文を遣る事
四条の邸には、しとしとと雨が降る。
降っては止んでを繰り返し、冷えてきたこの頃となっても、にわかに蒸し暑い心持ちになってくるものである。時折、女がぱたり、ぱたりと檜扇で自らの熱の篭った顔を煽ぐのも、それはそれで道理なのである。
庭に疎らに生える草花も未だ青々として、思い出したように吹く風にそよそよと揺れている。春や夏と違って、花の鮮やかさが目立たぬために、色味がよろしくない。
もう少し時を遡れば、青紫の桔梗の花の一群や、庭の隅で隠れるように咲く紅蓮の曼珠沙華があったというのに。
季節の変わり目はぽっかりとしていて、味気ないものである。
女は化粧が無くとも整った美貌を惜しげもなく曝し、濡れ縁に端坐する。艶やかな黒髪がしどけなく衣や板敷に流れていく。濡れたように輝くような瞳は気怠げに、猫のように細めている。染み一つない白い手は、意味も見出せぬまま、欄干の窪みを撫でている。
ふと女は伏し目がちの眼を上げ、身じろぎする。さやさやと幾重にも重ねられた衣が擦れあう音が響く。ついで濡れている地をざっと踏みしめる音がして、女は客人を出迎えた。
「また、お前か」
「そうとも。宮は不用心にも外に出ているが、御身の尊さをお忘れか」
男は濡れ縁の側に寄り、女を見上げる。対して女は男の秀麗ながらも粗野な顔つきを退屈そうに見下ろす。
「知らぬ」女は男が真面目たらしく言うのが面白いのか、笑みを含みながら応える。
「なぜ、笑う」
男はどこか憮然とした表情である。
「さて。それをお前に告げる訳はないぞ」
「つれぬことを言う」
「それこそいつものこと。それで、お前は何用でここに参ったのか。建前であろうが聞いてやろうぞ」
女は挑むように男の眼を覗き込む。呼気を孕んだ艶かしい香りが男の鼻先をくすぐるにつけ、男が女を見上げる眼にも力が入るものである。
「今日という日は、文を持って参った」
男の声は落ち着き払っている。袂から淡い桃色の薄紙を取り出し、女に差し出す。女は片手で袖を握り、もう片方の手を伸ばして受け取った。はっとするほどに真っ白な腕が一寸顕われる。
「ほう。たかが文の一つを手渡すために、と。お前も可笑しなことを」
男の頭はしとどに濡れている。身一つばかりでここにやってきたようである。泥濘かけているところにやってくるには小用であろう。
女はぱら、と文を開く。その合間に男は沓を脱ぎ、女と同じ濡れ縁へとやってきた。女が見る中、胡座をかく。
「これは何か」
女の眉が険を含んだ。苛立たしげな声とともに、文が板敷に落ちる。
「何も書いていないではないか」
「書いていないとも」
男は素知らぬ顔である。薄桃の紙を拾い上げ、折り目に合わせ、また畳む。
「妾を愚弄する気か」
「まさか。これも文なのだ。これから書かれるはずの文なのだ」
「では文ではないではないか。これは只の紙だ」
「いいや。文だとも。俺がそう決めたのだ」
女が口を閉じる。呆れたように首を傾げ、ややあってから告げる。
「お前がかくも言うならば、そう考えよう。はて、それを如何する」
「これを誰に出すか、何と書くか。宮ならどうするであろうか。尋ねたいと思うたのだ」
男の眼が女の面にじいっと見つめている。いや、見蕩れているといって差し支えなかろう。男の眼は曇っている。目の前で端座する女のために曇っている。ほのかな熱さえ籠っているのだが、女にはそれがわからなかった。なぜ男がひたすら視線を注ぐのか、わからぬばかりに女は気のない様子で欄干にもたれる。
「何故に妾がお前の文について考えなくてはならぬ」
「宮には未だわからぬか」
「わからぬよ、中将。お前はまたわからぬことを言う。意地の悪いこと」
女は目を伏せる。長い睫毛がぱちりぱちりと瞬くが、それは涙をこらえるようであり、ひとりきりで遊ぶ子のように眉が下がる。
女に針先の一点の如き隙が垣間見えた。それに付け込まぬ男ではない。
「宮」
男が優しく呼べば、男の浅ましさなどを根こそぎ見通すような強い視線と対峙した。女の心は再び鉄扉に閉ざされたのだ。こうなってはもういけない。男は半分落胆し、半分諦めたような心地になった。
「まあよい。これで暇をつぶせるならば、乗ってやろうではないか」
女は嗤う。考え込むように檜扇が形のよい顎先に当てられる。
「お前が書くならば、恋文であろう」
「そうとも限らぬぞ。友や親族に送ることもある」
まさか、と女は男を上目遣いで眺める。
「色好みのお前が、この妾にそのような艶を含まぬことを尋ねるわけもなかろうて。それに、この上もなくつまらぬ筋書きではないか」
「では、そういうことにいたそう」
男は恋文かどうかを否定も肯定もせず、かと言って積極的でもないような口振りで応える。
「して、誰に送る」
「宮が決めてよい」
女の問いに男はかく言う。男は今尚捨てきれぬ望みを抱く。女の口から男が願う言葉そのものが、こう紡がれることを。
「では、妾に書けばよい」
一拍、間があった。男は自らが幻聴を耳にしたのではないことを確かめてから、なんと、と狼狽えた声を出す。
「何を驚くことがある」
女は訝しげな顔をする。
「暇をつぶすならば、文の遣り取りになろうて。面白いではないか、お前が妾にどのような懸想の文を書いてみせるのか、気になっていたのだ。女にもてはやされるという、その手腕をとくと見物してやろう」
女は無邪気にこのようなことを言う。男の真意などちっとも知らぬに違いない。腹立たしくもあるが、楽しそうな微笑みを眺めていれば、怒りでさえするすると収まってしまうのだ。
「宮が相手では、気の利いた言い回し一つも思い浮かばぬであろう。文に書くには、思いが深すぎる」
「しかし、文に書かねば、思いは形にならぬ。親愛、友愛、慕情、憧憬も。読み返せば、受け取った時の心の震えも思い返すもの。いつまでも残しておけるのだ。きっと何年経とうとも、人は文を書き続けるのだろう。何十年、何百年経とうとも、送りたい、残しておきたい思いがある限り」
女は曇天を見上げている。雨が銀に輝く細い針のように二人のいる母屋の屋根に降り注いでいる。雨音ばかりで何も聞こえぬ。男のほか、誰も訪ねることもない小さな邸なのだ。
「妾も文を書いてやろう。たわいもないことで構わぬか。妾には、お前ほどに物を知っていないのだ」
「宮が望み続けるのなら」
望んでおらずとも、男は文を書き続けるのだろう。男はそんな己を知っていた。たとえ、邸の主が泡のように儚い存在であろうとも、いつか男の手をすり抜けて去っていくのだろうともわかっていても、男にはそんな些細なことでしか、女にやれるものがない。
「文は過去を振り返るもの。どうあがいても後ろ暗いところのある妾たちには格好の縁であろうな」
女は自嘲気味に笑っている。
「宮」
「何か」
男の唇が薄く引き締められているのを、女は見た。
「俺は忘れぬ。宮を忘れぬことなどありえぬ。宮に忘れられぬために、俺は文を書こう」
「忘れることなど」
「あるかもしれぬ。宮は薄情なのだから。それに俺たちに何ら、後ろ暗いところなどありはしないのだ。文を書いても何ら咎められるところはない」
一人の文は確かな恋情を綴るだろう。だが、もう一人は。恋も知らぬ真白き心からは、親愛以外の何者も読み取れぬに違いない。
特に時系列などありません。