蹴鞠す
ここ数日冷え込んでいたと思ったら、今朝は穏やかに陽が射している。昼ともなれば、さらに空は晴れ晴れとする。まったく季節というものは女心のように気まぐれなもので人知の及ぶところではない。
男はじわりと腋の汗が伝うのを感じながらも徒歩で行く。己の身分を考えれば、気軽に外出するわけにも行くまいが、さりとてこうでもせねば女は会わぬ。そして男にとっても苦ではない。壮健な躰は、牛車に閉じ籠るには不向きであったし、御者であろうと他の男を女に近づけたくもない。むしろ、そうでもせねば会えず、女のためにそこまでするのは己だけであることが、例えようもない喜びになるのであった。
今日という日にあまり涼しさを感じないというのも、風がぱたりと止んでいるから、というのもあるであろう。頬を撫でるのは、ただただ己が歩くことによって生まれた微風であった。
ぶらりぶらりと、右手に持ったものを揺らしながら、男の姿は四条にある邸に消える。他の人が見れば、いかにも気まぐれに入ったといった風であるが、彼らは男がたびたび訪れていると知らない者たちなのであろう。
門をくぐってすぐに、涼やかな音色の声が放たれる。
「お前、なんぞ褒めて欲しいことがあるのではなかろうか」
見透かされている。男は気にすることもなく、濡れ縁に立つ女に右手に持った戦利品を掲げた。
「そうとも。耳が早い」
「御所で妾の知らぬことはない。大概のことは耳に入ってくる」
「ならば知っているな。これは御上より賜ったのだ」
男が示したのは、小さな檻のようなものだった。その中に縦に二つ、白鞠が入っている。
「内々で蹴鞠会があったのだ。名手には直々に御上から褒美を賜る。本日は俺が賜ったのだ」
「ほう」
「それと、御上から言伝を預かって参った」
途端に女の瞳が鬱蒼と細められる。
「ほう、彼奴が文も寄こさず、言伝を、か。どうせ、ろくなことを考えておらぬのであろう。雅と娯楽が衣を纏っているような男だからな」
成る程、言い得て妙だが、肯定するのはいささか憚れるというもの。都で帝をそのように評すのは、女ぐらいのものである。
「それで、何と」
男は、女の機嫌を損ねるのを承知で口を開いた。
「そなたは、いつ中将と割なき仲になるのか、と」
女は喉の奥で笑う。
「阿呆なことをするものよ」
「誰のことを言っている」
「彼奴のことでもあるが、お前のことでもある」
「何故」
女は開いた檜扇で口元をそっと隠す。しかし、それでも女が嗤っているのが男にはわかるのだ。
「馬鹿正直に彼奴の命を聞いておる。まるで忠犬ぞ。いや、忠実とは言えぬか。そなたは二人の主に仕えよる」
「俺はお前に仕えてなどおらぬ」
「では、妾の命は一切聞かぬか」
無論だと応えようとするも、男は何も言えぬ。男を見下ろす女の顔に、仄かな情動が揺れている。女は独りなのだ。それを思い出せば、言葉の矛もするする収まる。
女は告げた。
「さて、お前はさながら、己の遊び道具を誇らしげに持ってきた犬のようではあるまいか」
「犬か」
「犬であろう」
女はことりと細首をかしげる。肩に流れる黒髪がさらさらと音を立てて、背中にこぼれ落ちていく。白い頬は陽光に照らされて、やや上気しているようにも見える。生気に満ちた白百合が、季節を忘れて瑞々(みずみず)しく咲くようである。
「犬ならば今一人の主に伝えてくれるであろうか。くだらぬことで言伝をするならば、いずれその舌を引き抜きに参ろうぞ」
ぞっとするような凄絶な微笑みを浮かべるものだから、男とてそう反論はできまい。頷く。
「承った。御上にお伝えしよう」
「そうせよ」
女はぱちりと檜扇を閉じる。「一つ、思いついたのだが」
檜扇の先で男の胸元を指す。
「お前、蹴鞠の名手と言っておったな。せっかくなのだ、この場で蹴ってみよ」
「宮、それは無理があるのではないか」
男が珍しく口ごもるのも道理である。
蹴鞠というものは、本来、八人ほどの大人数で行い、鞠を地に付けぬように蹴り続けていくものである。そして鞠場と呼ばれる、なだらかに地を馴らしたところで行うのが通例であった。他にも細々とした所作があり、少なくとも、一人で成り立たせることなど、到底できるものでもない。
「名手なら、場所も時も選ばぬもの。幸いにして、まだ日も高く、風も凪いでおる。地も十分に乾いている。差し障りあるまい」
女はいとも容易いようにいう。男にとって幸いだったのは、いまだ鞠のための装束を改めていなかったことにある。普段よりも動きやすかったのだ。
「宮が言うならば」
男は諦めた。男にとっては何ということもない蹴鞠であったが、世間の喧騒とは無縁のところに身を置いている女にはずいぶんと華やいだ遊びに見えるに違いないのだ。
女に促されるがまま、手に持った鞠の籠、鞠棚を差し出した。女は座り、鞠棚を自身の横に置く。己は取り出しておいた白鞠を二度三度と上に向かって低めに蹴る。
こうするのも、鞠一つ一つの癖を把握するためである。鹿の皮でできた白鞠は、手作りであるがゆえに、癖も多様なのであった。
「御上から賜ったのだ、悪くない蹴り心地ではないのか」
「先程の蹴鞠でもこれを用いていたのだ、多少は続くだろうと思う」
「そうか」
女はふと考え込むような顔をする。
「如何したか、宮」
「いや、何も。もうはじめて構わぬ」
男は手に持っていた鞠を落とす。右足の拇指の付け根で受け止めて、蹴り上げてやれば、白鞠は宙高く飛ぶ。そして、もう一度。小気味よい音を立てて、何度も何度も空を舞う。男の調子はすこぶる良いらしく、すでに続けて十回ほどは鞠を上げている。
「中将」
「なんだ、宮」
「お前、此度は中務卿の姫君に手を出したそうだな」
「んっ」
男は危うく白鞠を蹴りそこねてしまうところだった。なんとかつなげて、もう一度蹴ろうとする。
「その前は確か、先の大臣の姫君だったらしいな」
「はっ」
気を取られそうになったところを、すんでのところで叱咤の声を上げる。鞠は高く飛ぶ。だが、男の関心は蹴鞠どころではない。そっけない女の顔を合間にちらりちらりと幾度も見やる。
再び、鞠が落ちてくる。
「中納言の妻のときは大変だったと聞く。夫が帰ってきたのと鉢合わせ、あわや刃傷沙汰になったとか」
「宮、それは」
てんてんと鞠が地を転がっていく。真っ白な鞠が土をつけていく。
男はもはや蹴鞠のことなど頭になかった。女に物申さねば気がすまなかったのである。
「事実であろう」
女は男の言葉を遮る。その小さな面は冴え冴えとして、木枯らしのように身を冷やすものであった。男の汗が冷めていくようである。
「呆れてものも言えぬもの。どうして、なかなかお前はひとところに落ち着かぬ。そのうち、女が流した涙で溺れてしまうであろうて」
「溺れぬよ。女たちも知っていて、俺と遊ぶのだ。互いに慰めあって、何も残らぬ」
「本当にそう思っておるのか」
女の真意が掴めず、男は女を凝視した。女にはなんの感情の色も見受けられない。
「愚かな男。やはり、お前はここで幾度も蹴鞠を落として、無様な姿を曝す方がよい。お前には、罰が必要なのだ」
鞠が落ちてくれば、そのたび女の言葉が男の心をかき乱していく。女は、男がどこか後ろめたく思っていることを、過たず射っていく。ざくりざくりと太刀で斬っていく。
女は見知らぬ女たちのために怒っている。
だが、男にとって女たちが必要だったのだ。ある女を手に入れられぬ、そのやりきれなさを慰めるために。