お頭の悩み
おつむのなやみ、と読みます。何てことのない話です。
近日、とみに陽が落ちるのが早くなったものである。暮れる前には着くだろうと見越して自邸を出たのに、四条にある女の邸に辿り着く頃にはとっぷりと日が暮れている。帰りは女から灯りを借りていく他あるまい。空に浮かぶ月ばかりを頼りにして、男の足は常の所作と同じく、沓を脱いで邸に入る。
未だ大路には女との逢瀬に赴く男たちが牛車に揺られているだろうに、女の邸ときたら、ひっそりと静まりかえるばかりで人が住まっているとは一見ではわからぬに違いない。
ぱたりぱたりと己の足が板敷を踏み締める音ばかりが夜の静寂に響くのだ。
「宮」
男が呼べば、昼は上げられている御簾の奥から、かた、と物が落ちる音がする。ちょうど、女が持つ檜扇が手から滑り落ちたような音である。はっと躰を震わせた男は御簾ににじり寄る。
「宮、灯りもつけず、如何したか。今宵は来ると言っておいただろうに」
女は応、とも答えぬ。男はにわかに不安を覚えた。己が相対しようとしているのは女であるのは己が思い込むばかりのことで、実は風の物音を聞き違えただけではあるまいか。本当の女は何処かで常のごとく端座しているのではあるまいか。男は女に謀られたのではあるまいか。
堪らず、男は無礼を承知で御簾の内に分け入った。月の光を遮る襖と几帳をどかせば、さっと内が照らされる。
茫洋とした薄闇の中、女は褥の上に倒れ伏している。白い小作りの面も、ほっそりとした四肢も、すべては薄紫と萌黄の衣の中に埋もれている。ふさふさとした髪はますます黒々として、衣の上でうねりながら夜の川のごとく流れている。
「宮よ、如何したのだ」
ふっと伏せた顔が上げられる。安堵したのも束の間、女の顔に浮かぶ憤慨は、容易なことで解けぬのを知ることとなった。透けるように白い肌がさらに白く漂白し、眉の間は細められている。
「痛うてたまらぬ」
「は」
「お前が騒ぐと、お頭の虫がずくりと痛むのだ。どうしてくれようぞ」
女は力尽きたように面を衣に擦り付けた。まるで猫のようである。
「かような時になぜお前の相手をせねばならぬ。理不尽な」
「お頭が痛むのか、宮」
男が問えば、女はいかにも承服しかねるといった、押し殺した唸り声で応、と告げる。
「先ごろも、お前がしつこく訪っていたからであろう。起きたそばから、つくつくと痛む。さては、お前」
女の面がちょいと上げられ、上体は褥につけたまま、男を険の孕んだ眼差しで射抜いた。
「妾になんぞしたのではあるまいな」
「しておらぬな」
できるならば、男はとうにそうしていただろう。元来、男は手をこまねくような質ではない。決断すべき時、勝機を見込む時、迷いなく行う。ならばこそ、男はしかるべき地位を得たのである。女に手を届くべくもないが、さりとて存在を知る程度には、ほどほどに。
男に常には思わぬ意地悪さがむくむくと育つ。女は弱っている。今でこそ、越えられぬ逢坂の関に分け入れるのではあるまいか。
「しかし、俺の知らぬところでなんぞ、してしまった気もしているな」
男は自らの言をあっさりと翻し、今度は男が女の顔を上から覗き込む。女の顔に男の影が落ちていく。今も悩ましげに眉を顰めていると、憂いに満ちた傾城の美姫のようでもあった。
「俺の思いが宮に伝わったやもしれぬぞ。人知れず育まれてきたものが、とうとう抑えきれぬようになってしまったのであろう」
ぴくりと女の紅に彩られた小さな唇が小さく開いて、閉じた。女がこくり、と喉を鳴らす音で、男はとうとう積年の思いが遂げられると確信した。女が何も言わぬ。拒まぬ。それこそが、女が男を受け入れた証であるように思えたのだ。
されど、男の手がとうとう女の衣の裾を掴めば、その手はさっと払いのけられる。
「笑止」
女は力強く言う。女の眼には爛々とし、弱まっていたものが女の身の内に満ち満ちていくのだ。
「調子づくでない、痴れ者め」
眇められたと思えば、女の手は辺りに放られていた檜扇を握っている。開いて扇ぐのか、と思いきや。
「ぐっ」
男が唸る。女の手から離れた檜扇は、過たず男の眉間を打ち据えた。板敷に落ちたそれは、留め具が切れて、ばらばらと破片に戻っていく。
「お前はろくなことを言わぬ。妾を口説く無作法をおかす前に、薬師でもなんでも呼んで参れというに」
「宮が弱っているのがいけない。弱って、このような男に隙を見せればこそ」
男が言えば、女は男との問答するのさえ面倒になったのか、脇息にもたれかかった。
「もうよい。行け。お前は己を省みよ」
「宮」
女は聞く耳をもたぬ。男がさっさと返事をせぬのが悪かったのか、それともやはりお頭の虫の居所がわるかったのか、とうとう苛立たしげにこう宣言するのである。
「中将、少なくとも、妾のお頭の病が治るまでは、邸の門をくぐること、一切まかりならぬ」
男はすげなく追い払われた。過ぎたる口は余計な災を招こうものである。こうして、しばしの間、男の声が四条の邸に響くことはなかったのである。
次話での彼のことも心配しています。