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第5話 対数関数

 その後、幾度か沙絵さんの家を訪ねた。雅尚さんが「気を遣わなくていいから」と言ってくれたのを真に受けて、手土産は無しだ。迷惑がられるのではないかという一抹の懸念を吹き飛ばすように、沙絵さんはいつも笑顔で迎えてくれた。

 沙絵さんの家の居間にはテレビがない。茶箪笥ちゃだんすの上には赤と青の水飲み鳥が飾られていて、シルクハットを被った鳥が中央に置かれたグラスの水に交互にくちばしを浸けている。その隣には木製の救急箱と、透明のケースに入ったフランス人形。祖父母の家の物置で見たことがある達磨だるまストーブには薬缶やかんが掛けられ、しゅんしゅんと湯気を立てていた。

 亡くなったお祖母さんが残した物なのだろうか。大切に手入れされているらしく、どれも古臭いのに新品みたいに綺麗だった。母が以前話していた「丁寧な暮らし」というのを実践しているのかもしれない。少し古風な感じのする沙絵さんのたたずまいに、それはよく似合っていると思えた。ラインを交換したいとか言ったら嫌われそうな気がして、僕は沙絵さんの家に行くときにはスマホの電源を切ることに決めた。

 喜納家は沙絵さんと旦那さんの二人暮らし。雅尚さんは二十八歳で、沙絵さんは十九歳なのだそうだ。二人はとても仲が良くて、まだまだ新婚さんにしか見えない。歳の離れた夫婦。きっと大恋愛をしたに違いない。

 沙絵さんは洋服を着ていることが多かったけれど、雅尚さんはいつも着流し姿だった。縁側で煙草を吸う姿がとても格好良く見えて、僕は雅尚さんに憧れを抱いた。


「何を考え込んでいるんだい?」

 沙絵さんが買い物に出ている間、ちゃぶ台の上でテキストを広げていた僕に、奥から出て来た雅尚さんが声を掛けた。執筆は終わったのだろうか。縁側に腰を下ろし、雅尚さんはいつものように懐から煙草の箱を取り出した。ふと、くわえかけた煙草を箱に戻し、こちらを振り向く。

「どれ。見てあげよう」

 広げていた数学のテキストを覗き込み、雅尚さんは煙草の代わりに鉛筆を手に取った。

 対数関数の問題である。実は一昨日から、練習問題で行き詰っていた。

「自然対数だね。何処が分からないんだい?」

 訊かれて、正直に白状する。概念が理解できないのだと。数学は得意科目だったけれど、高校数学は一筋縄ではいかなかった。

「ふうん」

 雅尚さんは暫く考えた後、ノートの余白に鉛筆を走らせた。

「指数関数は分かるよね。対数関数はそれの逆だと思えばいい。真数の掛け算が、何故足し算になるか理解するには、一度指数に戻してやればいい。つまり……」

 雅尚さんの説明は凄く分かりやすくて、練習問題を解き終わる頃には、何故あんなに苦手意識があったのか不思議に思う程に、僕は内容を理解出来ていた。

「ただいま~。あら、二人でお勉強?」

 縁側を通って、沙絵さんが顔を出す。エプロンを着けたままで買い物に行っていたのだろうか。竹で編まれた買い物かごから大根が顔を出していた。

「今日はおでんにするの。明日夢くんも、ご飯食べて帰りなさいよ」

 時計を見ると、五時を回っている。沙絵さんの手料理は物凄く魅力的だったけれど、僕は夕食を辞退した。食べて帰ったりしたら、絶対に怒られる。

「そうなの?」

 残念そうな沙絵さんの表情に後ろ髪を引かれながら、僕は立ち上がった。今日は雅尚さんに教えて貰った対数関数を復習して、完璧に頭に入れなければいけない。付属中学からの内部進学組に後れを取るわけにはいかないのだ。既に競争は始まっている。実力テストで上位に入らなければ、今後の学生生活に影響が出てしまうのだ。


 元々はヤマト達と同じ公立高校への進学を希望していた僕が、私立の推薦入試を受ける事になったのには、ちょっとした経緯がある。

 三年の二学期が終わる頃に行われた担任との三者面談で、それは起きた。

「どうして第一志望を受けさせて貰えないんですか?」

 母の問いに、担任は神妙な面持ちで成績表に目を落とした。

「明日夢くんは確かに五教科の成績はずば抜けています。それは間違いないのですが」

 ふと言い淀み、妙な薄笑いを浮かべる。

「体育がねえ、からっきしなんですよ。下駄げたを履かせてあげたいところですが、そうもいかなくて。ならしてしまうと第一志望には届かないんですよ」

 僕は確かに運動が苦手だ。身体も大きな方ではないし、走るのも遅い。筆記試験は問題なくても、技能で点数が取れないのだ。おまけに今年は、運悪く風邪で実技を欠席することが何回かあった。ずる休みして家で受験勉強してるのだという噂が立ったことも知っている。

「入学試験で満点とっても駄目なんでしょうか」

 母が尋ねる。かなりイラついているのが、横にいて分かった。

「公立の高校入試では、内申点の配点が高いんですよ。無理ですね」

 母が静かに切れるのが分かった。三者面談は一旦そこで終わり、家に帰ってから、母は進路希望の紙を破り捨てた。

 そして翌日、母が持って来たのは、超難関私立の入学案内の束だった。

「大事な一人息子の将来を、内申書なんかで決められて堪るもんですか」

 宥めようとする父に、低い声でそう言い返した母の目は、完全に座っていた。

 母の剣幕に恐れを成したわけではない。けれど僕は私立専願で受験することを承諾した。当事者である筈の生徒が持つ思いと、学校の考えに乖離を感じたからだ。将来を左右する選択は、教師にとっては何十人かの内の一人の、つまり何十分の一かの重さしかない。ならばそんなものに自分の未来を決められたくない。そう思ったからだ。

 大人は子供の意見を聞かない。大人は賢くて子供は愚かだという大前提があるから、彼らは子供をコントロールしようとする。

 自分の事は自分で決めたかった。だから、僕は私立に行くことを選んだのだ。

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