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死者の書

少し長めです。

 男が女を訪ねてきたのは、秘密の逢瀬おうせだとしても遅い刻限であった。どんな邸でも、家人たちも寝静まる頃合ともなれば、女だってとうに夢路の旅人となっても何らおかしいことではない。男も半ば仕方がないと思うほどであったから、女自ら出迎えたときには狐に化かされたような心地がしたものである。

 

 四条の邸は静まり返っている。昼間にさえ他に人影を見ぬというのに、夜であれば、尚更にその邸に漂う、浮世離れとでも言うような、仙境のような印象がいや増してくる。都にいながら、山中に身を潜めているようであった。

 

 勝手知ったる邸も、女が持つ手燭ばかりを頼りにしていては、どこか心もとないものがある。夜風に当たれば、ますます消え入りそうにゆらりと灯火ともしびが形を失っていく。ぼんやりと照らされるところのなんと狭いことか。このような夜に限って、月も雲に隠れてしまった。ぶるりと震えて、肌が粟立っていくのは、冷たい秋風に晒されているばかりではなかろう。

 

 夜は妖したちのものである。下手に出歩くものなら、とって食われてしまうのだ。今も、男の目の届かない暗闇の中、男の肝を狙ってうごめいているのかもしれぬ。そう知っていてもなお、温かさを知らず、心に隙間風が吹きさすぶような女へと足を向けている。心中というのは摩訶不思議そのものである。数多くの女を知れども、何かあればこの女に逢う。何かあるたび、女の声や言葉が聞きたくなる。


 女は常と同じく畳の上に腰を下ろした。男も向かい合うように座る。

 女の横に置かれた灯台が、女の白い面をぼう、と赤みを注しながら浮かび上がらせていた。美しい黒髪は闇に溶け込み、顔にはらりと流れれば、細い蛇の影が写ったようである。

 

 男は脇息にもたれた女の姿を眺めつつ、珍しくも言葉を選びかねるといった様子であった。されど、己の用向きを言わぬことには何も進まぬ。女が不審の顔ではなく、凪いだ表情であるのも、今宵が常ならざる事態であることの表れであろう。


「男が死んだのだ」


 男は告げた。女はひたりと男を見つめ、問う。


「ほう、家族の者か」

「いや」

「では、家人か」

「否」

「友であろうか」

「違う」

「誰か上役の者なのか」

「まったく」


 女はますます感情を削ぎ落としていく。かと思えば、一方で慈悲に溢れた観音菩薩の顔に似ていくようでもある。


「ならば誰か」

「知らぬ」


 男は女を見つめ返して、もう一度重ねるように言うのだ。


「知らぬ。俺はかの男の名も知らぬのだ」

「そうか」


 女はそれきり口を閉ざした。身じろぎ一つしないで、まるで死んだ者のごとく座り続けている。

 それが男には堪えきれぬ。


「宮」


男は女を呼ぶ。絞り出すような声である。


「俺はかの男が誰であったかなど一切知らぬ。俺が知る事もないほどに何の取り柄もないつまらぬ男だったに違いない。死んでも朝廷にさしたる不便もない」

「そうさな」


女は静かに応える。


「取るに足りぬ、生きようが死のうがどうでもよい男だが、かの男が死ぬのを喜ばしく思っている。かの男の二親や兄弟姉妹は悲しむであろうが、俺のあずかり知らぬことなのだ」

「気の毒な話よ」

やまいのために若くして死ぬ事など、さして珍しいことでもあるまい」

「ああ」


さやさやと衣擦れの音が男の間近に迫る。女は重い衣装を引き摺って、とうとう男の顔を下から覗きこむ。


「ならば、かくも情けない顔をするものでもあるまいに」

「情けないか、俺は」


 ふ、と女は口元を緩める。男の頬に白い手が吸い付いた。我が子にするように二度三度と撫でてから、離れる。男はとうに子と言えるような年ではない。しかし、今はみっともないことに、子のように途方に暮れた顔をしている。


「かつて、かの男が友らと話しているのを通りすがりに聞いていたのだ。かの男はつい先ごろ出かけに垣間見た女に懸想したのだと言う。かの男は女へ渡す文を取り出しながら、浮かれた様子で友らに報告していた。だから、その文を、かの男の持つ恋文を取り上げて、破り捨ててやったのだ」


 女は男がとつ々と告げていく言葉にじっと耳を澄ませている。


「文を散々にちぎりながら、俺は呆然と立ちすくむ男に言ってやったのだ。お前が思いを遂げることはない。すべてこの俺が邪魔してやろうぞ。それを忘れたもうな、とな」


 女は静かである。その姿は漆黒の中に浮かぶ白い月のようでもある。紅い唇を小さく開く。


「お前は、事実、そうしたのか」

「したさ。男の周りを皆抱き込んだ。男が出す恋文はすべて届かぬ、梨のつぶてよ。あまりにおかしいと思い、忍ぼうとしても、尽く失敗に終わった。相手の女には一通の文も届かず、男の存在も知らぬ。思いは何も伝わらぬ」

「浅ましいな、中将」


 男は乾いた笑みを漏らした。女はまだ知らぬ。男がしたのはこればかりではない。男は徹底して、かの男を迫害した。男と会ってからはやることなすこと、何一つ上手くいかなかったに違いない。ついに最後は気の病と称し、邸に引きこもって以後朝廷で見かけることはなくなった。それでも男は、かの男を見張らせた。蛇のごとき執念深さでもって、二度とその女に手を出さぬように脅し続けた。


「浅ましい、浅ましいな。よほどかの男が好かなかったのか。それほどまでに機嫌を損ねたか。さては、かの男の思い人が誰ぞお前の恋人でもあったのだろうな」

「違う。そのような仲であった筈がない。だがな、宮。俺には我慢ならなかったのだ。かの男が想う女に文を送ることも許せぬ。逢うことにでもなれば、気が狂いそうになる。俺はこれから幾度だって同じことをするだろう」

「それで」

 

 女が先を促すに合わせ、次の男の言葉は確かな力強さを持って、女の耳に響く。


「お前はこの先、他の男には逢わぬのだ」



 女が瞠目どうもくする。二度三度と瞬いて、黒曜石の瞳に興味深そうな光がともっていく。


「お前も常々面白いことを言う」

「笑うか」

「笑わぬよ。お前が望むとおりにすればよい。わらわもそれに付きやってやろう。時が有り余っておる、それくらいたわいもないこと」

 

 お前が嫉妬する姿も悪くはないもの。女はそう言ってころころと笑う。無垢なばかりで男に対する慕情などそこには微塵もない。

 女とどれだけ語ろうとも、女の好意はいささかも男のものになる様子もない。女は何時いつでも女だけの物であって、女以外の誰かの物であったこともなかったのだ。


「しかしそうであるならば」


 女がふと思い出したように言う。衿元えりもとから美しく折りたたまれた文が見えた。


今宵こよい来たこの文は」


 男が受け取って、開く。顔がさあと青ざめていく。女は少し困ったように首を傾げ、こう言うのだ。


「この文の主は、自らこの手で文をたずさえて、そこの庭に立っておったのよ。本当に、今にも消え入りそうであったな。疲れきった顔をして」


 死人のような顔、というのはああいう顔なのだろうな。

 女の眼はひたすら男に注がれていた。男を咎めるようであり、試しているようでもある。

 女はとうに男のしてきたことを承知している。死人からの文を受け取ったのは、せめてかの男の心残りを晴らしてやりたいという人情のため。かの男に心を動かしたわけではない。だがこうなってみると、正面で狼狽えるこの男を眺めては愉快な心地になるが、そう感ずる己の心中にも驚いている。

 男の手の中にある文を取り、女は今一度衿元にそっと入れる。

 成る程、死人の文というものは、やはり心に残っていくものらしい。




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