最終話 きのう
もしかしたら、さっき庭の北山杉を見たときに、僕は既に気付いていたのかもしれない。
昭和レトロみたいな古い家。昔の映画を思わせる彼らの佇まい。古いのに新しい家財道具。新聞も手紙も投函されない郵便箱。──僕たちが過ごした時間は、確かに過去だった。
あの日、僕は過去へと紛れ込んでしまったのだろうか。いや、違う。そうじゃない。沙絵さんは「あの日に戻りたかった」と言った。「あの日に戻りたい」ではなく。
彼女の時間だけが過去に戻ったのだ。命が尽きる前に、悲しい出来事を消し去りたくて。幸せな記憶に書き換えたくて。
「ありがとう」
すぐ側で声が聞こえた。顔を上げると、さっきの女性がいた。
「こんな風に訪ねてくれる人がいるなんて思わなかった」
沙絵さんによく似た大きな眼が潤んでいるのを、ぼんやり見ていた僕は、ふと我に返って、自分の考えが可笑しくなった。「講釈師、見てきたような嘘を言い」だ。すべて僕の妄想に過ぎない。過去へ戻るなんて、そんなSFじみた事が起きる筈がないのだ。沙絵さん達と過ごした時間ですら、今、この瞬間に脳内で作られた記憶なのかもしれない。喪失感に似た感情を持て余していた僕は、その考えに救いを求めた。
「沙絵さんの、お孫さんですか?」
考えが纏まらないまま、そう声を掛けた。彼女を見て、僕の頭の中に物語が作られたのだろうか。
彼女は、微笑んで首を振った。
「私はお祖母ちゃんの姉の孫。姪の娘ってことになります。沙絵お祖母ちゃんには、子供はいなかったの」
初めての子を流産してから、沙絵さんには子供が出来なかったという。
「お祖父ちゃんが亡くなってから、お祖母ちゃんは三十年、この家で一人で暮らしていたの」
そこまで言って彼女は、喋り過ぎたと思ったのか、片手で口を押えた。
「あ、そうだ。これ。この人、あなたの御身内じゃないかしら」
差し出された紙を見たときの僕の衝撃を、どう言い表せばいいだろう。それはセピア色に変色した一葉の写真だった。肩の高さの北山杉の両脇に立って微笑む男女。女性は若き日の沙絵さんで、そして少年は──僕だった。
「鏡台の引き出しにあったの。誰の写真か、どうしても分からなくて。でもさっき、あなたを一目見て分かった。親戚よね。絶対そう」
彼女は、望んだ時間には戻れなかった。僕という異物が入り込んでしまった為に。沙絵さんは、あの日に戻る事が出来なかった。
「私もお祖母ちゃんの若い頃にそっくりだってよく言われるんだけど、こうやって見ると、やっぱりお祖母ちゃんの方が綺麗だわ。悔しいけど」
彼女は写真を覗き込み、そう言って笑った。
「あれ? それ、もしかして一心堂の?」
僕が経机に置いた、いちご大福の箱を見て、彼女は歓声を上げた。
「お祖母ちゃん、いちご大福が大好きだったのよね」
供えたばかりの箱を手に取り、蓋を開ける。
「遊びに行くと、いつも手作りのいちご大福を出してくれたの。中に入っているタイプじゃなくて、お餅から、いちごの頭が顔を出してるの。可愛くて、美味しかった。有名店のものに引けを取らないぐらい」
そうなのか。沙絵さんは、いちご大福を上手に作れるようになっていたのか。求肥を焦がして、三日間、家中に焦げ臭いにおいが漂っていたと笑った雅尚さんの顔が思い出された。ほんのひと時の、陽だまりのような時間。
何故だろう。胸に開いた空洞が、透明な液体で満たされていくような気がした。
「いちご大福というものが販売されるようになる前に、お祖母ちゃんは完成させていたんだって母は言うの」
箱を元に戻し、彼女は仏壇に手を合わせた。
沙絵さんが、もう少し過去に戻れていたら。もしくは、あの日の僕が、もう少し大人だったら。何かを変えることが出来たのかもしれない。けれど、ほんの僅かな時間のずれが、それを許さなかった。昨日は手が届かないほどの過去となり、優しい微笑だけが、色褪せた写真の中に残された。
「レシピを探してるんだけど、見つからないのよね」
そう言って笑う彼女の頬に、無意識にえくぼを探していることに気付き、僕は漸く悲しみを認識した。
開け放たれた縁側を、一陣の風が通り過ぎる。北山杉の穂先に残った細い葉が、小さく音を立てるのが聞こえた気がした。
終わり




