氷の神龍『フレスベルグ』
「――あのね、ボクとキス、して……?」
「――……は?」
思わず上がる素っ頓狂な声。
フレスの呟いた言葉が、意味のない音となって脳内に反芻する。
「き、キスだとお!? こんな状況で、どうして!?」
その意味が判った時、ウェイルは無意識に叫んでいた。
「そうだよ。……ボクにキスをすればいいんだ」
そんなことをおずおずと言うフレス本人も、実は相当恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤にしている。
「な、何を言っているんだよ、フレス! まるで意味が判らないぞ!?」
「説明したとおりだよ! ボクが龍として本来の力を取り戻す為には、多少の興奮が必要不可欠なんだ! ……もしかして、ウェイルはボクとキスするの、嫌なの……?」
フレスはさらに顔を赤くして、上目遣いでウェイルを見てくる。
(……上目遣いは反則だぞ……!!)
確かにキスという行為は、互いの感情を奮わせるに十分な行為だろう。
だがこんなことでキスしても良いものか?
しかもフレスとは出会ったばかりだ。
互いのことなど、ほとんど知らないに等しい。
それでフレスは傷つかないのか。
確かにフレスは龍である。
故に人間の常識に捉われる必要のない彼女にとって、キスという行為は、何ら特別なものではないのかも知れない。
だが、見た目だけで言えば、フレスは年頃の少女、それも美少女と形容しても誰も納得するほどの容姿なのだ。
そんな彼女とキスをして良い理由等、どこにも見当たらない。
人間としての常識と、フレスの懇願に葛藤するウェイルであった。
「ウェイル、お願いだよ……。急がないと敵はもっと増える。ボクはウェイルだったらいいんだ。ううん、ウェイルがいいんだよ-」
その一言で、ウェイルは覚悟を決めた。
今はフレスの言うことを信じるしかないと、そう自分に言い聞かせる。
「よし、やるならすぐやるぞ!!」
こんなやり取りの中でも、当然デーモン達はお構いなしに襲い掛かってくる。
最初よりさらに数を増すデーモンに、現状これ以上凌ぎ切るのは不可能だと悟った。
ダイダロスが二人に向かって胃液を吐き出だそうとしたその時、二人は互いに向き直った。
「覚悟しろよ、フレス!」
「うん! ……優しく、してね……!」
――二人は唇を重ねた。
――お互いの歯がぶつかる。少しだけ乱暴で、下手くそなキスだった。
その瞬間、ウェイルはフレスと力の流れを共有しているような感覚に陥った。
不思議と違和感はなく、むしろ心地良いとさえ感じる。
フレスとは昨日出会った。
だがずっと昔に出会っていたような、そんな気がする。
――懐かしい。
この感情を例えるに相応しい言葉は、これ以外に思い浮かばない。
フレスの身体が蒼白く輝いている。
まさにこの光だった。
初めてフレスを見て、美しいと心から感じた光は。
昨夜、彼女に見せてもらった、彼女が龍たる証の光。
小さな体から、三対六枚の大きな翼が現れる。
光を纏うその姿は、まるで天使のように神々しい。
眩い光が辺りを照らし、フレスはその光に包まれていく。
完全にフレスが光に包まれた時、突如としてフレスの気配が消えた。
すると次の瞬間、想像を絶するほどの巨大な気配がこの場を支配した。
「――…………!!」
巨大な気配に、絶句するウェイル。
しかしそれは恐怖を感じるような気配ではない。
いつものフレスに触れているような、そんな暖かみのあるオーラだった。
光が一度弾けて、再び収束した時、気配の主が姿を現した。
ウェイルの目の前にいた気配の主は、彼の知っているいつものフレスの姿でない。
――フレスが封印されていた絵画、それに描かれていた蒼き龍そのものがいたのだ。
透き通る蒼い瞳、氷のような牙。
ダイヤモンドで出来ているのかと見間違えるほどの美しい大きな翼に、ふかふかな毛並み。
そして翼の後ろには――それはまるで天使の光輪のような――大きな青白い光のリングを纏っていた。
「フレス、これがお前の龍の姿だってのか……!?」
『――そうだとも、我らが師匠。これが我フレスベルグの龍の姿。水を司る神龍『フレスベルグ』だ。どうだ? 我の姿に畏怖したか?』
青き龍は凄みを込めてそう言った。
だがウェイルは動じない。
動じる理由が全くなかった。
「龍になってもフレスはフレス。つまりは俺の弟子だ。怖いはずがないだろ?」
『この世界を滅ぼすかも知れんぞ?』
「おいおい、俺の弟子がそんなことするものか。俺の弟子は鑑定士見習いなんだぞ?」
弟子、という言葉を聞いて、フレスベルグが少し間を置いた。
『――そうだな。我は鑑定士になったのだったな』
「まだ見習いだがな」
『そうだ、見習いだ! ハッハッハッハッハッ!!』
フレスベルグは大きな口を、これまた大きく開けて笑っていた。
『さて、とりあえずこいつらを一掃して見せよう。ウェイル、少し下がっておけ』
フレスベルグの体が青白い光で包まれた。
強烈な魔力が、フレスベルグの背負う光の輪に集中していくのが感じ取れた。
魔力光が強すぎて、とてもではないが目を開けていられない。
目を瞑り暗闇の中で、周囲の温度がだんだんと下がっていくのを感じた。
「――グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
圧倒的な魔力の前に、ダイダロスやデーモンも、攻撃を躊躇していたようだが、周囲の温度が下がったことで身の危険を感じたのか、フレスベルグに向かって突進していった。
『ダイダロスよ。全く愚図な魔獣だ。神獣の中でも最強と謳われた、我ら龍族に逆らおうというのだからな!!』
ダイダロスがフレスベルグに向けて、口から胃液を吐き放った――
――その瞬間だった。
『――無に帰れ!!』
フレスベルグの声がこだまする。
翼の後ろに背負う光の輪から青白い魔力が、ダイダロスに放出された。
「――なっ……!?」
『終ったぞ。ウェイル』
「……なんだ今のは……」
――それは一瞬だった。
一瞬でフレスの前にいた全てのデーモンが消滅していた。
『今の技か? 今のは奴らの周りの空気だけ『原子が存在出来なくなるほど冷却』したのだ。万物の根源である原子が存在出来ないのだから奴らも存在出来ない道理だ」
つまり絶対零度より低い温度の空間を、一瞬だけ作り出したということだ。
改めて龍の強さと恐ろしさを実感した。
開いた口が閉まらない、そんな表現がふさわしいほど驚き、そして畏怖した。
『おい、ウェイル。終ったと言っておろうが』
「あ、ああ、終ったな。……いや、終わってないか」
唖然としていたウェイルは、言葉を返すのだけで精一杯だった。
だがウェイルはプロの鑑定士だ。
この場所が片付いたとなれば、すぐさま次に何をすべきかを考えていた。
「シュクリアを助け、バルハーを捕まえるまでが鑑定士としての仕事だ」
この都市に現われていたデーモンの駆除は完了した。
後はシュクリアを救出し、バルハーを捕らえると共に、『不完全』について知っていることを全て吐かせるだけだ。
『そうだな。では鑑定士の仕事をしよう。この姿では動きづらい。元に戻るぞ』
フレスベルグの体が再び光に包まれる。
その光が消えた時、フレスは元の少女の姿に戻っていた。
「やっぱりこっちの姿のほうが楽だね! この姿じゃないとウェイルに抱きつけないし!」
「お前、本当にあの龍なのか?」
――フレスは龍。それは分かっていたつもりだった。
しかし実物は想像を遥かに超えていた。
あの龍がフレスだなんて、にわかには信じられない。
「もちろんボクだってば。……もしかしてウェイル、やっぱりボクが怖かったの……? そうだよね、ボク、龍だもん……」
フレスがシュンと俯く。
誰だって、自分の事を怖いと思われるのは嫌なことだ。
全然怖くなかったといえば、それは嘘になる。
その圧倒的な魔力に恐怖を覚えたのは事実だ。
だが同時にフレスが隣にいるという安心感があった。
やっぱりフレスはフレス、俺の弟子だ。
だからこそ、こう答えてやった。
「怖かったわけないだろ? ――――俺とフレスの仲じゃないか」
この言葉で俯いていたフレスに笑顔が戻った。
こんなに良い笑顔を見せてくれる弟子は、世界中探しても俺の弟子以外いない。
「ウェイルったら、な~に言ってんの! ボク達、出会ってまだ二日目だよ!」
フレスはお約束のツッコミを入れ、ウェイルの腕に抱きついた。
腕に抱きつかれたウェイルは振り払うことなく――
「全部終ったら何か食べるか?」
「熊の丸焼きね!」
「それは勘弁してくれ!」
――なんて、とても戦闘後とは思えない平和な会話を楽しんでいた。




