかのような不衛生な恰好であったが、不思議と彼に対して敵対心を――もとい、切り刻みたいという衝動は湧かなかった。
男の目的は、アノエを傭兵団にスカウトすることであった。
何の躊躇いもなく人間を切り刻めるアノエの精神力は、誰がどう見ても壊れているとしか表現できないが、こと傭兵の世界となると、それは逆に才能として評価される。
男は大声で笑いながら――さりとて瞳の奥には鋭さを隠しながら――アノエをスカウトした。
アノエは傭兵団の男に、たった一つだけ質問したという。
――「傭兵になったら、好きなだけ斬れる?」と。
アノエは傭兵団に入団し、都市各地を転々として任務にあたっていた。
構成員の末端であるアノエに分け与えられる戦利品は雀の涙ほどであったが、それでも十分満足していた。
元々物欲からこの世界に入ったわけではない。
ただ人を斬りたかっただけだ。
だから今の生活は居心地が良い。
特に自分をスカウトしてくれたリーダーの男は、とても自分の事を大事にしてくれ、要望にもよく応えてくれる男だった。
他の仲間は男だらけであったが、自分の身体に手を出してくる者はおらず、比較的話しやすい雰囲気であったため、孤独を感じたこともなかった。
おそらくリーダーが裏で目を光らせてくれたのだろう。
アノエはそのリーダー格の男を、そのままの意味で『リーダー』と呼ぶようになった。
教会戦争の事後処理をよく任された傭兵団は、各地で戦闘を繰り広げていった。
だが、戦争の時代というのはいつかは終わりを迎えるもの。
アノエにとって居心地のよかった戦争は、いつしかどの都市も終結を迎えていた。
アレクアテナ大陸は平和になる。
このことに多くの者は安堵し、喜んでいたが、アノエと傭兵団にとっては死活問題であった。
戦争がなければ傭兵団は金を稼げないし、アノエは人を斬ることが出来なくなる。
あまりにも面白くもない世界になったものだと、アノエは内心がっかりしていた。
傭兵団は戦争がなくなると、日に日に仕事が減り、食うに困る現状にすら至っていった。
多くの者が傭兵団から離脱、残った者も、マリアステルやラングルポートを中心に盗み等の犯罪を犯すようになった。
傭兵団のリーダーも金の工面に苦労している様子が常に見受けられた。
仲間は減り、資金も底を尽きかけている。
男にとっては焦らねばならぬ状況だったのだろう。
それは態度に如実に表れ、性格は荒くなり、男の纏う雰囲気も黒ずんでいた。
それでもアノエは、彼のことを信頼しており、常に彼の命令が聞こえる場所に残っていた。
平和になったことで、アノエは途方もなく暇になってしまった。
仲間は貧困から盗みや脅しといった犯罪行為に手を染めていくが、どうもそれに加わる気は起きなかった。
別に倫理観からそうしたわけじゃない。犯罪に手を染めるなんて今更だと思っている。
ただ、人を殺すつもりのない犯罪に、どうも興味を持てなかったのだ。
――そこでアノエは、余った時間を利用して、絵画を描く趣味を始めた。
これまで手に入れた戦利品を売って、画材と食料を買い、空いた時間は絵を描くことに没頭した。
不思議と絵を描いている間は、人を斬りたいという気持ちが和らぎ、心が安らかになっている自分がいることに気がついた。
そういえば父が生きていた頃、よく絵画を描いていたことを思い出した。
父に才能はなかったが、とにかく絵を描くことが好きで、仕事が終われば毎晩深夜まで絵を描いていた。
そんな絵描きの血が、自分にも流れているのだろうかとよく自問したが、結論は出なかった。
ただし、アノエと父の決定的な違いが、一つだけあった。
――それは、アノエには絵画を描く才能があったことだ。
初めて描き上げた絵画は、あまりにも凄まじい迫力があり、仲間達から絶賛された。
自分の作品が褒められることが、これほどまでに心躍るものなのかと、この時初めて知った。
それからアノエは、さらに絵画を描くようになっていった。
その様子を影から黒い目で見守る、リーダーの存在に気づかずに。
傭兵団の経済状況は、もはや最悪の一言に尽きる状態にあった。
皆傭兵団を辞めたならば、どこにも行き場のないならず者ばかり。
だからリーダーは、何が何でも傭兵団を解散させるわけにはいかなかった。
その重圧が彼の心を壊してしまったのかも知れない。
傭兵団の数は、はっきり判るほどに減っていた。
多くの者が抜け、また犯罪行為により治安局に拘束されていた。
――「何をしてもいい、とにかく金を工面せねば……!」
それが男の口癖になっていた。
そんな男の様子に、アノエも心配になり、何とかならないかと画策した。
そこで発見したのが、王都ヴェクトルビア主催の絵画コンクールであった。
この絵画コンクールの金賞を受賞すれば、なんと百万ハクロアの賞金が出る。
それだけあれば、傭兵団は当面の間、凌いでいける。
そう思ったアノエは、コンクールに向けての絵画を、仲間に黙って描き始めた。




