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Chapter 1:君が隣に座った日

サイゴンの朝は、いつも言葉にしづらい光をしている。

澄んでいるわけでもなく、強いわけでもない。

ちょうどその中間にある曖昧な光が、湿った空気の中に溶け込んでいた。

この街は、いつも完全には目を覚まさないまま動き続けているように見える。

俺――グエン・ズイ・ニャットは、その中を歩いていた。

特別な意味を持たない名前。

そして、その通りに特別でもない存在。

もし明日いなくなっても、きっと誰もすぐには気づかないだろう。

そんな程度の人間だ。

バイクの音がすぐ横を通り過ぎる。

排気ガスの匂いが、アスファルトの熱と混ざって鼻をかすめた。

すべてが、いつも通りだった。

少なくとも、その時までは。

校門が見えてくる。

生徒たちが流れるように中へ入っていく。

呼びかける声、笑い声、途切れ途切れの会話。

その中に混ざりながら、俺も歩く。

速すぎず、遅すぎず。

ただ、それだけの動作として。

10A教室。

もう何度も見た、変わり映えのしない場所。

教室に入ると、俺はいつもの席に鞄を置いた。

一番後ろの列、中央の二人掛けの机。

隣の席は、まだ空いている。

それが当たり前になっていた。

「おい、昨日の課題やった?」

「やってない」

「またかよ」

そんなやり取りを適当に流しながら、俺は窓の外を見た。

空を流れる雲は、相変わらず遅い。

誰にも急かされることなく、ただ形を変えながら進んでいく。

授業開始前の教室は、完全な静寂にはならない。

むしろ、いくつもの小さな音が重なり合って、ひとつの騒がしさを作っている。

それがこのクラスの日常だった。

そして、ドアが開いた。

「静かにしろ」

先生の声が教室に入る。

一瞬だけ空気が変わり、そしてまた元に戻ろうとする。

その後ろに、もう一人。

違和感は、小さかった。

だが確かに存在していた。

「転校生だ」

誰かが小さく言う。

「日本人らしい」

その言葉だけが、少しだけ教室の温度を変えた。

俺は顔を上げる。

興味というほどではない。

ただの反射だった。

そして、彼女がそこにいた。

大きく目立つわけではない。

むしろ、印象だけなら通り過ぎてしまいそうなほど静かな存在。

それでも、視線は自然とそこに集まっていた。

「はじめまして……」

小さな声だった。

途切れがちで、不安定で、それでも必死に言葉をつなげているのが分かる。

日本語ではなく、日本語でもないその言語で。

彼女は誰とも目を合わせない。

視線は常に少し下か、どこか遠くへ逃げていた。

まるで、それ自体が防御のようだった。

「君はグエン・ズイ・ニャットの隣に座りなさい」

一瞬、時間が止まったように感じた。

「……え?」

思わず、声が漏れる。

彼女はゆっくりとこちらへ歩いてくる。

一歩ずつ、慎重に。

まるで、この空間そのものを確かめるように。

机は二人掛けだった。

距離は近い。

しかし、その近さとは裏腹に、見えない境界線が確かに存在していた。

彼女が座る。

何も言わない。

俺も、何も言えない。

沈黙。

しかし、それは不快なものではなかった。

ただ、未知だった。

頭をかいて、俺は小さく言う。

「……よろしく」

彼女はわずかに肩を揺らした。

そして、ほんの小さな声で答える。

「……よろしく」

それだけだった。

俺は窓の外へ視線を戻す。

雲は、相変わらず流れている。

だが、さっきまでとは少し違って見えた。

何かが、確かに始まった気がした。

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